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ポイ捨てについて

さっき、夏目漱石の「門」をぱらぱらめくっていたら、最初の方で、宗助が散歩に出かけ、切手と「敷島」を同じ店で買って手紙を出したあと、そのまま帰るのも面白くないんで

「咥え煙草の煙を秋の日にゆらつかせながら、ぶらぶらと歩いているうちに」

という文に出くわした。ところで先の「敷島」はその当時の煙草の銘柄である。これを読んでなんだか一気に明治に逆戻りするような気がした。当時は人通りもまばらで、往来は適当に汚れていて、煙草をふかしながら歩いて吸殻を道にもみ消しても、特段の問題はなかった時代だったのだろう。もっともそれならば明治まで戻る必要もなく、昭和のころもそんな感じだった。

僕はここしばらく、昭和初期の日本映画をよく見ることが続いたのだけど、当時の人がいかに煙草をやたらと吸っていたか見てあらためてびっくりする。なにかというと煙草に火をつけて、あたりが煙っている。当時は満員の通勤電車の中でも平気で煙草を吸っていたって、現代の朝の通勤電車で、エンジンの音だけが流れて皆が静まり返ってじっとしている車内から想像できるだろうか。しかし変われば変わるものだ。

思えば、僕が学校を出て就職した職場でも、当時は煙草を吸う人のめいめいのデスクには灰皿があって、仕事しながらふつうに煙草を吸っていた。打ち合わせの部屋はみなが煙草をやたらと吸うもんだからけっこう煙っていたものである。数えてみると今から20年ぐらい前はまだ、そうだったのだ。

それにしても、この煙草については本当に世の中変わった。しかも世界的に煙草を廃止する方向に動いているので、タバコ吸いにとっては、あらがいようがない現実である。もっとも日本でも外国でもまだ煙草はふつうに売っているし、けっこうな人が吸っているし、喫煙者は建物を始めいろいろなところから追い出されてはいるものの、喫煙所へ行けば、まだけっこうたむろしてはスパスパ吸って去って行く、という光景はなくなっていない。

冒頭の漱石の描写で、彼が往来に設置された灰皿で煙草をもみ消すはずもなく、当然のように道端にポイっと捨てて足でもみ消したはずであろう。いわゆる「吸殻のポイ捨て」である。現代では特に、煙草については、その存在自体が悪者扱いされているのも手伝って、吸殻ポイ捨て行為は二重に悪い行為に写る。知っての通り、ところによっては、警官に見られればその場で罰金まで取られる。吸殻はちっぽけで小さいので、ポイ捨て行為だけとると些細なことだと思うのだけど、煙草だけは特別のようである。

ところで僕はどうかと言うと、煙草は止めてはいないが今ではもうほとんど吸わなくなった。ただ、なんらかストレスな仕事をしたり、ライブバーで演奏したり、というときに限って、ごくたまに吸う。平均してならしてしまうと1日で1本を切ってしまうので、もう、「吸わない人」と言ってもいいかもしれない。

しかしときどきは、吸うのである。それで自分の喫煙マナーはあまりよくない。灰皿のあるところで吸うときはいいとして、外に出ていて煙草が吸いたくなると、まず周りを見回して喫煙所が運よくあればそこへ行って吸うが、たいていは見つからないので、人があんまりいない路地かなんかに入ってそこでプカプカやっている。で、吸殻はその場に捨ててもみ消すので、立派な吸殻ポイ捨て行為であり、見つかれば罰金ものというわけだ。

自分がそうなので、他人が吸殻ポイ捨てしていても何とも思わない。しかし実は、自分が吸殻ポイ捨てするときにはけっこう後ろめたさを感じながらやっている。道で煙草に火をつける段階からそれを感じるので、公共の場で煙草を吸うことについてもなんらか罪悪感を感じているようである。加えて最後に道にポイっと捨ててもみ消し放置するときは、喫煙にポイ捨てが加わってほぼ2倍の罪悪感というわけだ。そんなに後ろめたいなら吸わなきゃいいのに、と思うが、その時その場で吸いたいんだからしょうがない。

では、なんでそんな罪悪感を感じるか、というと僕の場合はわりとはっきりした理由があり、幼少のころ、死んだ親父に公共マナーについてこれでもかというほどうるさくしつけられたからである。まず、どんな小さいゴミであろうとゴミ箱以外の公共の場に捨てるのは絶対だめ。さらに、公共の場に落ちているゴミを見つけたら必ず拾ってゴミ箱に捨てること。この二つにつき、親父と一緒に外を歩いているときは必ず徹底されたのである。

幼少のしつけというのは怖いもので、その後、青年になり、多少のゴミなどは道にポイする若者ノリになったときでも、なかなかゴミを道に捨てられなかった。たかが道にポイっとするだけなのに、大げさで馬鹿げているが、けっこうな勇気を要する、という風であった。これがそのまま続いているわけで、したがってしつけから40年近くたった今でも、公共の場での喫煙と吸殻ポイ捨てについて罪悪感を感じるという始末である。

ところで今から20年ほど前、スペインのマドリッドへ旅行したとき、スペイン人たちのゴミのポイ捨てのすごさに感動したことがある。ゴミの大小を問わず、誰もが道や広場やそのへんに捨てるので、往来も広場もゴミだらけである。煙草に至ってはそんなちっぽけなものは屁でもないとばかりに、みな歩き煙草をして吸い終わるともみ消しもせずそのままポーンと往来に投げ捨てる。そしてさらにびっくりしたのが街にたくさんあるカフェのバール(BAR)である。食ったり飲んだりするところなのだが、出たゴミはすべて躊躇なく床に捨てる。なのでバールの床はゴミだらけで足の踏み場もない。で、定期的に店の人が掃いて捨てている。実は往来に散らばるゴミもそうで、いちおう定期的に清掃員のじいさんが掃いて捨てている。

このマドリッドは僕にとっての初めての海外で、このゴミに対する態度に、もうけっこう誇張でなく感動した。ゴミを道にポイ捨てするのに勇気がいるほど罪悪感を感じている僕は、スペイン人の、いい加減さ、おおらかさ、そしてある意味合理的な行動に、本当に感心したとともに、憧れたものである。しかしながら、日本に帰ってきてしまうと、スペインの習慣をそのまま持ち込めるわけもなく、元の自分に戻ってしまうのであった。

自分はスペインを皮切りとして、ヨーロッパ、アジア、アメリカと、かなりの回数、そしてかなりのたくさんの国へ出かけているのだが、自分が見た限り、このゴミのポイ捨てマナーについては日本が断トツにうるさく、そして徹底している。自分の経験からいえば世界一であろう。最近でこそ、いろんな国が日本に追い付いてきたが、たぶんいまだに日本は世界一公共の場がきれいな国だと思う。

そういえば、シンガポールではどんな小さいゴミであろうと往来に捨てたとたんに罰金であり、ガムを捨てただけで信じられないぐらいの金を取られるので、街は異様にきれいだ、と聞いたことがあった。これを聞いて、へーえ窮屈な国だな、と思ったものだったが、少し前に実際にシンガポールへ行ってみたら、道端にはふつうにゴミが落ちているし、歩き煙草で吸殻ポイ捨ての人がふつうにたくさんいて、なんだ、と拍子抜けしたことがある。たしかに法律は厳しいのだけど、みな、あまり厳格に守らないようなのである。

さて、以上、実はもっといくらでも話はあるのだが、このへんにしよう。

自分としては以上の経験から、日本を基準にせず世界を基準にすれば、ポイ捨てはまだまだふつうの行為なので、ポイ捨てなんて少しであれば別にいいんじゃないか? という態度である。さっき書いたマドリッドのやり方のように、みんなでポイ捨てして、それで定期的に掃除する方が、むしろ合理的なんじゃないかと考えたりする。

で、この前、ツイッターでなにげなく「ポイ捨てぐらい別にいいじゃん」とツイートしたら、さっそく知人からリプライがあり、ポイ捨てはダメ、とあり、そしてそういう行為は「社会に甘えている」と書いてあった。

