この前、ひさしぶりに人を呼んで宴会料理を作った。さいきんは週末に一回夕食を作るていどで、頻度も少なく、新しいメニューを開発することもめったになく、わりとおざなりに作っていたので、宴会のメニューも外れのなさそうな昔から作りなれたものにしておいた。それで、その中に、有名な四川料理の「雲白肉」を入れた。豚のばら肉をゆでて薄く切って、甘辛い醤油ベースのソースとラー油をかける料理である。しかし、これが、作って自分で食べて見ると、この料理ってこんなに旨い料理だったっけ、と思うほど美味で、ちょっとばかりびっくりしたのである。お客さんも、少なからず美味しくてびっくりしたみたいにコメントしていたので、あながち自分のひいき目ではないらしい。
この、雲白肉だが、初めて作ったのは、中華料理を始めてまもなくだったので、今から20年以上は前だったはず。当時の僕の参考書は、陳建民著の中国料理技術入門という本で、完全なプロ向けの本である。四川の定番料理として、この料理も、もちろんプロ向けの詳しい解説とともに、その製法が載っている。20年前の自分は、この製法の通りに作ったはずなのであるが、どうやってもおいしく作れなかったのをよく覚えている。もちろん、与えられた手順の通り、そのままやっているのである。それでも、出来上がったものは、単に「似たようなもの」でしかなく、それに、おまけに、「まずくはないが、決して美味しくはない」中途半端な代物しか作れなかったのである。
この「ゆで豚ソースかけ」は、以来こだわってずいぶんと作ったのだが、一向にうまく行かず、あっちへいったりこっちへ行ったりの、当ての無い試行錯誤を繰り返すだけだった。それが、あるときを境に、急に一発で自分の目指す方向が決まり、それで、当の料理も、作って食べて旨いものができた。こういうのを開眼というんだろうか、と、そんなことを以前、どこかに書いたことがある。きっかけは香港の変哲ない食堂で注文した白肉片という同じような料理を食べたことであった。要は、まるっきり普通の料理が出てきたのである。自分は、それまで、ひたすら、何とか旨いものを作ろうと、悪戦苦闘していたのだけど、実は基本的なことがちゃんと出来ていなかったという、単純な理由がゆえにうまく出来なかった、ということがたぶん、突然わかったのである。
それにしても、基本的なことが、あそこまで料理の旨さに影響を及ぼすとは予想できなかった。ひょっとすると、これは自分が理科系なせいもあって、余計に回り道してしまったのかもしれない。なんと言うか、原因があって結果があって、その間に論理的な関連がある、という考え方に知らずに毒されているようなところがあったのかもしれない。実は、この料理については、理科系もへったくれもなく、「体で覚えろ」が一番正しいようで、これって、いわば、プロだったら誰でもが通る料理修行である。どうも、こういう代物というのは説明には向かず、芸の習得というものには、科学的説明を寄せ付けないようなものがある。いや、きっと、科学というものが、この現代にあっても実は、どうしようもないほど不完全な代物なのだ。
科学万能などと言われたのがいつだったかはっきり知らないが、それほど前のことではない。300年もたちはしないだろう。しかし、たとえば兼好法師はあの徒然草を700年前に書いている。科学は、技術と結びついて世の中を圧倒的に進歩させたけれど、徒然草に書かれた命題の一つも解決し得ないし、一つも説明し得ない。科学は貴重であって、否定する気など毛頭無いが、実は我々が思っている以上に、と、いうか、唖然とするほど不完全なものだと思うのだが、いかがだろう。僕らが科学を過大評価しがちなのは、僕らの現代生活があまりに快適なせいで、その恩義を感じる気持ちが大きく、それを、当の科学そのものの評価と混同するせいではあるまいか。
なんと言うか、変なことだが、自分は、こうした科学についての見解は、けっこう、この中華料理の研究に負っているところが大きい。雲白肉をおいしく作る手法は、現在使うことができる科学的分析で完全に説明し尽くすことは無理だと思う。というのは、材料である、豚のバラ肉の塊と、ネギとショウガと塩が目の前にあったとき、これをゆでて、適当なところで引き上げて、切って皿に盛って、ソースをかけて出す、というプロセスを見ると、実際には要因が多すぎて、これらをうまく按配するのに最適な方法は、やはり長年の経験に基づくカンを使うのが、もっとも効率がよいし、それゆえ反応が早いし、それゆえ適応性に優れているからである。まあ、一種の本能に近い能力を使うのが一番よい方法に思われるのである。
