カラマーゾフの兄弟の新訳が100万部を超えた、という話しを改めて聞いて、やはりなかなか感慨深いものがあるので、ちょっと書いておこうか。まあ、私的な感想なので、これは独り言シリーズということで(それに長い)
自分の恩人の一人であるドストエフスキーについては、いつかまとまったものを書こうとずっと思い続けてきたけれど、一向に書きそうな兆しがない。同じくもう一人の恩人のヴィンセント・ヴァン・ゴッホについてはちゃんと一冊の本を書き上げて、自費で出版までして、いわゆる自分的な恩返しをしたわけだが、ドストエフスキーはぜんぜんだ。
まあ、なぜかと言うのは、割りとはっきりしていて、書く自信がないのである。
相手がでかすぎる、というか、複雑すぎるくせして、そこから自分が汲み取っている黄金の光があまりに単一で、どう釣り合いを取って書いていいか想像できない。いや、きっと、こういう御託を並べる前に書き始めることが必要なことはわかっているのだけど、どうしてもその気になれない。
自分は結局は即興芸人だから、書かないことにはなーんにも出てこないし、なーんの考えも無い。余談ながら、だからオレは口頭でその場で人と議論するのがイヤなのだ。議論のペースについてゆくには、人は既にあるしっかりした考えをあるていど固めておかないと無理じゃないか。それができてないのである
さて、このように独り言シリーズであれば気楽に思いついたことを書き飛ばせばいいので、ドストエフスキーについて書き飛ばさせていただくことにしよう
ということで、今思い出したが、かなり昔、本当に彼の小説に夢中で、ほとんど耽溺していたころ、こんなことをやろうとした。カラマーゾフの兄弟をすべてワンパラグラフずつに分けて、それについて一々自分の感じ、考えたことを書く、というものであった。しかしこれはただの構想だけで終わった。自分には、彼の小説のひとつひとつのパラグラフに、たくさん思い出があってね。もちろん、現実の思い出と結びついているわけではなく、ある「感覚」がいちいち結びついてるわけ。あの長い小説をいずれも20回以上読んでいると、やはり感じ方もヘンになってくる。まあ、いわゆるクリスチャンにとっての聖書に近い存在になるわけだ
よく映画や小説なんかで、何か出来事が起こると、いちいち聖書の第何節のどうの、とキリストの言葉を引用したりするヤツがあるじゃないか、まあ、自分はあれに近いあれこれの特殊な「意味」をいちいちのパラグラフに持っている、というわけだ
さて、カラマーゾフの兄弟というと、そうそう、よく三兄弟であなたは誰が一番好きですか? という問いなのだが、うん、自分もドストエフスキーについてはもう完全にオタクの域に達しているので、このミーハーな問いかけに思いっきり乗ってしまう。オレの答えはずばり長男のドミートリー(ミーチャ)なのだが、オレのミーチャへの傾倒は重症で、今の自分の感情発露、行動原理、思索パターンなど、けっこうミーチャに強い影響を受けている。
むろん、この小説で作者がもっとも期待をかけて描いたのは三男のアリョーシャで、このアリョーシャを創造した、というところに作者の偉大さがあるわけだ。そういえば、坂口安吾が小林秀雄との対談で、こう、活字になった対談なくせして、読んでいて、光景が目に浮かぶように、涙を搾り出すように「アリョーシャってヤツは心だよ、最高の存在だよ、なんだよ、かんだよ」とほとんどクダを巻いているシーンがあってさ、面白い。ちなみに安吾をあまり読んだことは無いのだが、この人はいい。まさに心だ。安吾のマジメさと愚直さが心で感じられる。
それに比べると小林秀雄は、ちょっと違う。安吾のまったくむやみやたらな、恋は盲目状態のアリョーシャ礼賛からは一歩引いている。いや、オレも、安吾はいいヤツだと心で分かるが、自分の本性が小林秀雄の方に近いのは間違いない。小林秀雄はドストエフスキーの小説、あるいはドストエフスキーの世界全体を「単一なもの」として見ていて、ある「主張」として見ていない。主張であれば、論理も筋もあるわけだが、そうじゃない。あそこには、時間も空間もない、そういう単一なものに見えていたんだろうなあ、自分もまったくそう見えるんだな、彼の小説って。
