昨日は河口湖の温泉ホテルへ行ってきたのだけど、従業員がみんなすごく一生懸命でちょっとびっくり。でも、それで、そのホテルはずいぶん繁盛しているそうだ。

朝食のとき、外人カップルが入ってきたのだが、ボーイさんが一生懸命英語でコーヒーか紅茶か緑茶か、と聞いているんだけど、なんか感じの悪い外人で、変な顔して手を振ってNOと言ってビュッフェの方へ料理を取りに行ってしまった。

それを見ていて、ああ、そういえば外国では、たまにボーイさんで、英語がほとんどしゃべれない人でもまったく動じる様子もなく給仕をしている人ってたくさんいたっけな、と思った。そういうとき、だいたいこちらが何を言っても、悪びれることもなく、堂々と人の言ったことを無視して、自分がいつもやっている通りにやって平然としている。

そんな外国のボーイの彼らって、まあもちろん年配の人が多いのだけど、本当に堂々と生まれながらの給仕、っていう感じの一種のカッコよさがある。自分の「するべきごと」がまったく狭い範囲で動かしがたく決まっていて、それを黙々と履行することで仕事生活を送り、社会での一定の地位と、誰にも侵害されない確実な場所を確保している。

そういう人って、なんだかほとんど「改善する」という考え方自体がないように見えるんだな。それに対して、昨日のホテルのボーイさんは、自分の仕事に何かしら改善の余地があれば進んで改善する、という意気込みを常に持っているように見える。でも、だからこそ、逆にボーイさんとしては、改善する気無しのボーイさんよりカッコ悪く見えちゃったりする。

不思議なもんだ。

この「改善する気持ち」って、実は、たとえばヨーロッパの飲食店や宿屋などなどで働いている従業員にはあまり見られない態度らしい。連中はふつうは、自分の受け持ちの職務を決められた範囲で決められたとおりに履行することこそが自らのするべき義務で、それ以外のことをするということは、たとえ改善する意図だとしても、しないのが正しいことだ、と考えているもののようだ。

今まで外国で見てきた事情を総合するとかくのごとく思えるが、たった今、「改善」という言葉で思い出した。ただ、15年ぐらい前のことだが。

ロンドンの大英博物館へ言った時、近くをぶらぶらしてたら日本式ラーメン屋を見つけて入ってみた。店の名前は「ワガママ」だったと思う。たしかWagamamaと共にひらがなでも書いてあった気がする。食ってみるとこのラーメンがなかなかに旨い。それで2度目に行ったときは店の前で列を作っていて、へえロンドン人も並んで食うんだ、と感心した。急速に話題の店になったらしいのである。

それで、このワガママだけど、お店にいろんな貼り紙がしてあって、そこにワガママの飲食店としての方針のようなものが書かれていて、そこに「Kaizen」という文字がでかでかと印刷されていたのだ。それによると、「日本の飲食店では、そこで働いている人たちが、常に、どうしたらもっとおいしいものが作れるか、どうしたらお客さんに喜んでもらえるか、どうしたらお店をよくできるか、ということを皆が考えていて、常にめいめいが最善を尽くして高い目標を追い求めている。その精神を日本ではKaizenと言います」みたいなことが書いてある。もう、日本語の「改善」は英語に該当単語がない扱いなのだ、英語になってしまった「Kaizen」なのである。

そりゃ英語にも改善はある、Improvementとか。でも、どうやら少なくともロンドンでは、飲食店で働く従業員がお店を改善する、というノリはまず無いらしいのだ。まあ、すくなくとも15年前は、そうだったのだ。

それで、このWagamamaは「Kaizen」と書かれたポスターを色んなところに貼っていて、それをうたい文句にしていたわけだ。

まあ、確かに日本人の改善魂はすごいよな。呆れるほどだ。この改善魂だが、たしかに良いことだとは思うんだけど、さいきんちょっと疲れてこないか? もう、いいじゃないか、これ以上改善しなくても、というか、改善しすぎてかえって物事がつまらなくなっていたり、自分の首を絞めていたり、なんだかいいように見えないんだよ、さいきんは。なんででしょね?

