昨晩は、雨の中、阿佐ヶ谷のChicagoっていう小さなブルースバーで演奏してきた。
あそこはバンドが入れるハコじゃないので、みな弾き語り系である。僕を入れて計3組演奏して、お客さんもそこそこ来てくれて、なかなかアットホームでいい感じ。
それで思ったんだけど、最近はみな本当に演奏がうまくなったね~
その昔、日本で黒人ブルースを演奏するなんていう時勢に逆らったヘンな人たちは、まあ、変人が多くて、その偏狭さゆえに、当の演奏の方はあまりハッキリうまい人が少なかった気がする。
なんというか、自分たち日本人が遠いアメリカの南部あたりに住む黒人ブルースマンたちの演奏をする、というテーマ設定自体に無理があるせいで、いきおい、どうしてもそれを正当化するような「理由」をもたないといけなかった、という意識が働いてた気がする。
さらにこれに「奴隷制」とか「被差別民の不幸な社会生活」が加わると、マジメな日本人には致命傷になりかねない矛盾が現れるわけだ。当時、そういう真剣真面目なニッポンブルースマンの中には、自らの生活を当時のアメリカ黒人のレベルに下げることで心情を共有しようとする人たちが少なからぬ数いたと思う
酒、貧困、色恋にトラブル、そんな生活感情がなくちゃあ本当のブルースはできないぜ、というノリである。
人間というのは不思議なもので、一度に色んなことを同時には処理しきれないものなのである。かくのごとく、当の「音楽」とはほとんど関係ないことに心がかかずりあっていると、往々にして音楽の方がおろそかになり、ブルースの演奏自体はかえって悪くなる、という現象が起きる
思うに、ヨーロッパクラシック音楽をやっている人たちの音楽演奏レベルの平均値がなぜ簡単にものすごく高くなるかというと、こういう精神論から完全に自由な人工的環境を作って、そこから始めるからではないか?
よくよく考えると、たとえばモーツァルトの音楽が機能していた古いヨーロッパの環境と、今の日本でご飯を食べている環境は、もう、並べるのもばかばかしいほど離れている。でも、ことクラシックに関しては、そんな生活感情からもう当の昔に脱却しているせいで、思い悩む必要がない。これは、クラシック音楽という対象が十分に時間を経て成熟して文化として定着したことを意味する。それだけ「長い」ってことだ
それに対して、日本人が黒人ブルースをやる、っていうテーマは実に新しいわけで、だいいちブルース自体が新しい音楽だったわけだし(今から100年ちょっと前にできた)
そんなわけで、それを始めた当時の日本人たちは試行錯誤の連続で、与えられる完全な音楽環境はなく、常に矛盾にさらされながら自分たちで音楽環境を作ろうともがいていた、と、こういうわけである。
なんとも文化論的で、書いていて面倒くさくなってきたので話しを戻しましょう
まあ、とにかく、オレがさいきん思うに、日本人はブルースの演奏うまくなりましたね、ということなのだ。というか、とっても黒人っぽいっていうか。むかしはこんなに黒人ブルースっぽいフィーリングで演奏できる人はなかなかいなかった。
ちなみに、今現在、日本のブルース界にはプロはほとんどいない、と言っていいと思う。したがって日本のブルース界を支えているのはアマチュアミュージシャンであろう。もちろん、吾妻さんや妹尾さんや、山岸潤史さんや色々いるけれど、ごく少数である。
それは置いておいて、とにかく、アマチュアブルースマンのレベルは、僕が30年前ぐらいに悪戦苦闘して黒人ブルースをやっていたころに比べて格段に高くなったと思う。
思うに、これは、黒人ブルースが「型」として定着してきた、ということではないか。精神論に煩わされることなく、ごく自然に型から入って、練習して、実践を積んで行く、という、すこぶる「まっとうな」音楽修養ができるような「黒人ブルース音楽環境」のようなものが出来上がってきたことの表れではないだろうか。
昔はさ、それが、うまくできなかったんだよ~ うーむ、オレだけかもしれんが(笑)
でも、一方、音楽が「型」として末端の平民の場にまで降りてくるまでになると、今度はどうしてもその当の「型」の硬直化を招くのは原理上しかたのないことだ。
つまり、簡単に言えば、みなレベルは高いが同じような演奏をするようになる。