実は、この「社会に甘えている」という言葉がものすごく新鮮だったのでこれを読んで思わず、うわー、っと反応してしまった。思えば自分はこの「社会に甘える」という考え方をずっと長い間忘れていた。ポイ捨ての是非について考えるとき、社会に甘えるという考え方をするということが自分には新しかったので、「皮肉ではなく、素直に、その考え方に感心しました」、とかなんとかリプライした。あと、この「ポイ捨てしている人は社会に甘えている」という考え方も、僕にも読んですぐに理解できた。なので自分も知ってはいたのだ。しかしながら改めて、なぜ「ポイ捨て行為は社会に甘えた行為」なのだろう。

自分の勝手で公共の場にポイ捨てし、捨てられたゴミについて自分は責任を持たず、しかも捨てられたゴミを社会の他の成員が見つけたときにすでに捨てた本人を特定できないので責任追及が不可能になる。つまり、捨てる人は、自身の責任放棄と、他人の責任追及から逃げる、という二重の悪いことをしているということなのだろうか。そして、ポイ捨てされたゴミが溜まれば最終的にどうしても処理しないといけないくなるので、誰かがその役を引き受けることになる。ポイ捨てしている人は、自分の属している社会の誰か他人にゴミを押しつけて自らは知らん顔をしている、という意味で「社会に甘えている」ということになるのだろうか。

「甘えている」というのは、主に子供に対して使う言葉だろうが、子供であれば、自分のやりたいことをやって何らか問題になっても「親がなんとかしてくれる」ということを「甘えている」と言うのであろう。なので社会に甘えているというのは、自分のエゴでなんか社会に問題を引き起こしても「社会がなんとかしてくれる」と考えることを言うのであろう。

自分はおそらくほぼ以上のように理解していたのだと思うので、「ポイ捨ては社会に甘えている」という発言を読んですぐ分かったのである。しかし、上述の理屈で本当に合っているかはどうもあんまり自信がない。というか、上述、歯切れが悪い。自分の不得意なことについて書いたり考えたりするとこうなるのであろう。

しかしながら、また冒頭の漱石の小説の時代のポイ捨て事情を思い出してみると、それでは当時の人たちが社会に甘えていたかというとそうでもない。昔の日本も、スペインも、あるいは他の国も、ポイ捨てのゴミは定期的に誰かが清掃して、それでうまく回っていたわけだ。それがうまく回っている限り、ポイ捨て行為は社会に甘えた行為である、ということにはなっていなかったということだろう。それでは、どこがその転換期になるのだろう。

いちばん端的な理由は、社会の人口がかつてよりずっと増え、さらに消費行為が増え、いわゆるゴミ自体の量が増加し、その結果、みなのポイ捨てのゴミが社会で処理しきれなくなるほど大量になってしまったということがあるだろう。最近だと、イタリアのナポリでこれが起こったそうで、ちょっと前聞いた話だと、ナポリの街は処理しきれないゴミの山であちこちがふさがって大変なことになっていたそうである。

このような極端に破局状態になると、もうポイ捨ての習慣もみなが自覚して止めない限り、収拾がつかなくなる。それが分かってもポイ捨てを止めない連中は、社会に甘えていることになるであろう。しかし、先の子供の例でもわかるように、子供が自分が親に甘えているのを自覚しないのと同じく、ポイ捨てを平気でする輩は自分が社会に甘えているなどという自覚は無いのがふつうで、他人や社会のことなど一切考えず、自分がやりたいようにやっているだけだろう。しかも、その人数はなかなか減らないだろう。結局のところ、社会はこの手の「社会に甘えている無自覚な輩」を一定数かかえていないといけないことになるだろう。

あともう一つは、ゴミの落ちていないクリーンな街を社会が望んでいる、というのもある。おそらく日本はこっちである。この場合、ポイ捨ての無い社会を望むわけだが、思うにこれは意外と説得力がない。たとえば僕のように、「オレは別に道にゴミが落ちててもいいよ」、という人々に対してどうやって説得すればいいか。これは、仕方ないので、あの手この手であろう。最近の東京で言えば、公共の場で煙草を吸って吸殻をポイ捨てすることがいかに「いけない行為」であるかということについて、次から次へとよくこれだけ思いつくもんだと思うぐらい理由を見つけて、それを一つ一つポスターにしてそこらじゅうに貼っている。たとえば、他人は煙を嫌がっている、煙草の火は700度、しかも歩き煙草の火は子供の背丈の位置にあり危険、吸殻は下水に入り込み詰まりを引き起こす原因、云々と、いくらでも出てくる。

さっき、「社会はこの手の社会に甘えている無自覚な輩を一定数かかえていないといけない」と書いたが、この厄介な輩は実はかなりたくさんいる。そして容易なことで数は減らない。なので社会の残りのメンバーは、この厄介な輩の面倒を見ることを強いられる。これは不公平だし、第一そんなやつらの面倒は見たくないし、それら厄介な輩が社会的責任を自覚する自分たちのようになってくれれば面倒は減るのに、自分たちに甘えていることを自覚することすらないのは何ということか、と不平はたくさんあるだろう。こういう事情は、ここで書いているポイ捨てに限ったことではなく、多岐に渡っていると思う。

というわけで、社会的責任を自覚している社会の上の方の人々は、この問題を処理するために(ここでは再びポイ捨てに話を限るが)、さまざまな理由を見つけ出して先の東京のポスターのように下の方の人々を啓蒙しようとする。ただこれらの理由はいずれも小粒であって、見ればなるほどと思うことではあるが、それほど大きな「社会的問題」には見えない。逆に小粒な身近な問題じゃないとそれらの輩には理解できないというのもある。したがって啓蒙には根気がいる。繰り返し繰り返し、いつでも同じような小粒な問題を次から次へと投げつけて、それを止めることなく続けていないといけない。

ここまで来ると、実は、さっきのナポリの問題と実は本質はあまり変わっていないことが分かる。やはり、結局は、ゴミが処理できなくなることを予想しているのであろう。ナポリのような惨憺たる状況になる前に手を打っている、とも言える。しかしながら、このような行動は「政治家の仕事」であって、われわれ一般市民の仕事と言えるだろうか。ゴミの量と処理可能な量を算定してそのバランスを見ながら事前にゴミをコントロールする計画を立て実行する、というのはこれはどうあっても政治の仕事である。

この政治家のやっている仕事の道筋をまとめると、「ポイ捨てが平気で、社会に甘えている輩が相当数いて、しかも容易に数が減らない」、「一方、その輩の面倒を見たくもないのに見ないといけない社会の上の方の人々の不満がある」、「困った輩たちを自分たちのところまで引き上げたいが無自覚な輩たちにそれを自覚させるのは至難の技」、「仕方ないからポイ捨てが悪な理由を大量に常に輩に投げつけ、少しでも全体を改善する」、「ただしその理由は馬鹿でもわかるぐらいの小粒なものにしないといけない」、「さらにしつこいぐらい繰り返し同じことを忠告しないといけない」、となり、なかなか煩雑な戦略である。もっともごく普通にどこでも行われている戦略でもある。

以上が政治家の仕事だが、この煩雑な仕事を、今度は政治家ではない市民の言葉に翻訳すると、それが、「クリーンな街を望む」ということになるのではないだろうか。

政治家から見ると、社会の上の方の多くを形作る良識層が「クリーンな街を望む」という一種の道徳的感覚のようなものを持ってくれることはとても重要なことで、仕事は格段にやりやすくなるはず。クリーンな街をみなが目指すことで、社会が自動的に自己組織して、浄化作用が働いて、特に厄介な繰り返し政策をしなくとも、面倒なゴミ問題が解決するならこんなにいいことはない。

こと日本におけるクリーンな街の実現については、以上の作戦がきわめてうまく働いていると思う。そして、僕の感覚だと、それを通り越して、「うまく行き過ぎている」のだ。というのは、自分には、日本の社会の良識層が、あまりに無自覚に、「クリーンな街は素晴らしい、日本が世界に誇れることだ」と感じていて、ときにそれが高じて「汚い国は醜い、民度が低くて劣っている」、というところに発展しがちなのが見えるからだ。

社会の感覚がここまで来てしまうと、そこにはどうしても「相互監視」の感覚が現れる。「クリーンな街を望む」という民意に反する人間に対して、国が警告するのではなく、市民が進んで警告するようになる。お互いが警告を発して、目に見えることから目に見えないことまで、反する人間に圧力をかけることが常態化する。大半の人は別に相互監視の社会に生きていても特段に窮屈さを感じないのだろうし、それによって自分たちの生活が厄介な輩に妨害されることなく快適に生活できるようになるわけだから、別にかまわないのだろう。

