のらくろ

さっき、日本の初期アニメーションのライブラリで、なに見ようかな、って思ってサイトを見ていたら、のらくろ二等兵があったんで、見てみた。のらくろは野良犬だったけど出世して軍隊に入って、いろいろ笑えることをしでかす、そんな日本の漫画の古典である。
 
そうしたら、軍隊の訓練の場面で、これはサイレントなので字幕で
 
右向けー、右 前へー進め! ぜんたーい、止まれ!
 
ってやってる。これを見て、本当にため息が出たよ。僕が小学生の時に学校でやらされていたのと、文句が一字一句同じだった。この漫画は1933年のもので、満州事変のころ。僕が小学生だった時は、それからおよそ40年経っている。それでも、学校では、この満州事変のときの軍隊の訓練と、一字一句同じ言葉で、同じことがやられていたとは。そして、それに僕が疑問も抱かず従順に従っていたとは。
 
ほとんど絶句してしまった、本当に。
 
漫画をさらに見ると、のらくろは軍隊の規律にきちんと従うんだけれど、いつもどこかが抜けていて、しょっちゅうヘマや、おかしなことをしでかすのである。漫画の上では明示的にそのようなことは表現していないが、すごくうがって見るならば、軍隊の規律に、心のある自由な人間が、ロボットのように従っているのが「滑稽」であるかのように漫画のストーリーが作られている。
 
そう思って見ていたら、あまりに悲しくて涙が出てきてしまった。このとき、この漫画を作った作者と、それを楽しみに見ていた子供たちは、どんな思いをその心の奥底に秘めていたことだろうか。
 
のらくろの作者は田河水泡。この人は、小林秀雄の義理の弟なのである。小林秀雄のエッセイに、この義理の弟ののらくろについて書いた文がある。小林秀雄は、彼に実際に会うまでは、才能のあるマンガ家が才能にたのんで自由にのんきに漫画を書き飛ばして仕合せだなあ、ていどに思っていたそうだが、ある日、弟と酒を飲んでよもやま話をしていたときのこと、弟が飲みながら
 
兄貴、あの、のらくろね、あれは俺のことなんだよ
 
と言ったのだそうだ。これを聞いた小林秀雄は、自分はまことに迂闊であった、と書いていた。
 
日本人は本当に捻れている。この自分も、もののあわれに足が生えて歩いてるような生粋の日本人のこの僕も、幼少に軍隊のような学校生活を何の疑問もなく送ったあと、知的な意味で物心ついてからは、完全な西洋の教養で育った。少なくとも自分は、西洋教養で生きていた期間は、日本のもののあわれはことごとく退けていた。
 
50歳を過ぎて再び日本に里帰りしているようなものなのだが、おかしなことに、自分の身体の中にあるもののあわれと、脳の中にある西洋教養が、うまいこと調和せず、そのせいで、こののらくろ二等兵のようなものが現れると、どうしようもなく感傷に捕らわれたりしてしまう。
 
本当の本当に自分の心が東洋に里帰りしたときは、何が待っているんだろう。今のところ、分からないのだが、きっと解放されて自由に暮らすだろう、と夢想するんだよね、根拠は何も、ないが。

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