ツレヅレグサ・ツー ッテナニ? |
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蝋梅
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鎌倉で、蝋梅(ろうばい)というものを初めて見た。東慶寺の境内は、こぢんまりして、なかなかいい感じに手入れがしてあり、特に梅の木が一面に、たくさん植わっている。ほとんどが枯れ枝だったのだけど、ひとつだけ、小さな花を控えめに咲かせている木があって、あれ、と思ってみてみると、蝋梅という札がかかっている。地面に向かって開く小さな花をつけていて、花びらの色が、黄みがかって、半透明な、何とも形容しがたい色あいで、まさに蝋で作った細工ものを思わせるのである。それも、精製されたやつじゃなくて、ずいぶんと昔の時代の古びて変色したような蝋の感じを忠実に出していて、そのあまりの微妙さと、きれいさに、びっくりした。あとで調べると、蝋梅にもいろいろな種類があって、真っ黄色の花をつけるものもあり、僕が見た、あの蝋細工っぽいのはむしろ少ない種類に属するようである。それにしても、いくら見ても見飽きないほど、絶妙なバランスでできた色で、こうして散文で描写するのも惜しく、きっと、昔のように短歌かなにかで讃えるのが、一番よいのだろうね。そうでもしないと、あの美しさは伝えることができない感じ 少し前、東大の副理事かなんかが電車で痴漢行為をしたとかで捕まり、大々的にニュースで流れていた。僕はテレビを見ないので、ニュースはふだんYahooをアクセスしてもっぱら読むだけなのだけど、このときはたまたま動画ボタンをクリックして、動画でこのニュースを見た。どこの局のか知らないけど、いわゆるテレビニュースとして、東大副理事痴漢事件をやっていた。これを見て、改めてホントにテレビっていうのは困った代物だなあ、と思った。女性アナウンサーの声は、「信じられません」的な声のトーンで原稿を読み上げ、副理事の顔写真がでかでかとした「東京大学副理事誰某」のスーパー入りで、ポン、と出たと思ったら、非難めいた調子のナレーションをバックに写真がゆっくりとズームバックして行く。その次は、痴漢現場の電車のホームが写り「痴漢行為が行われた何某」というスーパーが入る。この演出が意図的でおかしい、という風に見えない眼はどうかしていると思う。世間の晒しもの、というけど、まさに重罪人扱い、というか、東大副理事は実はこんな人だったというのをひそかに喜ぶ俗物根性をあおるために、これでもかとテレビが演出をかけているのは明らかで、つくづく呆れてしまう。世の中には「罪」というものが必ずあって、それは大きなものから小さなものまで満遍なく存在して、完全になくせる性質のものではなく、むしろよくよく見てみると、時には必要なものですらある、ということをしっかり認識していればいいと思うのだが、上記テレビはそうはなっていないし、行政機関もひっきりなしに「他人に迷惑をかけないようにしましょう」と宣伝している。「罪はどんな小さいものでも、罪であり、悪です」ということを吹聴している人たちを僕は信用しない。僕ら一般民衆を、お互いがお互いの小さい罪の監視役にするということで、どれだけ僕らのエネルギーが浪費され、眼が曇ってしまうことだろう。おまけに、小さないざこざも絶えない結果にもなり、暗黙の相互信頼はどんどんダメになって行く。信頼関係というのは、寛容の精神から成り立っているはずで、多少の迷惑や多少の罪は多めに見るというところに生まれるのだと思うよ。こういう小さい罪を互いに指摘しあって、糾弾し合って、そして、まずは私たちの身近なところから悪を減らして行くことで世の中をよくしていきましょう、というバカバカしいナイーブさに侵されてゆくうちに、大きな悪は堂々とまかり通るという結果になるのだと思う。大きな悪に対抗しようにも、小さな悪にかかずり合っているうちに、時間もなければ余裕もない、ということになるんだって。こういった状況は、いわゆる権力側にとってはありがたいことで、テレビというものは権力側の意図を汲んでそういう状態に人々を引き入れる役割をしている、っていう風にすら見える。