自分について言えば、僕は、そういう社会の良識層を常に疑っていて、自分は極力そうならないようにしている。しかしながら自分が属している層は明らかにその良識層の方で、ポイ捨てして平気な厄介な輩側ではない。前に書いたように煙草のポイ捨てていどでやましいと感じる自分が、厄介な輩側の仲間になれるはずがない。結局、自分の立ち位置はけっこう中途半端である。でも、それで構わない。

自分のような人間は、厄介な輩たちはそのままにして、むしろ、「無自覚にクリーンな街を望む」という良識層の人々を相手に、この文のようないい加減な屁理屈をこれからもずっと言い続けることになるのだろうなと、最近、思う。それを自分の社会での立ち位置にしよう、と思うのである。あまりに長くなってしまったが、この文では、本当は、「社会に属する個人は、その社会を擬人化したとき、それをどう見るか」みたいな話にしたかったのだけど、書いたらそうならなかった。それについては、またいつか。

遠近法の周辺

前回、遠近法についてけっこう長々と書いたけど、ここではその周辺など。

昔の人がなぜ遠近法で絵を描かなかったか分からない、だって見たまま描けばそうなるはずだから、という発言はどこがおかしいかについて、前回、くだくだと書いた。実際、この問題にはいろいろな切り口があるはずなんだけど、反応してくれた人たちからは、認知科学的な問題ですね、というコメントで、なるほどな、と思い、僕の文章も結局は認知科学的な展開になってしまったな、と感慨した。

ここでは、後日談というわけでもないのだけど、本当のところ、なんでこんな些細なことに自分がこだわるかについて書き足しておこうと思う。

僕の前の文は、たしかに認知科学的な、「みなが同じものを見ているかどうかの保証はない」、という論理展開になっているのだけど、実は僕はその手の認知科学的なことについてはそれほどこだわる者ではない。数年前、廣松渉という日本の哲学者の「新哲学入門」という新書に、たまたま古本屋で出会い、けっこう夢中で読み、そこに展開されていた従来認知科学の根本的間違いの指摘についてとても共感し、かつ、かなり新鮮な発見もし、不思議の感にも捕らわれた。

ただ、廣松渉に習ったことを、それほどの困難もなくほぼそのまま自分は納得したので(とはいえ、本人も断っているが、従来型の認知モデルの全否定なのでそうそう分かりやすいものではないのだが)、それで一応、人間の認知についてはそれ以上追及する気にならなかった。長くなるのでここで廣松渉の論を紹介はしない。自分は、この哲学者のこの論に出会うべくして出会ったんだな、と思ったのみだった。

というのは、僕は、特に視覚については、過去にとても切実な体験をしていて、自分にとってそれはとても大切な経験で、視覚をはじめとする人間の認知のメカニズムに関してはほとんどすべてその特異な個人的体験を元に判断できたからだ。そんなわけなので、遠近法に関するくだんの発言にも即反応したし、そして、廣松渉の説をさほど詮索せずともまるごと理解したのだった。

その体験とは何かというと、それは絵画との出会いである。

自分が絵画に出会ったのは、もうずいぶん前のことで、数えてみるとすでに25年以上も前になる。1985年に上野の西洋美術館で開催されたゴッホ展で見たものが、その出発だった。ゴッホの画布との出会いについては、これまた長い話で、ここで繰り返さないが、以前、雑文として書き綴ったものがあるので、紹介だけしておく。以下である。

http://hayashimasaki.net/zatubun/gogh.html

この体験は実際、強烈極まりないもので、こんな、まるで宗教で言うところの「開眼」みたいなことが平凡な自分にも起こるんだ、と、ほとんど訝しく思うぐらい物凄いものだった。この体験の後に、自分は膨大な西洋古典絵画の世界に入り込み、さらにさまざまな体験を重ねて今に至る。

そんなわけで、絵画というのは自分にとっては、ただの楽しみや、慰みや、好奇心とかいうものを遥かに超えたものだったのだ。もっとも、さすがあれから25年以上も経った今では、すでにだいぶ落ち着いているので、そんなに過激なものは無いのだけど、夢中だったさなかにはずいぶん極端に逆説的なことを言いまくったような覚えがある。

ちなみに、その入り口となった画家、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホについては、出会った後、10年ぐらいの間、ひたすらその芸術を追及し、最終的にまとまった文章を書いて書籍として自費で出版した。自費なので、少数のごく近しい人たちが読んでくれただけで、それ以外に特段に何事も起らなかったが、自分はそれでもよかった。その本は、ゴッホが自分に与えてくれたものに対する感謝のしるしだったのだ。

ところで、最近、この本を電子化してフリーで置いておいたので、もし興味のある人はのぞいてみてください。下記です。

http://hayashimasaki.net/goghbook.html

さて、僕は前回の文で、「遠近法とはたくさんある絵画の手法の中の単なる一つに過ぎない」、と書いた。そしてその、「一つに過ぎないもの」をことさらに取り上げるのがおかしい、と書いた。このものの言い方はずいぶんと穏当なもので、特段はっきりした主張でもなんでもないのだけど、実は、自分の本心としては、もっとずっとずっと切実なものが背景にある。

それではよく知られたゴッホの絵をいくつか見てみよう。彼の絵は遠近法にだいたい沿って描かれている。しかし、ところどころ遠近法に反して描いていることもある、そして、たまには遠近法などまったく無視して描いていることもある。そういう意味では、ゴッホは、遠近法という手法を使うべきところで使い、使うべきでないところは使わない、という取捨選択で絵を描いているように見える。

しかしながら、実際に彼の絵の実物を見てみると、そこから立ち上がってくるオーラは、そんな、遠近法という手法を、使ったり使わなかったり、などといういわば呑気なものではないのだ。世の中で遠近法と呼ばれている手法は、ゴッホという画家が画布を塗るにあたって駆使する他のさまざまな手法や、計算や、衝動や、高揚や、そして、悪戦苦闘や、計算違いや、弛緩や、失敗やその他もろもろと一体になっていて切り離せないようなものになっている。そういうことが、もう塊のアマルガムのようになっていて、分離できないのだ。

いや、これではあまりよくないな。まるで、ゴッホが精神の高揚のあまりすべてをいっしょくたにして情熱の赴くままに画布を塗った、みたいに聞こえてしまう。

実は僕が彼から徹底的に学んだことは、絵はなんらかの創作の情熱をもって描かれたかもしれないが、出来上がった絵には絵画的な調和だけがあり、そして、その調和と情熱にはほとんどなんら因果関係がない、ということが実際に絵画芸術の上に「起こる」という事実だった。僕がゴッホから受け取った贈り物は、絵画芸術に対する「情熱」ではなかったのだ。むしろ、その正反対のものだった。それを自分は、「物言わぬ色と線」と考えていた。そして、先に紹介した自費の本にはそれについて書いたのだった。

いや、もうこのへんで止めておこうか。以上の事柄を説明するのは相当に骨が折れし、それに、それは、かつて自分が書いた本の中ですべて言ったことだ。

最初の遠近法うんぬんに戻ると、「視覚」について、なんらか開眼に近いぐらいの切実な体験をしてしまうと、「遠近法? それがどうした」、みたいな感じになってしまう、ということで終わっておこう。中途半端な文で申し訳ないが、せっかく書いたので残しておく。

昔の人がなぜ遠近法で絵を描かなかったか分からないという発言はなぜおかしいか

 

ずいぶん昔のことだけど、僕がまだ西洋古典絵画に夢中になっていたころ、仕事場の同僚の何人かと話していて、たぶん絵画まわりの話になったことがあった。話の内容は忘れてしまったが、そのとき一人の女性がこう言ったのである。

「昔の人がなぜ遠近法で絵を描かなかったか分からない。だって見たとおりに描いたらそうなるはずだから」

絵画に夢中になっていた自分は当然ながら、即座に、なんという間違ったことを言うやつだ、と反応したのだが、かと言って、その場で適切な説明はできなかったのを覚えている。たしか、こんな風な対話になった気がする。