でも、そもそも、皆が同じような演奏をすることが悪いことか、というとそんなこともない。だって、例えば、民謡みたいなものというのは、人と違う創造的な演奏をすることが目的ではなく、なんと言うか、一種の日々の礼拝みたいなものだから、そこに「独創」などは特に必要ないし、そういうものではないじゃないか
なので、日々の生活を生きていくのにブルースが必要なら、一種の礼拝としてそれを行いながら、幸福な生活をすれば、それでいいのである。この場合、「独創」というのは問題ではなく、むしろ「個性」の方が表に出るよね。
それで、音楽が礼拝になってしまえば、音楽の「個性」というのは、確実に表現される。なんでかというと、人はみな個性を持って生まれてきていて、一人として同じ人間はいないわけだから、余計なことを考えずに、自分の声と自分の経験と自分の技量も持って、与えられた「型」(つまり礼拝)をやっていれば、それがそのまま何の苦労もなしに「個性の発揮」になって、それで、人々はそれを互いに認め合いながら、平和な社会生活に帰結するはずなのだ。
うーむ、また文化論になった、ダメだな。また元に戻しましょう
というわけで「個性」というのは、そんな大それたものではない。むしろすこぶる当たり前のものだ。それに大して「独創」はずいぶん違う。
そうそう、ちなみに、かくのごとくブルースって礼拝に近い存在になりやすい音楽だと思う。そこがジャズと違う。
したがって、昔の黒人ブルースマンで、ブルースをやめて宗教に走る人はけっこういたはずで、そういう人は、ブルースを演奏する代わりに教会で礼拝をする、という行為にけっこう簡単に移行する。それをとても自然にやる。そんな気がする
それに対してジャズマンはそうじゃない気がする。ジャズで宗教に走る人は、結局、宗教をジャズに利用する方向に動く人が多くないか? コルトレーンとかロリンズとか、たしかに宗教に走ったが、それは音楽のためではなかったか? ジャズをやめて坊主になったジャズマンっているのかな?? (いるだろうな 笑)
しかし、坊主になったブルースマンの方が多いんじゃないかな~
さて、日本のブルースマンであるが、そんなわけで皆レベルが高くなったね~、というお話なのでした。
でも、逆に、ヘンな人は減った気がするな。
昔のブルース界には、かならず「勘違い野郎」というのがいたもので、何だか、とっても懐かしい(笑) そういう勘違い野郎は、たいてい、現れる時はヨレヨレで、不摂生の極みな生活を送っていて、ハイライトとかワカバとかの労働者タバコを吸って、ウイスキーをストレートであおって常に酔っ払っている。それで、ときどきイカレタ女なんかを連れていて常に女性問題を起こしている。それで、ヨレヨレにサングラスで、ステージに上がっちゃったりすると、物凄い勢いでガナリたてて、うなるように、生活の苦しみを吐き出すようにグロウルするのである。あまりに、その全体の姿が「場末」しているせいで、聞いている方も、音楽として聞くのではなく「生き様」を共有する、っていう風になる。当の音楽に対する評価などすっ飛んでしまう。彼は「生き様がブルースだ」ということになるわけだ。下手でもいいのだ
あ~ 懐かしいな、そういう人ってまだいるんだろうか?
もちろん、そういう勘違い野郎は、実際、色んなタイプがいて、例を上げだしたら切りが無いし、そういう人たちが良かったと言っているわけではないのだが、しかし、そういう混沌としたエネルギーの渦巻く音楽環境というのが、さいきんは確実に減ったね。勘違い野郎も含めて「過剰な、やり場のないエネルギー」が渦巻く場末、っていうイメージで、勘違い野郎たちは、実はそういう場を作るのに大変重要な人たちだったのだ
そういうところから、1000人に一人だか10万人に一人だか知らないけど「独創」って生まれるんだよね~
そう思うと、なんだか、現在の日本の黒人ブルース状況は落ち着いちゃって、独創が生まれる余地は無い感じだね。でも、再三言うけど、独創が善なわけじゃない。これはこれでいいんだと思うよ、ホント。
ようやく呪縛から開放されて、日々の生活に定着した、ということ。なので、みな、楽しそうだ。
でも、この前、ジャズ屋の人と話したんだけど、彼いわくブルースはもうダメですね、だって。その理由は一言
「楽しんでるだけで、向上心がない!」
だってさ ははは!
と、まあ、そういうわけで、この辺にしときましょうか。