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クワス算とFountain

ふと、クリプキのクワス算とマルセル・デュシャンのFountainは似たところがあるかもな、と思ったので、考えてみた。

クワス算とは、こんなものだ。「ある所にAさんがいて普通に足し算をしていた。そこにX氏が現れAさんに68+57はいくつでしょう、と聞く。Aさんは68+57=125と難なく答えるが、X氏は言う、違います。68+57=5です。Aさんはなぜ?と聞く。X氏はなぜなら68+57の「+」は、実はどちらかの数が57より大きいときはすべて5になる、という計算方法だからです、と言う。Aさんはそんな馬鹿な、と言う。Xさんは、ではあなたは今までに68+57をやったことがありますか?と聞く。Aさんは詰まってしまう。実際、Aさんは57より大きい数の足し算をやったことがなかったのだ。この「+」で表わされた計算をクワス算という」

一方、デュシャンのFountainは、1917年のインディペンダント展に突如展示された作品で、R. Muttと署名された男性便器にFountainというタイトルを付けて作品として展示したものである。これは当時スキャンダルを巻き起こし、結局、作品は展示場から撤去された。しかしデュシャンのこの行為はその後も大きな話題になり、ダダやシュールレアリスムの芸術運動の一種の礎石となる。

さて、以上がクワス算とFountainであるが、クワス算の設定を使ってFountainを再設定してみようと思ったのである。

Aさんはずっと用を足すために便器を使ってきた。ある日、X氏が現れ、男性便器を指さして「これはなんですか?」とAさんに聞く。Aさんは「便器です」と、答えるがX氏は「違います。これはFountainという名の芸術作品です」と言う。Aさんは「そんなはずはないでしょう。どこから見ても男性用便器でしょう。それが芸術作品だなんて馬鹿げてます」と言うが、X氏は「では、なぜこれが芸術作品じゃないかきちんと証明できますか? これは明らかにFountainという作品なのに」と言う。結局、Aさんは絶句。

ここで、このたとえのAさんが仮りに女性だったら、どうもハラスメント的な怪しい感じが付きまとうかもしれない。それにしても、そんな配慮心が働いてしまう、というのも現代ならではと思うが、そんな現代では、このX氏は、便器は便器に決まってるという常識派からは「変態」と呼ばれて糾弾されうるし、半端な芸術派からも「芸術というよりただのスキャンダル好き」と呼ばれて糾弾されうる。

そうして、やはり、このX氏は、やっていることは簡単だが、誰にでもできることではなく、マルセル・デュシャンぐらいの芸術家じゃないと演じるのは無理だった、ということがはっきりする。実際に、かつてFountainが美術展に初めて現れたときも騒ぎが起こり、強制排除されたが、やがて人々が説得されて行ったのは、マルセル・デュシャンという正真の芸術家の力ゆえ、と言えると思う。

それにしても、これまでなんの疑問もなく、ずっと用足しに使ってきた器具が実は芸術作品だった、と言われたら、それはそれでショックだろう。そのときにAさんが「どう感じるか」、そしてFountainを知ってしまった後のAさんは「世界をどんな目で見るようになったか」によって、人の種類は分類できるかもしれない。

X氏のFountainは、世の常識的な「実用性」をいったん破壊することになっただろうか。どんなものでも芸術になりうる。便器のようなきわめて卑近なものすらその例外ではない、ということだが、一体、その破壊の後に、なにが新たに立ち上がって来るのだろう。もし、そのAさんが世の中を見る目が変わったとするならば、それは明らかに、「世界がその一撃で前より広がった」ということを意味すると思う。

世界はそのようにして不断に領域を拡大しているのだと思うのだが、「自分のテリトリーをそのまま広げて行く」のと、「未知の世界に足を踏み入れて、そこにまったく新しいテリトリーを開拓する」のでは、意味合いがずいぶん違う気がする。

「実用性」という言葉は、上記の「既に獲得されたテリトリー」の中に設定されている概念なので、未知の世界に実用性という概念があるはずはないし、ありえないはずだ。また、実用性とは常に「現在」に拘っている概念であって、未来に適用できない。だって「コレは、何の役に立つかわからないけど、将来役に立つかもしれないから、コレは実用的だ」とは絶対に言わないし、明らかに用法がおかしい。

ただ、時間が経ってその「将来」になって、本当にその「コレ」が役に立って実用的になっちゃうかもしれない。なので、「実用性」というのは、その姿が拡大されたり、突然別のものが現れたり、不要なものが消去されたりしながら、常に動き、変化して行くもので、その一番大きな変化は、やはり、実用性そのものから生まれるのではなく、未来を作る、前人未到なエリアに踏み出す、発明、創造行為、その最たるものである芸術により生まれるものであろう。実際にデュシャンのFountainで世界が広がり、芸術の在り方が変わり、その新しい芸術から幾多の実用性が生まれたことは(シュールな漫画なり、シュールな日常オブジェなり想像してもらえばいい)、今ではまったく明らかな歴史的事実である。

で、最初に戻って、クワス算は、そういうFountainと同じ役を担ってはいないだろうか。僕には、そう見える。クワス算は、社会通念的にも論理的にも間違っており、意味の無いものだ、という意見もあるが、もし、クワス算とFountainが同じものを狙っているとしたら、その場合は、デュシャンのFountainも同じように否定しないといけなくなる。既に歴史的評価が決まった芸術家に対して、マルセル・デュシャンはただの詐欺師に過ぎない、と宣言することになる。いまでもデュシャンはただの詐欺師だという人はいるだろうが、そういう人とて、Fountainが出現して変貌した社会の中にどっぷり生きて生活してしまっていることまでは否定できないはずだ。

しかし、クワス算とFountainのアナロジーには一点引っかかるところがある。それは、クワス算の横にデュシャンに相当する人物がいないことだ。この場合、もちろんクリプキということになるが、なんだか少し役不足に見える。となると、クリプキに多大な影響を与えたウィトゲンシュタインを持ち出しても、いいかもしれない。ただ、誰かそこに、それに力を与える役を担う大物が必要な気もしてくる。クワス算とFountainは、その枠組みは同じだと思う。でも、その枠組みに命を吹き込むのは、やはり人間であり、しかも、このように前人未踏なものへの踏み出し、となると、それ相応に腕力のある人間、芸術家、哲学者が必要になるように、どうしても思える。枠組みがいかに独創的に精巧にできていても、それだけでは人間の領域を圧倒的な勢いで拡大するのは難しいように思える。