月別アーカイブ: 2010年11月

大井町のスタミナカレー

オレにとっての日式B級飯の最高峰は、やはりココ、大井町のスタミナカレー。カレー粉そのもののまっ黄色のシャバシャバカレーと、豚肉とタマネギをグチャグチャに煮たものが平皿のご飯に半々にかかっている。全体に、なんとなく発酵気味で、臭い。最初にここに入ったのは、もう30年近く前だったような気がするが、あのころはもっと強烈だった。豚肉タマネギ煮はもっとずっと得体の知れないあくどい味と臭いで、金くさいスプーン、半分腐った福神漬、埃だらけの小型テレビ、すすけた蛍光灯、うーん、最悪なのだが独特の風格があったな。30年たった今ではずいぶんまともになったが、往年の味のいくらかはちゃんと残っている。B級好きな人には、お勧め。

紅茶とケーキ

紅茶とケーキが好きだからって 紅茶にケーキを入れて食べる人はあまりいない、という自分の言葉を偶然みつけて少し笑った。紅茶にケーキを投入したら、飾りつけがもげ、クリームが浮き、スポンジが溶け、油の膜が広がり、なんだか阿鼻叫喚地獄だな。そういや、子供のころ、クリープと砂糖を入れた紅茶に、マーガリンを塗ったトーストをビチャっと浸して食うのが好きだったときがあったな。親には叱られてたが。そうそう、この紅茶とケーキの話だが、若いころ、いきつけの場末パブで、大量の水を飲みながら安ウィスキーをロックでこれまた大量に飲んでいたことがあり、友人に、お前そんなめんどうなことせずに水入れて一緒に飲みゃいいだろ、と言われ、そのときにとっさに答えた言葉だったっけな。じゃあ、お前は紅茶にケーキが好きだからって、紅茶にケーキ入れて食うのか、ってね。どーでもいい話なのだが(笑)

カッコいい中華料理人

中華街で、老舗なのに協調性のない孤高の中華料理人がやっている上海飯店という店がある。孤高なんて言っても求道的なところはまるでなく、むしろいい加減。でも、この人は昔からオレの憧れの人なのである。オレは中華料理を作るときの身のこなしをこの人を見て覚えたのである。いまでも中華街へ行くと、必ずこの上海飯店へ向かって、あのあんちゃん(今ではもちろんおじちゃん)が元気でいい加減に店をやっている様をのぞきに行く、そして、ときどき店に入って食う。もう、30年来の客だ。

料理のコツは、最後には、結局、カッコよく作ることにあるみたいなんだ。ただしこれはあるていど以上のレベルの人の場合の話で、レベルが高い場合、最後の最後、このカッコよくってのが料理に品と深みを与えるのである。これは音楽の演奏と、同じ。オレが上海飯店のあんちゃんから習ったのは、この「カッコよく作る」っていうことなのだ。

そういう意味じゃ、料理のレシピなんてものは、たいしたものじゃないな。さらに現代では、プロの料理人でさえ惜しげもなくレシピ公開してるからね。レシピだけで作れるのはあるレベルまでで、それ以上のレベルを目指すことになるとやはり壁が現れる。そりゃ、そうだよね、レシピには「どうやってカッコよく作るか」なんて、書いてあるはずないし。

ま、曲のコピー譜だけ見て一生懸命演奏してるようなもんだ。コピー譜には、どうやってカッコよく演奏するか、とか書いてない。演奏の場合、ビジュアルのウェイトが大きいことは当然だけど、料理も、実は、そうなんだぜ。

音楽と絵画

絵画はいつまで見ていてもそのままだが、音楽は一方的に終わりが来る、というのはきっとなにかしら深い仔細があるんだろうな。そしてそれだけではなく、もっといろいろな点で、音楽と絵画というのが見事に相補うようにできているというのも不思議だ。音楽的な絵画、そして絵画的な音楽、というのがあるのも、そういう相補性があるがゆえだろう。しかし、おのおのに接していてもっとも感動的に思える瞬間は、音楽が決して入り込むことのできない絵画だけの領域、そして、絵画が決して入り込むことのできない音楽だけの領域が垣間見えたときだ。そういうものを目の前にすると、感動を超えて、慄然とすることがある。

テレビジョン解体

むかし記号学会という学会で、「テレビジョン解体」というテーマでシンポジウムをやるからといって、そこに講演に呼ばれたことがあった。記号学というのは、学問としては哲学に分類されるわけで、哲学者の集まりでしゃべるなんて大丈夫か、と、ずいぶんビビったっけな。

しかし実際に参加してみたら、そこではテレビを記号学的に解体しようとしていたのだが、記号学という武器を使った攻撃にも関わらず、テレビの「中身」はまったく解体されずに無傷のまま残ってしまった、という結果を見せ付けられたような形だった。哲学者たちだって、やはり「中身」すなわち今で言うところの「コンテンツ」の扱い方には苦労しているということが分かって面白かった。

物事の記号的構造をいくら、調べて、分解して、再構築しようとしても、その「中身」は分析も解体も構築も拒否してそのまま残る、というのは一種当たり前のことなのだろうな。なぜなら、分析も解体も構築も拒否するような代物を「中身」って呼んでるからだ。このへんは循環論理だね、ホント。

中身、っていうのは魂みたいなものかもな。魂がこの世で活動するために肉体と言葉が必要になるわけだけど、解体はその肉体と言葉には及ぶのだが、どうしても魂までうまく届かないみたいなのだ。

シンポジウムでは、記号学の人がドキュメンタリー番組を記号論的に解体する作業を紹介していたが、そのあとに、今度はNHKでドキュメンタリー番組を長年作り続けたディレクターが出てきて制作作業について語った。その両者の語りの落差たるや、埋めがたい感じを受けたな。というのは、記号学の人が映像の方法論や型についてしゃべっていたのに対して、ディレクターはそんなものは見向きもせず、ひたすらドキュメンタリーの魂の話に終始していたからだ。

自分は、というと、実は仕事の上では、その中身と言葉のちょうど真ん中のところをねらっている。なので、先の記号学の人ともドキュメンタリーのディレクターとも等しく距離が離れたところにポジションを取っている。仕事では、言葉を書くとそれがコンピュータで自動的に映像になる、ということをやっているのだから、意味的にはそういうことになる。

しかしだ、仕事の見かけはそのように中庸なのだが、その全体はやはり魂の方にずっと傾いている。自分という人間をよくよく観察してみると、これはもう頑固なほど魂寄りなのだ。それで、ホントのホントのことを言うと、仕事の上ではそれが足かせになっていると、さいきん思うようになった。

それにしても、「中身」、すなわち「魂」で生きている、ってことになると、聖徳太子のころからまーったく進歩してない、ってことになっちゃうな。しかし、どっちにしても、オレは魂のあることをやるよ、そういうガラなんだわ。仕方ないんだわ。