自分が30代のときに夢中になっていた絵画の中の一つ。これはイタリアのシエナの画家、シモーネ・マルティーニのテンペラ画である。さっき、いろいろ調べている中でたまたま再会した。

この絵の存在を、たぶんおよそ15年ずっと忘れていたよ。

いま見てみると、自分もそれなりに年月を経て、さんざんに苦労したせいなんだか、これを前にして、この絵のかたわらにいられるならばそのまま死んでしまってもいいとか、この一枚の絵のためだったら世界を売ってもいい、とかとかいう過激な感想ばかり湧いてくる。

逆かな? 歳を取ったら、もっとおだやかに芸術を解するべきなのかな? でも、なんだか、俺は違うみたいだ。

それにしても、なんという素晴らしい絵だろう。時代はルネサンス前期で、700年近く前だ。こういう宝石がごろごろしてるんだよ、その時代には。

ところで過激な感想は置いておいて、この絵の解説をしておこう。

イタリアのルネサンスはフィレンツェで主に花ひらいたわけだけど、当時、そのフィレンツェに対抗していたのがシエナである。シエナはフィレンツェから少し南に下ったところに位置している。僕は歴史が苦手なんで、いきさつについては置いておく。

画家で言うと、フィレンツェでは、やはり、Giotto(ジョットー)という偉大な画家がルネサンスへの道を開いたのだけど、それに対してシエナにはDuccio(ドゥッチオ)という巨匠がいる。そのデゥッチオの後継のひとりがこのSimone Martini(シモーネ・マルティーニ)である。  

それで、このマルティーニの絵だが、これは「聖アゴスティーニの奇跡」というもので、このアゴスティーニが奇跡を起こしてさまざまな事故を助ける、というストーリーになっている。実際の絵は三枚パネル構成になっていて、真ん中にアゴスティーニに精霊が何かを耳打ちしている図がある。どこそこで事故が起こっていますよ、と言っているのであろう。それでアゴスティーニはすかさず現場へワープして、奇跡を起こしてそれを助ける。  

奇跡は4種あって、この絵はそのうちの一つ。二階のバルコニーの羽目板が外れて子供が落下するところを助けて、無事だった子供が右側に保護されている。見てわかるように、この絵の上は、一種のパラレルワールドになっている。事故で死なんとしている子供と叫ぶ親、そして、無事だった子供が、同じシーンに描き込まれている。他の3種の奇跡も同様である。  

この、まったくに、一瞬の時間をフリーズさせた描写と、因果関係と、時間の前後関係と、一瞬の破局と永遠の救済という相反するものと、それらもろもろを奇妙に同居させるさまなどが、視覚的にめくるめく堂々巡りを発散し続けている様子が、ものすごい。  

遠近法はこの時代は、まだ発明されていないのは見れば分かる通りだ。そのせいもあって、創作された、この、折り重なる建物の描写の、あり得ないほど素晴らしいコンポジションに注目。画面のどこを見ても、線と面が交錯し、それが視覚的に、やはり画面上で堂々巡りをする、その折り重なる構成の力は、ものすごい。  

この二つの堂々巡りが、画面上で見事に一体になっていて、「時間」方向にも「空間」方向にも、見る人をめくるめく右往左往の中に置くわけだ。  

そして最後に、この色彩の美しさ。この色彩はフィレンツェには無い、これはシエナのものだ。さまざまな色価のピンク色と黒の素晴らしさは、何ものにも代えがたい。色彩は前者の二つとは違い、堂々巡り、しない。「地」を形作っていて、そこに「聖なるシエナ」という雰囲気がひたひたと静かにみなぎっている。  

でも、そんな風に、色彩に魅せられて、それで、静かに絵を見ようとすると、画面の上側の、二階で叫んでいる母親の、この、恐ろしげな表情がその静謐の邪魔をする。というか、何というか、この恐ろしげな「破局」が真っ黒な染みのように、全体の感覚の中にへばりついているように感じられ、余計に驚いてしまう。  

かくして、こういう絵は、いつまで見ていても飽きない。  

こういう絵の楽しみ方、というのは、たしかにピカソ以降の現代美術の楽しみ方に似ていて、そういう意味で、マルティーニは、現代美術に直接の影響を与え得るものとも言える。  

今のメディアアートみたいな電気仕掛けも何もない、ただの平面のテンペラ画なのにこんなことができるとは、なんと素晴らしいことだろう。