事実とは何だろう

僕は今ではテレビをまったく見ない人間なのだけど、20年以上前には標準的日本人ぐらいは見ていた。あと、就職して最初の職場がNHKの番組監視業務だったせいで、実は、3年間にわたってNHKの番組を仕事でもたくさん見ていた。最近のテレビがどうなっているかはあまり分からないが、いわゆるテレビ番組がどんなものかは、情報は古いながらも、ひょっとして普通の人よりはるかによく知っているかもしれない。

NHKの大河ドラマは誰でも知っているだろうが、毎シリーズあれこれの歴史上のできごとを取り上げてドラマ仕立てで見せている。自分は、親元に住んでいたころ父親が欠かさず見ていたせいもあり、同じく欠かさず見ていたこともあった。それで、何十年ものブランクの後、どこかの温泉旅館かなんかで、風呂入って、飯食って、酒飲んで、いい気持ちでごろごろしながらテレビを見ていたとき、たまたま大河ドラマがやっていたので久しぶりに見て、ずいぶんびっくりしたことがある。

今さら言うまでもないことだろうが、登場している歴史上の人物を演ずる俳優があまりに今風のルックスの男女だったことと、セリフ回しもやはりあまりに今風、照明は明るくてなんだかハレーション気味のきらめきが加わっていて、カメラワークもやけにゆっくりした移動ショットを多用し、まるでキラキラと美化された夢の中の出来事のような絵作りで、ちょうど昔の少女マンガのような雰囲気で描写しているように見えた。NHKも視聴率を稼がないといけないので、当然、今風の絵作りでドラマを展開しなければいけない事情は分かる。しかし、この絵作りを見て一気に白けてしまい、しばらく見てはいたが、なんだかイヤになってきて、下らないお笑い番組にチャンネルを替えてしまった。

さて、たとえば五百年も前の日本の当時の様子はいったいどうだったか。あれこれ調べればおぼろげにどんな感じだったかはあるていど想像できるが、おそらく現代と比べると、ほとんど「異様」と言ってもいいぐらいその情景は異なっていたであろう。五百年前の日本人の男も女も今の日本人とはたぶん似ても似つかない姿恰好をして、しゃべり言葉はたぶん今の我々にはほとんど理解できない言葉で、その声色やしゃべりのスピードもだいぶ違い、その動きも歩き方も表情もきっとずいぶん違っていたことだろう。加えてあたりを取り巻く当時の環境、つまり、光、音、匂い、衛生環境やらなにやらは今と相当に違っていたはず。要は何もかも今とはかけ離れた光景だったと想像できる。

では、時代考証を厳密に追及して、当時の情景に極力似せた歴史ドラマというものを作ったとしたら、どうか。これは、自分としては、興味本位で本当に見てみたいとは思うが、作ったとしても視聴率は取れないだろう。ではなぜ視聴率が取れないと思うかというと、五百年前の日本人の生活の「事実」は、今現代の僕らから見てあまりに異様なものに写るせいで、ドラマとしてすんなり入って来ないと予想するからだ。たしかに過去に現実に起こっていた「事実」を視覚聴覚的に、今この現在にあるていど再現はできるかもしれないが、それを受け取るわれわれ人間の方が「当の過去」に生きていないせいで、その「事実」の意味が変わってしまうのではないか、と思うのである。

五百年前に生きて生活していた当時の日本人は、この情景の中でそれと共に生きていたのだから、その情景を、自分の眼で見て、耳で聞いて、それをそのときの現実として受け取って、それに対してごく自然な反応をしたであろう。これは当たり前のことだ。しかし、年代が五百年も隔たってしまっていては、「視覚聴覚像」を再現したところで史実の正しい姿が僕らに受け取られる、ということにはならないと思うのである。それが正しく成立するには、僕ら現代人が五百年前の過去に実際に生きなければ、無理ではないか。

僕ら現代人はごく自然に、「過去の事実」という唯一絶対の真に起こった出来事、というものがある、と認めている。だって、五百年前であっても、そこになにがしという五百年前の人間が存在してなにやらしゃべったり動いていたりしていた、という事実は曲げることはできないし、それはいわば物理的な事実であって、唯一無二のものだ。その事実がいくつもあったり、ぶれていたり、本当はなかった、などということが言えたとすると、それは単に物理現象を正確に観測できない人間側の事情のせいであって、当の事実は唯一絶対なものとして残っているはずだ、と信じている。

しかし、本当に、そうなのか。

さっき話した歴史ドラマであるが、あれは視覚聴覚で再現を計っている。すなわち、五百年前の過去に起こった物理的事実というものがあって、それを再現していると、という構図になっている。そういう意味で、われわれの常識である、「唯一無二の事実があった」という感覚を元にして成り立っている。しかし、その物理的に起こった状況をそのまま再現はせず、今風の映像に作り変えて提供する。それは、その当の歴史的事実を今の人間にも受け取れることができるように配慮したためだ。

