少し前、ふだんあまり連絡を取っていない仕事関係の知り合いの二人から、夜の同じような時間に携帯に着信が入っていた。へーえ、偶然だな、などと思って、こちらから電話したら、知人の言葉に驚いた。共通の知り合いの篠田さんが亡くなった、と言うのだ。篠田さんは僕より少しだけ上で、53歳だった。まだまだ十分、若く、死ぬような歳じゃない。

篠田さんとは、ここさいきんでこそ疎遠だったが、ひところは一緒に同じ夢を追い求めた仕事仲間だった。

それで、彼が亡くなってから一週間ほどたったのだけど、この場で篠田さんのことを書き留めておこうと思う。それからこの日記では、あえて本名を書くことにする。ブログではこういうときふつうあまり本名で書かないのが一般的なのだけど、やはり彼を知る人たちに対しても実名で書いた方がいいと思うからだ。それに、亡くなった篠田さんも、きっとそれでいいよ、って言ってくれるだろうから。

彼と初めて会ったのは、元映像新聞編集長の清水さんが定期的にやっているBusiness Hintという業界交流会のようなところで僕がしゃべったときだった。たぶん5、6年前のことだったと思う。そのとき僕はまだNHKの研究所にいて、台本を書くと映像ができるTVMLという技術について講演した。それで最後の名刺交換の時間に出会ったのが、当時Yahooジャパンにいた篠田さんだった。

彼は僕の講演をとても面白いと言ってくれ、こんど是非Yahooで紹介したいから、一度来てください、と言われた。ほどなくして僕はノートPC持ってYahooへ行き、しゃべってデモをやった。2回ほどやった覚えがあるけど、そこそこの反応はあるものの、具体的な話につながるほどアクティブな人は現れなかった。

そんな中で、篠田さんだけは、このTVMLという技術をいたく気に入ってくれ、Yahooはどうも皆が動かないんですよ、と悔しそうにしていた。でも、まあ、とにかく末永くお付き合いしましょう、ということで、僕のNHK技研での同僚を紹介するから、ということで一度飲もう、ということになった。篠田さんお勧めのいい店があるから、ということで確か六本木かどこかの焼肉のお店だったと思う。

NHK技研から僕をいれて三人、それと篠田さんの4人で焼肉ロースターを囲んで、ビールで乾杯。ごくごくっと飲んでグラスを置いたときの篠田さんの言葉を何だか、ずっと後まで覚えているのである。

「ああ、また、飲んでしまった。。」

それで、え、そんなに飲んでるんですか、って聞くと、ええ、昨日もさんざん飲んだし、毎晩ですよ。みたいに言って「ひゃっひゃっ!」と愉快そうに笑った。しかし、あの篠田さんの愉快なひゃひゃ笑いも、なんだか、ずいぶん遠い昔のことのように感じる。まあ、とにかく、それを聞いて、ああ、酒飲みなんだ、と思ったのは序の口で実際には大酒飲みだった。あと、とにかく陽気な人で、よく人を笑わせる人だった。そして、真面目な仕事の話などになると、すごく明快に、くっきりはっきりと物を言う人だった。

第一回目の飲み会のあと、なにかとお付き合いをするようになり、そうこうしているうちにYahooジャパンを辞めたという話を聞いた。同じヒルズにオフィスがある別会社に移ったとのこと。そこで、その移った先の会社でもTVMLを一度紹介して欲しい、ということで出向き、しゃべったが、えらく盛り上がった覚えがある。そのときにいた、篠田さんがその会社に連れてきたという何人かの人たちと、今もお付き合いすることになるのだった。

篠田さんはとにかくアクティブな人だったので、人脈が至る所にあり、彼の紹介で色々な人たちと知り合うことができた。それは、彼の周りの人たちも、たぶん、みな同じだろう。

