おくのほそ道

おくのほそ道を読んでいる。

全編のどこをとってもすべてもののあわれでできているこの文は、いったい何物なのだろう、と思ってしまう。これ以上無理だろうというほど完璧な姿をした句は、いくらもある。たとえば

閑さや岩にしみ入る蝉の声

あるいは

五月雨の降りのこしてや光堂

と、いうようにあるけれど、この紀行文の全体を、旅の苦労や情の側から見ると、こんな句がどうしても目につく

蚤虱馬の尿する枕もと

あるいは

一家に遊女もねたり萩と月

日本語のリズムはすばらしく、完璧な作詞作曲だけれど、その内容は、事実と情との単純な描写に徹していて、余計な飾りはなにもない。俳句は和歌より短いので、飾る余地も少ないだろうし、それゆえもあるだろう。いわゆる美学的な「贅沢」のあとが、芭蕉の句にはまったくない。

それから、いわゆる「大自然」をそのまま描写したり共感したりする文もなければ、そんな句もない。そこには必ず人がいて、生活があって、歴史があって、自然はそのひとつに過ぎず、自然の美を客観視する一種のロマンチシズムの冷たさは、まったくと言っていいほど、どこにも見当たらない。

これが、江戸時代の僕らの祖先にいた、俳人だったとは、なにをかいわんや。

オレはオレで、文をかたわらに、「時のうつるまで泪を落とし侍りぬ」だよ。

境界知能

これはちょっと久しぶりに目が覚める話だった。

IQや境界知能のことはけっこう調べていて、知ってはいたが、これまである意味、客観視していたのだが、これを見て、これはオレだ、と思った。見方が客観から主観に移った。

口幅ったいが、測定された僕のIQは高めなのだけど、一種の生きにくさ、というか異人感をどうしても振り切れなく、最近など、それが高じて、一体オレは何者なんだ、と自問自答する始末に陥っていたが、その正体が分かった感じ。

僕が、これまでずっとずっと、小学生のころから、いわゆる境界知能らしき人々に強烈な共感を覚え、その逆の高IQの人々に強烈な反感を持って来たのは、オレ自身が、境界知能的なものをもって生まれて来たからみたいだ。

僕の説によると、IQというのは今現在の欧米主導な現代社会の基礎になるもので、社会が先にできてて、その中でIQが測定され能力が決められてハイアラーキーができるのではなく、人間の能力として極めて狭い範囲だけを対象としたIQの方が先にあって、それに従って設計されたのがこの現代社会だ、という逆転発想である。

もっと言うと、このIQは科学と整合性が良く、見ればすぐわかるが、正直、科学で業績を上げるのは高IQの人に限られている。そして、科学は目に見えるものしか扱わず、目に見えるものの最たるものが「物質」である。したがって科学主導の社会は物質の性質に依って立っている。

恐ろしいことに昨今のAIの出現で、知的能力というものが物質的な機械で現すことができることが分かり、知的能力とは単なる物質の振る舞いに過ぎない、ということが(自分的に)明らかになった。

僕らは物質の振る舞い由来のIQに縛られて生活している。

もっとも、これをあまりしゃべり過ぎると、陰謀論に直結するので、これ以上は言わないが、僕の、「知性とは物質の別名である」という考えは捨てない。本当はいつか、これを証明して、世に問いたい、と思い続けてきたが、めんどくさくて手を付けてない。

まー、今後もやりそうもないが、単発でそういうことの発信はこれからもすると思う。

それにしても、オレのスウェーデン移住の十年は、このことをみずからに思い知らすための経験だったんだな。

出版と女性

思い出話ばかりしているけど、もうひとつ。

自分には1996年、およそ30年ほど前に自費出版をした経験があって、それはヴァン・ゴッホに関するエッセイ評論だった。自費出版を決める前、原稿を書き上げ、これを本にできないかな、と思い、まず、新聞社に勤めてる友人に相談した。どこかでこれを出版してくれるところは無いだろうか、と聞いたのである。

そしたら、彼、自分の知り合いに出版社に勤めている人がいるから、取り合えずその人に相談してみたら? と言い、その人を紹介してくれた。まだわりと若い女性だった。

どこぞの喫茶店で落ち合って、コーヒーを前に狭いテーブルに向かい合ったその光景をいまだに思い出す。

そのとき僕はたしか30代半ば、彼女は20代後半だったはず。

で、どうだったかというと、彼女、本を出版社から出版する、ということに関して、僕にその厳しさを滔々と説明した。なんのバックグラウンドも無い人が書いた文をいきなり出版社が出版するなどということはあり得ないし、書籍出版を甘く考えるな、という内容を延々と僕に気持ちよさそうに話してたっけ。それは、完全な「説教」だった。歳上の素人に説教するのが、業界駆け出しの若い彼女には、気持ちよかったのだろうな。

