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「表現の不自由展」の中止騒動と、芸術について

あいちトリエンナーレで開催された「表現の不自由展」の展示作品の中に、慰安婦像など日本人を不快にさせるものがあるとの理由で、また、脅迫じみた投稿も相次ぎ、結局早々に中止を決定した、というこのニュース、考えがなかなかうまくまとまらないけど、すごくもどかしい思いがいろいろあるので、現時点の感想を書いておく。

慰安婦問題の少女像 きょうかぎりで芸術祭展示中止へ

まず、このニュースを見て真っ先に感じたのは、自分は芸術と表現の自由の側にいるのは、これはもう、長らく芸術至上主義だったことからも明らかなので、そっち陣営として極めて平凡なことだった。つまり、芸術理解の浅い行政の芸術への介入に嫌気がさし、人々の心を豊かにするはずの芸術が人を不快にさせていいのか、とかいう幼稚な芸術理解に嫌気がさし、さらにこれを政治事件と取り違えて脅迫じみた言動をするやつらの馬鹿さ加減に嫌気がさし、といった、もろもろの反応である。一方、僕と逆の側にいる人々は、僕のこの反応を裏返したような反応をしたはずで、今回は、その人たちが行政と相まってイベントを中止に持ち込んだ、という結末だったわけだ。

それで、思うに、自分のこの反応は、単に、たとえば、学校での教師ぐるみのいじめやら、理不尽な校則による人権蹂躙やら、ヘイトスピーチやら、そういうものを見聞きしたときの嫌悪と同じもので、それが特段に「芸術」だから、という特別なものではなかった。というか、自分的に、このニュースを見ても、そこには「芸術」も「表現」も「自由」も関係しているようには、まるっきり思えなかった。

そうなってしまう一つの理由は、僕がこの展示を見ていないこと、それから、ネットで断片的に作品の写真を見ているだけなこと、つまりモノを見ていない、ということもあるだろう。

芸術でなによりも一番大切なことは「見る」ことである、五感を通して触れることである。これはもう、間違いない。だから、五感を通して接した芸術に、言葉にならない「なにか」が、その作品の中に、あるか、無いか、が芸術の価値を、まず最初に決定的に決めるのであって、そこは揺るぎようがない、というのが自分の芸術観だ。作品が表現しようとしている意図などというものは、たいてい俗か、あるいはおまけなのであって、それは二の次なんだ。

だから、芸術においては、作品にはどうしても触れないといけない、見ないといけない。仮にそれがネット上の写真や複製であっても、それは仕方ない、その限られた範囲内で、とにかく作品に触れないといけない。それをせずに、芸術の尊厳を言っても、表現の自由を言っても、それは空言というものだ。それで、この件についての自分のことだが、展示会は中止になったので見ようがないが、ネットで知った断片に触れただけの感想で勝手なことを言うと、僕にはその作品群が、あまり魅力的に思えなかった。簡単に言って、カッコいいように見えなかった。

作品を作るときには、その作家の力量が確実にものを言う。当たり前のことだが、これを他人に伝えるのは難しく、客観的指標などしょせんはどこにも無いので、あとは、一種の「存在感」に頼ることになる。芸術を論じていると、結局は、そういうことになるんだ。

たとえば、思い出すが、数年前、ノルウェイへ旅行して、モダンアート美術館に入ったら、そこに有名なアーティスト(名前を忘れた)の展示があった。それは、巨大な牛一頭を縦に切断して、真っ二つにして、そのまま透明のアクリルで固め、その切断された牛の入った巨大なアクリルのボックスを二つ並べたもので、見る人は内臓を露出させた切断面の中を歩いて見られる、そんな作品だった。おそらく動物愛護の人や牛を愛する人が見たら卒倒しそうな作品だが、これは、まさに、圧巻だった。世界のあらゆることを集めたみたいに見えるその重量感と、存在感は物凄いものだった。これは、明らかに、作家のたぐいまれな力量のせいだ、とすぐに感じた。

あるいは、たとえば、僕はマルセル・デュシャンとアンディー・ウォーホールを信奉していて、事あるごとに彼らを引き合いに出すが、彼らの作品の多くは、ひどく取り留めのないものだ。男性便器に署名を入れて床に放置したり、マリリン・モンローの写真を大きく引き伸ばして赤や緑に塗ってみたり、そんなようなものだ。デュシャンのその便器(Fountainという作品名)だって、今回の中止騒ぎと同じく、当時展示されたときは、スキャンダルを巻き起こし、展示は撤去されたのである。でも、そんな混乱や喧噪や俗な社会反応をはるかに超越した、正真の芸術家としてのデュシャンとウォーホールが、その醜いドタバタ劇の向こうに、ゆるぎない存在感をもって静かに控えているんだ。

