さいきんはずいぶんと文学的な生活から遠ざかっているのだけど、その代わりに、音楽をわりと真面目にやっていたり、料理や真空管の記事書きをしたり、あとなんと言っても仕事の方のあれこれがたくさんあり、相変わらずあちこち手を出している。そんな中、昨日の昼、久しぶりに文化的な場所へ行ってきた。世田谷美術館でやっている、戦後の日本を写真で紹介する展覧会である。終戦直後から1960年過ぎまでの日本のあれこれの光景を、複数の有名な写真家の写真で構成した展示会で、前から見たいなと思っていたのだ。まあ、ここはウチから自転車でいける距離なので、ただの散歩の延長なのだが、ああいう静かな空間にいることが最近少ないので、少なからず新鮮だった。

一通り見て、まず驚いたのが、写真というものの表現力の豊かさだった。もっと正確に言うと、表現力というより情報量の膨大さに驚いた。もちろん、写真の解像度は非常に高いのでディテールの再現は見事だが、それだけでなく、空気感や、出来事の重さや、漂っている感覚や、物の感触や、なにやら果てしなくたくさんの事々が畳み込まれるように印画紙の上に定着している。戦後まもない写真なのですべて白黒写真で、だいたいの写真が四つ切ていど、つまり30センチぐらいの大きさで、それほど大きくも小さくもない。例えば絵画などに比べるとみなずいぶんと小さい。それにしても、そこに定着されているモノの量の多さに驚く。

見ていると、なんだか、写真というより印画紙を見ているという気にもなった。

細部がきれいに映し出されている、というのは、我々人間でいえば視力がいい、というのと同じで、非常に数値化しやすい分かりやすい情報の定着能力だけど、それと同じか、あるいはそれ以上に凄い情報が、また別の形態をもって印画紙の上に定着している。こちらの方は、視力としてのディテールではなく、実際には、明るさの諧調だったり、粒状のノイズだったり、ぼけ具合であったり、ハレーションであったり、ありとあらゆる物理的な形態をもって印画紙の上に表現されているのだが、この辺になると、何が決め手でこういう印象を作り出しているのか、容易に分からない。

実は、こんなことを言うのは、写真展があまりに素晴らしかったので、帰りに写真集を買って帰って、家で見てみたのである。そうしたら、これがさっきまで見ていた本物の写真に比べてあまりに違うもので、二度びっくりし、それで、何が違うのか考え込んでしまったのだ。印刷の紙の上の像は、たしかに同じものを写し出していたが、一番大切で貴重だと思われた「空気感」のようなものが、きれいさっぱりそぎ落とされているように見えたのである。

日ごろ、ものをいくらか神秘的に考える性癖があるせいで、この印刷ものを見てすぐに、ああ、印画紙という本物には写しだされた対象のオーラのようなものがまだ付き纏って絡み合っているのだけど、これを印刷に落としたプロセスで、これら微妙な心は付いて来れずに落ちてしまったのだろうな、などと思った。しかし、これは神秘的に考えすぎで、実際には印刷技術の不足に原因があるのだろうな。

とはいえ、やはり自分は、「表現」と「技術」というものをきっぱり分離して取り扱う態度には反対だし、それは間違っている、とまで思っていることに変わりはない。印刷技術が仮に完璧の域に達したら、きっと、あの写真たちの持つ膨大な情報がそのまま印刷の紙の上にも再現されるだろう。それは、そうだ。しかし、その「完璧な技術」は、きっと生身の人間によるほとんど「表現」に近いものになるはずだ。すなわち、表現と技術というのは、次元が上がれば上がるほど区別が付かなくなり、最高の次元においては同一のものになるに違いない。

昨今のデジタル技術は、この二つを人工的に分離することで、便利を得ているに過ぎない。

さて、展覧会の写真はいい写真ばかりで、コレ、と一つあげることはできないが、一点、たくさんの子供たちが紙芝居を一心に見ている写真があった。土門拳の写真だ。紙芝居の絵は写っておらず、写っているのは子供たちの顔だけだ。でも、子供たちの顔の表情を見ると、そのときの絵が想像できるような感じで、みな、とても心配そうな、なんだか子供なのに変だけど、悲壮な表情をして、紙芝居に見入っている。きっと、お芝居の中で、とっても辛い出来事が起こっているのに違いない。

そして、ここでも驚いたのが、子供たちはみな同じ方向を見て、同じ心を共有して、同じことを感じて、同じ反応をしているのに、めいめいがみな違うその子供だけの人生を持っているように見えることだった。この紙芝居の内容は知らないが、そこで起こっているであろう悲劇を感じ取った子供たちが、それを種子にして、みなが人とは違った道を見つけて歩いて行きそうな、そんな風に思えたのだった。

戦後まもない社会。日々の生活をどうにかやりくりするのがやっとの毎日で、そして明日がどっちの方向に向かって行くのか皆目分からない中、ただ、めいめい皆が、未来があることだけを信じていた、そんな時代の空気なんだろうな。

お決まりの社会批判はしたくはないのだが、こういうものを見ると、どうしても、現代の人のあり方がこれとまったく逆を向いていることを嫌でも思い知らされる。すなわち、みな違う顔をしているのに、その中身は灰色の舗装道路のように単調でみな同じ方向に向かっている。

トルストイの言葉で、幸福はみな同じだが不幸は人の数だけある、というような言葉があったと思うが、それをどうしても思い出してしまうね。

ああ、それでも、この子供たちのたくさんの顔はいつまで見ていても飽きないね。今は印刷でしか見られないけど、仕方がない。きっと、この写真の上に写っている膨大な量の事柄をすべて一つ一つこうして確認していって、自分のものにして、自分の思い出にして、自分の糧にすることができたなら、印刷という稚拙な複製を見ても、そのすべてを追体験することができるような気がする。いや、その通りだ、これは自分は過去に絵画で経験済みだ。

と書いてはみたが、やはりね、本物というのはいつ見ても凄いものなのだけどね。とにかく、この写真展は見に行ってよかった。