カントと雑感

Yahooブログより転記(2010年6月)

さてさて、このブログをまったく更新する気がないかというと、そんなことはない。こちらのブログは、どちらかというと、日常を少し離れた、真面目で、いくらかシリアスなわりとまとまった内容を書く場という風にしてきた。その上でこのブログの更新が進まないということは、逆に、ここ最近はなかなか真面目な内容を考える余裕が減ってきたということだと思う。

たしかに、日々が忙しくてなかなか落ち着いてものを考える余裕もないのは確かだ。これは仕方ないことでもあるので、最近はそんな状況を分かった上で、方向をいくらか転換して、能動的にあれこれ考えるのを少しおいて、受動的に勉強をするということをしている。何を勉強しているかというと「哲学」である。

少し前に弁証法の本を借りて勉強し、いたく感心し、そしてそのつながりから、今度はカントの勉強をすることにした。カントについては、ずいぶん前、古本屋で「実践理性批判」をたまたま見つけて買って少し読んだのだが、すでに1ページ目から何を言ってるか皆目分からず、3ページぐらいで放り出した。おそらく哲学の基礎がまるで分かっていないせいでふんだんに使われている哲学用語が分からなかったのがその大きな原因だ。

というわけで、今回は、最初から原書に当たるのをあきらめ、解説書を読むことにした。先の弁証法も解説書である。ちなみに弁証法はヘーゲルで有名だが、弁証法そのものは別にヘーゲルの発明したものではなく、遠くプラトンの時代にまでさかのぼる一種の独特な考え方の、総称なのである。当然、カントも弁証法という言葉を自らの哲学を展開する中で用いている。僕が読んだ弁証法の解説書には、そのカントにおける弁証法を語るために、カントの思想の骨子をきわめて易しく説明していたのだ。

それによれば、カントの思想の流れはこうだ。

この世界は、人間に分かるものと分からないものがある。分からないものとはたとえば「宇宙は無限か有限か」という問題である。この手の問題は理論的に証明しようとすると「無限である」という証明と「有限である」という証明が同時に成立してしまい、結局、矛盾してしまうことが分かる。したがって、この例のような事柄は人間の経験しているこの世にあるのではなくて、それとは金輪際連続していない「別の世界」に属しているのである。人間の経験の対象である世界を「現象界」、そして人間が決して分からない世界を「英知界」と呼ぶ。現象界は、空間と時間をベースとして成立しており、英知界は空間と時間を越えており、すなわち人間の経験を超えている。

それにしても、このように自分の言葉で説明しようとするとよく分かるのだが、「分かる」とか「ある」とか「前提として」とか、日常普通に使っている言葉というのはその意味にすごく広がりがあり、ほとんど限定されることがなく、そのせいで、上述のように書いても思想の骨子の論理展開がきわめてあいまいになってしまう。

そうならないために、「分かる」などと書かずに、たとえば「認識する」とか書けばいいのだが、この「認識する」という哲学用語自体が、やはり哲学に独特な定義がなされており、そうそう手軽に使えないのである。説明しているときに、「あれ? ここで認識って言葉使っていいんだっけ」みたいな疑問がわいてきて、ついついあいまいに「分かる」と書いてしまう、というわけだ。

というわけで、哲学について語るには、やはり哲学の勉強がどうしても必要だということになるのであろう。しかし、自分で語るのではなく、語られていることを自分一人で理解する、ということであれば、丁寧にゆっくりと考えながら読んで行けば、解説書であればかなり理解できることがわかった。もちろん、自分は昔から文学や哲学系の本にはそれなりに親しんできたので、その蓄積のせいもあるだろう。しかし、理解できてみると、これがまたすごく面白く感動的ですらあるのである。

僕が選んだカントの解説書は熊野純彦という人が書いた「カント~世界の限界を経験することは可能か」というもので、とても明快に書かれていて、100パーセントとはいえないが、大半は理解することができた。それで、本当に心底なるほどな、と思ったのだけど、一箇所とても感動した箇所があって、その話である。

