書いていることが非常に偏狭なので独り言シリーズとさせてもらう
さてと、歌ってのもいろいろだわな
むかし、もう30年ほどもまえ、地元の飲み屋でジャズギターのおっちゃんと知り合いになった。横浜界隈では名前の知れたプロのギタリストだそうで、ただ、さすがにそれだけで食ってゆくのは無理で、あれこれ仕事をやってた。ケニーバレルを尊敬する人で、そのプレイは、とても自然体で、湧き出るような楽しさのある素晴らしいものだった。モギさんという人で、オレはギーモとか呼んでた
そのギーモがある日、「女性ジャズシンガーってだれでもなれるんだぜ」と言う「まず、女で、そこそこ音痴じゃなけりゃ、必ずジャズシンガーになれる方法があるんだよ、だから、おい、お前もなってみろよ」と横にいる女の子に言ったりしている。ギーモいわく、習得する要素が5つだったか、それぐらいあって、それを一つ一つ身に付けるだけで、才能もなーんにもなくてもシンガーになれる、っていうのだ
「でも、まあ、みんな同じで区別がつかないみたいな女性ジャズシンガーになるけどな、それでもクラブで歌うなら十分だ」
その当時、自分も女性ジャズシンガーを時々は聞いていたので、これには納得できた。何でかと言うと、アマチュアの女性ジャズシンガーは、みーんな同じ歌い方をするのに気づいていたからだ。うん、たしかに、あれなら練習すればできそうだ、難しくもなさそうだ。発声の仕方、声の調子、節回し、リズム感、振り付け、表情、どれをとっても判で押したように同じで、経験の浅い若いころの自分でも分かる。それにしても、何でだろう? と不思議に思っていたものだ
ギーモによると、それは簡単なことで、女性ジャズシンガー養成の学校や先生の流派みたいなのがあって、その連中が開発した手法が、生徒に蔓延しているだけだそうだ。ギーモはプロのジャズギタリストだったから、そのへんは事情通だ。でも、一体、どんな教え方で、生徒を大量生産するんだろうな
この前、いきつけのライブ演奏バーへ行ったら、若マスターがいきなり、僕に、「林さん、なんで女性のジャズボーカルの人って、こういうカッコ(と言って、腰を折り曲げアゴを突き出す)で歌うんですか」と無邪気に聞いてきたから、大笑いしちゃったよ。これなんか、その流派の手法のひとつだよな。なんかさ、人差し指かなんか立てて、それをフリフリして、「ぼうや、いい子だからうるさくしないの」みたいな、あの振り付けは一体なんなんだ
何にしても、全体から感じられる印象を一言で言うと、「感情過多」なんだよね
なんでまあ、あんなに一生懸命に感情を、歌や、声や、顔や、振りに出さないと気がすまないんだろう、理解に苦しむ。「恥ずかしがらないで、自分をさらけ出すのよ、そうよ、思うがままに歌って御覧なさい」ってなところだろうか。しかし、感情が垂れ流しになっている歌ほど聞きにくいものは無い
人は、どんなに悲しいことがあったって、いきなり知らない人、あるいはそれほど親しく無い人に、自分が悲しいことを切々と訴えたりはしない。誰かれ構わず他人をつかまえちゃあ泣き言を言うような人は、ふつう、常識的にはおかしい人とみなされるはず。他人に自分の悲しみを分かってもらうことは、とっても難しいことで、普通はごく親しい人にしか伝わらないし、伝えようともしないものだ。そういう節度をみな持っているはずなのに、歌になるとどうしてそれができないのか、あの人たち
だってさ、歌を聴きに来ている人たちは、ほとんどは他人だ。その他人に向かって、感情まるだしで悲しみを切々と訴えたって、ふつうは引いてしまうのが正常な反応じゃないか? それだからこそ、その感情を音楽に乗せて届けるわけで、悲しみなり喜びなり自分の感情があるとして、それを吐き出すんじゃなくて、「歌」として「音楽」として調子や型を整えて表現しなきゃダメじゃないか。それで、ようやく他人にも伝わるってものよ。
あの典型ジャズシンガーたちは、そういった音楽の基本をすっ飛ばして無いか? あと、ちょっと古いが昨今はやったゴスペルにもそれが現れてるな。見ていると、恥ずかしくてしょうがないっすよ、あの笑顔。あれは日本演劇の伝統? うーん、あまり知らないが昔の新劇の流れを汲む演技なのか?あるいは、日本流シャンソンの流れなのか? あれは、あれが好きな人たちは楽しめると思うのだが、俺はしょうじき勘弁だし、第一、ジャズやブルースでそれやらないでよ、と言いたくなるわけだよ。うん
だいたい、むかしの学校教育の音楽では、めったやたらに口を大きく開けて「おおらかにのびのびと元気よく歌いなさい」と教えたのであるが、あれは間違いじゃないのか。あのアゴがはずれそうなぐらい口を縦に開けて歌う中学生だかのコーラスを見てると、軍隊かなんかを連想するぜ。実は軍隊式なのに、それをやらせるのに「自分の気持ちをせいいっぱい表に出して表現しなさい」という理屈をくっつけて画一教育する、っていう手口はずるくないか。