だから、東大副理事がどうの、納豆ダイエットがどうの、どこぞのやらせがどうの、と言ってテレビに失望したりするなんていうことは、いい加減やめた方がいいと思うよ 伊香保温泉に行ってきた。駅からバスに乗って二十分ほどで、温泉街の入り口に着く。伊香保温泉街の中心は、石段街という、いくらか蛇行してずっと続く石段の両側に、みやげ物屋や旅館が立ち並ぶところである。町の全体がかなり急な斜面に建っていて、そのせいで細い道が乱脈にうねうねと走っていて、石段街に着くまでしばらくふつうの町中をくねくねと歩いて行く 連休なのに人通りも少なく、人の住まない家や、町の電気屋や写真屋、雑貨屋などのお店もほとんど閉まっていてさびれている。昭和初期に建って新築されることもなくそのまま廃屋になったような家が点々とあり、朽ち果てた配管、割れて曇ったガラス、色あせた看板をさらして崩れ落ちそうになっているさまは、変な話だがなかなかの見ものだった さて、石段街に出ると、さすがに人通りもあり、廃屋のたぐいはなく、それなりの活気もある。しかし、かのニセ温泉騒ぎで伊香保もやり玉に上がり、客足が遠のいてすたれていると聞いてはいたが、たしかにそのようである。それと同時に、さいきんは秘湯ブームで大型温泉地はすたれる傾向にあって、客は、近代的に整備された便利な温泉地より、不便な隠れ家的温泉地へ押しかけるようになっているはず ここ石段街も、石段がけっこう新しく、おそらく伊香保がブームでお金が落ちて潤ったころ石段を新調してしまったものと思われる。同時に、お店や旅館も内装外装を新しくし始めたのだけど、その途上でブームが去った、という格好をしていて、古びているところと新しいところがなんとなく中途で終わって不調和な感じがする。石段を古いままに取っておいて、建物も古臭いままに放置しておいた方が、今では、温泉情緒を求めて、お客さんが来たかもしれない 温泉街の周りにこれだけの数の廃屋がある、というのは苦しい状況を物語っているのだけど、時の移り変わりの激しさや、うら寂しい感じを漂わせていて、実はけっこう気に入ってしまい、宿に着くまでずいぶんとあたりをさまよい歩いた。泊まった宿のお湯も、かけ流しで、薄く黄みがかった土色に濁った湯がいい感じだった さてさて、翌日にまた石段街に出てみると、さすがに連休なか日とあってけっこうな人手だったけど、半数以上が若者である。以前、奥まった場所にある湯西川温泉へ行ったときは、歩いている人たちの大半は大人で、その町並みを見回しただけで、潤って満足、というオーラが感じられたものだけど、ここ伊香保はそのまったく逆である。客が来ないせいで価格を思いっきり下げていて、そのせいで若者が集まるらしい 昼飯にたまたま入った、石段街の上の方にある、処々やという蕎麦屋が旨かったので、いまネットで調べてみたら、処々やは京風たこ焼き屋で、蕎麦のことはまったく書いてない。そういえば一階はたこ焼きで若者たちが群がっていたっけ。横の目立たない入り口から2階に上がると、広々とした落ち着いた年季の入った畳部屋があって、そこで蕎麦が食える。天ざるを頼んだのだけど、地元野菜の天ぷらも蕎麦も抜群に旨かった。一階は若者、二階は大人、というわけか 伊香保温泉は、僕の大好きな映画「浮雲」の中の不倫先の温泉地で、その昔は、超女たらしの竹久夢二の行きつけの場所でもあり、まさに大人のための温泉街だったわけだ。それが、今では、老舗の蕎麦屋が若者ターゲットの京風たこ焼きになってしまう変わりようで、生き残りにもいろいろな形があるんだなあ、と思う。でも、まあ、しかし、伊香保温泉、いろんな意味でなかなか楽しめる温泉地だった。お勧めである そういえば、いま、都立美術館でオルセー美術館展をやっているね。ゴッホの寝室がポスターに使われていて、電車の中でしばらく見ていたが、結局、彼がものにした上質で堅い樹木のような確実さと、自分の生活している雑然として発散しつつあるぶよぶよな現代との、途方もない距離のことばかり頭に浮かんできて、どうにもならない。ゴッホの絵に再会するのは楽しいけれど、たぶん、行かないだろうな、と思っていたある日、とある駅の構内に別のポスターが貼ってあった。これは、マネの、ベルト・モリゾの肖像だ。