これら、科学でコントロールすることが難しい「多すぎる要因」を、科学的に解決する手段は、ある。それは要因が増えないように環境を整えることである。要因が少なければ、科学的手法で作ってもまったく同じものはできる。さらに、これには完全な再現性がある。すなわち、要因を減らす努力をすれば「再現性」が手に入る。これはマクドナルドのハンバーガーを食えばすぐに分かることだ。この再現性の原理を利用して、テクノロジーは恐ろしい速さで発展し、これまた恐ろしいスピードで人々の生活を変えて行った。現代の生活が実に色とりどりに着飾ってものすごく個性的で多様に見えるくせして、ふと我に返って見回してみると、恐ろしく単調な気がしてくるのは、これが原因ではないだろうか。知らず知らずの間に、テクノロジーの再現性を十二分に発揮させるために、消費者の要因が増えないようにコントロールされているように思う。
さて、ゆで豚であるが、前述のように要因を減らせば科学的調理法でいいのであるが、もちろんこの場合、不測の事態は避けなければいけない。たとえば、まだ煮ている最中に気の早いお客さんが早く来ちゃって、それで、まあまあかけつけ一杯、ならばオレも、と、台所で缶ビールを飲み始め、つい話し込んでしまい、火加減と時間のコントロールを飛ばしてしまった、などということが起こった場合、これを科学的に救うためには、当の不足の事態をあらかじめ科学的分析の対象として対策しておかなければならない。しかし、こういった不測の事態は、何が起こるか分からないから「不測」というのであって、すべてを科学計算に入れることは不可能である。
この考え方をもっと極端に推し進めてゆくと、お客さんを呼んで、豚肉を買ってきて、ソースを作って、ゆでて、切って、お客さんに適当なタイミングで出して、自分も一緒に食って飲んでしゃべって、みたいな行動の全体を、「宴会」と呼ばれる「ひとつの活動」とみなすと、この一体になった活動から、「ゆで豚のレシピ」だけをきれいに切り離すことは、実は不可能だということが分かってくる。「宴会」と「レシピ」をたとえ切り離したとしても、その間の相互作用の要因が多すぎて、科学的記述というものがひどく非効率になってしまうのである。これは、切り離したから起こったことで、分離させずに一体のものと考えておけば、特に支障はない。でも、当の「宴会」で旨いゆで豚を作ろうとしたときの方法論をどうすればいいかというと、一番簡単で確実な道は、経験を積んで体で覚えて、その鍛えた本能を用いることなのである。
さらに極端に言うと、「宴会」とくっついて「家庭」があり、その外に「交友関係」があったり、それをひとくくりに「地域社会」があったり「時代」があったり、まったくきりの無い話で、実は、ここで言えば「宴会」というのは孤立したものではありえない。僕らの使っている「宴会」という言葉自体が、行為そのものを指していると同時に、人間関係や社会というその回りに広がる事々を伴っている感じは、自分で「宴会」と口に出して言えばすぐに気が付くことだ。
すなわち、孤立系というものは便宜的なものに過ぎず、現実には存在し得ない状態なのである。ただし、孤立系というものも、一時的で、近似的であれば人工的に作り出すことはできる。こうやって作った孤立系の中で科学的手法を十二分に発揮させて人に満足を与える。こうしたテクニックを現代人は高度に発達させてきたのではないだろうか。もちろん、この人工的な孤立系を一時的に許すユーザーと称する不特定多数への無意識下での一種の教育を含めてである。最近の計算されたチェーン店系のレストランなどを観察すると、この構造が容易に見て取れる。
このことから、近似的な孤立系が長続きしないからこそ現代の都会はめまぐるしく変わらざるを得ないのだ、ということも分かってくる。現代のテクノロジー支配というのは、うわべは華やかでその功罪が分かりやすい構図に見えているが、テクノロジーが的を得た働きをするための下地作りとしてのユーザーの意識改造については、わりと知らないうちに行われているようなところがある。
かくのごとく、話は哲学の領域に入る。ゆで豚と哲学か。ヘンなの