月別アーカイブ: 2018年8月

402号室

神戸にいる。明日の朝、すぐにここを出て、東京に帰ってリハして夜にライブという強行軍で、大変だが、まあいいや。ホントは夜中の三宮に繰り出したいところだが、11時近い今から放浪するのは、明日があるせいで自粛かな。
 
ところで、いまいるホテルは六甲の坂を上がった地味な感じのきれいなホテルで、フロントも、初老の痩せてすらっとした落ち着いたホテルマンで何となく今どき珍しい感じ。
 
で、僕の部屋が402号室なの。これ、日本では、もうそういうタブーは無くなったのだろうけど、42はやばい数字なんだよね。昔はこの数字、避けていたものだ。でも、402号室に自分が通されたのは、僕には気分がいいことなの。なぜなのかは、大昔のブログに書いたけれど、また思い出した。
 
僕は、十年以上前、家出をしていたことがあって、三宿の古いマンションの4階の403号室に一年間ぐらい、住んで、毎日、三軒茶屋で飲んだくれる、荒れた時期があった。それで、そのマンションのその部屋を決めたときのことをよく覚えているのである。別に少しもいい所ではなかったのだけど、不動産屋に連れられてその4階の部屋に入ったら、二方向が窓で、そこから世田谷公園が見えるところだった。
 
その日の夜、僕は夢を見た。それは、その4階の部屋に自分がいて、4方全部が窓になっていて、360度すべてが深い森に囲まれていて、とても美しくて、僕は夢の中でその光景に見とれていた。そんな夢を見たせいで、朝起きて、そこにしようと思い、不動産屋に連絡してその部屋に決めてしまったのだ。
 
まあ、やさぐれた、めちゃくちゃな1年間だったが、とにもかくにもその部屋で僕は生活していた。実際に入った部屋からたしかに公園の緑は見えたけど、別に夢で見た絶景とはまるで違っていた。ただ、僕は、その部屋をけっこう気に入っていた。いろいろあって、一年後、僕は一人暮らしを止めて、またもとの家へ戻ることを決心する。
 
で、その部屋を去ることが決まった、数週間前だったと思うけど、そのころに付き合いがあった、霊感があるという怪しい人が、僕の部屋に遊びに来た。僕が、彼に、自分の生活があまりに安定しないので、相談したりしていたのである。で、彼も興味を持ち、僕の一人暮らしの部屋に来たのだった。
 
その霊感の彼、僕の部屋の前まで来て、部屋番号の403というのを見てこう言った
 
「林さん、この部屋は402だよね? 402は欠番で403でしょ? これまで402号室に住んだ人を見てきたけど、ロクなことなかったよ」
 
これはたしかにそうで、古いマンションのそこは402号室が無く、そのせいで僕の部屋は403だったのだ。僕はそれを聞いて、あっそうですか、って言ったが、とにかく、彼と一緒に部屋に入った。彼、しばらく部屋の真ん中でたたずんでじっとしていたが、やはりこういうのである
 
「この部屋はかなりやばいね。林さん、よくこんな部屋に1年も住んでたね」
 
僕は、そういう霊感的なことを、実は信じている方なので、真顔で、へえ、そうだったんですか、と答えたけど、特段にどうという実感もない。で、彼が、除霊してくれる、というので、じゃあ、お願いします、と言った。
 
彼、たしか、たっぷり一時間ぐらいかけて、部屋の真ん中で除霊の儀式をした。僕はそれをはたで見ていた。夜だった。彼、苦しそうな顔をして目をつむって、ぶつぶつ何かを唱えたりしていて、そのうち、額から汗をだらだら垂らしたり、涙を流したりした。
 
そうして、彼、ようやく除霊が終わったとのことで、僕に話かけた。たしか、彼は、こう言った
 
「ここねえ、背中から刃物で刺されて殺された女性と、やっぱり同じように殺された幼い子供を連れた女性の霊が憑いてたよ。もう、除霊したから大丈夫だけど、大変だったよ」
 
僕は、霊は信じているものの、自分では、霊を見たことも、身近に感じたこともないので、そうでしたか、それはありがとうございました、と言っただけで、一向にピンとは来なかった。ただ、きっと、そんなこともあるだろうな、と思った。
 
僕が最初にこの部屋に入ったとき、一発で気に入ってしまい、それでその日の夜に、あの美しい夢まで見させたのは、きっと、その殺された女性の霊だったんだろうと思った。きっと、僕を選んだのに違いない。それで一年後、霊感の彼が連れられて部屋に入って除霊して、きっと不幸な女たちは成仏したに違いない。
 
と、まあ、きわめて自分に都合のいいように、この出来事を解釈したわけだけど、あの三宿のボロマンションの403号室に住んだ、あの一年は、自分にとって異例に重要な時間だったのではないか、と思うようになってね。
 
