カセットプレイヤー

オーディオ談義。

オレのオーディオのメインギアは、自分で作った2A3シングルの真空管アンプと、フルレンジスピーカをインストールしたトールボックスで、大変良い音がする。

オレ、かつて、アパートで一人暮らしをしてたことがあって、もちろん、このギアを部屋にどかんとセットして、CDかけて、ええ音やなあ、と悦に入っていた。

ある日、友人が部屋に遊びに来た。もちろん、そのオーディオセットであれこれBGMして、酒飲んでた。そしたら、彼が部屋の隅っこにあるブツを指さして、それ、なに? という。ああ、それはオレがヒマつぶしに作ったカセットプレイヤー、って答えた。

そう。それは、適当な板の上に立体配線で作った真空管カセットプレイヤーだったのである。ウォークマンをスペーサで板に固定し、そのヘッドフォン出力を2球のモノラル真空管アンプで増幅し、それを、8cmぐらいのスピーカを100円ショップで買った木箱に入れたヤツで鳴らす、ってシロモノだった。

オレ、聞いてみる? って言って、部屋の隅のカセットテープ箱をがさごそして、大昔にダビングした、Muddy WatersのSale Onというラベルのついたテープを持ってきて、電源入れてセットして再生ボタンを押した。B面をかけたんだな、オレ。曲は、I Can’t Be Satisfiedだった。Muddyのエレキ弾き語り。

そしたら、それを聞いたその友人、即座に

林さん、こっちのほうがぜんぜんいいよ! あっちの化け物みたいなのより、ずっといいよ!

と言うのである。で、オレはというと、うーむ。たしかにこっちのほうがはるかに音がいい。不思議だなあ、って思ったけど、きっと1948年に録音したMuddyの音は、圧倒的にこの糞チープなカセットテーププレイヤーに軍配が上がるのだ、と思い知った

その後は、ずっとこの糞カセットプレイヤーでブルースを聞き、いい気分で酒を飲んだ。

オーディオってね、そういうもんだよ。

カセットプレイヤー」への4件のフィードバック

  1. もぐもぐ

    いつも楽しく読ませていただいています。林さんの文章は何か独特な雰囲気があって好きです。

    それで、今回のお話に少し関連して、最近私が思っていることなんですが、昔の人たちが当時感じていた世界と、私たち現代の人が感じる昔の世界には結構違いがあるような気がします。
    というのは、今回の録音でいえば、昔の録音は質が低いため、私たちはそれを聞いて、これが昔っぽい音だ、と感じる訳ですが、当時の人たちは録音を介さない生の音を聞いていたわけです。
    また、昔の写真やビデオは白黒だったり、カラーであっても色あせていたりするため、私たちは、昔の人たちがその色の世界で生きていたように感じてしまいますが、当時の人たちも、私たちが日ごろ見ているような溢れんばかりの色彩の中で生きていたはずです。

    まとめると、記録の質の低さや風化などにより、私たちには昔というものの感じ方にバイアスがかかってしまうのですが、本当は昔の人たちも、私たちが日ごろ見たり聞いたりしているように、リアルタイムの世界を見ていたのだなあ、ということです。
    もちろん、私たちが昔っぽいと感じる理由には、そもそもその時代がまとっていた雰囲気みたいなものが現代とは違っていたということはあると思います。ただそれを加味しても、記録の質によるバイアスの影響はいくらかあるのではないかと思います。
    ただ、あくまでこれは私個人の感じ方であり、また、私のような二十代の若者と林さんのように人生経験の長い年配の方々とでは感じ方に違いがあるかもしれません。

    それで、昔の人たちが当時感じていた世界がどのようなものか気にはなるのですが、私はそれを歪めるバイアスが悪いと言いたい訳ではなく、林さんが古い録音をチープなオーディオで再生なさったように、私たちはむしろそのバイアスを楽しんでいるのかもしれない、と今回のオーディオのお話を読んで思いました。