ああ、この絵がオルセーにあったんだ、気が付かなかった。黒と灰色と肌色だけで出来たようなこの絵の美しさにはいつも感心する。特に、画面を半分以上を占める「黒」の扱いの微妙さと大胆さは、他の誰にもないマネだけのものだ。とても現代的で、生き生きしていて、変な言い方だけど、「社交の楽しさ」のようなものを発散している。今の、このやりきれない現代を、もう一度、こういう生気あふれる人の交流に戻すことだってできるんじゃないか、と、ちょっと勇気づけられる絵だね。やっぱり、見に行こうか。上野の雑踏もまたいいかもしれない。博物館の建ち並ぶ場所というのは、やっぱりいい空気が流れているからね、その空気を久しぶりに吸いにいこうか、そして、学生の頃に旨くて感動した都美館レストランのカレーでも食いに行くか NHK受信料の強制徴収はずっと言われてきたけど、改めて、訴訟第一号のニュースを読むと、なんか腹が立ってくるね。自分は、NHKを辞めて外へ出たのだけど、だからといってNHKの批判側に回る、ということはなく、今でも、NHKにはそんなに厳しくない。受信料でやっているNHKの存在意義も認めるし、このまま存続して行って欲しいとも思う。僕は、家にテレビを持っていないのに衛星料金を口座払いしている超優良ユーザーなのだけど、まあ、NHK以外に楽しみがないような下町や田舎の淋しいおじいさんおばあさんのために払っているようなもので、寄付のようなものである。というわけで、自分の好きでNHKにカネを使っているわけで、そのせいでNHKの不祥事にもヤラセ問題にも厳しくない。だって、寄付というのは、寄付を求める人をとりあえず信頼して、リスクを承知で勝手に払う、という行為だから。でも、今回のように、受信料が「強制」という意味合いを具体的に持ってくると、話が変わってきて、なんとなくイヤな感じを持つね。そうい意味じゃあ、今回の「強制」は、来るべき将来の「番組有料化」そして「民営化」のための第一歩なのだろうね。「罰則のない受信料」という、国民相互の信頼に基づいた思い切り性善説なこの制度は、今では日本以外の国ではすべて失敗し、維持できているのは日本のNHKのみ、ということになっている。世界的に超レアな制度も、とうとうなくなってしまいそう、というわけだ。昭和以前にはまだあった日本国民の暗黙の相互信頼も、もうほとんど消えつつあるしね。諸外国がそうなように、自分のことは自分で守らなくてはいけない、そういう国際標準な社会になりつつあるわけだろう。まあ、鎖国の江戸時代が長かったから、それが終わってもそのノリが減衰するのにしばらくかかって、それで、さいきんようやく普通の国になった、ということなのかな。でも、まあ、信頼に基づいた平和な社会っていうのは、当分は来そうもないね ユーチューブみてたら、アメリカン人の音楽サークルのステージ風景がアップされていた。みんな僕と同じ中年で、とってもほほえましい感じ。それで、ふだんギターしか弾かない人が、ステージ上で、友達に「ギターばっかり弾いてないで、歌えよ、おい」としつこく言われて、しかたなしに、テレながら、ビートルズのヘイジュードを歌い始めた。これが、またすごい音痴なんだけど、ちゃんと歌詞が「言葉」になっていて、あの歌の、ちょっと悲しくてほろ苦いみたいな感じがじかに伝わってくるように感じられて、ちょっとびっくりした。よくいわれる、アメリカ人が英語の歌を歌うと、発音だけは完璧、という当たり前の事情もあるのだけど、やっぱりそれだけじゃなくて、なぜか、心に届く歌声だったのである。かなり下手なので、それでもそんな感じがするのが不思議だったのだけど、やっぱり「歌」というのは「心」だなあ、と思った。下手であっても、なんであっても、本当に心があるものは伝わるんじゃないのかな ときどきジャムセッションで演奏するんだけど、ドラミングというのは不思議なもんだなー、とつくづく思う。ギターとか歌とかって、聞いたときの感想がとてもはっきりしていて、上手いナー、とか、下手だナー、とか、騒々しいナー、とか、オリジナリティがあるナー、とかなんとか、そういう音楽を評価する言葉がすぐ出てくる。