さて、その後、今からおよそ4年前、僕はNHKを辞める決心をする。セガサミーという会社の上層部の人がTVMLを認めてくれ、資金を出して新しい会社を作ってくれる、とのことだったのだ。その転職作業の真っ最中、移る先の会社の人から、林さん誰か一緒に連れてきたい人はいますか、と言われた。当然ながら、新会社で新しいことをやるならば、どうしても信頼できる同じ志の仲間がいる。

そこで、すぐに思いついたのが篠田さんだった。とある打ち合わせの最中、このことに思い至り、いてもたってもいられずミーティングを抜けてふだんめったにかけない携帯電話で篠田さんに電話した。「NHK辞めてセガサミーの新会社でTVMLをやろうと思っているのだけど、篠田さん一緒にやってくれませんか?」と。そうしたら、その、当の仕事の内容や状況などの中身に関する質問も何もなく、第一声で「はい、よろこんで」と言ってくれたのであった。

そのときは、うれしかったな。あれこれと心が揺れているときでもあったので、その一言がとても力になった。

ただ、思えば、その篠田さんと僕の間のそういう決定的な出来事がきっかけになり、その後の、自分の人生、僕の奥さんの人生、そして早くして亡くなってしまった篠田さんの人生、それからこの仕事にかかわることになった多くの人たちの人生の進路の転換のきっかけになったのは確かなことで、やはり出会いというのは不思議なものだ。それが、よかったとか、悪かったとかいうことは言うつもりはないが、やはり、今現在を思うと感無量で、何とも言いがたい深さを持った事件だったのだと感じる。

さあ、こうして、僕と篠田さんの新しい会社での新しい仕事が始まった。ときは2006年、およそ4年前のことだ。

この会社は2年間続いたのだが、ここでの仕事は、まあ、大変だった。あまりにいろんなことがあり、さらにいいことよりむしろ悪いことの方が多かったこともあり、ここで書き留めるのは無理な上にその気もないのでやめて置く。篠田さんに関する2,3の思い出話だけを書いておこう。

TVMLを世の中に出そうという志のもと、仕事をスタートし、僕は篠田さんを全面的に信頼していたし、彼も僕を最も重要な仕事の柱として扱ってくれていた。TVMLで世界制覇ではなく、TVMLで世界を半分制覇しよう、というスローガンを僕が考え付いたときも、えらく面白がってくれ、事あるごとに世界半分制覇って言ってたっけ。篠田さんは、このTVMLという技術についてはしょっちゅう、この技術は面白い、と言っていて、そこらじゅうでそれをばらまいて来てくれた。

二人とも、これで世界を変えよう、と本気で思っていたのである。

しかしながら、現実はまったく甘くなく、こんなことで世界が簡単に変わるはずも無く、まずは当面のビジネスの樹立ですら思いように行かない仕事の毎日、それでも、世界を変えるという夢も捨てずに、そのころは僕も篠田さんも、夢や志こそが重要なもので、その他はいつかはついてくる、と感じていたのだろう。それでも当然、現実とのギャップは埋めがたく、仕事はじょじょに立ち行かなくなってくる。

そんな中で、後半、よく篠田さんが言っていたのは、TVMLは技術ではなく思想なんです、ものの考え方なんです、というセリフだった。これは、まったくその通りで、実は、僕が始めたTVMLを、僕が思っていた通りに正確に理解してくれたのは篠田さんだけだった、と、実は、白状すると今でも思っている。

篠田さんという人は、いわゆる武士道、というか武士の好きな人で、大志を持って身を粉にして活動して働いて果てには志のために命まで捨てる、という心を常に理想として持っていた人だった。おそらく、その心はいささか常軌を逸していて、現代の一般社会では円滑に動かないようなところがあった。逆に、大志のためにはいろいろなものを踏み付けにもしたし、無視もした、と思えるところがあった。だから、彼は、このような今の世の中では特に、決してわかりやすい人ではなかったと思う。

