もう、さいきんは、「悪いこと」、という意味がなんだか分からなくなったな。いいことと悪いことの基準はわれわれみなで決めている、という感触がとても強くなってきた。 そうなってしまうと、そういう大切な基準を日々作っているのが、このようにその場限りで打算的なわれわれで本当にいいのか、と、実は、事あるごとに痛切に思うようになり、やりきれなく感じることが多くなった。こんなときは、たとえば、ニーチェの「道徳の系譜」でも読んで、いいことと悪いことに関する「いい空気」を吸い込むことが大切だ。あ、そうか、やっぱりこのやるせない感は、現在の日本の世の中でいわれるところの「いいこと悪いこと」に関する「空気が悪い」、ってことかもな。結局、なにがよくても悪くても実際にはどっちでもよくて、悪いとしたらそれは空気なのかもしれない。
月別アーカイブ: 2010年9月
ゴーテーイーガー
餃子の王将ではバイトのオネエチャンが「ゴーテーイーガー」と叫んでいるが、あれは鍋貼一个(グオ・ティエ・イー・グア)、すなわち「鍋貼り付け焼き餃子を一個」という意味である。それから居酒屋に「若鶏ザンギ」というのがあるが、あのザンギは「炸鶏」、つまり揚げた鶏の広東語発音だと思われる。
罪と罰の一場面
罪と罰の主人公ラスコーリニコフに、「あなたには空気が足りない」と忠告する人がいたが、あれは事件を捜査している中年の刑事だった。その彼はラスコーリニコフに、自分を「終わった人間」と自己紹介していた。私にはもう未来は残っていないんですよ、と。そして、「あなたには空気が足りないと言い当てるのは、自分のように長年生きてきた経験がある人間であればやさしい。大切なのは、あなた自身が空気を求めて動くことです」、と、彼は、この若い、将来のある、ラスコーリニコフという青年に忠告するのだ。
超訳ニーチェの言葉が売れているそうだが
「超訳ニーチェの言葉」という売れ線の本がある。先週、本屋でこの本を立ち読みしたが、しかし、これは、ニーチェじゃない。それどころかニーチェがもっとも嫌悪していた俗臭芬々たる本になっているその手管は、見事なほど。しかし、これも、一種のコラージュやフロッタージュの言葉版と思えば面白いのかもしれない。
コトバとモノ
廣松渡という哲学者が言っているが、世界構築について、古代は「生物」を、近代は「機械」を、そして現代は「言葉」をリファレンスにしている、とのこと。すばらしいことを言うもんだ。「モノが先にあって、それをコトバが説明する」のではなく、「コトバの存在により、モノが現れる」ということ。廣松渡はモノ的世界からコト的世界へのパラダイムシフトと言っている。
ちょっと外出でもして実際にやってみると分かるが、自分の中からコトバを完全に追い出した状態で、目の前に広がる木々や大地や空を見ようとしても、ほとんど不可能に近いほど、難しい。ときどき1秒ぐらいできるような気がするときがあるけど、その瞬間、自分が完全な白痴になっているような気配がしないか。
しかし、おかしなことだけど、その瞬間こそがコトバがモノを作り出す原動力になっている。人間というのはコトバの無い世界ではすでに生きられなくなっている。まさにコトバが世界を作っているのである。しかし、その当のコトバ、そしてその当のモノというものを世界から狩り出して来るには、その当の「世界」を白痴になって感じる体験がどうしても必要のようだ。
そして、芸術家と呼ばれうる人間の大半は、それが、意識的に、できるのである。
ある画家の言葉
誰の言葉だか忘れたが、昔の画家の言葉に、芸術を理解するにはこちらも少し気が狂う必要がある、というのがあるが、その通りだと思う。
街づくりの流行り廃り
二子玉川の高島屋なのだが、本体ビルの周辺の土地を少しずつ高島屋が買っては飲食店などを開店してるみたいだ。それも元の小道などを残し、区画せず、不定形な土地形状のまま不定形な建物を建てている。そのせいで一帯がなかなか楽しいエリアになりつつある。しばらくはこの方法論が流行りそうな予感。そう考えると、広い土地にライトグレーとブルーの概観の高層ビルを建てて、周りに広々と空間を設けて、小道を作り草木や街路樹を植える、という快適エコライフみたいな街づくりはもう、古いんじゃないだろうか。日本の都市計画も、もういちど、ごちゃごちゃアジアの感覚に戻れたら、嬉しいな。
事という字
ところで、「事」っていうのは、もともと昔は、「言」って書いたんだってね。「事」というのは、「物」の振る舞い、というよりは「言葉」の姿そのもの、という感触だった、ということなのかな。廣松渉の「物と事」を読んで。
埴輪
週末は上野へいって埴輪に会いにいこうかな、あの風通しのいい目と口と頭に。
東京にある絵をいくつか
八重洲のブリジストン美術館にひさびさに行ってみようか。あそこにはセザンヌのサントビクトワール山を描いた風景画が一枚あるが、あれは本当に、すごい絵だ。周りにはコローやマネやモネなどの宝石がたくさんあるが、このセザンヌの画布は宝石中の宝石だ。
それから、ほとんど知られていないが、箱根のポーラ美術館には、ゴッホの小品が一枚ある。あざみの花を描いた最晩年の画布で、実は、この絵は、かなりすごい。あれだけのために行く価値がある(かもしれない)。
あと、バブル期の日本を騒がせたゴッホの向日葵の画布が新宿の損保ビルにある。サザビーズで58億円だかで落札された絵だけど、そういう浮世のごたごたなど噂にも知らぬ、と言いたくなるような、黄金色に塗られた向日葵が、厚いガラスの向こうで、なんとなく悲しげに、でも純粋で素朴な光に輝いているのが、見られる。
ついで。広島へ行ったらひろしま美術館へ行ってゴッホの晩年の作「ドービニーの庭」を見るといい。僕の考えでは、この絵はゴッホのたくさんの傑作の中でも、最高傑作といってよい作品だ。この絵が日本にあるのはうれしい。