「じゃあ、あなたは、たとえばピカソとかそういう絵を見てるけど、あれって遠近法もへったくれもないじゃん」

「だって、ピカソのはわざと遠近法を崩したんでしょ? ふつうに見たまま書けばああはならないじゃん」

「じゃあ、子供の絵はどうだ。よく、人と犬と車が全部同じ大きさに書いてあったりするだろ?」

「子供の絵は、まだ見ることについて未成熟なので当然じゃない?」

「昔の絵ではたしかに遠近法は崩れているけど、昔の人はさ、とくに宗教画なんかになると目に写ったものを描く、ということよりずっと重要なものがあったんだよ。その重要なものを描いたわけだからそれが遠近法になってなくて当然なんだよ。絵というものの意味が現代と違っているってことだよ」

「でも見たまま描けば遠近法になるよね」

といった感じで、話はかみ合わず終わってしまった気がする。自分は今でも、彼女の冒頭の発言はおかしいと思っているし、極端に言うと、一般的な現代人のただの思い込みだとすら思っている。当時の自分は絵画芸術に夢中だったさなかでもあり、こういう発言を聞くと、ほとんど条件反射のように「それは違う!」という風になるのだが、いざ、実際に当の発言をする人に何がおかしいか説得しようとすると、きわめて難しいのが分かる。

というわけで、少し前、その説得の道筋について考えてみたことがある。ここでは、それを文章にまとめて語ってみることにしよう。

お題は「昔の人がなぜ遠近法で絵を描かなかったか分からない。だって見たとおりに描いたらそうなるはずだから」、という発言は、どこがおかしいのかについてである。

たとえば、今、自分はノートパソコンの前に座っている。そして少し離れて向こうに四角い窓があり、その向こうに外の景色が見えている。自分の回りのあたりを見回してみると、たしかにその風景は遠近法に従っているような感じに見えている。

しかし、これは自分で確かめるとすぐに分かるが、目線を完全に固定した状態で風景を見ることはほとんどできない。自分の見ている目の前の世界が遠近法に従っているか否かは、目線をあちこちに動かさない限りわからない。それで、そうやって目線を動かして見ると、見た風景は正確な遠近法にはなっていなくて、少しずれていることが分かる。

これは、医学的に言っても、眼球を固定したときにクリアに見える角度というのは思ったよりずっと狭い。なので、人間は眼球をあちこち動かして、そのときどきの像を脳で再構築して画像を作っている。

さて、自分が見ている風景が遠近法にきちんと則っているかどうかを判断しようとしたとする。そうすると目線どころか首まで回して判定しなければいけなくなるが、やってみるとわかるけど、遠近法で言うところの消失点が誤ったところにできてしまう。これは当然といえば当然のことで、遠近法というのはそもそも平面に投影した立体の世界なので、それを、目線を動かして認知した立体世界に直接投影しようとすることに無理があるのである。

以上は製図でいうところの透視図法の話し(1点透視法とか2点透視法とかいうやつ)だが、遠近法にはそのほかに、空気遠近法とか、零点透視法とか短縮法とかあるらしい。たとえば、零点透視法というのは「遠くのものが近くのものより小さく見える」というものだ。子供の絵とかで遠くの木や車も近くの犬もおんなじような大きさに描いたのがあるが、それはこれに反しているわけだ。

しかし、再度、この遠くのものが近くのものより小さく見える、というのを、実際に自分で確かめてみると面白い。今、僕の前には至近距離にノートPCがあり、遠方に葉をつけた木が窓越しに見えている。これら2つを同じ視野に入るようにして見ると、これら2つはほぼ同じ大きさに見える。でも、実際には、ノートPCの方が圧倒的に小さい。これは零点透視法により、遠くの大きな木が小さく見えるせいだ。

たしかに、そうなのだけど、今度は、自分の意識を少し操作して、遠方の木だけを見てノートPCを意識しないようにしてみよう。そうすると、木は木だけに見え、確かにちょっと遠くにはあるけど、自分がそこまで歩いていって、その大きな木を両手で抱えるような動作を想像することでその大きさを想像上で把握し、そうすれば、その木は相応の大きさに感じることができないだろうか。

ここでも、やはり、先の目線を動かす、首を動かす、というのと同じく、注目点に対する意識を動かす、みたいに、なんらか「動いて」把握している。つまり、人間が何かを認識するときには、どうやっても「運動」が入ってきてしまう、ということにならないだろうか。

さて、知っている人には言うまでもないが、遠近法というのは、レンズと乾板というカメラ構造を想定したときに、そこの像において成立する幾何学的法則なのである。単純に言えば、カメラのファインダーをのぞいて、そこに写っている像が「遠近法による画像」なわけである。このカメラのメカニズムそのものは、先の人間の視覚のように運動がつきものというのとは違って、機構は完全に静止していてあいまいな部分は無い。

結局何が言いたいかというと、人間の目は動くことで働いているが、カメラはメカニズムとして完全に止まっている、ということ。そして遠近法は、この静止したカメラの方を使って定義された手法である、ということである。

あと考えてみると、人間の目の眼球にくっついているレンズは、カメラについているレンズに似ているけれどおそらくずいぶん異なっていて(このへんは医学的知識が欲しいところ)、さらにカメラのフィルムに相当する網膜は平面ではなく曲面であって、網膜に写っている像はカメラのファインダーに写っている像とはずいぶん違うはずである。

面白いと思うのが、こうやって考えてみると、人が目で見たものを紙の上に描く、という行為全体の中に、「厳密な遠近法に則した像」というのは実は現実にはどこにも存在しない、ということが分かる。出来上がった絵が仮に厳密な遠近法に則した絵だったとすると、その像は、現実の世界では、紙の上に描かれて初めて生まれたもので、それが生まれる前には、描く人の頭の中にしかなかった、ということになる。

もっとも、もし、そこに実物のカメラがあったら、そのカメラで写せば厳密な遠近法に則った像が現実に現れる。少し極端に言うと、もし物理的なカメラが無かったとしても、外界の立体物を、カメラモデルを使った透視変換という数学的関係によって処理する、という「理論」が存在していれば、遠近法に則した像は数学的に存在することになる。

でも、ここまで考えると、「遠近法」という理論の位置づけがずいぶんと下がって感じられないだろうか。遠近法がただの方法論なのだとすると、遠近法以外の他の方法論はいくらでも思いつくし、実際にあるし、遠近法はその中の単なるひとつに過ぎない。なのに、なぜ僕らはこの遠近法だけに法外に重要性があるように感じるのだろう。それは変じゃないか、と、思う。

現に、透視図法ではなく、たとえば平行投影法という数学手法を使うと、遠くのものが小さく写るということはなく、現実の大きさのまんまを反映した像が得られる。

ここでいったんまとめると、遠近法というのは実は、人間の眼球の構造がカメラに似ているという発見を元にして行われた「発明」のひとつである、ということである。

さて、少し前に書いた、目の前に写っている像を把握するには眼球や首を動かさないと無理だ、というところに戻る。僕らが実際にペンを持って紙を前にして自分の目に写っている光景を、眼球や首を動かしてスケッチしようとすると、理屈から言って実は厳格な遠近法に基づいた絵にはならず、必ずどこかが、これは必然的に歪むはずである。

もし、誰かが行ったスケッチが、完全な遠近法に沿っていたとすると、それはその人間が遠近法という理論を知っていて、それ使って自分の見た像を頭の中で再構成してから紙の上に描いたからである。そういう意味では、風景を描けば遠近法になっちゃうような人は、「自分の見た通りに描いていない」、とも言える。

冒頭の問題提起の「見たとおりに描けば遠近法になるじゃん」は、実は、そうではない、ということがこれで分かる。遠近法を知っていて、その遠近法理論が作り出す「人工像」にさんざん接してきて、それが当たり前の常識となって心身の一部になってしまった人にして、初めて「見たとおりに描くと遠近法になる」のである。

そうでない人は、今まで延々と述べてきた理屈から言って、絵は正確な遠近法にはならないのだ。それどころか、その見たとおりのスケッチが遠近法からかけ離れたものになる人だっているはずなのだ。ちょっと極端に言うと、「だから」、子供の絵はあんなに遠近法にならずに崩れるのだ。なぜなら彼らは「見たとおり描いたから」、である。

さて、それにしても、遠近法できれいに描かれた絵と、遠近法が発明される以前の遠近法が崩れた絵の二つを並べて、遠近法の絵の方が「進歩」している、と感じることが多いと思うが、それは一体どこから来る感覚なのか。