カラマーゾフの兄弟は作者の最後の作品で、これを完成させて2,3年で死んでいるはず。続編を構想していたことは草稿などから明らかで、カラマーゾフの謎は続編で完結するはずだったから、その続編を推理する、なんていう本や研究やらも出ていたっけな。はっきり言わせてもらうと、バカバカしい話だ。あの小説は、あれで完結だ。オレに言わせれば完全無欠だ。ここで、「作者が続編を構想していたということが、あの小説だけで完結していない証だ」などと言う輩が居たとすると、そういうジャーナリスティックなやつをオレは信用しない。
あれぐらいの優れた小説というのは、実はもうすでに作者のモノではないのだ。だから、作者とて、あの作品に手を触れることはできないのだ。だから、作者に続編を書く権利はないのだ、勝手に書かれちゃ、オレが迷惑だ(なーんてね) もちろん、ドストエフスキーは死んでしまい、続編は闇の中、というわけだが、まあ、存在しもしない続編など、闇の中もへったくれも無い、というのが正しいところ。
さて、だからアリョーシャは作者が最後に創造した貴重な人物だったわけで、それが20歳ちょっとの若者として登場していて、溌剌としていて、素晴らしい行動力と、若々しさに満ちて、生命の充溢を謳歌した、そんながっしりして少しシャイな、まったく申し分ない若者であった、というのもなんと言うか面白いね。まさに、作者は晩年にアリョーシャを産み落とした、という感じなのだ。これからアリョーシャは長い長い人生を送って行くはずなわけだが、それはもうアリョーシャ本人にお任せするよ、しっかりやりなさい、みたいな、ね
誰が一番好きか、って言う問いだったっけ? そうそう、実を言うと、さっきは長男ミーチャと言ったが、ひょっとするとオレは、あの因業淫乱煩悩イソップ爺いのフョードルが一番好きかもしれない! この、もう、どうしようもないほど退廃した、煩悩の権化、下品で、道化で、嘘つきで、恥知らずで、卑劣漢の親玉のフョードルが、これまたなんと言うかカッコいいというか、憎めないというか、こう、独特のバロック芸術を彷彿とさせる、「美と醜」という人間の性欲に最も強く結びついた概念の体現者というか、まあ、一言で言って「芸術的」なものを感じさせる。長男ミーチャも次男イワンも三男アリョーシャも、みなこの因業糞爺いの子供たちだ、というのは、なんともはや、すばらしいプロットを発明するものだ。
オレは全5巻の、古い訳のカラマーゾフの兄弟を今でも持っているが、その第一巻を、とりわけ愛している。いや、愛しているというより、恋している(笑) フョードルとイワン、ミウウソフなどなどの一団が、およそ彼らの人間性から言って無関係かつ無意味極まる修道院というところを訪ねるシーンから、この長い小説は始まるのだが、このシーンが、もう、何ものにも代えがたく素晴らしい。
フョードルは、修道院の門をくぐった後は、もう、すでにおふざけモード全開で、いつ、どんな騒ぎを起こしてやろうか、うずうずしている。言葉の端々に皮肉たっぷり、悪ふざけたっぷり、仕草も一々皮肉満々、この辺の描写は、その周囲の修道院内部の素朴さ、簡素さ、厳粛さと、とても言い現しがたい素晴らしい対照を醸し出している。さて、予定された会合はこの修道院のゾシマ長老の前での、まあ、家庭のもめ事の調停会議なのである。それで、ゾシマ長老の庵へ続く門の前に立ち、フョードルは指をパチンと鳴らして、芝居がかった態度で、こう、言うわけだ
「ごらんなさい、ここの修道僧の方々は実に素晴らしい薔薇の谷に暮らしておられますぜ!」
