数年前、松山へ行ったときである。夕方に、独りで道後温泉の界隈をぶらぶらし、まずは何か食うかと思い、あたりを物色し、他よりも田舎臭くて少し貧乏臭い看板の出た店に入ってみた。ガラガラっと引き戸を開けると、中はなんだかガランとして誰もいないみたいだ。まだ、やってないのかな、と思ったが、すいません、といいながら店の中に入って、少し前へ進むとカウンターの中に、婆さんが独り座っているのが見えた。あの、と言うと、座ったまま、いらっしゃい、と答えた。
なんだ、やってるじゃないか。カウンターに座って、改めてあたりを見回すと、店内はかなり古臭く、なんだか汚らしい。床はいまどきはないような細かいタイルのようなものが敷いてあり、目地が茶色くなっており、テーブルや椅子の類も古くて錆びていて、全体にガランとして殺風景である。カウンターから中を覗くと、厨房と思われる奥の部屋の床にガス台と寸胴が乗ってなにやら煮ているようだが、厨房は黒ずんでいて、さらに汚い。
まあ、いい、とりあえず婆さんに瓶ビールを注文する。婆さんがよちよち歩いてきてテーブルの上に瓶とグラスを置いた。さて、と、ビールをついで飲もうとしたらグラスの周りのテーブルの上に、なんだか小さな羽虫が這っている。目の前のカウンターの縁にはゴキブリの子供が歩いているし、身の回りに小さな虫や蚊が飛び回っていて、体が痒くなる感じである。
あまり物を食べたくなる雰囲気ではないのだが、もともとは腹ごしらえのつもりで入ったので、無難なところでザルそばを注文した。ほどなくして、厨房に中年の男が現れた。婆さんだけではなかったのだ。婆さんはその男に注文を告げるとカウンターの中の椅子に再び座った。この婆さん、一応、動けはするのだけど、どう見てもかろうじて動けるていどで、表情にまったく生気がなく、もうすぐ死にそうな感じに見える。
一方、この中年男の方はおそらく婆さんの息子であろう。小太りで、髪の毛もぺったりと油っぽく、少しオタクな感じに見える。ザルそばの注文を受けて、厨房とカウンターを行き来して忙しそうに仕事を始めた。ほどなくすると今度は、手を動かしながら、座っている婆さんに文句を言い始めた。何を言っているのかは全然分からない。かなり大きな声でしゃべっているが、僕の知らない言語である。どうやら、調理の手順やら食器のしまい場所やらの文句を言っているらしいのだが、文句は一向に止む気配もなくずっと続いている。
それで、婆さんは、というと、最初に何かを言われたときは、もぐもぐとなにやら言い返したが、そのあとはまたもとの無表情に戻り、延々と続く文句を、聞いているんだか聞いていないんだか、無反応でじっと椅子に座って、何を見るでもなく前を向いている。どうやら、これはほとんど毎日繰り返される日常的出来事のようだった。改めて婆さんを見ると、その顔にあまりに生気がないせいで、ほとんど不気味に思えるぐらいだ。
きっと、この婆さんは、この古くて汚らしい店で、同じことを毎日繰り返しながら死ぬのを待っているんだろう。死ぬときは、息子にいつもの文句を言われ続けながら、ふと気づくとカウンターのあそこの椅子に座ったまま冷たくなっているんじゃなかろうか。人の外見にこれほど生きることを諦めた感じがはっきり出ているのを見ることが珍しく、僕は、あたりじゅう小さな虫だらけのカウンターでぬるいビールを飲みながら、この光景をずっとながめていた。
息子が出来上がったザルそばを持ってやってきた。お待ちどうさま、っと愛想よくとても元気である。すでに自分はおいしく食べることは諦めていたが、それでも食うことは食った。肌色のプラスチック製のザルの上に乗ったソバは、海草で出来たみたいに半透明でプルプルでヌルヌルしていて気持ち悪い。そばつゆの横にウズラ卵が一個置いてあり、これを入れろということなのだろうが、僕はなんだかぼんやりしていたのか、そばつゆカップを持ち上げたひょうしにウズラ卵の上にガタっと落とし、そのままぐちゃっと割ってしまった。
食ってみたが、まずい。ひょっとすると、これまで食べたソバの中でもっともまずかったかもしれない。あたりの不潔さや、飛び回る羽虫や、死にそうな婆さんや、聞き取り不能な息子の文句のせいもあっただろうが、食っていて気持ちが悪くなり、それでもソバをすべてかきこんでビールで流し込むと、もう、一刻も早く店を出たくなったので、席を立った。ありがとうございました、と相変わらず息子は愛想がいい。お勘定をして店を出た。
こうして、店選びは見事に失敗した。自分は初めての土地に来ると、同じような失敗をすることが多い。ことさらに汚い店を選んでしまい、たいていの場合、食い物などはうまくないのを通り越して、まずかったりする。
それでも、しかし、あの古いソバ屋には、他のどこにもないドラマがあった。
人生のドラマというのはどんな変哲の無いところにでも転がっているのだな。いや、逆に、変哲のない生活の場であるほど、それは毎日、大量に繰り広げられているんだろうな。自分はふだん、東京という都会のクリーンなエリアに住んでいるが、ああいうところは生活が、快適さに最適化されているせいでほぼパターン化されて、こんなドラマを見ることは少ない。快適だが、単調な光景の繰り返しが見えるだけだ。それに較べて、この田舎の古びたソバ屋には、初めて見る人を驚かす奇妙な人生の図があった。
僕は店を出て、それでも少しは小ぎれいなお店も並ぶ、道後温泉の商店街を歩きながら、そんなことをしきりに考えていた。