澄み渡った本能

自分はひところベルグソンをずいぶんと読んでいたときがあって、その中でも特に「創造的進化」が好きだったので繰り返し何度も読んだ。この創造的進化は、ベルグソンの解説を見ても、彼の最高傑作のひとつと言われているそうで、何度も読む価値はある。特に前半の、進化論の批判と、それを土台にした本能と悟性についての長い分析は見事の一言に尽きる。読んでいてほとんど唖然とするほどすばらしいインスピレーションである。

ベルグソンはその中で、「本能」について定義するに、身体や生き物など有機体を素材として使用してあやまたずに目的を達する能力、とする。そして本能に対置するものとして「知性」とは、道具や機械などの無機物を使用して次々と連鎖的に新しい目的を達してゆく能力、としている。進化の歴史において前者の代表が昆虫、後者の代表が人間である。しかしそれまで言われていたように、本能を発達させた昆虫がさらに発達して知性を手に入れそれが進化して人間に至った、という考え方をしない。本能と知性に序列をつけないのがベルグソン的な考え方である。

つまり、昆虫とは本能が開花し完成された形態であり、人間とは知性が開花し進歩し続ける形態である、と言うことだ。両者はそれぞれの進化の歴史の末端にいる、とする。本能と知性は古い古い時代では一体になっており未分化であったが、あるとき二つの方向に分岐し、それぞれの能力を開花させるべく進化し、昆虫と人間に至った、とするわけだ。

以上の結果に至るベルグソンの分析の力は物凄い。ほとんどこの分析そのものが彼の哲学的本能に頼っているような、そんな風に思える。単なる知性では決して到達できない地点まで分析を進めている。

ベルグソンという哲学者は、結局、この「本能」という得体の知れないものを、哲学においてきちんと復権させたところに偉いところがある。本能を「弱った知性」と考えないこと。そして知性を主な武器にする人間にもこの「本能」は確実に残っていて、いざというときには十全に機能することがあるということ。さらに、「知性には不可能だが、本能にしか出来ないこと」というものが確実に存在することを証明してみせたこと。それらもろもろに自分は決定的な影響を受けている。

さて、ベルグソンの論によれば、本能というのは「有機体を道具として使う能力」ということだけど、有機体というのは印象でいうとなんだか「ごちゃごちゃしていて、ねちゃねちゃしている」よね。昆虫の世界とか森林へ入って間近に見ると、もうなんというか、グロテスクな形態が折り重なるように無限に近いようなバリエーションを持って次から次へと現れる見た目の複雑さが、まず、ある。続いて、まあ、あまり触りたくはないけど昆虫世界に手を伸ばしてみると、柔らかくて潰れ易い形態と各種の液体と粘着する体液などこれまた次から次へと互いに互いをくっつけて一緒にしようとする様子が感じられる。

これらを言葉で表現すると、ごちゃごちゃとねちゃねちゃなんだよね。

知性の生き物である人間であっても、こと、本能の発揮する場を観察すると以上の昆虫と同じようなごちゃとねちゃが現れるよね。典型的な例は食欲と性欲だろう。両者について、思い巡らしてみるとすぐに納得できると思うけど、どちらもほんとに「ごちゃごちゃ」していて「ねちゃねちゃ」しているでしょう?

食欲については、僕ら毎日人前でおおっぴらに発揮しているんでそれほど意識的になれないかもしれないけど、性欲は普段、隠されているので、おそらく誰でもちょっと想像すると分かると思うんだが、なんと言うか、きわめて反知性的に感じられないだろうか。それら純粋な本能の前では、知性って吹っ飛んじゃうみたいなイメージがある。

そんな風に本能と知性は分離傾向にあるのに関わらず、この二つの間の自然な交流をやってのける芸当ができる人間というものが、世の中、ときどき現れる。そういうことが出来る人が、なんだか、見ていて、一番感動的だな。

先にも言ったようにベルグソンの創造的進化という論を進めるベルグソンその人がまさにそんな感じにも見える。彼の場合、本能の力を得た知性、という方向性で、「澄み渡った本能」という感じなんだ。ごちゃごちゃねちゃねちゃというものから僕らが感じるイメージは、なんというか、「濁った」感じなので、その濁っているはずの本能が「澄み渡ってる」、って面白いじゃないか。

逆に、知性の力を得た本能という方向性になると、古今の芸術家たちがそう見える。ちょっと前に見たシュールレアリスト展で、アンドレ・ブルトンの宣言をはじめとする並みいる作家たちについて、そんな風に感じたっけな。でも、もっとも、彼らの作品を見て感じるのは、やはり、「澄み渡った本能」だよね。絵画やオブジェがたくさんあったけれど、どれも何らかの本能が丸出しになっているものの、その作品の中身はごちゃごちゃねちゃねちゃといえども、その物理的形態は、画布の上の絵の具であり、各種無機物を使ったオブジェであり、ごちゃごちゃねちゃねちゃでは全然無いわけだ。

なんだか、澄み渡った本能というものに、憧れるよ。

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