その根拠は、おそらく遠近法が客観的手法だ、というところにあるのだと思う。つまり、遠近法は多くの人を説得できるのである。誰が見ても美しかったのだ。

僕の好きな逸話にこんなのがある。前期ルネッサンスのイタリアの画家にパウロ・ウッチェロという人がいる。遠近法を誰が初めてやったかは定かではないが、一説にはこのウッチェロが発明したと言われている。ウッチェロはある日、この遠近法、つまり透視図法に気づき、その方法に基づいて絵を描いたのだそうだ。出来上がった絵を自分で見て驚嘆し、「遠近法とはなんとすばらしいのだ」と、そのあまりの美しさに、絵を前に夜も眠れなかったのだそうだ。

おそらくウッチェロが自分のアトリエで完成した遠近法に基づいた絵を彼が外へ持ち出して他の人に見せたとすると、当時のほぼみなが驚嘆したと思う。それが証拠に、ルネサンスに入り、遠近法は急速に普及して、あっという間にほとんどの画家が遠近法に則って絵を描くようになる。それほどこの遠近法は魅力的だったのだ。

ポイントは、「皆が魅せられた」ということである。つまり、わかりやすくて、誰でも説得できたのである。

その理由は恐らく、人間の眼球の構造がカメラの構造にきわめてよく似ていた、ということがあったからだと思う。さっき言ったことと矛盾して聞こえるかもしれないが、遠近法を知る前から人は風景をたしかに遠近法的に見ていたのである。この遠近法という手法については、多くの人が納得できる客観性をとてもたくさん持っていた、と言えると思う。

このように、遠近法を「発明されたある手法」として位置づければ、これは多数ある手法の中のひとつに過ぎず、遠近法は特にヨーロッパ人たちをそのかなり早い時期に説得した手法であった、ということが言える。逆に、遠近法ほどの力があったかどうか知らないが、遠近法以外の手法はいくつもいくつもあったはずだ。特に、ヨーロッパを離れるとそれは顕著なのは知ってのとおりである。僕ら日本人は浮世絵で使われた絵画手法を知っている。それはヨーロッパの遠近法とはずいぶんと異なっており、そもそもカメラを模した手法とはずいぶん違う。

ところで、人が目の前の風景を見るとき、それを目を通して受け取って心の中で意識するわけだが、そのときに受け取る情報の全体量は、当の目に写った量をはるかに超えているはずだ。なんではるかに超えるなどと言うかというと、そこには自分の経験や、それに基づく予想、習慣、社会の通念、民族の歴史的経験まで含め大量の補完が入るからである。

ちょっと言い方が抽象的かもしれない。すごく端的に言うと、たとえば塀から犬が首だけ出してこっちを見ているとしよう。僕らは、あ犬だ、といって塀の下に隠れている一匹の完全な犬を心の目で見ている。聴覚の例だともっと分かりやすいかもしれない。ある曲を弾いているピアノの音を聞いているとする。聞いているのはただの高さの違う音の羅列だ。しかし、その曲を知っていれば、その音は曲となって聞こえ感動までも呼び起こすことができる。

このように、感覚で経験することと、それを心が受け取ったこととは1対1でイコールなのではなく、後者の方が圧倒的に量が多い。それは様々な補完による。そして、遠近法はその様々な補完の中の、ひとつに過ぎないといも言える。

さて、ここで少し話しを変えよう。

ここでの話しはもともとは絵の話なのだが、そもそも絵というのは何のために描かれるのだろう。「目に写った風景に似たものを紙の上に移す」、というのは絵を描く動機としては何となく薄弱に思える。何でそんな面倒なことしないといけないか分からないからだ。しかし、それ以外の動機としては、古今東西、太古の人間の洞窟の絵や、写真の無かったころ記録に残すための絵や、宗教における礼拝の対象としての絵など、を見てみれば、たぶんあげたら切りがないほど動機が見つかるはずだ。

それから、出来上がった絵の評価について言うと、先に言った絵を描く動機、そしてその動機の元にある目的が達成されているかどうかによって評価がなされるわけなので、ここで、「カメラに写る像に近ければ近いほどいい絵だ」、というのは、たくさんある絵の評価法の中のほんの一部に過ぎないことも分かる。つまり、遠近法に則った絵というのが、他に比べてやたら高く評価されたとすると、それは実際はおかしい、ということになる。

ましてや、カメラ自体が発明される以前の絵画においては、カメラ像に似せる、ということ自体がまだ存在していないわけでなおさらである。ちなみに、本当にそのままの意味でカメラ像を絵画理想に仕立てた人たちが現れたのは、かなり最近のことで、少し前のモダンアートにおけるスーパーリアリズムという芸術の一流派にすぎない。

実際、特にモダンアート、あるいは、ヨーロッパを離れて他国の、特に日本を含めたエスニックな国の芸術を見ればすぐにわかるが、絵というものは、多種多様なたくさんの作画動機をほとんど無制限に盛り込むことができる表現手法である。

たとえばピカソは、その無制限な作画動機を次から次へとおそろしく精力的に実践してみせた代表的な芸術家であろう。彼の作品の全体で見ると、遠近法はちょうどそれが正当に占める位置のていどしか現れない。ピカソの絵の中で、きれいな遠近法になっている絵の枚数を数えて、それが全体の何パーセントに当たるかを計算すれば、遠近法が絵画芸術に占める量が分かるというものだ。ピカソという天才は、その芸術の製作動機というものを、時間からも空間からもおそろしく自由になって、すなわち古今東西、古代現代の別なく、ひたすら収集しては実践した人とも言える。

ピカソをはじめとする並み居る芸術家たちが、そのような多様な作品を発表するにつれて、僕ら民衆は徐々にそれに説得されていったのだと思う。

すでに1900年以降のモダンアートの時代をとっくに経験してきたわれわれの住む現代で、僕らの身の回りを見回してみよう。たくさんの絵に僕らは囲まれて生活しているが、そこではむしろ遠近法にきちんと従って描かれたものの方が少数になっていることが分かるだろう。もっとも、そういうものを僕らは絵とはあまり呼ばず、デザインと呼ぶが、それは同じことだ。

以上のようなわけで、遠近法というのは手法の一つに過ぎず、しかも、それほど大きな力を持つものでもない。

さて、ずいぶん長くなってしまったし、このへんからまとめに入ろう。

まず、昔の人が遠近法にしたがって描かなかったのは、まだ遠近法が発明されていなかったからである。そして、昔の人の絵には、遠近法による視覚イリュージョンの再現が現れる前に、たくさんの動機があった。それらの動機には、意味的なもの、実用的なもの、感情的なもの、象徴的なもの、宗教的なもの、多々ある。そして、遠近法はそれら動機の中の一つに過ぎないが、それらに優劣をつける理由はどこにもない。

むしろ、特にヨーロッパにおいて、遠近法が流行った歴史的な時期と、理論とか客観性とかが歴史的に大きな力を持っていた時期とが、オーバーラップしていることに注意すべきだと思う。遠近法という手法は数学によって記述できるところからも分かるように、きわめて客観的で理論的な手法である。その手法が否が応でも人々を説得できたということは、その人々が客観的で理論的なものというものを尊重して生活していた、ということの表れでもある。

さて、ひるがえって、現代という時代は、そういった昔ながらの論理とか客観性とかいうものが主流から外れはじめている時代だと思う。

そんな現代に生きていながら、「見たまま描けば遠近法になるはずなのに、そうならないのはおかしい」、と発言することは、むしろ、表面的で画一的な科学教育の弊害なのではないかと勘ぐってしまう。

以上、冒頭の言葉について、おかしいと自分が感じたその中身でした。

広重の雨

上野の国立博物館へ行ったら、広重の有名な浮世絵の「雨の橋」がかかっていた。この絵はその昔、ゴッホが南仏のアルルにいたときに日本にあこがれて、それで油絵で模写している作品があって、そっちの方がかえって有名なぐらいかもしれない。しかし、実際に日本の原画の方を初めて見たのだけど、これは見事な絵だ。

水かさの増した広い川、そこにかかる橋、そこを渡る雨笠や合羽をかぶった人々などの遠景がさらりとスケッチされているが、そのスケッチをすべて終了した後に、今度はそれまでやっていたスケッチの造詣とは一切なんらの関係も無く、おそらく定規を使ってめったやたらに画面上に線を引きまくり、それを「雨」としている。