で、僕はもちろん何の反論もせず、なるほどそうですか、とごくごく素直に聞いていた。というのは、彼女の言うことは少しも間違っていなかったからだ。

というわけで、出版は無理みたいですね、みたいな結論で終わったのだが、その最後に、実はこれなんですけどね、と僕の原稿をいちおう相手に渡して喫茶店を出た。

その後、紹介してくれた友人に顛末を話してその件は終わった。そのころの僕のことだから、小娘に説教されたぜ、の一言ぐらい言ったかもしれない。

しかし、その後、どんな経緯だかなんだか知らないけど、しばらくして、その友人はその彼女と付き合い始め、僕は再び呼ばれて、今度は呑み屋かなんかで再会した。

そしたら、彼女、なんだかえらくバツが悪そうな顔をして、僕をなんとなく尊重して、立てて、謙虚に振る舞うのよ。あの、僕を滔々と説教した彼女はどこへ行っちゃったんだろう、っていう感じ。

それで思ったんだけど、彼女、あのあと、あの原稿を読んで、これはまずい、と思ったんじゃないかな。というのは僕の文章は素人にしてはかなり文学的でシリアスで、おそらく彼女が想像していたような思い付きで書かれたエッセイとかけ離れてたからだと思う。書籍出版は相変わらず無理なのは変わらないけど、自分が説教できる相手じゃない、と思ったんだろう。

僕は、格の上下はどっちでもいいんだが、逆に、あれだけ突如と態度を変えた彼女に好意を持った。それは素直で率直だということだし、君子豹変すの心を持った人だと思ったから。

というわけで、それ以降も、彼女との交流は続き、しばらく文通みたいなことになったこともあったっけ。しかしいつしかそれも途絶え、いまは彼女がどういう私生活を送っているのか知らない。

とある人の思い出

ふと思い出したが、大学生のころ常連で出入りしてたお店は、いろんな人が来る人間動物園のようなところだったが、そこに、笑顔がすごく可愛い美形の若い女性が来てたことがあった。

彼女とっても童顔的に可愛かったのだが、いざしゃべると、可愛い顔に似合わず、頑固で強い、しかし思慮の浅いステレオタイプな発言をする一般人的で、理知については残念な人だった。

笑顔があんなに可愛らしいのに惜しいなあ、などと思ったものだが、いま思えば、笑顔の方が彼女の地で、理知の方は若気の至りで背伸びして、そこにくっ付けただけだったんだろうな。

そのころ、僕は西洋絵画に夢中で、ポケット画集のFrom Giotto to Cezanneって洋書をいつも持ち歩いてた。で、あるとき、その呑み屋でその画集を取り出し、ああだこうだと皆にしゃべってた。

そのとき、その可愛い彼女が横に座ってて、それちょっと見せて、って言うんで、画集を渡した。

その画集は、ルネサンス以前の宗教画から始まっていて、最初の方のページには、前期ルネサンスの奇妙な絵がたくさん載っているのだけど、その初期の宗教画の数々の絵を見てる時の彼女の表情を、いまだに覚えてる。

侮蔑の薄ら笑いを浮かべながら、物凄い上から目線で馬鹿にしきったように、それら初期の宗教画をながめていたのである。僕は、へえー、こんな表情するんだ、この子は、って思ったけど、あまりのひどい対応に驚いた。

彼女が見ていたのは、たとえばオレの愛するピエロ・デラ・フランチェスカの描いた聖母と信者の絵だったりした。マリアが普通の人間の三倍ぐらいの大きさに描かれて、衣服を広げ、そこに小さなあれこれ信者たちが完全な無表情で祈りを捧げている図である。

極度の神秘と、宗教感情と、リアリズムの欠如であり、言ってみれば、現代人から見れば反理性的な絵である。

それをこんなに分かりやすい侮蔑を持って見る、って、いったいどういう人生を送って来たんだ、この女は、って、オレは呆れて見てたよ。

で、ページを繰って行って、ようやく彼女の眼にとまったのが、マサッチオのアダムとイブの楽園追放の絵だった。絵の中の二人は、今の人でも分かる、号泣と嘆きの表情なのだ。彼女、ようやく口を開いて

