テレビジョン解体

むかし記号学会という学会で、「テレビジョン解体」というテーマでシンポジウムをやるからといって、そこに講演に呼ばれたことがあった。記号学というのは、学問としては哲学に分類されるわけで、哲学者の集まりでしゃべるなんて大丈夫か、と、ずいぶんビビったっけな。

しかし実際に参加してみたら、そこではテレビを記号学的に解体しようとしていたのだが、記号学という武器を使った攻撃にも関わらず、テレビの「中身」はまったく解体されずに無傷のまま残ってしまった、という結果を見せ付けられたような形だった。哲学者たちだって、やはり「中身」すなわち今で言うところの「コンテンツ」の扱い方には苦労しているということが分かって面白かった。

物事の記号的構造をいくら、調べて、分解して、再構築しようとしても、その「中身」は分析も解体も構築も拒否してそのまま残る、というのは一種当たり前のことなのだろうな。なぜなら、分析も解体も構築も拒否するような代物を「中身」って呼んでるからだ。このへんは循環論理だね、ホント。

中身、っていうのは魂みたいなものかもな。魂がこの世で活動するために肉体と言葉が必要になるわけだけど、解体はその肉体と言葉には及ぶのだが、どうしても魂までうまく届かないみたいなのだ。

シンポジウムでは、記号学の人がドキュメンタリー番組を記号論的に解体する作業を紹介していたが、そのあとに、今度はNHKでドキュメンタリー番組を長年作り続けたディレクターが出てきて制作作業について語った。その両者の語りの落差たるや、埋めがたい感じを受けたな。というのは、記号学の人が映像の方法論や型についてしゃべっていたのに対して、ディレクターはそんなものは見向きもせず、ひたすらドキュメンタリーの魂の話に終始していたからだ。

自分は、というと、実は仕事の上では、その中身と言葉のちょうど真ん中のところをねらっている。なので、先の記号学の人ともドキュメンタリーのディレクターとも等しく距離が離れたところにポジションを取っている。仕事では、言葉を書くとそれがコンピュータで自動的に映像になる、ということをやっているのだから、意味的にはそういうことになる。

しかしだ、仕事の見かけはそのように中庸なのだが、その全体はやはり魂の方にずっと傾いている。自分という人間をよくよく観察してみると、これはもう頑固なほど魂寄りなのだ。それで、ホントのホントのことを言うと、仕事の上ではそれが足かせになっていると、さいきん思うようになった。

それにしても、「中身」、すなわち「魂」で生きている、ってことになると、聖徳太子のころからまーったく進歩してない、ってことになっちゃうな。しかし、どっちにしても、オレは魂のあることをやるよ、そういうガラなんだわ。仕方ないんだわ。

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