俺たち日本人に比べたときのヨーロッパ人たちの余裕って、オレは常に感じるんだけど、これってあいつらはあんまり改善しないところから来てるんじゃないか、と思えることもあるのである。

まあ、ここ10年ほどヨーロッパへ行っていないので現在のことは分からないんだけど、10年前の、例えば、パリを見てみてよ。なんとまあ、古色蒼然としていることか。ポンピドーセンターやらなにやら最先端のアートと、それにテクノロジーだって十分最先端なのにも係わらず、まあ町並みが古いこと古いこと

ああ、また、それで思い出したが、やっぱり15年前ぐらいにパリへ仕事で行ったときギターを持って行ってポンピドーセンターの前の広場で弾いてみたことがある。土地のヤツらが何人か集まってきて、それで友達になって、近くのCafeでちょっとしゃべった。その彼らたちもギター弾いてロックかなんかやるそうなのだ

それで、その中の一人が言っていたのだけど、パリはアマチュア音楽環境が最悪で、練習したくともスタジオはないし、あっても値段がえらく高い。それで、どこかカフェで演奏しようとしてもそこはほとんど常連のプロミュージシャンに押さえられていて、アマチュアが演奏できるハコはほとんどまったくないと言っていい。なので、仕方なくストリートをやったり友人同士で集まって家でやったり、といった活動しかできない、などなどだそうだ。

オレが、東京のアマチュア音楽環境の話しをしたら、心底羨ましがっていた。

かくのごとく、改善を怠けて、余裕たっぷりで生活して、といった裏には、新しいものが出てくるのを阻むという、どうしようもない保守性があるわけだけど、これは根強いんじゃないかな、ヨーロッパとかでは。逆に日本人って保守的なの? 革新的なの? なんだか分からなくなるね

だって、たしか、オレが子供の頃は日本人は保守的だってことになってなかったっけ? それで、その裏腹なんだか「保守的」というのがダイレクトに「根絶すべき怠惰な悪い習慣」ってことになってなかったっけ? これはオレの誤解かな? かくいう自分はそういう教育を受けたせいか、保守的に振る舞う、ってことはしちゃいけない悪いことだと、何となく感じてしまう。

これって、進歩進歩の戦後の復興期のノリなのか、何なのか。それにしても、ここさいきんは例えば江戸時代が見直されたりしてるなど、ちょっとスローダウンして、革新せずに、まあ、いわゆるリサイクルして閉じて循環する世界を作るべき時ではないか、みたいなことが言われ始めてるよね。

リサイクル循環する平和な安定した社会を維持するには、保守的で革新はせず、一種退屈に耐える精神をうまく養わないといけない気がするがどうなんだろう。常にみなが欲望を追い求めていたら、これは実現は無理そうじゃないか。

日本人の改善魂は、実はそれほど古いものじゃないのかもしれないね。もう、いい加減止めたらば、と思うよ。ただ、新しいものを創造するのは止めちゃだめで、これは改善とは全然違う。だって改善ってのは、もうすでに存在していて、そしてあるていど「良い」ものだけど、でもよく見るとそこには「悪いところ」があって、それを「改める」ことで、さらに「善くする」ってことでしょ? どっちにしても、すでに良いものは存在してるわけだ

新しいものを作って、それが成功したら、それをさらに改善などせずに、あとはそのご褒美でプラプラ遊ぶことにしたらどうだろうか

ああ、そういえば、またこれで思い出したが、NHKの研究所にいた頃、やっぱり15年ぐらい前、ハイビジョン作って世界に認められたんだからそれやってた人たちはしばらくプラプラ遊んだらどうなんだ、とあからさまに主張してたころがあったな。だって、あの頃、ハイビジョンの仕事をしていた人たちは常に余裕無く馬車馬のように働いていた、あるいは働かされていたからね。それをはたで見ていて苦々しく思っていたわけだ

そっか、そっか、オレも少し怠け者のヨーロッパ人を思い出さないとな~ ずいぶん憧れていたじゃないか、むかし。

長文を書くつもりなかったんだけど、長文になってしまった。ここらで止めとくか

明日から仕事だが、改善やーめた。 

なーんて言ってたら地位がヤバイからあからさまには言わないが、改善やーめた精神を良い方へ転がす努力をすることにしたらどうかね

などと思う今日この頃