YouTubeを見ていたら、政治ジャーナリストのおじさんが、「いまの日本では、50代以上がやっぱり日本すげえなんですよ」と言っていた。「もう日本はとっくに手遅れなのに、50代以上はやっぱ日本すげえなんですよ。それで、約5000万人ぐらいが日本すげえグループにいるんですよ」、だそうだ。それを聞いて思わず大笑いしてしまった。僕はいま63歳だけど、そういうヤバい世代のど真ん中な人間なんだね。
僕も実際、日本はいろんな意味でことごとく終わってる、と確かに考えてはいるが、一方では実は、自分、日本はまだ大丈夫と思っていて、それはこの、恐ろしく能天気な島国根性丸出しの百姓気質が、本当にだめになったときに吉に転ぶと、わりと信じているからなのである。そういう意味で63歳の自分も、日本すげえの一員なのかもなあ、と思い、なんだか恥ずかしくなった(笑
ただ、吉に転ぶなんて言っているが、どのように吉なのかは皆目わからない。でも、まあ、大丈夫だよ。国破れて山河在りでなんとかなる。南国だからね。スウェーデンに十年いて、日本が南国なのがよく分かった。それでもダメなら、きっと神風が吹くでしょう。
これで終わらそうと思ったが、もうちょっと書くことにするか。
日本は「恐ろしく能天気な島国根性丸出しの百姓気質」と、めちゃくちゃなことを書いた。で、「だから大丈夫じゃない?」と根拠のないことも書いた。
僕はスウェーデンですでに十年間、仕事して生活したのだけど、それで分かったのは、スウェーデンは恐ろしく「ちゃんとした」国だ、ということだった。仕事上においてはボスも含めてめいめい全員が完全に平等で、それを前提として皆がふるまい、行動し、それがひいては政治と国民の関係に至るまで、きちん整然と整備されていて、ちゃんと信頼関係をベースにして結びついている。
そして、それが、ぜんぶめいめいの「良識」によって成立しているところが凄い。そういう良識を持ったレベルの高いめいめいの人が多くいれば、それが自然と信頼関係の基礎になって、ストレスなく全体をガバナンスできる。
上から押し付けてそうさせるわけでは決して無く、かといって下々の人々が相互に注意しながら一生懸命維持するのでもない。要所要所では厳しいが、基本はリラックスしていて、むしろかなりルーズな運営の仕方をする。そのせいで、必ず問題は起こる。めいめいのレベルが高いと言ったって、利害関係はもちろんあるし、エゴもあるし、中には悪いヤツもいる。だから問題はやはり常に起こっている。しかし、それへの対処の仕方が決して極端に振れることがない。というのは、根本の規範そのものがすごくしっかりしていて、対処は、その枠の中で柔軟に行われるので、対処の結果に未来が振り回されるようなことは決して起こらないし、その規範が揺らぐこともない。
言ってみれば、憲法的なものは決して動かないが、法律は常に現状に合わせて変化している、そんな感じ。大きな重要な規範が人々に共有されているので、その下の法律やルールは常に破られ、常に更新されている。だから人は規則には縛られない。規則にからめとられて身動きできない、という事態に決してならないように全体設計がされていて、何かあったらいつでも助けを求めることができ、そして、それに応える人が必ずいる。
以上、いいことばかりを言うとこんなわけで、この感じは「先進国」という意味では、東洋より二歩も三歩も先を行っていて、本場というのはやっぱりすごいなあ、とつくづく思った。
これに比べると、日本は発展途上国どころか、未開の国に思えるぐらい。
ところが、日本人の自分が、スウェーデンで以上のことを学び、その同じ十年で痛切に感じたのが「こんな国にはいられぬ」なのである。われながら笑ってしまうが、もう、無理だ。
日本の世間様だとかマスクだとかの民衆の同調圧力って、ホントにかわいらしい。だって、それらって下世話でフィジカルでしょう? 一方、スウェーデンの同調圧力は、上述したような「社会において常に自覚した個人でありなさい」なのである。それはもう、ぜんぜんかわいくない。
スウェーデン人は、ここで生まれてここで育つから、そんなこと当たり前で、ストレスは無いと思うのだけど、僕は東洋人だからね、そんな性質はもともと持ち合わせてない。その僕から見ると、快適なのは確かだけど、常に緊張を強いられているようにどうしても感じてしまう。悪いことは完全に完璧に隠れてしないといけない感、というか。いや、悪いことなんか、自分、しないけどね。