唖然とするほど奇抜なアイデアだと思った。

このやり方で描いた絵が、まあ、一応、視覚的に言って雨に見えてしまうせいで、見る者は、これが「雨」だと分かった次の瞬間にその方法の斬新さがマスクされて見えなくなり、いつも経験している雨を見る日常感覚に戻ってしまう。でも、ふだん僕らが雨の降っている風景を見たとき視覚的にこんな風に見えているかというと、これはもう全然違う。第一、雨粒はほぼ点であって、それが上から落ちてきて目の前を通り過ぎるわけで、それは止まった線ではなく点の運動なのである、言うまでも無いが。

というわけで、この広重の雨は、視覚を写し取ったものではなく、一種の「雨」という記号に近い感じである。もしそうであれば、記号ということは、すでにそれは「言葉」に近いとも言える。

たとえばこの「雨」という言葉と、「本物の雨」という現実の間には、いったい何が横たわっているのだろう。言葉と現実はたしかに別のものだ。もし、自分が「雨」という言葉を知らず、現実の雨を経験したことがないとして、それで生まれて初めて「雨」という現実に遭遇したらいったいそれをどう感じるだろうか。僕らは白痴のようになって雨を見るだろうし、水滴を受けてでくの坊のように濡れるだろう。「あ、雨だ」という言葉を発することができないとき、その現実の雨はどんな形で自分の心に刻まれるだろうか。

こういう疑問は、僕にとって、絵画というものをまともに見られるようになってから浮上したものだ。なぜなら画家は、言葉を使わずに対象を掴むことからその仕事を始めるからだ。自分から一切の言葉を追い出して、それで生の物質に相対する、ということを画家にならってやってみるといいのだが、実際、きわめて難しい。でも、ときどきそれが出来ると、生の物質はきわめてグロテスクなのがじかに感じられたりする。

そんなとき、「視覚」っていうのはいったい何なのだろう、とよく考える。

広重の雨が、記号であって、ひいては言葉だとすると、広重の絵というのはずいぶんと知的な絵だということになる。この絵を描くにあたって広重は、雨の振る川にかかる橋の遠景を実際に見ただろうが、彼は前述したような「生の物質に相対している」というような原始的感覚とは無縁な気分なのかもしれない。まるでコンピュータのように、視覚の結果を記号化して、再構成して、あの版画を生み出したのかもしれない。きわめて論理的な方法論に基づいて作り出したのかもしれない。

そう考えるとなんだか古典の日本らしくなくて、面白い。

しかし、僕は実はもう一つ自分にとって衝撃だった江戸時代の絵を知っている。それは解剖図の絵で、処刑された罪人を医学的目的のためにその場で解剖する様子を写した絵なのである。

さっき広重の雨の方法論の斬新さについて言ったが、こちらの解剖図の方はそれとぜんぜん逆で、僕にはまったくに生の物質の写生以外の何者でもない、死体を視覚的に「写す」ということを強いられた絵師が見る果てしなく続く悪夢のように感じられた。自分にはそれはそれはショックな絵の数々だったのである。それを見て、記号化、言葉への翻訳が不可能な人間が生の対象に相対したときの悪戦苦闘を目の当たりにして戦慄した。

いや、ここで西洋であれば、「遠近法」とか「陰影法」とかなんとかのカメラ的手法に逃げ込むことで容易にこの危険を回避できるのだが、この死体を写す江戸の無名の絵師にはそういう安全な逃げ場が無かったようなのだ。にもかかわらず、先の広重の雨のように、なんとかしてその見たこともない対象を「記号化」し、言葉に移そうともがいている。しかしながら、それにことごとく失敗している。それが出来上がった絵に見事に表れている。自分の知っているいろいろな記号を駆使して死体を記号化しようとしているが、それは常にミスマッチを起こしていて、まるでデコード不能な記号列のような混乱を示している。

ここで死体を写した絵師も、人や犬や鳥や山や木や川や花であれば容易に記号化して再構成するだろう。しかし、それらの記号を解剖される死体に応用しようとして失敗すると、その全体の様相が、ありえないようなグロテスクさを発揮するのだから、それはそれは不思議なことだ。

さて、広重の雨では、先の解剖図のようなミスマッチとグロテスクはどこにも見られない。この「雨の記号化」は広重がオリジナルかどうかは知らないが、周到に考えられた手法を応用した結果なはずだ。見ていると広重の鼻歌が聞こえてくるようだ。

しかし、きっと、この広重もいったん未知の対象に絵師として遭遇してしまったときは、解剖図の絵師ときっと同じ精神状態になるに違いない。そして、それを記号化できるようになるまで恐らく絵は残さないんじゃないだろうか。生の物質に遭遇してから、それを記号にするまで、広重の中ではいったい何が行われていたのだろう。知るよしも無いが、そこに最大の、そして恐らく最も大切な秘密が奥深く隠されているのだろうと思う。

澄み渡った本能

自分はひところベルグソンをずいぶんと読んでいたときがあって、その中でも特に「創造的進化」が好きだったので繰り返し何度も読んだ。この創造的進化は、ベルグソンの解説を見ても、彼の最高傑作のひとつと言われているそうで、何度も読む価値はある。特に前半の、進化論の批判と、それを土台にした本能と悟性についての長い分析は見事の一言に尽きる。読んでいてほとんど唖然とするほどすばらしいインスピレーションである。

ベルグソンはその中で、「本能」について定義するに、身体や生き物など有機体を素材として使用してあやまたずに目的を達する能力、とする。そして本能に対置するものとして「知性」とは、道具や機械などの無機物を使用して次々と連鎖的に新しい目的を達してゆく能力、としている。進化の歴史において前者の代表が昆虫、後者の代表が人間である。しかしそれまで言われていたように、本能を発達させた昆虫がさらに発達して知性を手に入れそれが進化して人間に至った、という考え方をしない。本能と知性に序列をつけないのがベルグソン的な考え方である。

つまり、昆虫とは本能が開花し完成された形態であり、人間とは知性が開花し進歩し続ける形態である、と言うことだ。両者はそれぞれの進化の歴史の末端にいる、とする。本能と知性は古い古い時代では一体になっており未分化であったが、あるとき二つの方向に分岐し、それぞれの能力を開花させるべく進化し、昆虫と人間に至った、とするわけだ。

以上の結果に至るベルグソンの分析の力は物凄い。ほとんどこの分析そのものが彼の哲学的本能に頼っているような、そんな風に思える。単なる知性では決して到達できない地点まで分析を進めている。

ベルグソンという哲学者は、結局、この「本能」という得体の知れないものを、哲学においてきちんと復権させたところに偉いところがある。本能を「弱った知性」と考えないこと。そして知性を主な武器にする人間にもこの「本能」は確実に残っていて、いざというときには十全に機能することがあるということ。さらに、「知性には不可能だが、本能にしか出来ないこと」というものが確実に存在することを証明してみせたこと。それらもろもろに自分は決定的な影響を受けている。

さて、ベルグソンの論によれば、本能というのは「有機体を道具として使う能力」ということだけど、有機体というのは印象でいうとなんだか「ごちゃごちゃしていて、ねちゃねちゃしている」よね。昆虫の世界とか森林へ入って間近に見ると、もうなんというか、グロテスクな形態が折り重なるように無限に近いようなバリエーションを持って次から次へと現れる見た目の複雑さが、まず、ある。続いて、まあ、あまり触りたくはないけど昆虫世界に手を伸ばしてみると、柔らかくて潰れ易い形態と各種の液体と粘着する体液などこれまた次から次へと互いに互いをくっつけて一緒にしようとする様子が感じられる。

これらを言葉で表現すると、ごちゃごちゃとねちゃねちゃなんだよね。

知性の生き物である人間であっても、こと、本能の発揮する場を観察すると以上の昆虫と同じようなごちゃとねちゃが現れるよね。典型的な例は食欲と性欲だろう。両者について、思い巡らしてみるとすぐに納得できると思うけど、どちらもほんとに「ごちゃごちゃ」していて「ねちゃねちゃ」しているでしょう?

