加藤周一という人が去年の12月に亡くなった
オレが上野毛に住み始めて3年ぐらいかな? これは以前も書いたけど、上野毛の駅前の路地を入ったところにある地元イタリア料理屋に入ったときのこと、斜め前の席に老人の男性と中年過ぎぐらいの女性が座っていた。何気なく老人を見て、一目で気づいたのだけど、この人の顔を自分は知っている。しかし、誰だか思い出せない。たしか、有名な文化人だったはず
もう80は過ぎてる完全な老人だけど、目つきがやたらと鋭く、弁舌もきっぱりはっきりしていて老人とは思えない話っぷりである。まあ、誰が見ても一目でただものじゃないのがわかる老人だった。
それで、僕もうちの奥さんとしばらく食って飲んで話していて、ふと思い出した、そうだ、この人「加藤」という名前だったはず。でもそれから先は思い出せない。
家に帰って、ネットで加藤、だとか、知識人だとか、批評家だとか、いろいろ調べてたら、あったあった「加藤周一」の名前。載っている写真を見て一目でわかった。そうだ、あの老人は加藤周一だったんだ
とはいえ、僕が加藤周一について、例えば彼の本や記事を読んだり、テレビで見たり、ということがあったかというと、ほとんどまったく思い出せない。しかし、あの顔はたぶん、一度見たら忘れられない顔なのかもしれない。とにかく目つきの鋭い人だ。怖そうな人、と言ってもいいかもしれない。
それ以来、その、地元イタリア料理で、3回ほど見た。常連だったのだ。
そうこうしているとき、去年、彼が亡くなったことを知った、89歳死去、とのこと。一緒に来ていた女性は晩年に一緒に住んでいた女性だったようで、その女性も名の知れた批評家だそうだ。彼は晩年をあの女性と上野毛で過ごしていたようなのだ。
同じ地元というのは、なんらかの親近感が湧くのかな、それに同じ行きつけのイタリア料理屋というのも手伝ってるかもしれない。先日、本屋をぶらついているときに、うちの奥さんが加藤周一の本が平積みで並んでいるのを見つけ、へえ、と思って、すぐに買った。
さいきん、仕事は忙しいが、行き帰りの決まりきった通勤電車の中ではもっぱらこの彼の本を読んでいる。この本は、加藤周一が亡くなったということもあり、以前の本を改訂して出版されたもので、平積みで売りに出していたようだ。最晩年の亡くなる2年前の講演会の内容や、死ぬ数ヶ月前のインタビューなども載っている。
これは、面白かった。いや、読み終わった今でも持ち歩いてパラパラめくっている。
個人的に言うと、この加藤周一は、ドストエフスキーとゴッホと小林秀雄に毒された自分にとって、かなり良い解毒剤の作用をしてくれているみたいだ。
小林秀雄はさすがに僕も最近は敬遠していたのだが、とはいえ、彼らの影響はもうずいぶん昔に自分の血肉になり切ってしまっていて、爪の先まで髪の毛の先にまで毒が回っている感じなのだ。ただね、これだけ長年そういった影響に晒されていると、自分で自分がイヤになることだってあるんだ。反対のものを求める心というかね。
そういう意味じゃあ、オレにとってのドストエフスキーやゴッホや小林秀雄の反対物ってのはこれまで、「恐ろしく下らないもの」だったわけ。そういうものと一緒にいないと、あの重々しい毒物とのバランスが取れない気がしていたからかもしれない。毒物なんて言ったらおこられるかな?