それに対してドラムについては、ある人のドラムを聞くと、さいきん、なぜか、ドラミングが、若いナー、とか、年季が入ってるナー、とか、若竹を割ったみたいだ、とか、エロいナー、だとか、そんな言葉が出てくる たとえば、ギターっていうのは、メロディーもリズムもトーンもぜんぶ使いほうだいなので、がんばってあるかっこいいフレーズの練習をしておけば、弾いたそのフレーズの「力」だけで、一時的になら客を何とか納得させることができる。それに対してドラムがたとえば延々と8ビートのパターンを叩くとして、このフレーズって単純なもので皆が同じフレーズを使うから、あとはニュアンスで差を付けるしかない。これって、一朝一夕でできることじゃなくて、年季のたまものとして出てくるものなんだろうね。もちろん、ギターだってそうなんだけど、ギターにはフレーズという逃げ場がたくさんある。それに対してドラムには逃げ場がとっても少ない。 あるとき、セッションですごく上手なプロ指向のドラマーとやった。別の機会に、アマチュアでわりとテキトーな、歳の行ったドラマーとやった。その感触というか、肌触りというか、歴然と差があって、若いドラマーとの演奏は、メチャクチャ上手いんだけど舗装道路のように単調で、年寄りの方は頻繁にリズムをミスるんだけど、でこぼこ道みたいに波瀾万丈で、自分の歌とギターがどっちに触発されるかというと、圧倒的に年寄りドラマーの方だった。ま、これって、オレが年寄りだから気が合うっていうのもあるけど(笑) ミュージシャン同士が内的に交流するって、ほんとわけの分からない世界で、相手と引き合うときって、上手い、下手ってのが実は二の次だったりして、結局、相手を、音楽とはあまり関係なさそうな好き嫌いで判断してるみたいに思えることがある。ちょうど、恋愛の相手を選ぶみたいに、ルックスの善し悪しより、なんか分からない好き嫌いの力でくっついて離れられなくなる、みたいなのに似てる気がする。音楽仲間の場合、よく、気が合う、合わない、と言うけど、まさに、「気」が「合う」としか説明しようのないものが、あるね 朝のあわただしい通勤前、なにか文庫本でも持って行こうと本棚を見回したけど、どうもしっくりくるのがない。あ、もう遅刻しそう、といったところで「大江健三郎」というのが目に入り、手に取った。僕は実は大江健三郎は読まず嫌いなので、これは僕の本じゃない。奥さんに、これ誰の? と聞くと、たしか実家にあった本だと思うよ、と言っている。まあ、いっか、と、その「人生の親戚」という題名の本を持って家を出た 電車の中でさっそく読んで、ずいぶんびっくりした。何というか、自分の読みつけた本とあまりに感触が違ったからである。最初は、この人、文章下手なの? と思ったぐらい読みにくく、文が頭に入ってこない。ところどころ、文章の読み違いまでしてしまう。しかしこれは僕の問題で、いつもの自分の慣れた文章と、読点や文の順序が違いすぎていて、そのせいらしい そういえば、自分は、ここ数年、同じような本ばかり読んでいる。誰かというと、ヨーロッパやロシアの作家の翻訳本、文体が関係する日本の作家なら、まずは小林秀雄、それから、三島由紀夫、漱石、兼好法師、いや、やっぱり結局ほとんどが、ロシアやフランスの作家や哲学者だ。実に狭い範囲内の本を、ローテーション的にぱらぱらめくっているだけで、新しいものには手を出さなかった そんな状態で、いきなり大江健三郎を読むと、もう、カルチャーショックである。ノーベル賞作家をつかまえてカルチャーショックもないだろうけど、それくらい現代の文学やら現実やらから遠ざかっているのである。電車の中で読みながら、その文章の内容と文体への違和感がぬぐえず、それにしても、夢中になって読んでしまい、あっという間に会社に着いてしまった。それで、帰りの電車の中も同じく夢中になり、あっという間に家に着いた それで、結局、大江健三郎はどうだったか、というと、やっぱり僕が敬遠するはずの文章だった。何というか、この人、よほど知的な意味で苦しんだ人らしいように感じられて、苦悩のペンキがもうべったりと染み付いてしまっていて、翼を広げて空を飛ぼうにも、翼が貼りついて開かない、みたいな。