はじめに

ランダムを芸術へ、というお題を与えられたとき、すぐに頭に浮かんだのが現代美術で有名なジャクソン・ポロック*1のアクション・ペインティングだった。ドリッピングと呼ばれる手法で、床に置いた巨大なカンバスに、絵の具をめったやたらに撒き散らして描く、抽象画である。作品として見なければ、まさにデタラメそのもので、日常的な意味合いで「ランダム」なイメージに見えるのである。

Autumn Rhythm (Number 30)(部分) ジャクソン・ポロック (1950), メトロポリタン美術館蔵、ニューヨーク

この2つがあっという間に結びついたので、まあ、これを押してランダムと芸術について書くのも面白かろう、などと軽く考えたのがいけなかった。実際、書こうとしてみると、このお題はかなり厄介である。私の仕事はマルチメディア系のコンテンツ研究であり、いわゆる芸術分野の仕事からは離れており、同時に、この特集を読むであろう数理系の人々の仕事からも離れている。そんなときは、お題について徹底的にサーベイをして、それを系統だてて紹介することで責を果たすのがふつうなので、しばらく調べてみたのだが、実際、系統だったものは出てこなかったのである。

そこで、仕方がないので、ここでは、私がランダムと芸術について思うことを、過去、近代、そして現代の芸術を適宜紹介しながらエッセイ調に語って行く、ということでご勘弁願いたい。このお題、私なりにあれこれと思いを馳せてみて、結局、結論から先に言ってしまうと、「ランダム」というのは芸術を作り出すエネルギーの源泉ではあるまいか、ということに思い至った。これから、しばらく紙面を頂いて、この思いに至った過程をご紹介して行くことにしたい。

絵画とランダム

単に芸術、と言ったとき、そのジャンルはいくつもあり、さらに、ジャンルの種類は現代に至って急に増え始め、現代美術辞典などというものが出版されるほどである。絵画、音楽、彫刻、建築、文学などがまずは思いつくが、ここでは、われわれ一般人のイメージにいちばん直結しそうな「絵画」を取り上げてみよう。

「ランダム」という言葉から連想することがらは、「ランダムネスのおもしろさ」で渡辺氏が述べているように、さまざまであろう。「でたらめ」、「乱雑」、「偏り無い」、「予測不可能」などが思い浮かぶ。その数学的定義については、「ランダムネスを定義する」で紹介されているコルモゴロフ記述量であるが、これは「規則性のなさ」を表わす指標と考えていいようである。「規則性」というと主に数学や物理で解釈する世界に関わる「法則」を思わせるのであるが、今、もう少し人間の活動の内容に関する同じような概念を思い描いてみると、「意図的」という言葉が思いつく。人間の活動においては「意図的でないほど」ランダムだ、という言い方になりそうである。では、「芸術」は、この指標に照らし合わせると、どうなるだろうか? 

たとえば、ここにリンゴを描いた一枚の絵画があるとすると、この中に「意図的でない」ものがあるだろうか。単純に答えれば「無い」であろう。画家は、「リンゴをモデルにしてこれをカンバスの上に絵の具で表現した」わけなので、全てが意図的だ、というわけだ。しかし、本当にそうだろうか。もし、すべてが意図的に出来上がっているとしたら、モデルである「リンゴ」という現実と、「リンゴの絵」という表現は、一対一対に正確に対応することになるが、それだけでは、単なる「置き換え」ではないか。ならば、何のために現実を絵画などという面倒なものに置き換えなければならないのだろうか。なんでこんな無駄なことをしなければならないのだろうか、リンゴが存在しているだけで十分ではないか。こういった問いが次々と湧いてくる。そこで、我々は、漠然と、画家は、「リンゴ」という現実に「何か」を付け加え、これを「リンゴの絵」にするわけで、この「何か」こそが画家の個性に基づいた「表現」というもので、それが「芸術」を形作るのである、と考える。そして紙の上の「リンゴの像」を作品として安心して眺めるのである。