カントの思想には、「前批判期」と「批判期」という2つの段階があって、後世に残る主要思想はもちろん批判期に属していて、上述したカントの思想の骨子も批判期のそれである。それで、前批判期は、比較的若いころのカントの神学的な思想を指すものらしい。2つを分かつものは、いろいろあるんだろうけど、その一つに「永遠と無限」の扱いに関する決定的な違い、というのがあるそうだ。

若いころのカントは、空間的に無限なもの、すなわち宇宙、そして、時間的に無限なもの、すなわち永遠、といったものこそが「神」である、と考えたそうである。無限にして広大な宇宙、それは夜、僕らが空を仰ぎ見ればまたたく星とともに感じることができる。そしてその宇宙では、果てしなく長い時間がすでに経っており、そしてこの先、自分も人類もなくなってしまった後も果てしない時間にわたって存在し続け、永遠の時間が経過し続けるであろう。こういった、無限性そして永遠性、という人間の認識の及ばないものこそが「神」の名で呼ばれるべきものである。若いカントは、こうして神と永遠性を同一視する。そして我々の生きているこの世界は永遠性と無限性から一種切り取られた世界であるから、永遠性と同一である「神」は、我々の生きている世界のいたるところにその姿を現すはずだ。

なかなかうまく書けないのだが、自分のつたない文だとこんな感じの思想なのだ。

これを知って自分は、若いカントのこの考え方の純真さに感動した。無限性と永遠性に対するなんという憧れであろうか。そして、無限と永遠こそが神の領域であり、そして、それらは神と同一だ、と口にするとき、神に対するなんという憧憬と畏怖の心が溢れていることか。そして、無限と永遠と同一であるからには、われわれの世界のいたるところに神はそのすがたをあらわすはずだ、というときの、神の愛と信頼と安心感についてのなんという子供らしい純真な心であることか。

カントの哲学はもちろん大事だが、あの哲学がこのような心から生まれた、ということの方がよほど大事なことのように思える。

さて、それでは、今度は彼の思想の真骨頂となる批判期の思想である。前に書いたように批判期のカントによれば、無限性とか永遠性というものは、人間の経験する現象界というこの世界においては相矛盾してしてしまうことから、それらはこの現象界には存在せず、英知界という現世を越えた世界に属すほかない、とされる。そして、この現象界と英知界は、完全に隔絶されていて、英知界はわれわれ人間の世界の外にあるものとされる。

ここで「神」という言葉を使うとすると、神は明らかに英知界に属しているが、神はわれわれの世界を完全に超えたところにいるわけなので、この世界で神の存在を証明することはまったく不可能である、という結論になる。すなわち、われわれ人間の心は、無限や、永遠や、神の存在というものを思い描かずにはいられないのであるが、当の無限と永遠と神はわれわれの世界では決して論理的に保証されず、それは現象界の成立ちからいって原理的に不可能である。

どうだろう、若いカントの前批判期とその雰囲気がずいぶん異なっている。前批判期では、神はわれわれのすぐ手の届くところにいたはずだが、批判期では、神はまったくわれわれの手の届かないところへ行ってしまっている。人間の認識には決して超えることができない限界がある、ということ、そして、人間を超えたものが存在するか否かについての証明は不可能である、ということ、この2つをカントは厳密に論理的に証明したのである。

ニーチェは、カントのこの人間の限界性の証明について、こんな風に言っている。自分は、このカントの恐るべき証明をあれいじくり回しているような思考機械共には興味がない。それよりも、いつになったら、人はこの思想を自分のこととして受け入れ、衝撃を受け絶望するようになるのだろう、と。

たしかに批判期のカントのこの思想は、よくよく反芻してみるとますます、戦慄すべきもので、人を絶望へと落としかねないものに感じられてくる。人間は無限と永遠を感じることはできても知ることはできない、というのだ。そして、英知界に属する神は人間の目からは完全に隠されている。そこには何かが、ある。でも、それが何かを確定することができない。人がいくら理性を酷使したところでその深い溝を超えることはできない、理性の深淵ともいえそうな、埋めることのできない裂け目が口を広げているのだ。

若いカントと、その後のカントの間のこの明確な思想の違いは、でも、一種、「神」という自らの父からの離別を表しているようにも見える。父と子のかかわりでいえば、若いカントの思想では、神という父の姿は見えないが、自らが世の中で活動している一挙手一投足を常に見守っている存在として描かれている。しかし、批判期のカントでは、神という父の姿が、自分を見守っているか見守っていないかには係わらず自分はこの世で独立して活動していかないといけない、という関係に変っている。自分にはこれが、一種の神という父からの親離れの光景に見えたのだった。