しかし、もう一度言うが、我々が現代の歴史ドラマを見て受け取った「何か」は、当時の人々が受け取った「何か」とずいぶんと異なるであろうことは、容易に想像できはしないか。それにしても、僕らは、「過去に起こった物理的事実」が重要なのだろうか、それとも、「過去に起こったことの意味」が重要なのだろうか。もし、前者だったら、それは僕らの日常感覚とは遠く離れたものとして残ってしまい、そのまま手つかずで残ってしまう単なる事実にすぎなくなる。そして、もし、後者だったら、僕らは物理的事実を詮索したり、史実を現代風に再現して見せたりするより先にやらなければいけないことがある。それは、その五百年前の過去に生きている人たちがその「事実」に接して、そのときに何を感じたかを受け取ることである。つまり、五百年前に生きた人々の声に、できるだけ澄んだ心をもって耳を傾けることである。

思うに、歴史というのはその後者のアプローチの集積ではないか。

ところで、たまたまどこかの古本屋で見つけた鶴屋南北の「東海道四谷怪談」の文庫を持っているのだが、かつて、この歌舞伎の脚本を読んで驚嘆したことがある。それは、「江戸時代」が僕の眼の前に現れた感があったからである。それ以来、この本は僕の愛読書になったのだが、今ではページのどこを開いても、当時の江戸時代が僕の感覚の中に再現するような気持ちになる。これは先に言ったような「視覚聴覚」の再現ではない。そうではなくて、江戸時代に生きる人間たちが、当の江戸時代に起こった出来事についてどう感じたか、ということがひとつの塊になって感じられるのである。僕にとってはその塊こそが過去であって、そこで起こった物理的事実などは二の次だ、とまで思ってしまう。

この四谷怪談の話はその一例なのであるが、さいきん、自分は「物理的事実」というものの一種の絶対性を、かなり疑うようになった。実は、今これを書いているのも、それを言いたかったのだ。

しかし、これをなんと説明したらよいのか。自分はもともとは理科系の人間で、理科系的な考え方のもとに育ってきたので、「物理的事実がある」ということが切実に唯一絶対なものと感じられるのは確かだ。うつろいやすく信用できない人間を通しての観察結果やその記録に振り回されながらも、それでも僕らがいるこの3次元空間のどこかで「絶対に真な唯一な出来事が起こった」ということを信じていて、それを「事実」と称して、振り回される心の最後の拠り所にする、という態度である。言ってみれば、物理的事実を主に扱う「科学」を拠り所にする、という感覚である。この感覚は、実は振り払うのがすごく難しい。というか、どうしても、そう感じてしまう。事実だけが嘘をつかない唯一のものだ、と。

しかし、最近のもう一人の自分は、物理的事実というものはそれほど重要とは言えない、とも感じている。もうちょっと突っ込んでいうと、物理的事実が唯一無二なものだと感じること自体がなんらかの人間的な性質のひとつである、と思うようになった。

いや、物理的事実はある。それは間違いない。五百年前に日本のどこそこでなにがしという人間が動いてしゃべったのである。それを否定するわけにはいかない。しかし、その事実はそれほど重要なものだろうか。いや、重要という言葉は適切ではない。事実というのは、今の自分に連なるたくさんある要因の中のただの一つに過ぎないのではないのか。先に書いたように、この事実を元に当時の人間たちが感じたこともまた別の事実だろう。そしてそれは人の数だけ異なっていただろうし、それと同時に、何かその時代の特有の共通なものも持っていただろう。

物理的な事実より、それが人間に与えた作用の方が重要なのではないか、と考えることは実は、とても自然なことだと思う。それなのに、主観を排した客観的な物理的事実をなによりも重んじる気持ちはそうそう簡単に自分から去っては行かない。自分はときどきこれを、何か別の要因によるのではないかと疑い、果てはその感覚自体が一種の「錯覚」や「迷信」に属しているのではないかと疑ったりもする。

さて、それでは最近になってなぜそのように強く感じるようになったか、なのだけど、ひとつは歳のせいもあると思う。世の中は真なる事実によって進むのではなく、その事実をさまざまに受け取った人間たちが織り成す行動によって進んでいる、ということを、人生経験の中で否が応でも思い知らされたからである。たぶん、これは間違いはないと思うが、実はもうひとつ年齢に関係ない理由がある。それは20世紀の終わりから21世紀に至るなかで急速に進んだ情報社会のありようである。

ここしばらく自分は、英語の勉強のためにロイターニュースを英語で読んでいて、特に、現在内戦に突入しているシリア情勢を追ってきた。交渉、戦闘の繰り返しで事は進んでいて、これまで何度か一般市民を巻き込む大量虐殺が起こっている。シリアへ外国のジャーナリストが入ることは政府により禁止されているので、ロイターに流れるニュースは、現地の公共放送で流れる政府からの公式情報、海外の視察団からの情報、そして主に内部の反政府軍から匿名の電話などを通して入ってくる情報などである。当然の結果と言えるかもしれないが、当の大量虐殺については、公式発表では反政府テロリストによる犯行となっており、反政府軍からの情報では政府軍による大量殺戮である、となっている。中立なジャーナリストが現地にいないのでどちらが正しいか、どちらが「事実」か、分からない。