さて、では、今度は、この「表現」の方はどうだろうか。これは「意図的」であろうか。実は、こちらの方はそう簡単に決着できない。芸術家というのは、仕事柄、この「意図的」というものの困難さをよく分かっているものである。たとえば、セザンヌ*2の談話の中にこんな言葉があるそうである「上に出し過ぎても、下に出し過ぎても、何もかもめちゃめちゃになる。少しでも繋ぎが緩んだり、隙間が出来たりすれば、感動も、光も、真理も逃げてしまうだろう。(中略)もし、少しでも気が散ったり、気が弱くなったり、特に、ある日写し過ぎたと思えば、今日は昨日と反対な理論に引きずられたり、描きながら考え込んだり、要するに私というものが干渉すると、すべては台無しになってしまう。何故だろう」あるいは、誰かが彼に「先生は神を信じますか」と聞いたら「何という馬鹿げた質問をするのかね。信じなければ、絵は描けまいさ」と答えたそうである。この「表現」というものには、一種の賭けのようなものがあり、そこでは実は「ランダム」という概念は、非常に積極的な意味を持つのである。これから、このことについて、乱雑にではあるが、書き進めてみたい。

古典絵画

ここでは、主に西洋絵画を見て行くことにする。これは、私が比較的良く知っている分野というだけで他意はない。さて、遠近法が発見されたルネッサンス以降の西洋絵画では、「写実的」ということがよく言われる。たしかに、遠近法という、カメラのレンズを模した手法、そして、対象物を物理的に分析し、さらに人体を解剖学的に分析し、これらに基づいて描かれた絵画は、ホンモノそっくりに見える。たとえば、レオナルド・ダ・ビンチ*3やラファエロ*4の絵を見ると、実に精巧に実物を映し出しているように見える。これが、なぜか神々しいものに見えるのは、彼らが実は一見して分からないほど絶妙に「現実」を再構成しているからなのであるが、これは、「現実」を目の前にした画家の中で行われる「表現」との格闘の結果なのである。

ダ・ビンチは、画家のデッサンについて、こんな言葉を残している「ものの中心にはひとつのうねうねした中心波があって、あたかもそれが表面波になって広がるように、その全範囲に向かって行くその特殊な仕方を、ものの対象の中から発見すること、それがデッサンの秘訣である」この素晴らしい言葉には「ランダム」が関わっていそうな匂いがする。しかし、ここで使われているランダム的なもの(ここでは波動のうねうね)は、画家の頭(あるいは手)の中に現れる、あるいは使われているランダムのように思える。ダ・ビンチは「ランダム」を内的に利用し、外的なカンバスの上の表現になった時点では、確定されたものを出力している。あるいは、そこに現れる「ランダム」な要素は、相当の目利きでなければ検知できないほど微妙で、巧妙である。

さて、それでは、もう少し時間を進めて、オランダの画家レンブラント*5を見てみよう。知ってのとおり、レンブラントは素晴らしい肖像画を大量に残している。また、それ以外に、想像で構成した神秘的な宗教的な素材もずいぶん描いている。なにはともあれ、レンブラントのカンバスを見てみよう。3メートル以上も離れれば、まさに血の通った、その身分から性格まで正確に写し取られた人物が、背景の上に浮かび上がっている。しかし、至近距離まで近寄って見てみると、レンブラントの筆触というのは、かなり荒くなすり付けられており、近くで見た画肌から、離れて見たときの様子がすぐに結びつかない。肌の表現、衣服の表現、装飾品の表現、どれを取っても、いわゆる写真的に描かれてはおらず、かといって省略して描かれているのでもない。それらとは、かなり異なる、「ランダム的」な、あるいは「偶発的」な、絵筆の動きを利用しているのである。この、乱雑な絵の具の流れが、視点が離れるにしたがって、あるところで突然、生を受け、血が通って見える様は感動的ですらある。