    返信
  2. 林正樹

    コメントありがとうございます。20代の方からコメントをもらえるのは嬉しいです。

    最近僕は平安時代の餓鬼草子、病草紙、地獄草子みたいな絵巻物を集めて、見て、観察して、解説文を書いたりしていることが多いのですが、絵に描かれた800年前の人々の生活を、今、僕がくっきりはっきり見て聞いているような形でVR体験とかしたら、いったいどうなるんだろう? と同じことをよく思います。

    で、同時に、この絵巻物ばかり毎日見て、かかずりあっていると、だんだん、自分の目のまえに見えているくっきりはっきりしたこの現実の方がニセモノに見えてきて、この絵巻物に描かれたままの世界がホンモノに見えて来てしまう、という奇妙なことも体験します。

    僕らが、たとえば800年前の世界は、状況は違うけど、同じ形をした人間が同じ3次元世界に生きて動いて存在していたはずだ、とごく自然に思う、ということは、「物理的実体」は時間を経ても変わらず、「事実」は過去のある時に、物理的に確定的に存在した、という僕らの強固な物理実体に対する信頼感をベースにしていて、この問題は考え始めると大変難しい問題だということが分かります。哲学の認識論・存在論における問題なのですよね。

    既に読まれたかもしれませんが、その「事実」について、僕は下記のように書いたことがあります。

    http://hayashimasaki.net/WP/archives/669

    ちょっと長いですが、書かれているように、僕自身もいろいろな疑問に揺れている状態です。あと、おっしゃるように年齢のことも大いにあると思います。

    あと、オーディオの「バイアス」を僕らは楽しんでいる、というのは僕も賛成です。僕が真空管をいじって遊んだりしてるときは、確実に、そのバイアスを自分の好きなように変奏して遊びますからね。で、それが他の人にも理解されたりすると、その人とは同じ嗜好の仲間ということになって、仲間が増えて行く。そんな感じを持ちます。

    返信
  3. もぐもぐ

    返信が遅くなってすみません。ここしばらく「事実」ついて考えていましたが、林さんのおっしゃる通り強敵で、なかなか考えがまとまりませんでした。

    ご紹介いただいた「事実」についての記事は以前読んだことがありましたが、改めて拝読いたしました。意識はしていませんでしたが、おそらく私のコメントはそちらの記事の影響をいくらか受けていたと思います。
    その中の「物理的事実が唯一無二なものだと感じること自体がなんらかの人間の性質のひとつである」という考えは、確かにそうかもしれない、と私も思いました。

    それで、人は自分が体験したものを信じてしまう傾向があるのではないか、と私は思っています。ここでいう体験とは、ただ体験するだけではなく、その体験に信頼や価値を感じることを含み、それが転じてその体験を作る世界を信じることに繋がるのではないかということです。そのため、主に物理的実体の世界で生きている人間が物理的事実の価値に重きを置いたり、絵巻物に造詣が深い林さんが絵巻物の世界に本物を感じなさったりするのではないかと思いました。
    また、物理的事実に関しては、その高い客観性ゆえに周囲と意思疎通がとりやすいということも関係しているかもしれません。

    ちなみに私も科学系であるので、これまで物理的事実というものの絶対性に重きを置いていたのですが、この前、明らかに進化学的に誤りのある文章がネット上で多くの人に高く評価され、しかし、その結果生じるそれらの人々の感情が世の中にとってはプラスであるのを見て、物理的事実ってそこまで重要ではないのかもしれない、と思ってしまいました。
    それで、私の個人的な価値観としては、これからも物理的事実に重きを置きたいと思っていますが、社会で生きる上での価値観としては、人々の感情などと物理的事実とで折り合いをつけていこう、と今のところ思っています。

    「事実」については、これからも人生の中でゆるゆると考えていこうと思っています。
    それでは、これから段々寒くなってくると思うので、どうかお身体に気をつけてお過ごしください。

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  4. 林正樹

    そうですね。21世紀は事実の意味がさまざまに変わってきましたから、ますます面白くなると思われますね。これからも、いろいろ考えながら生きていきましょう!

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