食欲については、僕ら毎日人前でおおっぴらに発揮しているんでそれほど意識的になれないかもしれないけど、性欲は普段、隠されているので、おそらく誰でもちょっと想像すると分かると思うんだが、なんと言うか、きわめて反知性的に感じられないだろうか。それら純粋な本能の前では、知性って吹っ飛んじゃうみたいなイメージがある。

そんな風に本能と知性は分離傾向にあるのに関わらず、この二つの間の自然な交流をやってのける芸当ができる人間というものが、世の中、ときどき現れる。そういうことが出来る人が、なんだか、見ていて、一番感動的だな。

先にも言ったようにベルグソンの創造的進化という論を進めるベルグソンその人がまさにそんな感じにも見える。彼の場合、本能の力を得た知性、という方向性で、「澄み渡った本能」という感じなんだ。ごちゃごちゃねちゃねちゃというものから僕らが感じるイメージは、なんというか、「濁った」感じなので、その濁っているはずの本能が「澄み渡ってる」、って面白いじゃないか。

逆に、知性の力を得た本能という方向性になると、古今の芸術家たちがそう見える。ちょっと前に見たシュールレアリスト展で、アンドレ・ブルトンの宣言をはじめとする並みいる作家たちについて、そんな風に感じたっけな。でも、もっとも、彼らの作品を見て感じるのは、やはり、「澄み渡った本能」だよね。絵画やオブジェがたくさんあったけれど、どれも何らかの本能が丸出しになっているものの、その作品の中身はごちゃごちゃねちゃねちゃといえども、その物理的形態は、画布の上の絵の具であり、各種無機物を使ったオブジェであり、ごちゃごちゃねちゃねちゃでは全然無いわけだ。

なんだか、澄み渡った本能というものに、憧れるよ。

民主主義について

昨日、ツイッターを見てたら誰かのツイートにこんなのがあった。

「民主主義って、最後は最大多数の最大幸福に落ち着くものだと思うんだけど、そんな中でごく一部の頭のおかしいクレーマーの意見がまかりとおるってのは、本来はおかしいんだと思うよ」

これを見て、あまりに正反対に間違っていると思ったので、思わず「ぜんぜんおかしくないと思うよ」とリツイートしたが、その後もいわゆる民主主義について何となく考えてしまった。

その日は鶴見線に乗って沿岸の工場地帯を散歩しに行ったんだけど、ぶらぶらと歩きながらあれこれ考えた。自分にしてはきわめて珍しい。というのは、ふだん、自分はあまりものを考えるということをしないのである。考えるときはだいたいこうして文章を書きながらで、頭だけで考えるということをあまりしないのだ。

自分は政治に興味がほとんど無いので、政治について考えることはほぼ皆無。投票も最近ようやくいくらかは行くようになったものの、成人になってから30年ぐらいはオール棄権だった。かといって「棄権」を自分のポリシーにしていたわけでもない。ただ、自分の興味の無いものに対して意思表示する、ということが嫌だとは常に感じていた。さいきん投票するようになったのはほとんど世間体からに近い。というか、前述の「なになにが嫌だ」というのは実は立派な意思表示であって、それを続けるのが面倒くさくなったというだけだ。歳を取って丸くなったとかそういうのではなく、単にそういうどうでもいい意思表示に使うエネルギーが惜しくなったという方が近い。ま、そういう意味では歳を取ったからであろう。

政治に興味がなければ、実際には民主主義という代物にもあまり興味はなく、まともに考えたことは無い。もっとも、民主主義についていうと、これは実は政治とは関係なく、社会が取った一種の「方法論」のように自分には思えるので、そういう意味では自分も社会で生活して社会活動をして生きているので、社会生活の前提として、一種の空気として感じていたことは確かだ。

なので、この言葉、「主義」という文字はついているけど、とても主義とは言いがたいと思う。結局のところ、自分が、子供時代から今まで育ってきた社会の空気がこの民主主義によるものだったので、すでにこの方法論は自分に染み付いて、染み渡っていて、改めて考えてみる必要もないと感じていたとも言えそうだ。

そういうことなので、冒頭のような言葉をいきなり聞かされると、ほとんど体が反応するのである。「それは違う!」という感じで。民主主義について言葉を弄して考えることはほとんどなかったけど、脳の奥の方では自分の心のどこかであれこれ考えて、というか想って、それなりの意見を蓄積して来たのだろう。

よく晴れた休みの日、殺伐としたコンビナート群を眺めながら、脳の奥に眠っていた考えを掘り起こしていた、というわけだ。

さてと、すでに前置きが長くなったが、冒頭の言葉の何が違うのか。

まず、この言葉を聞いておそろしく感心する、というか呆れるのは、人民の総意が社会を作るというやり方を取ったとき、それが最後には最大多数の最大幸福に行き着く、という発言の呑気さである。これは「考え」ではない、「感触」だと思う。この人は、人民が自分たちが一番いいという方法を取って考えて行動したとき、それが満足を与える平和な幸福な社会に行き着くと「感じて」いるのである。

人民が民主主義の方法を取ったとき、彼が言うような社会に「行き着かない」ということは同様にありえるはずだし、実際には、行き着くか行き着かないかはフィフティーフィフティーだ。では行き着かなかったときにどうするか。

この人の言葉から透けて見えるのは、もし行き着かなかったとするとそれは「頭のおかしい一部のクレーマー的人間のせいだ」という、これまた「考え」ではなく「感触」である。

だいたいが、この言葉は考えの表明ではなくて、感触の表明なのである。おそらく本人に聞いてもそう答えると思う。「私はそう感じるのです」と。そういう意味では、面白いのが、これは実は僕と同じだということだ。僕は「そう感じない」のであって、さっき書いたように「そう考えない」のではない。

あ、いや、これでは話が逸れてしまうので、この話はまた。もとへ

いまさら言うまでもないかもしれないが、この言葉はきわめて日本人的な楽観に基づいている。この人は、民主主義の社会に生きるにあたって、自分は最初から「大多数」の側に入るものだということを、おそらく一度も疑ったことがない。そして自分の属する民主主義社会の敵は少数の頭のおかしい人間たちであって自分がその頭のおかしい人になる可能性もある、ということを一度も想像したことがない。以上の事情がこの一文に染み渡っている。

いま自分はこの文を書き飛ばすにあたって珍しくWikipediaなどで裏を取っていないので、間違ったことを書くかもしれないが、そのときは直して欲しいが、民主主義は日本人の発明ではなく、西洋の発明品だ。そして、民主主義という方法論は、僕にいわせれば、人間性についてきわめて悲観的な見方を土台にして作り上げたものである。

なにが悲観的かって、多数の人民が社会に生きていたとき、それらすべての人々が一つの美しい理念に基づいて協力して、和を乱さず、整然と、その理念に基づいた社会を作り上げ、そこにすべての人々が幸福に助け合いながら暮らすということは、「不可能だ」、という前提から出発しているからである。そんな共通理念はどこにもないし、そもそも共通理念というのは幻であり実在しない、という長年の社会経験に基づいた感覚から出発しているのだ。

だから、「仕方なく民主主義」、なのだ。それが出発点だ。つまりこの主義は理念に基づいていない。そうではなくて「方法論」なのだ。だからこの文の最初の方で、民主主義は主義というより方法論だと書いたのである。

仕方ないから理念を設定せず人民の総意に任せた。そして仕方ないから殺し合う前に議論というものをしましょうということにした。それで決まらないときは仕方ないから多数決という方法を取るようにした。で、それでも少数の負けた人たちは恨みから破壊に走る可能性が高いので、仕方ないから制裁は加えず彼らの主張を封じ込めないようにした、などなど。

かくのごとく民主主義は苦肉の策だというのが自分の考え方である。

この「仕方ないから民主主義」という図式が、このように苦肉の策だとすると、これは本当に出発点であって、この策はそのままでは短期間しか機能しないのは目に見えている。そこで西洋ではどう考えたかと言うと、この「策」を「主義」にまで高めるべく、その策を取ることにみなが同意し、そしてみなで運営できるように、「人民を教育する」、ということを一番大切なこととして掲げた。

要は民主主義はその方法論だけではあまり機能しないはずで、人民の意識の教育と改造の方がずっとずっと重要な課題なはずなのだ。西洋では、この民主主義が定着するまでにそのような、個人と社会、そして自由と束縛、個人的責任と社会的責任などなどについての長い検討の歴史があって、その検討は一部の選ばれたエリートたちによるものだったが、結局、現代の民主主義に至る長い長い準備をしてきたようなものだったと思う。