レンブラントのみならず、多くの画家が、このような手法をはっきりと利用するようになる。スペインの画家ベラスケス*6、ゴヤ*7といった画家たちは、この偶発的にも見えるような絵の具の勢いの力を借りて対象物をビジュアライズする、ほとんど奇跡的と形容したくなるようなテクニックを完成させて行った。これは、私の感触なのだが、ベラスケスやゴヤの絵を見ていると、その場の空気の匂い、埃、衣擦れの音、移ろいやすい環境音や、環境光など、そういった一見乱雑で取り止めがないが、その場の空気を作るのに絶対必要な諸要素をはっきり感じるのである。逆に、このように移ろい行く性質のものは、ルネサンス期の絵画では、ほぼ削ぎ落とされて、はっきりは感じられない。もっとも、逆に、それだからこそルネサンスの絵は対象を曇りなくじかに伝えていることに成功しているようにも見える。

以上あげた画家はほんの一部なのであるが、筆触の偶発性、乱雑さといったものを利用するようになり、その画布によって表現される「もの」の種類は増えたように思う。その強度は置いておいて、である。これらの絵の実物に接するたびに、ランダムな過程の中から「意味」が浮かび上がってくる神秘的な感覚を覚える。そして、それは「ランダム」の力を借りているがゆえに、それまで写しえなかった、取りとめのない「空気」を写すのに成功しているように思うのである。

近代絵画

むかし、俗に、油絵というのは離れてみるもんだ、とよく言われたものである。たぶん、これは昔、日本で印象派絵画が大人気だったころに、一般に言われていたことだったと思う。たしかに、たとえばモネ*8の作品を見ると、近寄ってみると、乱雑な、取り留めのない、まるで抽象画のような筆触と色の流れしか見えないが、あるていどの距離を取ると、とたんに光の衣をまとった形象が現れる。先に、レンブラントから始まって、この、距離による見え方の違いを紹介したが、印象派では、これが色と光の分解として分析的手法になり始める。

印象派の先駆者としては、いろいろ言われているが、たとえばロマン派のドラクロア*9。彼の「ダンテの舟」という絵では、濡れて輝く水滴を表現するのに独特な色分解の方法をすでに用いている。遠くから見ると、ただの水滴だが、近くで見ると、これが、赤、黄、緑の3色の点を微妙に並べて描いているだけなのである。まさに印象派的手法であり、実際に見てみると驚くべきものである。

印象派の手法では、光を分解するために「必然的に」ランダムを必要したように見えてくる。色を分解するときに、そこに意図的なものが入らないように分解することで、視覚的なイリュージョンを生み出そうとするわけである。そこではランダムは必須である。印象派絵画の元祖と言ってよさそうな、モネやルノアール*10の絵を見るとそれがはっきり分かる。その昔、レンブラントやベラスケスの絵で使われていた、ランダム的な筆触は、ほとんど画布の全体に渡って使われるようになる。それも、画布の上のすべてが複雑に、乱雑に、分解しているのである。あるいは、マネ*11は、筆触のランダムや、面のランダムをずっと極端に推し進めて画布を塗った。これら乱雑の力を借りた画布の数々から現れて来るイリュージョンは、その手法の一見した乱雑さに対して、不思議なことに絶対的な存在感を持って見えている。

そして、スーラ*12を始めとする新印象派の画家たちが完成させた点描画で、この手法は爛熟する。差し渡し3メートルある大作「グランド・ジャット島の日曜日の午後」は、表面のすべてを色の点で埋め尽くした作品である。ここでは、色は混ぜて作らずに、並べて作られる。混色による色の濁りを嫌い、加色により濁りの無い純粋な光を表現することに成功している。ここまで来ると、工学との連想は明白で、今で言うところの「ディザ」による色表現と言ってよいだろう。ディザ手法が乱数を積極的に利用することは知っての通りである。

そしてセザンヌが、ゴッホ*13が、ゴーギャン*14が、また違ったやり方で絵画の未来を築いていった。セザンヌは点描より、むしろ色面をコードブックのように配置して表現した。ゴッホは点描を彼以外にありえない独自の手法に変えていった。ゴーギャンは原始的なまでに色面を単純化することで、神秘的な像を表現した。いずれにせよ、印象派に至って、これまで画家個人のテクニックとして密かに、また絶妙に利用されていたランダムの効果を利用した手法が、画布の前面に現れてきたように思える。