うーん、何というか、僕はこういう人間にあこがれないし、なりたくないし、だから近寄らないようにしていたのだろう この人生の親戚という本は、最後の解説にも詳細がないのでよく分からないが、どうも彼の回りで起きた事件を題材にしたノンフィクションらしい。身障者の子供達や、広島や、妻や、友人や、そういったものが次から次へと登場している。もちろん、この本一冊だけを読んで、このような感想を述べるのは間違っていて、それは大江健三郎その人の実際の姿ではないはずだろう。それに、文学者というのはいろいろな顔を使い分けるものでもあるし しかし、やはり、読んでいて、あまりに奇怪に感じたので、ちょっと言いたいことを言っておきたい。それが何であれ、そういう気にさせるというのは作家にとっては良いことで、悪口には当たらないはずなので、いつもはネガティブなことを書かない自分だが、読んで思ったことを書いておく 彼の身の回りには、たくさんの理不尽、不幸、罪、そして罰、償いが渦巻いていて、そのすべてについて、その回りすぎる頭脳で、あまりに敏感に感じ取り、さらにいちいちそれらに捕らわれていて、それで、その宿命的な性格ゆえに、これらから逃げて自由になる望みについて、あまりに始めから絶望している、そんな、地面を這いずり回ることしか許されていない人のように、常に苦悩を引きずっている 彼は、これらの苦悩は、かつて古い時代には、とても大きく、深く、重く、畏怖の対象ともなりえた偉大さを備えていたことをよく知っているが、それらが、今の自分の身の丈にまるで合っていないことを、常に恥じているようにも見える 大きな罪を犯して、大きな罰を受け、そして大きな償いをして、それで高く駆け上がる、そういう精神の大きさというものを知っていながら、最初からそんな世界をあきらめている、あるいは潔しとしない。結局、代わりに何をするかというと、手で持てるくらい小さな「罪」を、それこそこれでもかというくらいたくさん犯して、それで、またそれゆえに降りかかる小さな「罰」を、これまた束になるくらい受けて、結局、小さな罪と罰を、山のようにたくさん集めることで、古いの時代にあった「質」という意味での罪と罰を、「量」で置き換えて、それで「償い」をしよう、という風に見える しかし、こういう「償い」では決して最終的な償いにならないことを、本人、分かりすぎるほど分かっていて、そこに彼の悲劇があるのだが、やはりそれは「大きな」悲劇にはならず、相変わらず「小さい」悲劇で、それがこれまた、次から次へと手をかえ品をかえ本人を襲い、本人も自覚して、甘んじて受けている。「これが自分という人間なのだ」あるいは「現代の人間という卑小な存在なのだ」「それでも生きてゆかねばならないのが現代という時代なのだ」という言葉が聞こえるようだ それで思い起こされるのが、先日、広島の原爆記念館へ初めて行ったときに感じたことだった。原爆というものが落とされた後の人類というのは、償って消し去ることの決してできない罪をおかした「スネに傷ある身」だ、という感想である。大江健三郎は、広島より後の僕たちは、もはや、このように、小さな罪と、小さな罰と、小さな償いを、積み上げる、望みのない作業を延々と続けるほかはないのだ、と言っているようにも聞こえる こういう感触から言って、彼は、この現代の、情報の氾濫、社会への信頼性の欠如、民主主義の行き過ぎ、堕落、インターネットによる価値の転倒、などなどによる人間の変容というものを、おそらく誰よりもいち早く敏感に察知して、そういう時代における、「罪の意識」、「良心の呵責」、「償い」といったものがどういう形を取るか、ということについて、未来を先取りしている。彼の、敏感すぎて回りすぎる頭脳がいち早く、それに気づいて、自らに、その重荷を科している それにしても、なぜ、ここまで地を這うように生きたり、生活したり、何やらしなくちゃいけないのか。本にはいろんな人が現れるけど、彼の、あの不自然な、唐突な、鋭敏さと朴訥(ぼくとつ)さがないまぜになったような文体に、登場人物めいめいが捕らえられていて、どうにもならない。そこまで苦しまないといけない、というのも、どういう了見なのか。やっぱり、はっきり言って大江健三郎は、僕は嫌いだ とかなんとかいいながら、相変わらず本は夢中で読んでいる 以前、たまたま手にした大江健三郎の本を初めて通して読んだときの第一印象を書いた。