さて、日本の民主主義にはかくのごとくの西洋で行われてきた訓練がほとんど欠如した状態のままここまで来ているように思う。冒頭の言葉に戻ると、努力しなくても大多数幸福に行き着けるという楽観が今でも支配しているように見える。単一民族の島国の日本ならではという気もする。

それで、この楽観自体は決して悪いことではないと思う。皮肉で言っているわけではなく、むしろ良いことだと思う。ただ、この楽観を民主主義という言葉と結びつけることが間違っているし、しかもそれは「悪い」と思う。だってこの楽観は民主主義とは相容れないものだから。

では楽観に基づく民主主義を標榜して何が悪いのか。

まず民主主義を名乗った時点で、国際社会において民主主義を名乗る西洋と同じ土壌に立ったことになる。したがってその時点で、同じ民主主義を標榜する国として連中と同じ土壌で戦わないといけなくなる。経済でも軍事力でも政治力でも文化力でもなんでもいいが彼らに勝るものを持たないと国は衰えてゆく。

さて、楽観に基づく民主主義は、みながあまりものを考えず、周りと同調することで、努力せずに大多数の同意を形成する風景になる。そして、冒頭の言葉に象徴されるように、基本的に、この大多数同意に同調しない少数の人間を排除することで大多数の同意を継続し、大多数幸福を維持しようとする。で、どうなるかというと大多数の同意に基づく社会は原理的にレベルの低い方にその重心が移る。

大多数が同意する集団と、その同意に基づく集団の社会活動についてのレベルはほぼ必然的に下がると思う。これはほとんど統計的に仕方ない成り行きだと思う。せいぜいうまく行ってガウス分布の真ん中の中間層のレベルに一致する道理だが、しかし、実際にやってみると中間層よりも下がる。なぜなら中間より低い層にも理解できる同意である必要があるわけで、その同意形成のための、たとえば「社会政策」のレベルは、中間層より下げないとうまく行かない。

さて、別にこのようにレベルが低くても大多数幸福な社会はうまくやれば作れると思う。ただ、問題は先に言ったように、民主主義を標榜したことで西洋の国々と同じ土壌で戦わなければいけなくなったという事実である。

ちなみに、集団の同意のレベルが平均よりずっと低い、というのはなにも日本に限らず西洋でも同じだ。問題は、そのレベル低下が長期的な意味で結果的に引き起こす「社会の停滞」をどう克服するかである。この停滞は厄介である。なぜなら停滞したままだと、同じ土壌の他国に負けてしまい、最後には当の社会を平和に維持できなくなってしまうからである。

この停滞は、大多数の側にいて、大多数に従順で、大多数の幸福を享受している人には克服できない。なぜならその当の停滞をそれら従順な人々が招いているからだ。ではどうするかというと、停滞の克服は少数の異分子こそが成し遂げることになるのである。

自分の考えでは、民主主義に理念らしきものがあるとしたら、大多数幸福を維持するという方にではなく、この、少数の異分子を排除しないメカニズムの方にあると思う。そこにこの民主主義の一番の発明のポイントがあると思う。先にも書いたが、民主主義はほとんど「仕方なしに」という理由で取った方法で、人性に対する悲観から成り立っているものの、たった一点、楽観というか、明るい部分があるとすると、それは、大多数が理解できない異分子を、分からないながらに皆が排除せずに尊重していると、ある日、偶然にその異分子の誰かが自分たちの停滞した社会にブレークスルーをもたらし進化させ、自分たちを停滞から救ってくれるのだ、というきわめて楽観的で根拠のない感覚にあると思う。

これは自分の感じ方だけど、この「異分子」というのは別に「よいもの」では全然ない。そして、さっき停滞を克服する、という風に言ったけれど、そういうポジティブなものですらない。単に、異分子なだけだ。

もっとも冒頭の言葉を言った人ならこう言うかもしれない。「たしかに異分子は社会を発展させたりする。さいきんの例ではスティーブ・ジョブスという超変人がネット社会を進歩させたように、そういう変わった人がブレークスルーを生み出すというのは分かる。でも「単なるクレーマー」は違うだろう? もっと極端な例では「犯罪者」は違うだろう? そういう異分子は排除するべきだ」、と。

では社会の異分子を横一列に並べて、どいつが社会の発展に貢献してどいつが害悪を流すか誰が判断して取捨選択するのか。大多数で構成されるレベルの低い集団が判断できないのは、これは原理的に自明だ。で、自分が思うに、厄介なことに、レベルの高い層の人たちであってもその判断はほとんど無理だ、ということである。要は誰が発展に寄与するか分からないのである。

ここで言っている発展は継続的発展のことではなくブレークスルーのことである。長く続く停滞を打破する力のことである。こういうことについては、基本、判断はできない、運任せである。異分子100人だか一万人だか10万人だかしらないが、その中から1人、それが出来る人間があるとき躍り出るのである。極端かもしれないが犯罪者予備軍もその中に入っている、あるいは極端には犯罪者も含めて誰がそれを起こすかはわからない。昔から言われるように天才と狂人は紙一重なのである。

以上の理由から、「だから」、異分子は排除してはいけないのである。それどころか、たとえその異分子の人の言うことが、一般の大多数の人にとってまったく理解不能であり、迷惑極まりなく、完璧に理不尽であっても、とにかく尊重してあげないといけない。そしてさらに、そういう異分子が活動できるようにしてあげないといけない。これは実際には大多数にとってはリスクであり、痛みである。しかし、そのリスクと痛みを大多数側は「負う覚悟」をしていないといけない。

この「覚悟」は、実際にはなかなか難しい行為である。なにせ理解不能でもの騒がせな異分子を認めろというわけだから。大多数から見ると「あいつがいなければ平和なのに」って考えるところ、立ち止まって、「いや、あいつにも生きる場所があるのだ」と尊重しないといけないわけだから。

最近起こった、この手の象徴的出来事の一つは、ノルウェーでたった一人で罪の無い70人以上の、主に若者たちを殺した自国の極右のテロリストに対する、ノルウェーでの裁判の経過かもしれない。これほどひどい異分子に対しても、正当な法をもって判断するということにノルウェー人たち自身が誇りを持っている。自分たちが作り上げた民主主義はこの極端な犯罪者によっても崩壊することはない、という自信が伝わってくる。もちろん国法(ノルウェーは死刑も無期懲役も無い)に反して死刑にすべきだという意見もある。しかし、それと同時に彼ら人民の頑固なまでの民主主義社会を堅持する態度も見える。調べてみるといい、日本では決して見られない光景である。あるいは中国なら即日死刑で終了かもしれない。

結局、まとめると、民主主義は大多数の幸福のための発明ではなく、むしろ少数の頭のおかしい人たちを認めるというところにその方法論のダイナミズムがある、ということ。そういう意味で冒頭の言葉は正反対だと自分は考えていること。さらにきわめて日本人的な楽観に基づいた言葉なのはいいがそれを民主主義と勘違いすることは、勘違いだけで済まず日本の衰退につながるということ。民主主義本場の西洋では、その主義についてかなり高いリテラシーを人民が持っているらしいということ。

さて、以上、冒頭の言葉に対して、「それは違う」、と自分が反応した中身である。

思うに、西洋の民主主義はネット社会になって一段階進んだようである。ここで言った「異分子」というものを、合理的に育て、場所を与え、さらに社会で活動できる方法を与えること、というメカニズムの新しい形態をインターネットによって作り出したからである。民主主義というのはつくづく進化論のメカニズムの延長にあるのだなと思う。閉じた社会と開いた社会を交互に繰り返すことによって社会を発展させてゆく、という見方は進化論のメカニズムそのものに見える。

ネット社会はたしかにそのように進んでいるように見えるが、これは大きく言って西洋の話だ。日本は少なくとも同じ土壌に乗ってしまったので、以上のようなことを自分は言っているが、そもそも最初からその土壌に乗らない、という選択肢もある。たとえばイスラムがそれだろう。

いわゆるグローバルスタンダードについては、自分はかなり苦々しく見ている。東洋には東洋の独自のスタンダードが見つけられるはずだ、とも思っている。しかし、これはまた別の話なので、この話はこれで終わる。

久々の書き飛ばし、乱文失礼!