ランダムと装置と表現

ここで、なみいる絵画の巨匠たちの生涯にわたる作品を見ていて、よくぶつかる1つの事柄についてお話しておきたい。それは、その作品が、年を追うごとにますます、乱雑性を増し、予測不可能な形態や、一種の「動き」を表わすようになって行く様子である。そのせいで、俗的な言い方でいうと画家の絵が下手になって行くように感じられるほど、ときにその変化は激しかったりする。たとえば、セザンヌを見てみよう。有名な風景の連作、リンゴの連作で、彼は緊密な、色面の構成美を完成させるが、その後、晩年に至るまでその追及はますます激しく、逆に自ら築いたものを壊して分解して行くような様が見て取れる。晩年になるとカンバスの塗り残しは多くなり、色面の構成は極端に単純化され、ときにはモデルの形状が後ろに回ってしまい、ほとんど抽象的に見える色のなすりつけだけのような画布が現れる。ゴッホもそうである。彼の絵は、その時代によって変わって行くが、当初アルルで描かれた絵は形象のはっきりした光に満ちた絵だが、晩年、フランスのオーヴェールで描かれた絵では、デッサンは単純化され、ときに幾何模様的になり、そこに乱雑とも思える色がめったやたらに置かれている。しかし、実際にこれらの作品を目の前にすると、近寄っても、遠ざかっても、どんな距離で見ても、一種独特なイリュージョンが現れていて、ここにきて表現は対象をはるかに越えてしまったような感じを受ける。これらは近代の画家であるが、たとえばルネサンス期のミケランジェロ*15であっても、同様な変化が見られるように思う。バチカンにある彫刻「ピエタ」は、ミケランジェロ24歳のときの作品である。この神々しいまでに完璧な、ほんのかすかな傷も見当たらないような作品を彼はすでに20代で製作してしまうのであるが、彼が80代で死ぬまで、その追求はやまず、死ぬ前に「残念なのはやっと自在に表現できるようになったときに死ななければならないことだ」と言い残している。晩年のミケランジェロの彫刻は、一種、不定形で、動きに満ちた塊で、石の中から形象が今まさに現れようとしている瞬間を捉えたような不思議な形態を持っている。ほとんど、近代の彫刻家ロダンを見るような形がそこにある。

以上、ほんの一部であるが紹介した芸術家たちの表現の変遷を見ていると、芸術の歴史がその生涯の中に凝縮されて見えないだろうか。彼らは、年を重ねるごとに、ますます不定形な、ぐにゃぐにゃした、乱雑な、ブレていて確定しないような、そういう形態を作り出して行くように見えるのは不思議でもある。いわば、そういったものが性質として持っている「偶発性」によって、何が起こるかわからないという状況を作り出し、それゆえにフレキシブルなエネルギーの塊のようなものを作り、それが自分が死んだ後も自発的に自律的に進化して行くことを願って製作しているように見える。

さて、ずいぶん、美術評論的な言葉を連ねてしまったが、実は言いたいことは単純である。ちょっと無理をして図式を描いてみると、こんな感じだろうか。



「ランダムな何か」が入力となり、これが「装置」を通り、「表現」になって出力される。そして、上記は、古典的な芸術作品において、その作品の上に見えているものと、作者という人間と共に隠されているもの区分を入れてみたものである。このように、作者の中に「ランダム」と「装置」があり、その結果が出力されて作品になる。したがって、受け手から見ると、作品がそのまま表現として見えている。ここで、装置も、その源のランダムな何かも、作者の中にあるため、作品の上には見えず、鑑賞する人は想像力を働かせてこれを把握するほか無い。

これが、近代になってくると、次のように



装置が作品の上に見えてくるようになる。作者はこの「装置」を作品の上に置くようになる。たとえば、先に紹介した、ドラクロアの描いた水滴が赤と黄と緑の並置として描かれていた、というのがこれに相当する。視覚特性を利用したこの一種の装置は画布の上にそのまま見えている。

さて、この図式を進めると、今度は「ランダム」までが作品の中に見えてくるような事態になりそうである。この後に現代美術を紹介するが、まさに、そんなことがが次々と表立ってくる。



しかし、図の中から「作者」が隠れる場所が無くなってしまった。作者はどこへ行ってしまうのだろう?