これから後、フョードルは、ここ修道院が始まって以来、かつて決して有り得なかったような恥知らずな騒ぎを次々とたたみ掛けるように起こしてゆくわけだが、疾走する因業爺の爽快さといったら無い。「卑劣」という意味を自分はドストエフスキーからこのとき初めて、本当に習ったのであった。「卑劣というのはときに美しいことがある」という逆転した心理学を、初めて本心から納得したのであった。自分が、その後、ゴッホに出会って、それを入口にしてヨーロッパ古典絵画の世界に入っていた時の、心の下地のようなものを、自分は若いときにドストエフスキーに習ったんだなあ。で、その見本は、この因業イソップ爺いのフョードルだったのである
つまり、美は醜だ、そして同時に、醜は美だ、という芸術観念を体得したわけだ
なので、フョードルの存在は自分には大きいなあ。あの、喉に出来たでっかい瘤と尖った鉤鼻が呼応して退廃期ローマの貴族の風貌を彷彿とさせた、と書かれた様子に(というか、フョードルは自分でそう自慢しているのだが)、ちょっと恋をしてしまう(笑)
人間でいうと、このフョードルの直系と思われるのが長男のミーチャである。フョードルは美醜の澱みというか、塊というか、坩堝というか、朽ち果てたような古い魂のどろどろの汚らしい塊なのだが、ミーチャはすっかりその淀みに身を浸していながら、悲劇的な詩人として太陽の下に立ちいでるのである。ああ、ミーチャにも自分は恋しているなあ、本当に。なんと深い影響を受けたことだろう、この詩人から。
オレの説によれば、ドストエフスキーは、カラマーゾフ以前の長編群で本当の詩人を創造したことがなかった。まあ、いろんな詩人みたいに振る舞う人はたくさんいたけど、何となく滑稽さを混ぜ合わせたり、あまり血肉を与えてエネルギーを付与したことが無かったような気がする。いや、どうかな、そもそも誰かいたっけ、やっぱ、いないような。悪霊のステパン先生? 白痴のイッポリート? ヴェルシーロフ? やっぱり、違うな。ミーチャみたいな存在は、これが初めてだったように思うのである
実は、ドストエフスキーの問題には、ヨーロッパで言うところの美の問題、芸術の問題、というのが抜けていたようにも思える。やっぱり、このカラマーゾフの兄弟に至って、初めて「美」の問題を表面に出して、そして実際に創造して見せた、ってわけだ。
ミーチャの「火をふくような心の懺悔」は、すばらしい叙事詩で、自分の心の故郷みたいだぜ、ホント
これが、フョードルの隣りの屋敷の、手入れの悪いような木々が乱雑に生え放題に生えたような庭の中にぽつんと立っている、粗雑な崩れかけたようなあづま屋を舞台に行われるのである。酒瓶を一つ置いて、アリョーシャに対してミーチャの独演が延々と続く。
悲痛に思い沈んだかと思うと、突然、笑い出したり、そして突然ぼろぼろ涙を流したり、ほとんど無闇な、狙い所もない、目的もなければ、当ても無い、意味もないような、膨大なエネルギーの発散に見えるんだ、これが。ほとばしる生命、という感じ、すべてが「過剰」から発している。出来損ない、とか、弱さ、とか、ひるむ心、とか、退去とか、そういった弱さの兆候がものの見事に微塵もなく、ミーチャにとってはあらゆるものが過剰なのである。それゆえの悲劇を、この崩れかけた東屋で、彼は謳うのである。
そして、そのミーチャの発する莫大なエネルギーを受けて、そのあずま屋の周りに乱脈に生えまくる、木や、草や、花や、草木についた実や、絡みついた蔦や、それらすべての混沌とした自然が、そのエネルギーに励振されて、ぐるぐると渦巻くように動き出す。これはもちろん僕の勝手なイメージだけど、プリミティブな詩の力そのもの、あるいは詩以前の生命のほとばしりそのものなのだ。でなければ、なぜ、周りの自然がそれに呼応するものか。