で、おそらくだけど、スウェーデン人とて、そういう「硬い規範」は窮屈だと思うのである、無意識下で。そして彼らのその発散の場は、たぶん「大自然」です。スウェーデン人の自然感は日本人とおそらくぜんぜん違う。北欧の大自然の中で、人々のコミュニティが点々としていて、それぞれが、硬い住居で守られていて、めいめいの心はマザー・ネイチャーの元で共感して統一されていて、この厳しくも美しい北欧の自然の中でつつましく、しかし毅然と生きている、みたいなイメージである。
対して日本は、もう、ぐちゃぐちゃ。自然も人もへったくれもなく、ぜんぶがいっしょくた。日本人が自然を大事にするなんて、自分は寝言だと思う。日本人ほど自然を平気で壊す者はいない。なんで壊して平気かというと、自然と人は味噌も糞も一緒だから。自然はオレなんだから、オレがオレをどうしようとオレの勝手だろ、という感じで平気で壊す。そして同時に、逆に平気で愛でる人もいる。
しかし、このカオスこそが東洋を形作っていて、それはねえ、日本人の自分としてはいとおしいのである。スウェーデンには決して決して見つけることのできない「世界」である。
というわけで「恐ろしく能天気な島国根性丸出しの百姓気質」だが、それでいいじゃん、ということになる。別に自分、スウェーデンのような西洋になりたくないよ、ってことである。
このところ似たようなことを考えていたのですが、着地点みたいなものは反対のようにみえたので、なんだか興味深かったです。特に意味はないのに自分で自分の頭の中を縛っていくみたいなことをしがちなので、日本だとそこにフィジカルの規制も入り、きついなとよく思うのですが、ヨーロッパだと少なくとも後者は弱くなる感じがあるので、楽だな、みたいに感じてました。まあ、10年とかのスパンで恒常的に付き合うとまた印象も変わるのかもしれませんが、日本のフィジカルに対する規制みたいなものは、口では色々言っても実際のところ当人たちにはあまり負担ではなかったりするのかもなとかも思います。習慣、ということなのかもしれませんが、そういう「からだの習慣」みたいなものがなぜ自身には希薄な感じなのだろうと思うこの頃です。
日本にはあれこれ細かくフィジカルの規制が入るのはその通りだと思います。あと、日本人の大半はそのフィジカルの規制に慣れ切っているもその通りだと思います。僕がスウェーデンの10年で経験したのは、規制というよりは、日本とは全然違う「同調圧力」で、それは、「社会の成員として常に社会の義務と権利について自覚しながら自由に行動する責任ある大人でありなさい」というものに感じられました。それは日本には民間レベルではほとんど無いもので、それが僕には窮屈でした。そういう国なので、日本のたとえば「お笑い」のめちゃくちゃさ、街づくりにおける「場末」のめちゃくちゃさ、というものが現れることは無く、東洋人の僕から見ると、極めて単調で退屈な国でした。
返信どうもです。少し考え込んでしまったのですが、単調というのは集団としてということでしょうか? 道徳規範があるので、個々人の思考の稼働範囲みたいなものが概ね一律で、全体として単調にみえる、という意味なのかなと思ったのですが。日本だと道徳規範は損得に回収される傾向が強いようにみえ、言葉で並べると同じことのような気もしますが、確かに道徳規範に特徴付けられる社会と、損得に特徴付けられる社会では、その現れも変わってくるのかもな、とは思いました。
スウェーデンが「単調で退屈」というのは、あんまり難しい意味は無くて、僕のようなアジア的雑踏の中で暮らしてきた人間からすると、ナンセンスな笑いやカオスな場末や、およそ外面的にでも「混乱」と呼べるような街の景観や、人々の暮らしや、そういうものがあまりに少なく、常に静かに一定しているのが「異様に見えた」ってことです。で、僕から見ると単調で退屈な国だった、ということになります。ただ、抜群に安心して安定して暮らせる超先進国なので、その部分は感心します。でも、それは裏腹で、だからスウェーデンは「理想の国」とはならないかなあ、という感じです。