「この絵は、パワーがあるな」

と、言ったそのイントネーションまでいまだに思い出せるほど、それは浅はかな発言だった。

かわいい子だったけど、いまごろどんな人生を送ってるのかな。名前も忘れちゃったし、辿りようがないが。

ミッドサマー

友人が紹介してた映画の「ミッドサマー」。スウェーデンから撤退してしばらく忘れてたけど、この映画の題名を見て反射的に鮮明に思い出した。

この映画は怖い。

オレはスウェーデンに十年住んでいたが、現地で毎日見ていたスウェーデン人の振る舞いが、この映画にはっきり描かれていて、自分的に怖くて仕方なく、この映画、何度も見たよ。たぶん、今夜、改めて全編見ると思う。

スウェーデン人の何が怖いかは、たぶん、僕がいくら言葉であれこれ説明しても伝えるのは無理だと思う。ところがこのミッドサマーはそれを見事に描き切っている。

たぶん、こんなことをネイティブのスウェーデン人に言ったら気を悪くして、賛同しないと思うけど、極東のアジア人の僕がスウェーデンに長く暮らして、見て、経験して、感じたところのものは、この映画に描かれた「怖さ」なの。

実は日本人はあまり知らないと思うけど、スウェーデンは同調圧力の国です。しかし、その同調圧力は、日本人の同調圧力と、根っこが根本的に違っていて、同じ同調圧力なのに、こうまで違うか、と十年間で思い知った。で、僕から見ると、スウェーデンのそれは「怖い」同調圧力なの。

おそらく、ある種のスウェーデン人は、日本の同調圧力を見て僕と同じく「怖い」と感じるだろうと思う。よく自分は思うが、二次大戦の時のアメリカ人が、日本の神風特攻隊に対して本能的な恐怖を抱いたのと、同じものがあると思う。

根本的なところが異なっている生物同士というのが出会うと、相手に対する恐怖というのが、まず心理と生理の底の底から湧き上がってくるものだと思うが、その恐怖を極力見えなくすることを「文明」と言うのかしらん、とまで思う。

僕の十年スウェーデン暮らしは、結局、そこはかないけど、はっきりした苦手感覚で終わったのだが、その根底には恐怖があるんだよ。

あー、うまく説明できずもどかしい。でも、オレは「見た」んだよ。で、このミッドサマーという映画を初めて見て、オレ、狂喜したよ。これだよ、これ!って感じ。

スウェーデン人の人、読んでたら気を悪くしないでね。ある意味、これ、お互い様だから。

兼好先生

朝起きて、独りで徒然草を読んでいると、もののあわれのただなかに放り込まれるようだな。

オレ、よく兼好先生を引き合いに出すが、先生を付けるのはだてではなく、吉田兼好はオレの唯一の先生なの。オレは性格的に生きている先生はただの一人もいない。先生と呼べるのは兼好だけ。不思議だな。

かつて自分は兼好の残した境地を「明るい知性」と称したことがあるが、まさに、それ。これは比べるのもバカバカしいけど、徒然草とパスカルのパンセを並べてみるといい。それはもう一目瞭然だ。

おそらく、オレの読まない兼好以外のたくさんの日本の知性があるだろうが、兼好に出会ったからそれでいいや、と思っているところが、オレの極めて怠惰なところで、飽くことの無い好奇心を、実は自分は忌み嫌っている。したがって研究者失格。引退してせいせいした。

あれこれと忙しく詮索したり追及したりするより、鴨長明のように独居して方丈記を書いてる方がどんなにかいい、と思ってみたりもする(贅沢を覚えた自分には無理だが) 

枕草子も源氏物語もいいが、自分にはなんだか雅過ぎてね、合わないみたい。やはり徒然草がいいな。やたらと矛盾したことを言い散らす先生が大好き。雅な描写にも知性が染み渡っているのもいい。

生成AI

なんか生成AIから急速に興味が無くなったんだが、なんでだろうな。

オレ自身は日々、いろんなものを生成しながら生きているのでそれで十分で、機械に生成してもらう必要性を感じないからかもな。

これって、ひょっとすると、スウェーデンをすでに引退して、ゆくゆく日本も引退する、という人生のタイミングだからかもしれない。結局、自分が少し前まで生成AIを使ってみて、関わって、あれこれ考えていたのは、具体的な仕事が自分にあったからで、そのせいだったのだろう。それがなくなってしまったいま、あとは自分次第であり、自分の場合、AIは急速によそ事になってしまった。

いまは、オレはオレだけの身一つで、なんだって生成できる。そう考えればAIなんていう稚拙なマシンは不要になった、ということなのかな。

あと、もうひとつ、オレ、現AIの裏で行われている「リベラル縛り」がイヤでたまらず、現在の生成AIから出て来るものはすべてその制約の中の生成であり、読んでも、見ても、聞いても、極めてどうでもいいもの(僕基準で)しか出て来ないと感じる。そのせいで、AIを見限ったのだろう。

