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若者と哲学

少し前、神戸へ行ったとき、甲南大学で20人ぐらいの学生を相手に、日本ビジュアルカルチャーの講義をした。縄文から江戸までの日本のビジュアル中心に紹介するお話で、スウェーデンでやってるのを日本語に直したものである。
 
学生たち、興味を持って聞いてくれたのだけど、そのスライドの最後の最後に哲学の話が少しだけ入れてある。それは「主観と客観」の捉え方についての、西洋と日本の違いについてである。講義でさんざん日本ビジュアルに接した後に、それを分かってもらいたい、という意図で入れている。
 
もちろん、唐突にそんな哲学的なことを言い出しても、ふつう、分かるものではない。講義のあと、学生たちとお茶を飲みながら、しばらく話をした。驚くことに、学生たちの何人かから、自分は哲学に興味がある、と言ってきたことである。
 
思えば、スウェーデンにしばらく滞在したK君も哲学を知りたい、と僕に直接言ってきたっけ。僕もそれを受けて少し話しかけたが、準備なしにするのは難し過ぎて、途中であきらめてしまった。
 
若者が哲学という言葉を出すことにつき、僕はわりと懐疑的で、ひょっとしてどこかの雑誌か何かでそんなことが言われていて、それで一種の流行として哲学という言葉を出しているだけだろうな、と大半は勘ぐって受け流してしまうのだけれど、どうもそうでも無いようなのである。
 
で、甲南大の2、3人の哲学を知りたいと言ってきた学生と、みなと一緒にしばらく哲学の話をした。僕が講義後の質疑のときに出した例は
 
「君たちは、空に輝いているあの太陽は何だと思いますか? 地球の何百倍も大きくて、中では核融合が起こっていて、恐ろしく熱くて、人間などちょっと近寄っただけですぐに死んで蒸発してしまう、そういう物体だと思ってますよね? でも、それは違うんです」
 
と、乱暴なことを言ったのだけど、やはり大人にこれを言うのと、若者に言うのとでは、その反応が異なるのである。
 
その後、そういうことを巡ってお茶を飲みながら若者と話したときにも、その若者の方から、先生、僕はときどきこう感じるんです、という話が出てきて、それは
 
「僕らが住んでいるこの世界というのは、誰かが作り出したものかもしれず、ひょっとすると全部作り物かもしれないし、でも、自分たちにはそれが本当はどうなのか、知る方法がない。そう感じるんです。先生の太陽の話だって、そうで、あの太陽も作り物かもしれない」
 
という話で、彼の心は、やはり現実とイメージの間を揺れているわけだ。「現実」というのは「客観」、「イメージ」というのは「主観」で、その関係の危うさを心で感じ取って、それに一種の危機を感じている、というのがよく伝わってくる。
 
一方、昨晩、僕は「告白」という10年前ぐらいの松たか子が主演の映画を見たが、実に残酷な映画でよくこんな暗いストーリーを作るなあと感心したが、あの中でも若い子たちが現実とイメージの間の危うさの上を揺れている。それから、僕は漫画をほとんど読まないが、ごくたまに読んでみると、その中でも、やはりその同じ危うさがテーマになっているのを見ることがある。
 
きっと、そんな中で、日本の若者は、現実とイメージの間に思いをはせるようになるんだろうな、と想像する。
 
それで、彼らと話していて、大人と違うな、と思ったのが、そんな話をしていると、若者たちの目が輝くというか、一生懸命理解しようとする、というか、そんな率直な目をすることだ。そういうところは、若いって、本当にいいなあ、って思う。
 
大人的に言えば、それは若者がまだたいして何も知らないからで、単に雰囲気で一生懸命に見えるだけだよ、ということになるかもしれないし、それは、まあ、そうだろう。
 
でも、日本の彼ら学生は、大学生活の後半になると、例の真っ黒な就活スーツを着て、髪を切って黒くして、マニュアル通りの面接をやって、社畜の振りをして働きはじめる。その状況は、それはもう完全に虚構の世界の中を生きている感覚になるんじゃないだろうか。現実とイメージの境は、自分という独立した人間の心の中で怪しく揺れ動き、現実を生きているのか、イメージを生きているのか、虚構を強制されているのか、虚構を演じているのか、分からなくなるのではないだろうか。
 
そんなところを突いて、日本の映画や小説や漫画のストーリーが作られるのだが、それは一種、強烈な「哲学的な問い」であることは間違いなく、彼ら若者が哲学という言葉を口にするのは、ひょっとすると何か切実なものがその心の裏にあるのではないか、と僕などは、買いかぶりかもしれないが、感じることがある。
 
願わくば、そういう若者たちに、哲学をちゃんと教えてみたいものだと思う。