それにしても、この批判期のカントのこの理性の深淵の思想が、この後、ショーペンハウエルを経て、ニーチェをして「神は死んだ」と言わせしめたのか、ということを思い、なるほどとうなずくよりも何よりも、なんだか、本当に感動してしまった。

ニーチェはあるとき突然、神は死んだと口走ったわけではなかったのだ。そうか、そうであったか、その言葉にいたる綿々と続く思想の歴史があったのだ。そして、同時に、ニーチェにも、カントとまったく同じな、一種プロテスタント的な神に対する愛に関する純真な心があったのだ。なんだか、時代の異なる哲学者たちの心の中を貫いているそういう共通な心を感じてね、そして、その心は遠い日本という国に生まれ育った自分の中にも確実に存在していることを、とても強く感じたのだ。

ニーチェが神が死んだと書いてから100年と少したった。いま、この現代、「神」なんていうことを口にしても、大半の人には用がない。神というのは今では単に「信じる対象」に過ぎず、人間の理性の思考の対象にはほとんどなりえない。信じるか否という切り口しかないので、神は宗教の問題に属するのみで、全的な意味での人間の問題にはすでに属していない、というのが現状だと思う。

少し前、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の新訳が100万部だか売れたそうだが、あの小説にはドストエフスキーが生涯問題にした「神は存在するか存在しないか」というセリフが至るところに出てくる。神というのが、実質的な意味をほとんど失ってしまった時代に、あのセリフは現代人みなに、いったい、どう読まれるのだろうか。単に読み飛ばして終わり、だろうか。たしかにあの小説は神の問題以外にたくさん面白い主題が転がっていて、別にそこで引っかからなくてもじゅうぶん、大丈夫なのであるが。

でも、「神」などというから古臭い感が漂うわけで、神の存在いかんにかかっている人間的な問題であるところの、「生きる目的があるとしたらそれは何だろう、そして、目的などというものがないとすれば人間はどのように生きるべきだろう」といえば、どうだろう。これも古臭いだろうか。ドストエフスキーが問い続けたのは、これなのであるが。さあ、しかし、これも古臭くなっている、というのが現代なのかもしれない。「生きる目的」というもの自体が一種の偏見である、とする考え方がずいぶんと広まりつつあるようにも見える。

ところで、カントの思想に戻ると、英知界は置いておいて、現象界の方だが、この現象界はじゃあ有限かというと、そんなことはない。人間が経験して暮らしているこの世界にもいわゆる「果て」はない、というのがカントの結論である。人間の経験は常に広がり続け、そこでは常に新しい経験が生まれ世界を拡大し続けている。世界は全体として人間に与えられているのではなく、そこにいる人間の経験と活動によって刻一刻その姿を拡大し続けているのである、というのがカントの現世に対する結論なのだ。そういう意味で、僕たち人間は終わることなく先へ進むことができる、ということが保証されているのである。ただ、いくら進んでも英知界には到達できない、というのが彼の設定した「限界」であり「境界線」なのである。

神は死んだ、そして、その子であるわれわれ人間が世界に残り、神によらない人間の活動によってその世界を拡大し続けている。そういう意味で、カントからニーチェ、そして現代、と辿ってみると、近世から現代という時代は、ものすごい勢いで人間が神という父から親離れしようともがいている歴史でもあるように見えてくる。

そして、今でも、もがいている。少なくとも、自分はよく、オレたちはいったいどこへ行こうとしているのか、と考える。よるべもなく、人間同士の関係性だけで世界を組み立てる、という終わりの無い行為に疲れることが、ないか? 疲れてしまったときに、オレたちはいったいどこへ里帰りすればいいのかと、思わないか? カントやニーチェが持っていた、「永遠」に憧れる心は、オレにもあると信じているが、その心がときどき窒息しそうに感じることが、ないか?

さて、ずいぶんと長くなってしまったが、ここさいきん、カントを勉強してこんなようなことを漠然と感じていた、それについて書いてみた。

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