たとえば、僕が、それでもまだよく利用するOpenAIのChatGPTを使っていると、そのリベラル縛りがよく感じられる。使ってると紙背にサム・アルトマンの顔が守護霊みたいに浮かんでくる(笑) 画像生成の方は、ChatGPTほどひどく感じないが、やはりなにかリベラルな人々が好きそうな絵に引きずられる傾向があって、古典絵画野郎な自分はときどき、出て来た絵にイライラして、放り出してしまう。

もちろん、以上はAIの問題ではなく、生のAIに被せたアラインメントの問題なのはわかっているが、こちらからは手の出しようがない。

これを克服するには、自分でAIを構築し直す必要があり、おそらく世界で、日本で、多くの研究者が取り組んでいるだろう。きっと、ChatGPTやDALL-Eなどなどリベラル臭芬々なAIと、ぜんぜん異なる生成AIがこの先、巷にあふれるだろう。

しかし、そうなったらそうなったで、これまで数に制限のあったアーティストが巷に溢れかえるということになり、そんなに大量のアートを、ひとりのオレが関われないよ、ってことになり、またまた興味が薄れそうだ。

というわけで、オレはもう「生成オレ」で十分なので、それでかなりしばらくは生きてゆくよ。

バカ

大学のころは若くてバカで元気なので、だいぶむちゃをしたが、死んだりしなくてよかったな。

酔っ払って、夜、近所の往来を前転で全速力で縦横無尽に転げ回ったりしたっけなあ。交差点に車が来たら一発で轢かれるもんな。守護霊が守ってくれたのかな。

かくのごとく若者というのはバカで(僕みたいなのは)、そのせいでむちゃで向こう見ずなことをしまくる。でも、そのバカはクリエイティブの源泉になってるのよね。バカじゃないとホントの創造はできません。若いときバカなのはいいんだが、社会に出て、いかに成功するまでの長い期間、そのバカを維持できるかが問題だ。それが有名なStay foolishの意味だ。

カラマーゾフの兄弟の中でも、作者が「分別臭い若者には価値がない」とはっきり言ってるしね。でも、ひょっとして、オレ、それを大学時代に読んで、そっか、分別って悪なんだ、と思ってむちゃしてたのかもな?

オレのむちゃは40になっても治らず、超優良会社(NHK)を47歳で辞めて起業して失敗、4年後にリストラされて、50代でスウェーデン行き。

自分で振り返っても十分にバカで、自分のまわりの人たちにも多大な迷惑をかけ、今に至る。で、クリエイティブだったか、というと、モノはたくさん作ったが、ま、そこそこだった。

さすがに、いま、前期高齢者になっちゃって、バカ度は減ったと思う。

それに、Stay hungry, stay foolishって言葉で歴史的演説をしたスティーブ・ジョブズも、死ぬ前には後悔の言葉を述べたらしいしね。

でも、ひょっとすると、もう一回ぐらい超バカなことするかも(笑

さようならスウェーデン

某所で書いたことだが、ブログらしい話なので、ここでも。

2024年1月の末でスウェーデンの大学をリタイヤした。11年ほどになるけど、長かったな、いろんなことがあった。

昨日、リタイヤする僕のためにティーパーティーを開いてくれた。スウェーデンではこれをfikaと言うんだけどね。いろんな人と話したけど、みんな優しくてちょっと感動した。

結局、僕にとってスウェーデンが良かったことは、異国北国のスウェーデン人だって極東の自分と同じ、共感もすれば人情もある同じ人間だった、ということが分かったこと。

そして、先方のスウェーデン人にとって僕がいることが良かったことは、勤勉で真面目な日本人にもMasakiのようないい加減でルーズな変わった日本人もいるということが伝わったこと、かなと思う。

日本人の少し変わった一面を知ってもらうのに、わずかながらも役に立ったと思う。

ありがとう、さようなら、スウェーデン。

理科系の輩への愚痴

僕は物理を初心者に教えるときにいわゆる比喩を使うのに反対。余計に分からなくなる。

というのは、物理学というのは、もうすでに比喩なのであり、それをまた別の比喩で教えると、比喩の比喩になり、また、教える理科系の輩もさまざまなので、自分勝手な比喩をやたら作り出し、そのせいで比喩の比喩が乱立し、ほぼ収集が付かなくなる。それなのに、それらセンスのない理科系の輩は、自分の一種の創作である比喩を、極めて愉快に楽しそうに初心者に与え、自分で自分の創作に悦に入ってる場合がほとんどだ。イタイってのはこういうときに使う言葉だ。

