この前、近所のスーパーで買い物をしていたときのこと、夕飯の材料を買おうということでうちの奥さんの後について店内を歩き、何気なしに並んでいるものをながめていた。
僕はもともとデザートを食べる習慣がなく、そのせいというわけでもないのだけど果物を食べることがあまりない。メインの食事を食べるのは好きだけれど、食事の後に甘いものが欲しいということはないのである。
それで、果物なのだけど、そんなせいでお店に並んでいる果物を見ても、まったく心が反応しない。なんだか、ヘンな話しだけど、そうなのだ。あるいは果物を見ると、なんだか、当面の必要はないけど余剰なものとして付けておきたい余計なぜいたく品というか、オマケというか、そのようなモノに見えたりする。もちろん、これはスーパーのようなところで見たときの自分の心の動きの話で、果物そのものに関心がない、というのとは少し違う。
さて、それで、店内をぶらぶらしていたとき、ふと目の前にグレープフルーツが山に積まれているのが目に入った。黄色くて大きくて丸くていい感じのやつだ。それで、何気なく一つ手にとって値段を見るとひとつ100円かそこらだ。実は、そのとき瞬間だけど、妙な感じがしたので、その話をしようとしているのだけど、伝えるのが難しい。
さっき書いたように自分にとって果物は一種のぜいたく品に映るのだけど、グレープフルーツを手にとってこれを買って行く人を思い浮かべた。この百円のグレープフルーツを買って行く人というのを、なんだか、ささやかな余剰の楽しみだけど、その楽しみに満足しながら変哲ない日常を生きているような、そんな風に想像したのだった。
まあ、バカげた話しだが、一言で言って、オレたちは何のために生きてるんだろう、と思ったのである。
いずれややこしい人生の夢だとか、自己実現だとか、なんとか哲学だとか、信念だとか、人類や地球の未来だとか、なんだとか、そんな「重いもの」がどれほど大事なことなのか。それよりも、日々を生活して過不足なく活動しながら、ささやかで変哲ない楽しみや喜びを見つけることこそ大事なことではないのか。
目的を設定して、それを過度に求める、ということはもういい加減にやめにしたらどうか、と思えたりもする。なんとかして物事のスピードを緩めて、重いものからみなが開放されるように持って行くことはできないだろうか。などなど、そんなややこしいことは、グレープフルーツを片手に考えはしなかったが、一瞬でそんなことが「感じ」られて、不思議な気がしたのだった。
もちろん、こうしてしゃべってみると分かるが、一種の更年期性憂鬱のようなもので(笑)、たいした感慨ではない。ああ、オレも休息が必要だな、と思うのがせいぜいなのであるし、それほど深刻ではないのだけど、そこはかとない緊張が漂った今のこの世界を背後で重く引っ張っている張本人は一体誰なのか、いつも思っているのだが、いまだに分からない、ということを思う。
晩年のニーチェが、発狂する直前、おそろしいスピードで文章を書き飛ばしていた頃、その文章に何度か出てくるシーンがある。彼はそのころイタリアに住んでいたのだが、自分が近所を散歩して市場に出て葡萄を買おうとすると、市場の女たちは先生のために一番甘く熟した葡萄の房を選び出すまで自分を返してくれない。人はそれほどまでに哲学者にならなければだめだ、と書いている。
これは、僕が大好きな言葉だ。僕らはそれほどまでにシリアスでいいのではないか?