以上のような芸術家の「力量」が、あらゆる作品を芸術たらしめているわけで、そういうもののない作品は、それはただの俗な社会装置に留まる。別に作品にする必要すらない。言葉で言っておけば済むようなものだ。それで、以上の芸術の芸術たる部分はまるで理解しない人の方が世の中ではマジョリティなので、そういう人は作品から言葉やメッセージを受け取るだけで、それを判断して、いいだ、悪いだ、と言っているだけだ。結局のところ、今回だって、そういうマジョリティが展示を中止に追い込んだわけで、これは単なる社会現象の一つに過ぎず、少なくとも僕にとっては芸術本体と関わりのないことで、どうでもいいことだ。

今回の表現の不自由展で言えば、作家たちもさることながら、これを企画プロデュースした人の芸術的な力量の大きさで、その価値が測られることになるだろう。それは、この後に自ずと見えて来るだろうと思う。

どんなにまばゆいばかりの芸術作品であっても、それが作品である以上、必ず無理解な俗世間にさらされることになる。そして、その俗世間は、その作品に対し、その芸術家に対し、ピンからキリまで玉石混交さまざまに反応し、年月が経ち、その評価は落ち着くところへ落ち着いてゆく。そして、すぐれた芸術家だけが、歴史に残り、最後には教科書に載って、俗な世間も「大芸術家」として認知して、文句を言うのを止める。それは、特に、何百年も前、芸術が特権階級のためのものだけだった時代が終わり、近代になり、世間に開放されて以来、繰り返し行われてきたことだ。

そして、その芸術の価値は、やはり、芸術が特権だった昔の権威を引きずっている。でも、近代の訪れとともに、幾多の偉大な芸術家たちの努力の積み重ねにより、その芸術の「特権性」は解体されたと思う。その代わり、それは、さっき書いたように、作家とその作品の、存在感や重さというものに姿を変えたのだと思う。

結局、「芸術」や「表現」や「自由」というのは、世俗的なところには存在しておらず、それらの貴重さは独立しており、社会などという俗なものからは演繹できない。でも、特権が排除された今、芸術は特権的には働かない。だから、芸術も表現も自由も、俗な社会に対しては必ず戦いを強いられる。それは、俗社会の中の健全な営みの一つに過ぎない。いつだっていつの時代だって、そうやって戦った来たのだ。本当に価値のあるものは、決してその時代にすんなり受け入れられることはない。それは戦って勝ち取るものだ。そのためには、この現代であっても、僕たち俗衆は、「カリスマ」を必要とする。今回の騒動の中から、そういうカリスマが産まれれば幸いである。

近代になって、芸術の価値の特権が排除され、皆のものになり(民主化)、特権的な芸術価値は芸術家個人のカリスマに形を変えたが、今度は、この21世紀に、そのカリスマが排除される時代になって行くだろうか。僕が今の社会を見ている限り、それは当分、起こりそうもない。むしろ、いま、俗世間はひたすらカリスマを求めて右往左往さまよっているように見える。一刻も早く、自分が無条件で信じられる対象を見つけたいという、矢も楯もたまらぬ欲求が世間に渦巻いて見える。世界的にそうだと言ってもいいが、これは特に日本のような国では顕著に感じられる。

失礼な言い方だが、ネットで見た、この展示会に並べられた作品の数々の、弱々しい様子を見て、実は、そのカリスマの解体、みたいなことも考えた。なんだか、誰にでも作れて、誰にでも寄り添える、無名性の高い作品、そんな芸術のゆくえみたいなものを感じないこともない。たとえば、僕の大嫌いなバンクシーなどはそれを狙っているように見えるので、ひょっとすると芸術界は、無意識的にでも次のフェーズに向かって動き出しているのかもしれない。

バンクシーで思い出したが、これはどっかで書いたが、あの、数年前にあった、オークションで自動仕掛けで切断された作品を見て、僕は、今回よりもはるかに不快に思ったっけ。一連の行為があまりに貧弱で幼稚だったので腹が立ったのだ。でも、それは、僕自身が、芸術史的に言うところの、自然模倣から呪術、特権的価値、そしてカリスマへ、と形を変えながらも、常にその奥底に存在し続ける「なにか」、時代を超えて存在する芸術作品の普遍性みたいなものを、まだ未練がましく信じているからかもしれない。僕は、やはり今でも芸術至上主義なのは間違いないが、そこで言う芸術は解体前の芸術のことで、歴史の向こうの遠い過去から綿々と人類が守り続けて来た価値として理解していて、それがなければ生きていけない、そんな貴重なものなのだ。

でも、現代では、そんなものはもうないんだよ、って言われてみれば、そうかもしれない。世界というのは、つくづく流動しているものだと思う。人は、その中に、何とかして不動のものを見出そうと常に、もがいている。僕もその中のひとりにすぎないが、願わくば、自分の見出した不動のものが、「永遠」の相に届くもので、ありますように。