しかし、戦況は刻々と変わり、それは報道され続けている。相変わらず政府と反政府ではほぼ逆の発表がなされている。停戦に向けて努力する国連、アメリカ、中東の国々、ロシア、中国などの国が戦況に合わせて様々に反応し、行動している。その行動によって、さらにシリアの情勢はあっちへこっちへと変動する。各国が実際にどのような情報を受け取っているかは分からないが、ロイターのようなジャーナリズムが受け取る情報よりは確度は高いはずとはいえ、本当に確実な情報はどの国も得られていないはずだ。

そんな中で、たとえば何回かに渡る大量殺戮を考えたとき、いったい本当に行われた虐殺の真実とはなんなのか。政府軍、反政府軍の言い分のどちらかが正しいのであろうが、どちらが正しいか100%確実には判断できない。しかしながら、シリアに関わる他国や人間たちは、判断できないから保留にするということもできず、現在自分たちが得ている情報に基づいて、自国の事情に照らし合わせて、なんらかの判断をして行動することを強いられている。一方、われわれ一般市民は直接戦争に関わってはいないが、それは直接でないだけで、現代のような民主主義的政治状況の中では、われわれ市民がこの事実をどう考えて、どう判断するかは実はかなり当の世界規模で起きている世の中の動きを左右するはずである。つまり、僕らは、たとえばここで言えばシリアの戦況に少なからず具体的に関わっているといえると思う。

実はこういう事態というのは、本当に大変なことだと思う。情報社会であること、そして、民主主義であること、というこの2つの条件から導き出されることは、「事実」の解明に全力を尽くすことは重要だとして(ちなみに、これがジャーナリズムのもっともはっきりした使命の一つなはず)、しかしながら、その事実の発する情報を受け取ったわれわれがそれを「どうとらえて」そして、それを元に「どう行動するか」ということが、実際に世の中の動きを変えてしまうことになってしまったのだ。「情報」と「行動」が、世界の進歩によりその速度と力を増し、そのせいでそれがリアルタイムで世の中を動かす時代になってしまったのだ。

ここではシリア情勢という日本であまり報道されないことを例に話したが、現在の日本で言えば、たとえば原発問題の推移がちょうどこの事態になっている。福島原発事故の現場で物理的に本当に起こった真実のすべて、というのは確かに物理的な意味で存在はするはずだけど、実際に現在に至るまでに原発問題を巡って起こった政府、東電、そしてわれわれ市民がとったさまざまな行動は、多かれ少なかれはあったとしても、「真の事実」を元に判断された結果ではない。真の事実は、分からないのである。しかし、情報と行動の速度と量が過去に比べ圧倒的に増大したせいで、当の事実が分からないまま、我々は、その事実から発せられた「情報」と、それを元に各自が受け取った「意味」、そしてそれに基づいて各自が判断してとった「行動」によって、事態は否が応でも「推移」しているのである。

すなわち、ここでは「事実」は肝心なところで隠されていて、その代わりに、「情報」「意味」「行動」が世の中を「推移」させている。

現代のような極端な情報社会になる前は、このようなことは表だっては起こっていなかったと思う。世界で起こる大半の「事実」は、その最初から我々からは隠れていてまったく見えなかったはず。われわれに見えている事実はごく近くの、自分の狭い活動範囲に直接関係するものだけだっただろう。そして、その事実の真の姿を詮索する時間も十分にあったと思う。十分に事実を調べた後に行動を起こしても間に合っただろう。その自分に関係する事実について何の関係もない他の人間たちが詮索を始めたり先回りして行動を起こされてしまうようなことも極めて少なかっただろう。

現代に生きていて、恐ろしいなと思うのは、情報や行動というものの「速度」と「量」が極端に増大することが、世の中の推移の様子を根本的に違うものに変質させてしまった、ということである。なんだか、ここ10年ほどで、世の中の推移の仕方がまるで変ってしまった、と感じることが多くなった。はたしてこれは単なる僕の錯覚なのだろうか。それとも本当にそういう層変異みたいなことが起きているのだろうか。

最後に、さいきんの自分が思っていることを、極端な物言いにはなるが、そのまま言っておこう。

真の事実などというものは、無い。あるのはそれを受け取った人間たちの感じ方の集積だけだ。そして、現在に生きて行動するわれわれは、その感じ方の集積の中で、もっとも自分が仲間だと直観する人間の言葉に、なるべく澄んだ心で耳を傾けることを、心がけるべきだ。

 

事実とは何だろう」への2件のフィードバック

  1. 林 正樹(todoroki )

    ブログ拝読、事実とは何か考えさせられました。
    現代の情報の洪水には閉口ですね。
    今後も名文愛読したいと思います。
    自分のホームページ長く検索しなかったので、出てまいりません。
    その代り音楽家やいろんな同名異人を発見楽しんでいます。

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