ところでもちろん、別に全編詩を読んでるわけじゃないよ。彼はいま、親父のいるこの町に来る前、とある町にいて、親の金をひたすら遊蕩に女遊びに使い果たし、女がらみでとある大きなトラブルを引き起こし、無一文で町に帰ってきて、身動きもとれない、みたいな、実に実に、世間的に言ってただの放蕩息子そのものの出来事を語るだけなのだ。褒められるようなことは、ほとんど何一つもない。にも関わらず、ミーチャは悲劇の詩人として常に光り輝いている。
すごいなあ、こういう人物を最後の最後に作り出したんだよな、ドストエフスキーは。それでオレは一発でやられてしまったというわけだ。
「ドミートリー(ミーチャ)・カラマーゾフは卑劣漢だが泥棒じゃない!」というセリフが何回か出てきてね、後のほうでミーチャが警察につかまって尋問されるところで出てくるし、それ以外でも、こんな意味の言葉がいろいろ出てくる。自分は、これを「悪いことはするけどずるいことはしない」という風に、この言葉を信じた。ずいぶん若い頃のことだ。その頃は、人生という厄介な出来事につき、ほとんど経験はなかったわけで、この言葉の持つ本当の意味が分かろうはずがなかったが、当時の自分はカラマーゾフのミーチャに恋するあまり、この彼の言葉を盲目的に正しいと信じたのだ
それで、どうなったかというと、自分は大きくなっても、ずるくはならなかったが、悪いやつにはなったかも!(笑)
あの、強烈な、生まれにもとづく「誇り」の概念が、ミーチャの場合、こんな言葉でほとばしる、というわけだ。オレの影響のされ方は、重症だったな。何が重症って、今、あれから30年たった今でも、やはり自分はこの「卑劣漢だが泥棒じゃない」という言葉のまんま生活し、行動しているように思えるからだ。「あの頃は若かったから」じゃ済まないのだ。この言葉、さっきのように言い換えると、「悪いことはするが、卑怯なことはしない」ということである。
えー、卑怯って悪いことじゃん、とか、どうせ悪いことするんだったら卑怯なことしたって同じじゃん、とかとか言えるわけであるが、それら突っ込みを全否定しつつ行動する。そのせいで、時には、卑怯なことをしないあまり、その代わりとってもひどく悪いことをしてしまうことも有り得ることになる。あるいは、自分のやっていることが卑怯じゃなければ、悪いことやっていても良心が痛まない、という鉄面皮的なことも可能になる。
というわけで、行為の全体的な効率や、良し悪しの平均レベル(良い+悪い割る2)を向上する、ということと行動原理がまったく異なることになり、すこぶる現代的でない。と、まあ、そういう人間になってしまったのである。たぶんね。
そういえば、小林秀雄はドストエフスキーについて素晴らしい論評をたくさん残しているけど、ミーチャはうまく扱えなかったみたいだ。カラマーゾフの兄弟について書いた文章も未完で終わっている。というのは、最初にアリョーシャ、そしてイワンの問題を素晴らしい手腕で描き出した後、当然、小説のプロットに沿って、次はミーチャの出番になり、ミーチャに付き合いながら小林秀雄も書き進めるのだが、ミーチャを追っていても「論評」が出てこないのである。明らかに、それまでの論評の高い調子がトーンダウンし、恐らく、彼も書き続けることができなかったと思われる。それで、ミーチャが杵を持って憎い親父を殺しかけた辺りの疾走するミーチャの行動劇ぐらいのところで、彼の論評も未完で終わっているのである。
オレはミーチャに影響されたけど、まあ、庶民的な意味でのドラマの一番面白い部分をミーチャが担っているわけで、人気ドラマの主人公みたいな扱いでもあることから、彼は大衆的なヒーローにはなっても、哲学や批評には向かない、とも言えるかも知れない。
そんなミーチャに対して、なんと言っても哲学そして思想に大きな意味を持つ人物として、次男のイワンがいる。恐らく、例の、三兄弟で誰が好き?の問いで、イワン、と答える人はほとんどいないんじゃなかろうか。ミーチャをして「イワンは謎だ」とか「イワンは墓だ」と言わせしめ、アリョーシャは「イワン兄さんだってしょせんはくちばしの黄色い、生を愛するはつらつとした若者なんですよ」といったりしていて、フョードルは、ミーチャを憎みアリョーシャを可愛がりイワンは嫌っている。なんだか、イワンはあまりよい人間として描かれていない。