そんなせいで、いま、神戸の六甲の坂の上のホテルで402号室に通されたのが、とても、いい偶然のように思えてね。なんとなく、気持ちよく眠れそうだよ。

(Facebook投稿より転載)

民生

神戸の中華街に「民生」という名前の老舗の廣東料理屋がある。僕はあの店が好きで大阪に住んでいたころ、神戸まで出向いて、よく通った。もう30年以上前の話で、もちろん震災前である。いまも思い出すあの庶民的な店内の風景。給仕はみな威勢のいい関西のおばちゃんで、いつもにぎやかだった。料理はまさに日本の庶民料理で、あれは東京でも、そして本土の中国でも食べられない、関西に独特な廣東料理だった。
 
民生定番の料理といえば、「レタス包み」と「イカの天ぷら」で、行くと必ず頼んでいた。レタス包みは、生のレタスに炒めた挽肉を乗せて巻いて食べるもので、素揚げした春雨の上に挽肉が乗って出てくる。きわめてそっけなく味付けしたパサパサの挽肉と、みずみずしいレタスの組み合わせが素晴らしかった。イカの天ぷらは、肉厚のイカに切れ目を入れて、ショウユに浸したのを素揚げして輪切りにしただけのもので、くるくると巻き上がるイカが見ていて楽しい。なんの変哲もない味だけど、まさに庶民の味で大好きだった。
 
あと、自分的にすごく感心した名人芸な料理もあった。ひとつは「かしわの炒りつけ」。これは、大ぶりに切った鶏のもも肉とピーマンとタマネギを薄いあんでくるんだ料理で、関西系広東料理の定番の、少量のショウユを加えたねっとりしたあんでまとめたもの。鶏肉のおいしさもだけど、このあんのくるみ方は絶妙だった。同じく酢豚も。こちらも、今度はブドウ色のもう少し濃い色のあんがきれいに材料の全体に薄く均等にくるまっていて、ほれぼれする出来だった。あんが皿の下にたまるようなことはなく、すべて材料にからんでいるのである。
 
味の方も、まったくに素朴で、くどさがなく、ナチュラルそのものだった。かしわ炒りつけは無理だったけど、ひところ、僕も家で民生の酢豚をまねて作っていた。あの色と粘度を出すために、甘酢に、ショウユと中国ショウユを入れて、高温の油で砂糖が飴状になるタイミングを見計らって、材料をくるむようにしていた。しかし、まあ、なかなかあのようにはいかないものだ。
 
実は、先のかしわ炒りつけは、毎回注文していたのだが、やがて、普通の出来になってしまい、それ以来、頼むのをやめてしまったりした。ああいう名人芸は、たぶん特定の料理人に結びついているらしく、その人がいなくなったり、シフトが変わったりすると、同じものは食べられないのだと思う。これは民生だけでなく、いろんな料理店で経験したことでもある。そして、なぜか、ある日突然、名人が登場してすばらしい出来の料理が出るようになった、ということはなく、年月が経つにつれ、必ず、その名人芸は失われる方向にしか行かない。思えば、不思議なものだ。やはり昔の人の名人芸というのはそうそう簡単には伝承しないものなのだろうか。
 
これら、素朴だけど、名人芸な料理を食って、サッポロビールの大瓶を飲んで、あの喧噪の中にいると、本当にいい気持ちだった。
 
その後、三年ほどで僕は関西から東京に戻り、この民生にも行くことはなくなった。そうこうしているうちに大震災が起こり、南京町はどうなっただろうか、と思ったが、確認することもなく月日が過ぎていった。それからだいぶ経ったあるとき、神戸へ出張があり、現地の知り合いと一緒に南京町の民生へ出かけた。少し小さくなったかな、とは思うものの、民生はたしかにあった。創業55年だそうでたいしたものだ。料理はどれもおいしかったが、昔の民生の風情はほとんどなくなっていた。
 
伝統の老舗の味として、レタス包みとイカの天ぷらのメニューは残っていて、どちらも味もルックスも当時のままだったが、それにしても、この二品と、他の料理とのバランスが崩れすぎていて、当の老舗の二品も、味気なく感じてしまった。やはり、お店全体の料理があのノリでできあがっていないと、ダメなんだなあ、と思った。ついでに言うと、料理だけでもダメで、あの店内の空間、給仕のおばちゃん、人々の様子、そんな時代の空気すべてと料理が、きれいにきちんと調和して、それであの魅力を作っていたんだろうなあ、と思う。やはり料理店というのは、その箱の全体が、一種の総合芸術なんだね。
 
むかし自分が足しげく通った気に入った料理店はそれほど多くは無いのだけど、その大半が、店舗はあるけれど時代が変わって、別のものになってしまった。自分は中華料理を作るのが趣味だけど、自分の料理全体がある一つの有機的な感じのもとに総合されているのが大切で、それは一代限りのもの。それでいいじゃないか。そんなことも、考える。

(Facebook投稿より転載)