ウフィッツ美術館

フィレンツェのウフィッツ美術館の最初の部屋には、前ルネサンス時代に描かれた三つの大きな聖母子の絵が掛けてある。ずいぶん昔のことだが、かつてこの前に立ち尽くしたことがあったっけな。チマブエからドゥッチオ、そしてジョットと、ルネサンスの夜明け前に立ち会ったような感じだった。

イタリアルネサンスはジョットをその幕開けにするようなので、これは実は夜明けというよりは、夜明け前の風景だ。そして、ジョットになってもまだ完全に夜は明けていない。チマブエ、ドゥッチオ、ジョットと見て行くと、画面の全体に、徐々に「動き」が加わってくるのが、はっきりとわかるんだ。

当時から自分はジョットの大ファンなのだが、その一方で、心の奥底ではドゥッチオに計り知れないぐらいの安堵感を感じていて、どうにもならなかったことがあった。あの恍惚とした黄金色の光に、魂が溶け込んでしまうんだ。でも、自分のどこかで、ああ、このままじゃだめだ、とブレーキがかかるのが分かる。

それにしても、まさに歴史上の最大級のムーブメントであったルネッサンスの「動き」の始まりの直前に描かれた、これら「神々しいような静止」を前にして自らを振り返ると、オレたち現代人は救いがたいほど浮かれてるよね。もう少し「動かない」ことを覚えた方がいいのかもしれない。常に「動き」がないと落ち着かない、って感じじゃないか?

さて、聖母子の部屋を出て次の部屋へ行くと、今度はシエナの画家、シモーネ・マルティーニの大きな受胎告知の絵がある。これは、本当に、ものすごい絵だ。ウフィッツ美術館は展示管理がいい加減なので柵もロクにない。なので、当時、オレはマリアやガブリエルの至近距離10センチぐらいで見入っていたよ。このマルティーニの独特の冷たさ、これは、いったいどこから来ているんだろう。前期ルネサンスの画家には、ずいぶんと、この「冷たさ」を持った画家がいる。

まあ、あれこれ歴史やなにやら調べればいろんなことが分かるのだろうが、根っから勉強嫌いのオレはほとんど調べていない。絵画は絵画としてしか見ないんだ。バックグラウンドも何にも調べずに絵だけひたすら見ている。ほとんど強情に近いこんなことはいい加減にして、最近、たまには調べようかな、と思ったりする。

それにしても、絵を絵としてしか見ないと、言葉の入る余地がないので、いったん分かってそれが自分のものになるとまさに血肉の一部になり、他のものに転嫁できず、場合によっては一種のトラウマのようになる。その点、「言葉」で分かったものというのは、状況しだいであっという間に別のものに転嫁して安全に抜け出すことができる。

言葉、言葉、と。少し前にも考えたこと、あったっけな、哲学者の廣松渡を読んで。言葉にも言霊というものがあるのだが、ひょっとして言葉と言霊には相関が無かったりしてな。前にもどっかに書いたけど、言葉が言霊を獲得するには、当の言葉が金輪際介在しない、目の前に「ある」世界に心が直接触れる人間経験の、歴史的な蓄積が必要みたいなんだな。言い換えれば「言葉を言葉で作ることはできない」ということになる。

ところでウフィッツ美術館なのだけど、前期ルネサンスを過ぎて、ルネサンス本番になっちゃうと、オレ的には少し引いてしまうところがある。自分は「奇妙なもの」に惹かれる傾向があるせいで、ボッティチェリやダビンチ、ラファエロ、ミケランジェロと華々しくなってくるとあまり反応しなくなってくる。ずいぶん昔、ルネサンスを賛美する友人に、そういうオレのことを「お前は根が北方性憂鬱だ」と言われたことがあったっけ。これは、図星だ。

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