ゆとり教育がさいきん悪く言われるが、ゆとりが悪いってより「個性重視」が悪いんじゃないか? 個性を伸ばすとかなんとか称して、個性をやたら大切に扱って、自分の好きなように表現しなさい、なんてやると、だいたいが人間ってのはたいした玉ではないわけで、単に混乱したり、あげくのはてには孤立してないか心配になって他人を観察して真似するようになり、それで集団を作って画一化するという結果に終わるのがオチじゃないか。
それに対して、個性を無視して型ばっかり教えると、少なくとも、みんな同じことをやっているので、自分は他人と一緒だろうか、と心配する必要はまったくないわけだ。それで、いつも同じことばかりやらされてるから、それこそ自分の個性は隠れたところで疼き始めるわけだ。それでだいぶ時間がたって、大きくなって、ようやく自分だけの個性を表現しようとしたときに、無理やり型を習わされていたおかげで、その自分の個性をすんなりと正確に、その型に乗せて表現できるようになっている、と、こういう道筋になるんだと思うがな
だからさ、「個性」とか「心」とかヤクザなものは置いておいて、「カッコ」を真似するわけ、つまり「カッコつける」、これだよ。カッコつける、って軽薄って響きがあるけどぜったいそうじゃないな。音楽はまずはこれが基本だよ。そう思ってみると、ブルースなんかやってる日本人ってだいたい頭でっかちなやつが多く(自分も)、そんなんより、ロカビリーとかロックンロールとかやってる、いわゆるヤンキーの人たちの方がずっと演奏うまいな
やつら、面倒なこと考えずに、女の子にもてたいからカッコつけるじゃん。それで、まずカッコを真似して、カッコから入るわけだ。それが功を奏するんだろうな、音楽の場合。やつらの方が、厄介で面倒なブルースやるやつらよりぜーんぜん出来がいいのはそのせいじゃないか、ははは。その意味でオレは失格だ、落第だ、留年だ。留年20年ぐらいだ。だいたい、こんな長い文章を書き飛ばして管を巻いていること自体に、ブルースやるには問題がある。大昔、どこぞのだれかに「親のカネで大学行ってるやつにブルースができるか」と言われたことがあるが、一理も二理もある、うん
そういや、むかし、テレビの歌謡ショーに小林幸子が出てて、「演歌歌手はどんな歌だって歌えるんです、だって心がありますから」って言ってた。それで、そのあとジャズのスタンダードを歌ったんだが、あれはジャズではない、やはり演歌だ。どんな歌にだって「心」がある。そりゃそうだ。では歌に一番大切なのは「心」なのか? というと、小林幸子の歌う演歌ジャズは、「そうではない」ということを証明してないか? つまり、心は同じだよ。いずれ、愛してる人に振られたとか騙されたとか不幸を歌ってるんだから。でも、決定的に違うのはスタイル、つまり「型」の方なんだよ。
若いころはうぶだったから、演歌の心とブルースの心が違うことを躍起になって証明しようとしたりするもんだ。それこそ、黒人差別の歴史と呑気な戦後歌謡の歴史やら持ち出してあーでもないこーでもないってさ。でもね、そんなの結局変わらないよ。心なんかみんな同じさ。違うのは型だけ。だから、心を優先して歌を教えちゃだめ、型を教えないと。型から入るわけ。心はそれができるまでおあずけ
ところでいつの世にもどこの世界にも天才ってヤツはいるもんで、その人たちはこの限りじゃない
さて、オレは大学時代はただの黒人ブルース狂のエレキ弾きだったのだが、その裏では、生ギターの弾き語りで一生懸命ロバートジョンソンを練習してた。ロバートはオレの本当のアイドルだったのだ。いやあ、ヘタだったね。聞くに堪えないわ。若いせいなのか、やはり感情のコントロールができていなかった気がする。自分の感情が丸出しになっちゃう傾向があったような気がする。
でも、オレは、むかしの戦前ブルースの、あの、繊細な、震える糸のような、淡々とした、殺伐として乾ききった、あの調べ、あの演奏、あの歌声に夢中だったわけだ。その点では、決してつかみ損なってはいなかったと信じる
ある日、バンドの練習のあとメンバーと酒を飲んでいて、ブルース論争になった。当時は、今みたいに空気を読んで仲良くする、という習慣がなかったので、すぐ議論になり、すぐに口論になり、すぐケンカだ。それで、オレが、ボーカルのヤツと言い争いになり、こう言ったのだ
「だって、たとえばロバートジョンソンなんかエモーションのかけらもないじゃないか」
そしたら、ボーカルのそいつ、即座に、目をむいて
「なに言ってやがる、ロバートジョンソンなんかエモーションの塊じゃないか!」
いまだに覚えてるな、懐かしいな、ああいう、今考えればまったく不毛な論争だが、少なくともブルースを愛する気持ちは誰にも負けないという事実だけが真実で、それゆえの言い争い。
しかしなあ、その後のオレの観察によると、黒人ブルースマンの多くに共通の傾向ってあって、どうも若い頃は、繊細で淡々と歌っているが、歳を取るにしたがって誇張がひどくしつこく歌う人が多い気がするのだが、こんなこと言うと怒るやつがいるかな? マディーだって、そう聞こえるな。日本では、老境にあって達観して枯れて渋くなる、というのが年寄りの典型みたいに思われているようだが、黒人ブルースマンは反対じゃねーか?