現代美術

これまで、主に絵画について述べてきたが、現代美術になると、非絵画的な作品が続々と登場し、絵画だけでくくることが難しくなってくる。そこで、ここでは非絵画的なものも含め、美術、と総称することにする。

現代美術になると、「ランダム」の役割は決定的になり、どんな素人鑑賞家であっても、一見して乱雑な、不確定な、予測できない、いわゆる「ランダム」な様子が作品の上に、はっきり目に見えるようになる。前の章に描いた最後の図のように、作品はランダムなエネルギー源と、装置、そして表現までをさらけ出すような形になってくる。冒頭で述べたポロックの絵画は、巨大な混沌そのものである。一見すると、絵の具を「ランダム」に、めったやたらに塗りたくっただけのように見える。これは、美術上のくくりで言うと「抽象絵画」ということになるが、具象と抽象の間に明確な線が引けるわけではない。ピカソ*16が始めた有名なキュビズムの絵画では、対象をランダムな視点から見た断片をさらにランダムに構成したような形態が現れる。デ・クーニング*17の、めったやたらと絵の具を擦り付けて描いた女の姿のほとんど猥雑な、と形容したくなる表現、ベーコン*18のほとんどホラー映画じみた奇妙な、解体し、腑分けされたようなむき出しの肉体の表現、などあげればきりが無い。

あるいは、多分に偶然に支配されるハプニングやパフォーマンス、アクションを作品に取り入れるものがある。たとえば、イヴ・クライン*19が、1960年から行った「人体測定」は、クラインが複数のヌードモデルに指示を与え、モデルたちは青の色の顔料を体に塗ってカンヴァスに体を押しつける、というものだった。あるいは、ガスバーナーでカンバスを燃やしながら同時に水をかけ、火の軌跡を記録する「火の絵画」というものもある。

また、地球上の自然現象の乱雑さや、規則性を直接取り入れたアース・アートというものがある。ロバート・スミッソン*20はユタ州の湖沼に渦巻状に伸びた人工的な突堤を作り、これを作品とした。あるいは、クリスト*21は、マイアミの湾に浮かぶ大小11の島の周りをピンク色のビニールシートで囲むプロジェクト自体を作品とした。

作品の上に、一見したランダムが見えているものがたとえば以上であるが、逆に一見して確定したものが作品に見えているのに、まったくとりとめの無いものもある。つまりは、「意図」が直接見えない作品である。たとえば、現代美術において、ピカソと共にもっとも影響力を持った芸術家にマルセル・デュシャン*22がいるが、彼は、ニューヨークのアンデパンダン展に、男性用小便器を置き、これに「泉」という題名を付した有名な作品を提出し、展示拒否をくらいスキャンダルを巻き起こしている。ここには、視覚的な意味であいまいな乱雑なところは無い。しかし、この一種の「装置」は、これを見る種々雑多な人々の乱雑な感想や、思考や、感情などすべてを入力として、ひとつの確固とした美術上のムーブメントを出力した、ともいえる。例はいくらでもあるが、ポップアートのアンディ・ウォーホール*23の「キャンベルスープ」という作品を知っている人は多いだろう。シルクスクリーンの画布の上には確定的なキャンベルのスープ缶が見えるだけである。しかし、これもまた、この奇妙な装置がその後、長きに渡って生み出す騒動は限りなく大きい。

以上に、さらに近年になると、急速に進歩したテクノロジーの力を大幅に加えた、インスタレーション、ビデオアート、メディアアートなど、その分野はさらに広がって行く。特にテクノロジーが大幅に入ってきたことで、ランダムの必要性はさらに明確になる。端的な例でいえば、ビデオアートにつきものの様々なノイズ、あるいはビデオゲーム的なものは乱数をエンジンに持たなければ動かしようがない。

その他、現代美術の総体は、おそろしく多様になっていて、アーティストたち、そして、その作品、運動、そして社会状況と作品に対する反応、の全てにわたって複雑に交錯していて、系統だって表わすこともできなければ、なんらかの一本の筋を通すことも不可能に見える。まさに、すべてが、混沌とした人間と社会の活動そのものの動きに見える。