僕らの持っているTVMLで世の中を変える、という志がきっと、その彼の心に響いたのであろう。僕と出会ってから彼は最後まで一貫してこの夢のもとに活動したのだ。

さて、会社が始まって1年ほどで篠田さんは退職を余儀なくされる。辞める少し前、これからどうして行くか話そう、ということで昼過ぎに二人で会社を出て、麻生十番の街のカフェバーに入り、深刻に話し合うが、僕の方が耐えられなくなり、少しお酒を飲みませんか、と酒を注文し、そのまま飲みに入ってしまい、会社へも戻らず、二人で飲んだくれてしまったことなどもあったっけ。

飲んでしまうと二人とも気が大きくなって、会社を辞めても僕はTVMLは絶対に諦めませんから、と彼が誓えば、僕も、このままでは自分も思うようにはいかないのは分かっているけど、地道に続けているので、篠田さんは外へ出て自由なところでもう一回やり直してください、しばらくしたら合流しましょう、みたいに酔っ払って意気投合したりしていたのを、思い出す。まるで青春の一時期みたいな様相だった。

その後、篠田さんは辞めて別の会社でTVMLをまた始めるがうまく行かず、そこも半年ぐらいで辞め、今度は、自分ひとりで知り合いのゲーム会社に頼んでTVML的なソフトウェアをゼロから開発し、小さな会社を作り、営業を始めた。彼は結局、僕に誓ったとおり、このTVMLという思想の実現を、決して、諦めなかったのである。

僕は僕で、二年続いた会社を辞めると、今度は別の技術会社に入り、再びTVMLをゼロから開発し、今に至るである。考えてみると、篠田さんも僕も、二人とも再びゼロから始めているのであり、こうなると、ほとんど執念である。

しかしながら、いまだ、成功はしていない。冷静になって考えてみると、馬鹿な二人だ、という気も十分にしてくる。今どき、そんな夢物語をいい歳になっても追いかけるなんて、確かに馬鹿げているかもしれない。でも、そういう心意気は結局、僕と篠田さんの心の共通項だったのだろうと思う。いくらかは仕方ない、遺伝子のなせる業みたいなものかもしれない。

ここ半年以上、篠田さんとは全く連絡も取っていないし、彼がいまどうしているかも知らなかったのである。新しい会社でがんばって営業していて、でもあと1年が山だ、みたいなことを昨年の暮れに誰かから聞いた覚えはあるが、うまく行っているのか行っていないのかも知らなかった。

そんなときにいきなり急死の知らせが入ったのであった。

僕は冷たい人間なんだろうか、去るものは日々に疎しなのだろうか、あれほどむかし意気投合した仲の篠田さんの死を聞いてもあまり実感がなく、ああそうだったか、としか感じなかった。でも、彼の死を知ってから一週間ぐらいたって、ようやく、彼の姿を思い浮かべたり、彼が言っていたことを思い出したりするようになり、そうしてみると、無性に寂しい気持ちになる。悲しい、というより、なぜだか寂しいのだ。

考えてみると、篠田さんのような人間は今の日本ではかなり珍しいと思う。亡くなってからツイッターで検索したらアカウントがあり、たった3つだけれどツイートが残っていた。今年の3月、5月、7月に書かれたもので、ゼロから始めたかのTVML的技術に関する前向きな発言だった。そこにも、やはり、夢と志の実現のために頑張ってます、という意味のセリフがあった。次に、ひとつ抜き出しておこう。

「世界に向けて面白いこと、考え中、実行中、反省中。龍馬と仕事がしてみたい」

僕と疎遠になっていても、やはり、彼は変わらなかったのだ。本当に不思議な人だ、そして本当に今どきじゃない人だ。篠田さん、あの世で、この僕の中途半端な思い出ばなしを聞いて、林さんも苦労して変わりましたね、と言うだろうか。あるいは、林さんだって結局は自分と同じような人間じゃないですか、と笑っているだろうか。

篠田さんの思い出としては、まったく、ほんの一部なのだけど、書き留めておいた。