なんでこういうことが起こるんだろう、って、オレはどうしても考えちゃうよ。

たとえば、で言えば、電気の説明。電気の場合、定番の比喩は「水」を使うことである。ある電圧を持った電池には電位があり、その電位差のあるものを導線でつなぐと電流が流れる。この、電池、電圧、電位、電流、というものを説明するとき、水を使うのは定番中の定番。高いところに水があると、その水は下に向かって流れる。そしていちばん下に行った水をポンプでくみ上げ、また上に持って来る。その上下の中の位置を電位、上と下の距離を電圧といい、流れる水が電流、そしてポンプが電池であり、なんらかの仕事ができるパワーを持ったものである、とかとか説明する。どっか違うかもだけど、まあ、こんなもんだ。違っててもオレは知らん(笑

だいたい、なんで水なんていう取り留めも無い、電気と何の関係もない物質を持ち出すのか。水は高いところから下に流れる、それでよろしい。じゃあ、電池を位置的に逆にして、上をマイナス、下をプラスにしたらどうなるのか。もう、その比喩は破綻するではないか。いや、破綻はしないが、説明に余計なものが入るのは間違いない。なぜそんな問題を無益に大きくするような比喩を持ち出すか、僕にはさっぱり、分からない。

ふつうにマイナスの電荷を帯びた電子が移動するのが電流です、ってなぜ素直に言わないのか。

ここでひとこと言っておくが、この「電子」というのも、現在の物理学が創り出した比喩の一つである。物質というのは比喩なのである。もっともこの話は哲学論争なのでここでは深入りしないが、いま現在では、パチンコ玉みたいな電子がマイナスの電気を持ってて、それが導線の中で、押し合いへし合いしながら電子がプラスに引かれて、そっちに向かって動いている、という説明がいちばん端的な「ネイティブの比喩」だ。

なんで比喩なんて言うかと言うと、実際にどうなっているのか、誰にも永久に分からないからだ。なので、物理比喩の並立・交替は永遠に続く。たとえば、電気現象なら、目に見えない電界磁界という比喩(約束事)を仮定して、マックスウェルの方程式で数学的に規定する、という方が電子の比喩より応用範囲は広い。並立しているのである。ニュートンの万有引力と一般相対論の並立みたいなものだ。これは物理学という学問の性質上、永遠に決着は付かない。

結局、言いたいことは、物理学が比喩の上に成り立っているんだから、相手が小学生であれ何であれ、その「ネイティブ」の比喩(ここでの例では電子)を最初から使って説明した方が、小学生だってぜったいにその方が分かりやすいと思うし、将来のためとも思うのだ。

水の流れと電気の流れは、だって、ルックスからしてぜんぜん違うではないか。電気の流れは目に見えないから、だから目に見える水を使うんだろうが、水には水の性質というものがあるので、じゃあ、豆電球が点いてる導線を氷で冷やせば、凍って豆電球が消えるんですか、ってことになる。いやいや、水はただの比喩ですから、って言うのか。そんな「比喩」なんていう高等なことは、最初からあなたが現象を物理学的に理解しているから出るものであって、何も知らない小学生はそんなことは最初から知らない。だから教えるんでしょうが。

とにかくだ、比喩の比喩を使っていい気になって初心者に説明する理科系の人々は、オレは間違っていると思う、ということでした。

ちなみに、もうひとつ理科系がおかしがちな間違いは、説明の言葉を「優しく」するという手法である。「電気ってのはいったい何なのか、みんなで考えてみよう!」とか言って「いいかい、電気って目に見えないよね? だから君たちのまわりにある物で考えよう」とか言って「水って高いところから下へ流れるよね。ほら、君も川に行ったことがあるだろ? あれって、高いところから低いところへ流れるよね? え、そんなの知ってらい? ごめんごめん、でも先生はね、その川が電気の流れと同じってことを言いたいんだよ。どうだい、これってすごいことだと思わないかい?」

とかとか切りがないが、こういう小学生をバカにするような言動を教師は厳に慎むべきである。教師たる者の第一条件は、相手を下に設定してバカにしてはいけない、ということである。

大人が理解する、そのままの形で、小学生相手でも説明するべきだと思う。ある現象については、小学生では難しくて理解できないかもしれない。でも、その「理解できないモノ」が、現在の真理であれば、無垢な心を持った子供ならば、必ず、それを正しく理解する日が来るはずだ。そういう無垢な子供の心を、自分勝手な稚拙な比喩や、手前勝手な物言いで、汚してはいけないのである。

あー、クソ、だんだん腹が立って来た。なので、これで止め―!