ここしばらくは、お寺やら仏像やらそんなことについてばかり書いている。
やはり、先日行ってきた、京都と奈良にはずいぶんと面白いものがあったのである。さて、今回、書き残しておきたいのは、宇治の平等院に立つお堂、鳳凰堂についてである。
この鳳凰堂と呼ばれる左右対称のお堂はあまりに有名なので、これまで、本でも、新聞でも、テレビでも、さんざん紹介され、ほとんどすでに見たような気になっていて、今さら見に行くのも面倒だな、と思っていた。それに十円玉の裏に彫られているありふれた図柄という感じもあった。しかし、今回の京都行きでは、ひと渡り見ておくのもいいだろう、ということで、折からの雨の中、平等院へ向かった。
まあ、いくら美しいお堂だ、と言っても、たかだかきれいに左右対称になっていて、それが手前の池に映りこんで縦方向にも上下対称に見える、いかにも俗受けする趣向じゃないか、などと高をくくっていたのだが、これは自分の完全な間違いだった。さて、お寺の入口を入って歩いて行くと、この鳳凰堂の右端に到着し、そのまま半円形の池の周囲に沿って歩いて行くような順路になっている。右端から、正面、そして左端へ抜けて行き、それから石段を上がってお堂の裏手へ回る。
お寺やら、庭園やらなにやら、日本の歴史的建造物は、もう既にずいぶんの数を見ているはずなのだが、この鳳凰堂には心底驚いた。いわゆる、その、コンポジションがあまりに完全無欠で、仮に感想を求められても、完璧な構成美だと思う、とでもいう月並みな言葉以外に思いつきもしない。それは、恐ろしく優雅で、どの方向から見ても、常に新しい美しさの発見を提供し続けていて、一箇所にとどまることがない。しかし、この大きな建造物は、そこに、その形で、静止して、在るわけで、なんとなく化かされてでもいるように感じられなくもない。見物している人間は、ある角度から、ある距離を持って眺めることを強いられるのだが、自分の居る物理的一点から、人の眼が持つ視野角で見ると、お堂の、真ん中の幾重かの屋根、そして左端と右端の突出した部分、その上に乗っかっている屋根、渡り廊下、などなどといった造形が、ある遠近法的な比率に従って、近いものは大きく、離れたものは小さく、そして、若干見上げる視線のために、各造形は微妙に視覚にしたがって歪むわけなのだが、それらの大小に歪みを持って変形された屋根やらなにやらの各造形が、形容しがたいほど完全な形で緊密に調和を保っていて、ただの一箇所の傷も見当たらない。そういう視覚体験が、百メートルはあるであろう池の半周を歩いている間じゅう、ずっと少しずつ変化しながら、常に眼に快感を与え続けるわけだから、これは、なんと言うか、たいしたご馳走である。
一体、これだけのものを、本当に計算ずくで計画して作ったのだろうか、そんなことが人間にできるんだろうか、なんらかの偶然の力に頼ったのだろうか、本当に不思議だ。自分にはそんな忍耐力はないのだが、このお堂のコンポジションを詳細に数学的に解明して行けば、きっと、いろいろな神秘的な数比が、至るところに見つかり、そして、すべての造形は、単純で美しい数列に変換できるのではないだろうか、そんな風に思えた。それで、その数列を組みなおすとそれが一編の楽譜になって、音楽として美しい旋律を奏でるのではないか、そんな風にも思えた。
あの完璧なコンポジションは、お堂の大きさ、人間の大きさ、視野、そして、その視覚体験を作り出すために計算して置かれた池、といったものの総合で生まれるものなのは確かのようで、本当の凄さは、やはり、そこへ実際に行ってみないと分からないはずのものだった。写真や映像じゃどうにもならないものというのは、やはり、あるんだな。
ところで自分が行った時は雨で、池はお抹茶のような薄緑色に濁っており、お堂の水面への映り込みは見えなかった。晴れた日や、雪が降る日や、いろんな季節に行ってみたいな。
空間だけでなく、きっと時間の方向にも何かを表現してくれそうだから。