小説家としてイワンがよく書けていない、というのでは決して無くて、うーん、と、いうか、作者はあまりイワンに愛情を注いでいないようにも見える。自分の思想の否定的な部分を託して、色々なことを言わせたり、させたり、した挙句、結局、狂死で終わらせようとしている。
超有名な「大審問官」の劇詩を、イワンがアリョーシャに語って聞かせる場面については、ここで実況中継して繰り返すことはしないが、うん、ここは必読箇所なことは100パーセント間違いない。ものすごい洞察力であり、ここばかりは思想家として天才の技であり、小説家としても驚異的な手腕を縦横に見せ付けている。
さあ、この大審問官の劇詩の中にキリストの再来の姿が出てくる。ドストエフスキーにとって生涯を通して最大の関心事だったイエスキリストが、ここで小説に出てくるのである。たしか、彼の作品で、これ以外の長編群には出てきたことはなかったんじゃなかったっけ(白痴ではホルバインの絵としては出てきたね)
そして、もう一箇所、ゾシマ長老が死んで、アリョーシャが僧庵に帰ってきて、棺の横でお祈りをしながらそのまま寝入ってしまい、そして見た夢にも、イエスキリストが出てくる。彼は夢の中で、ゾシマ長老と二人で、ガリラヤのカナでの貧しい人たちの婚礼の席に現れたイエスの最初の奇跡を見るのである。甕にいっぱいに汲んできた水をぶどう酒に変え、婚礼に呼ばれた客を喜ばせる場面である。この後、夢から覚めたアリョーシャは、僧庵の外に出て行き、夜の満点の星空の下で一種の悟りを開く。
ああ、しかし、この場面の美しさには、手を付けたくない感じだな。この場面を読んで俺は何百回泣いたことだろう。
元へ。すなわち、だ、この小説で、イエスは二回現れている。一回目はイワンの元に、二回目はアリョーシャの元に。イワンは破滅し、アリョーシャは未来に向かって立ち上がる。しかし、その二人に等しくイエスに立ち会わせる、というのは、なんだか素晴らしいことだな。
では、ミーチャは? うん、ミーチャは、なんだか楽園に住んでいる。イエスが手を差し伸べる必要を感じないような、神の国に住んでいる。ミーチャは賛美歌の光の中に住んでいる。つまり、美醜渦巻く娑婆に住んでいる。矛盾してうまく言えないが、ミーチャは祝福された人として生きている。
さてさて、イワンだが、ところでこの小説で僕がもう一つ好きなのが、このイワンが取るいろいろに不可解な行動の場面なのである。フョードルを殺した本当の下手人に下男のスメルジャコフというのがいて、イワンは彼に計三回会いに行くのだが、その三回分の描写の駆け引きがとっても素晴らしい。
それからなんと言っても、3回目の会合から帰ってきたイワンが、自室に横になり幻覚を見るシーンである。イワンは譫妄症にかかっており、幻覚には悪魔が現れ、こいつが延々とイワンを苦しめるのである。で、この悪魔って言うのが、ただの没落した貴族の末裔かなんかのサロンの年老いた居候みたいなルックスで、全然悪魔っぽくなく、どうでもいい下らない無駄話、あるいは荒唐無稽な滑稽談、似非哲学な話しなどなどをひたすらイワンに向かって喋り散らす
これは、いいねえ、何度読んだか分からない。
さてさて、思いついたことを書き散らすだけでも、止まらないな。この調子で書いてれば本になったりしてね。でも、こんなエッセイじゃなあ
というわけで、切りが無いし、夕飯の支度しないといけないし、これで止める。それにしても、ウィークデーの忘年会の疲れのせいで、お酒がすでにまったくNGだ。こうしておとなしく文章書き飛ばすなら、なんとか、って感じ
では、これから酢豚を作ることにしますわ、おほほ