いやいや、実際には、アメリカンアニメのBeavis&Butt-headにひところ夢中になっていたり、ホラー映画に夢中だったり、相変わらず下卑たブルースを歌っていたり、などなど
もっとも、小林秀雄にはそれらは無いけど、さすがにドストエフスキーやゴッホには、それがあったね。つまりシリアスの反対物。一流品の反対物。すなわち、恐ろしく下らない下品なもの、がさ。
でも、「一流品」と「下品なもの」でカウンターバランスを取るっていうのもまた極端な話しで、結局のところ一流品も下品も同じ土壌から出ていて、同じ土壌に根付いてるのは間違いない。そういう意味では脱出できない、きれいに閉じた世界、そこにやはり所詮は住んでいるのだ
なんだかね、行き詰る感じがあるんだわ、そこに住んでるのが長いと。
そんなときに、このたまたま地元なせいで知ることになった加藤周一の言うことは、ちょっと爽快。なにせ、僕のような本を読まない人間はそんなきっかけでもなければ決して加藤周一の本に手を出さないからね、これは、地元、という偶然のたまものだ。
そろそろオレもテレビ見たり新聞見たりする生活に戻るべきなのかな。と思ったりしたが、まあ、それも面倒だ。
しかし、加藤周一の小林秀雄を名指しにしたかなり痛烈な批評は、読んでいて耳が痛いが、100パーセント理解できる。小林秀雄については、自分は熟読しているせいで、その根本的性質についてはかなり深く理解をしていて、加藤周一はそこを突いてくるので、あさっり分かるというわけ
要は、一流品と自分との個人的対決に全てを還元してしまい、その回りに広がっている環境を「与えられたもの」とする考え方である。これが小林秀雄の考え方の根本で、運命論と言ってもいいかもしれない。人は運命を変えることはできない、運命は容赦なく人を押し潰すが、その運命を受け入れて誇り高く生きてゆく人間の姿こそ崇高な人生の意味である、ということである
僕が買った加藤周一の本は、その半分が戦争の話だったのだけど、先の小林秀雄の考え方だと、戦争というのは、個人を襲う変えることのできない運命であり、戦争の良し悪しというものは誰にも言えない。そういう意味では、戦争は天災に等しいものだ、ということになってしまう。
加藤周一は、それは間違いである、と言い、戦争とは一連の政治的決断と社会状況の結果であり、我々はそれを変えうる社会的生き物である、とする。そのためには、自分を取り巻く政治環境を単なる所与のものとして前提にするのではなく、自ら変えうるものだ、という意識を持たねばならず、そのためにその環境について「知らねばならぬ」ということになる。
あーあ、オレは、もう政治を知るなんていうことを今からやる気力は、実はほとんど無いのだが、それでも、漠然と感じていることは、ある。
それは、まずは、オレがこれまで興味を持って見てきたことだけに限定されるのだけど、例えば、死刑の問題、不景気の問題、閉塞感の問題、自由の問題、といったことだ。
そのなかでも、自分はかなり昔からとりわけ死刑の問題には敏感だったので、昨今のこの状況にはどうしても反対したい気持ちがある。ただ、昔はけんか腰でやっていた論争を、今また再び始めるのは辛すぎるので、最近はずっと黙っていた。このまま黙っていてもいいのだが、いつか言おうと思って言っていない。
で、これから、言うか、というと、めんどくさいし、今は時間がないので言わない
ただね、この前、ネットのニュースで、村を襲う猿軍団の百何匹だかを殺して処分した、というのがあった。もちろんこれは賛否両論で、当然ながら動物愛護団体から抗議があったとの紹介があった。そして、そのニュースの下の方にたまたまそれに関するブログがあってね、それを読んでみたのだ。
そうしたら、その人は、抗議した団体について「殺すのに反対するのなら、それら問題猿集団を自分たちで保護すればいいのだ」と言う。それもできないくせに殺すの反対とは何事だ、という。そして、死刑囚だって同じだ、と言う。生きている価値もない有害な死刑囚という動物を殺すのに反対な人がいるのなら、それら死刑囚を自分たちで保護することをすればいいのであって、それができないのに、有害動物を除去できない、というのはおかしい、という。
オレは、こういう考え方に、かなり強く反対である。
で、加藤周一を読んだ後の、この件に関する感想であるが
ここ最近、裁判で死刑判決が増えていること、死刑執行が世界で問題になるほどのペースで加速していること、陪審員制度にして一般人に判決を出させること、閉塞感と不景気感をマスコミを使って醸成していること、死刑執行をはっきり報道することになったこと、遺族が死刑を望んでいる場合この遺族感情を考慮して死刑を執行することについて違和感を無くす方向に進んでいること、死刑執行の報道を知った僕ら市民が「殺して当然だ、あるいはやむを得まい」という感じ方をするように誘導していること、国を守るために有害なものは除去するということに抵抗を無くすこと、などなど、、、
これらはすべて一点に向かっているように見えるのだが。すなわち
戦争する準備をしよう
ということだ。以上は、ほとんど自分が昔からこだわっていた死刑に関することのみでの判断で、まあ、説得力は無いと思うが、でも、少なくとも自分ではきれいに結びつく。
はてさて、まあ、この辺にしておくか、もう時間だし。明るい話しが一箇所もないし(笑)
ちょっと、締めを言うと、加藤周一の本を読んだことは自分にとって、とてもよかったことであった、ということなのだが
地元って大切だね~