さて、現代美術について、このような、狭い、一面からしか見ない方法を適用することに、実はかなり良心の呵責を覚えるのであるが、この原稿は、少なくとも、「ランダムと芸術」に関するものであるから、思いつくほんのさわりだけをしゃべり始めただけで、たちまち混乱に近い様相を呈する現代美術のめまぐるしい「動き」と、総体としての乱雑さを感じとっていただければ、それで十分だと思う。

おわりに

以上、古典、近代、現代の絵画美術をランダムをキーワードにして辿ってきたが、時を追うごとに徐々にランダムというものが、芸術家の頭の中から絵画テクニックへ、そして絵画テクニックから画布の上へ移って行く様を描いてみた。現代美術のいくつかの作品の上の一見してランダムな様子を見て、この作品では、作者は、「ランダムを表現に取り入れた」という風に見る向きもあるだろうが、私はそれでは言い方が足りないと思う。単に表現手段として取り入れたのではなく、ランダムを必要不可欠なエネルギーの源泉として扱った、と言うべきものだと思う。

前に私が出した図を思い出していただきたいのだが、「表現」の中に「ランダム」が組み入れられるのではなく、「ランダム」は「表現」の源になっている。アーティストは、図の中央にある「装置」を仕掛けるのであるが、実は、これらの図の外にいる。そして、見ている我々も外にいる。というか、すでに、大きな世界の中に、作者~ランダム~装置~表現~鑑賞者というすべての要素が一緒にいる、と言ったほうがいいかもしれない。図式的には、これらはシーケンシャルに並んでいるが、こうなってしまうと、全てが全てに対して休み無く影響を及ぼしている状態と言っていいのかもしれない。そうなると、これら全体がエネルギーの塊であり、乱雑さのきわみにも見えてくる。

これを、エントロピーの法則にしたがって、偉大な個人に集中していた芸術が拡散して、その代わりに全体の乱雑さが増したのだ、と考えてもいいだろうし、あるいはそもそも世界が現代に至って圧倒的に狭くなったせいで、その乱雑さがかえってエネルギーを生んでいるように見えている、と思うかもしれないし、ここから先は、自由に考えて行けばよいことであろう。

さて、ずいぶんと私見を述べさせていただいた。読者に対する知識の提供にはほとんど貢献できなかったが、私のこの乱雑な一文が、ランダムと芸術についてなんらかの研究を行う際のヒントになることがあれば、まことに幸いである。それから、最後の最後に、いくらか言い訳をさせていただくと、本稿では、私見に基づくランダムと表現に関する図式の中に、古今の芸術作品を強引に押し込めてお話しを進めてしまった。しかし、本当には、多くの先人たちの歓喜と苦悩の中から表現というものは生まれるのであり、芸術について考えるということは、そうした人間と表現の葛藤の中に自ら身を置くことだと思う。図式やら理屈やらは、またそれとは違った活動のひとつだが、かくいう私は、芸術に対して畏敬の念を失ったことは無いし、今後も決して無いであろうことを申し添えておきたい。



[参考]

*1 Jackson Pollock、*2 Paul Cézanne、*3 Leonardo da Vinci、*4 RaffaelloSanti 、*5 Rembrandt van Rijn、*6 Diego Velázquez、*7 Francisco de Goya、*8 Claude Monet、*9 Eugène Delacroix 、*10 Pierre-Auguste Renoir、*11Édouard Manet、*12 Georges Seurat、*13 Vincent van Gogh、*14 PaulGauguin、*15 Michelangelo Buonarroti 、*16 Pablo Picasso、*17 Willem deKooning、*18 Francis Bacon、*19 Yves Klein、*20 Robert Smithon、*21Christo、*22 Marcel Duchamp、*23 Andy Warhol

以上のアーティスト名でWikipediaなどから作家詳細および作品を検索のこと。また、たとえば以下のフリーのオンラインギャラリーを参照のこと。

Olga's Gallery: http://www.abcgallery.com/
CGFA: http://www.sai.msu.su/cjackson/

*本稿は、サイエンス社発行の雑誌「数理科学」の2006年9月号の記事「ランダムと芸術」からの転載である。