ブラウニーマギーっていうギター弾いて歌うブルースマンがいる
とあるビデオで、このブラウニーマギーがだだっぴろい野外でフィールドレコーディングしてる風景が出てくる。恐らくかなり古い白黒映像でぼろぼろの画質である。まだえらく若いブラウニーマギーがスーツに帽子かぶって優男みたいで、脚組んでイスに座り生ギターを抱えて、へらへら笑いながら、Keyto the highway風の歌っている。また、その人を小馬鹿にしたような軽々さが、本当にカッコよくてね、ホントしびれる
そして、そのビデオの後半になって、60年代の白人フォークブルースブームの頃に撮られた同じブラウニーマギーの演奏が流れるのであるが、こちらはカラーで、音もしっかりしている。ブラウニーマギーは坊主頭でフォークギターを抱え、堂々と自信たっぷりに歌うのだが、その曲が、前のへらへら歌っている映像で演奏してる曲と同じタイプの曲なのである。この差はすごい。いや、この歳とったマギーもいい、たしかにいいが、あのかつての、微妙としかいいようのない、その場で、その時しか見られないような吹けば飛ぶように繊細な、根本的に孤独で、運命そのものの不安定さをそのまま歌にしたような、あの独特の味わいは、さすがにきれいさっぱり、無いのである
いやー、変われば変わるもんだ
なんかさ、日本風に、若いときは元気で、老人になって枯れる、というのとまったく逆になってるのは、なんだか面白いね。心って沈黙して隠れていて、それで、そのせいで表現が微妙に震えている様が、オレには一番感動的だな。そのせいで、結局ブルースに惹かれるのである、たぶん。心をはっきり表に出して表現し始めたリズムアンドブルースになって、なんとなく敬遠するようになっちゃった。
さてさて、日本の典型女性ジャズシンガーも、日本語の歌を歌わせると、けっこううまい。これまた昔、地元のバーでそういうおばちゃんに会ったことがある。僕がギター弾いて、おばちゃんがKansascityをやった。これがまた、もう、例の判で押した常套句ジャズボーカルで、あーあ、と思いながら演奏してた。終わってから話してみると、やっぱりどこぞのジャズスクールで習ってるそうだ。それもずいぶん長いらしい。でも、さいきん英語で歌うことに限界を感じて、日本語の歌を見直して歌い始めてるのよ、なんて言ってた。その後、日本語の歌を別の人をバックに歌っていたが、これがうまいのである。心に響く。
これはなぜでしょう
よく、ジャズの黒人の心を日本人は持っていないが、日本人の心ならば自然に正確に表現できる、と、例によって「心」のせいにする考え方がある。オレは、前に書いたように、これは間違ってると思う。心を真似するのは別に難しくない。難しいのは「型」の真似だ。要は、おばちゃんの通っていたジャズスクールは、その大切な「型」を教えて無いんだと思う。その代わりに、日本人の生理的素質でも簡単に真似ができる「安易な型」を教えてるわけだ。この「安易な型」は、もう、これは、音楽界では特許ものじゃないか? これを誰かが発明して、広めた、というのが実体じゃないかな
まあ、とにかくだ、型を真似するのは難しいよ。たとえば、ジミヘンでもだれでもいいから、正確に、その人の「型」を真似てみると分かる。そう簡単にはできない。したがって習得に相当長い時間がかかり、苦労も並大抵でない。それで長い間その型の真似をずっとしていると、他の別の「型」の習得にまで手が回らない。それで、そのままやってると、例えばジミヘンだったら、結局ジミヘンのクローンができる。さて、クローンになっちゃってから、ふと自分を省みると、なんとオレはもう37歳じゃないか、あ、いけね! ジミヘンは27で死んでたっけ! と、まあ、こうなってしまう
つまり、型の真似はできるが、それを自分だけの個性とドッキングさせるのはかなり困難だということ
やれやれ、まあ、こんなところで放言は止めとくかな。こんなことばっか言ってると友達減るだろうな。でも、まあ、ここまで忍耐して読みゃしないからいっか。それにさいきん、放言しない生活もめんどくさくなってきたし、ときおり、まあ、このように
ちなみに、コレはしらふで書いており、しかも、今は、よく晴れた休みの昼、窓の外は、陽の光を受けた木々の緑が美しく、気持ちのいいそよ風が吹いている。さて、キーボード相手に管なんか巻いてないで、下界に出て、清涼な空気を吸って、それで近所で蕎麦でも食うかな
おわり