シュルレアリスム展にようやく行ってきた。
この展覧会、今年に入ってからすぐ始まったんじゃなかったっけ。地震のあと、会期が延長になったとかで、まだしばらくやるみたいだ。少し前、放射能に汚染されたダリの絵というのがシュールだ、なんて呑気なことを言っていた自分だが、当の放射能はそれどころじゃないみたいだ。 ま、それは、置いておいて。
場所は国立新美術館。あそこは建築が素敵なのに加えて、周りの環境もいいね、やはりあの辺は空気がいい感じだな。
思い起こしてみるとシュルレアリスムにそれほど夢中になったことはないのだけど、いまからずいぶん前、生活の全体が外界から遮断されたように高尚な芸術だけで出来ていたころがあり、西洋文学、哲学、詩、ヨーロッパ古典絵画、エロティシズム文学といったことごとに囲まれて生活していた。そうなると、当然ながらシュルレアリスムは必須アイテムで、時代の空気みたいなものだった。
みなも知るとおり、シュルレアリスムは、フランスの詩人アンドレ・ブルトンが首領となって展開した一種の社会的ムーブメントだ。
むかしの自分にも、マグリットやダリ、マン・レイなど好きな作家は何人もいたのだけど、当時の自分自身が社会性から無縁だったせいで、シュルレアリスムの作品の数々を感覚的に享受していただけで、理性的な意味合いは素通りで、シュルレアリスムという言葉には無頓着だった。
さて、そんな自分が展覧会の会場を入る。いつもの能書きのあとは、普通なら代表作が一点掛かっているものだが、ここでは、それは、作品ではなかった。
照明を落とした半円形の部屋のど真ん中にブルトンの著書「シュルレアリスム宣言」がライトアップされ、湾曲した壁に、ブルトンが与えたシュルレアリスムの定義が一行で書かれていた、いわく
「シュルレアリスム、男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる、理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書き取り」
ああ、それにしても、今日は、これを読んだだけで、もう、充分な感じだったな。オレはきっと、今日、この文章を読みにきたんだ、とまで思ってしまったよ。
シュルレアリスムのいくつかの作品が、いかに当時の既存美学や既存思想、社会常識に激しい暴行を加えようが、いまこの現代の現実社会という、匿名で荒らし回る暴行に較べれば、まるで神々が生活する雲の上で起きているような出来事に思える。ほとんど優しい、とまで言いたくなるような一種の叙情性まで感じる。
いずれにせよ、この日記も現代社会現実の一部なので、愚痴はここまでだが、ブルトンのこんな言葉を、暗闇の中でいきなり読まされると、ほとんど、眩しい、とまで感じたよ。
実は、今の現代は、このシュルレアリスムだけでなく、ほとんどあらゆる芸術上の成果の表面的な部分を貪欲を剽窃し続け、伝統的なものから、正統なもの、俗なものから異端なもの、そして反逆的なもの、どれもこれもことごとく消化して、そして、それらのめったやたらな集合と堆積から成っている。
だから、たとえばこのシュルレアリスムの展覧会に掛けられた、あるいは置かれた作品のことごとくは、現代のこの社会で周りを見回せば、すでに生活の中に定着して馴染んでしまっている意匠と区別のつかないものに見える。
となると、シュルレアリスム展で作品をじっと丹念に見る必要も、なくなってしまうようだった。結局、僕は、ほとんどの作品の前を素通りしてしまった。立ち止まったのはところどころに掛けられたブルトンの言葉の前だけだった。これら言葉だけが、凶暴さを保持しているようだった。それに対して、作品はことごとく、みな、優しさに溢れていた。会場にいて自分は、独りの暴君の周りを、優しい無秩序が取り囲んでいるような、そんな光景をぼんやりと思っていた。
言葉と意匠が分かちがたく結びつくことが自然だったシュルレアリスムの時代に、自分はもう一度、戻りたい。現代では、言葉はひたすら曖昧さがなく即認知できる理性の産物で、意匠はひたすら曖昧だが快適に接することができる感覚の産物に向かっているように思える中で、アンドレ・ブルトンを軸にしたシュルレアリスム運動が、筋金入りの社会現実に感じられて、それに感心した。
シュルレアリスムをあるスタイルを持った作品の集積と見れば、発表当時の衆人にことごとく不可解と写ったであろうその作品も、この現代では感覚的にごく自然と受け入れられるものに写ると思う。現代人は、こういったビジュアルアートを、言葉を使ってではなく、感覚で受け止める訓練をその現代生活の中でごく自然に受けているからだ。そういう意味で、僕らは当時の人たちよりずっと進んだところにいる。しかし、そこまで、だ。そして、そこに落とし穴がある。現代というのは、感覚が幅をきかせて理性が弱体化した世の中に思える。
展示会場を出て、ミュージアムショップでアンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」の文庫本を買って帰ってきた。これでもう一度、理性を鍛え直すんだな。