本は抜群に面白いけど、大江健三郎その人は好きになれない、ということだった。さて、もうずいぶん前に本は読み終わったんだけど、結局、読語の感想を言うと、ああ、こういう本に書かれているややこしい事々もすんなりと分かる年齢になったんだなあ、ということだった。最後まで彼を好きになることはなかったけど、たくさんばらまかれている哲学的主題などは僕にも相応に切実なものだったりして、たとえば、「感知しえるもの」と「理解しえるもの」の問題なんか、言われていることがなぜかよく分かったりする。「感知するものは、すべて、最後には理解しえるものだ」という命題がキリスト教的なものである云々も分かるね。僕はやはりそう考えていない。それで、そういうことがなぜ自分にとって切実なことかというと、よく分からないけど、自分は、理解することと感知することが合一だ、ということは承認しがたく、感知することと理解することが一致しないことを楽しみに生きている、云々、と、まあ、いいか、哲学をぶつ気分でもないや(笑) でも、こんな風に書いてすぐに思い出すのが、カラマゾフの兄弟の最後の方に出てくるイワンの悪魔だな。イワンは、感知することと理解することの同一を念じているが、チンピラ悪魔がそれを許さない。結局、その戦いの全体が、克明に描かれた絵画や、延々と転調を続ける音楽のように、詩になったり、芸術になったりしている。しかし、また、哲学か、やれやれ・・ それで、結局、大江健三郎だけど、現代のインテリの一つのありそうな行き方を表しているけど、僕は、ああいうインテリな人たちと一緒に暮らすのは勘弁で、かといって、これという方針も無い。それで自分は古典に逃げ込んでしまうんだな、結局、ああ、また哲学 とある韓国の大手の会社は、朝8時半に始まるそうだが、まず、始業時間より前に皆がばらばらと出勤し、部屋でくつろいだり、廊下で立ち話して、がやがやしているそうだが、8時25分になると、突然、廊下からきれいに人がいなくなり、みな自席について、それで、社内私設放送局が作った今日の訓示みたいなのが共聴モニターに流れ、そのあと、社歌が流れ、それでぴったり8時半に放送が終わり、そうしたら、いっせいに仕事が始まるのだそうだ。モニターで流れる放送は誰もまるで見ていないそうだが、静かに自席についているのは確かで、その光景は、軍隊を思わせるけど、生身の上官の代わりに放送されているビデオで、また、ずいぶんと物珍しいものだろうね。その会社で働く、韓国人のエキセントリックな友人に聞いた話 鎌倉へ、散策がてらに、親父の墓参りをしてきた。江ノ電が海岸沿いを走る七里ガ浜の、海の見える小さな霊園にある、今風のささやかなお墓である。花を飾って、お線香を上げて、お祈りを済ませて、さてどうしよう、と歩き出した。この日、晴れてはいたものの、あまりにひどい強風で散策は辛そうだったのであきらめ、北鎌倉の駅前の小さなお寺、東慶寺へ寄ってみることにした。いまごろは、水仙の花がきれいだと聞いたからである。入り口にかかったお寺の由来を見ると、ずいぶんとたくさんの文学者たちのお墓がここにあるようで、その中に小林秀雄の名前を見つけた。そうか、彼の墓はここにあったか。そのむかし、彼の本をあまりに読み込んだため、最近は敬遠ぎみだったとはいえ、小林秀雄は、間違いなく僕の心の師匠なので、この偶然が嬉しかった。小林秀雄のお墓は、こぢんまりして、しゃれた、いかにも彼らしいお墓だった。お墓の区画がなくて、裏山にそのまま続く一角に、小ぶりの石の五輪塔が、蝋梅と水仙を両脇にして、ちょこんと立っていた。そして、斜め前に小林家と彫った石の柱が立っている。五輪塔は、ずいぶんと古いもので、角が取れ、苔が生え、塔の周りには自生のシダが生え、辺りを草木が囲んでいる。ごく自然と、古びて、周りの自然と同化して行くような、このひなびた感じの演出は生前の本人によるものなのか、それとも親族によるものか、それともお寺さんか、いずれにせよ、僕のイメージの中の小林秀雄そのもので、ずいぶんと和やかな気持になった。彼の批評家としての文学活動はずいぶんと激しかったとも言われるけれど、僕には、その底に流れる、度外れてナイーブな、ほとんど、隠された羞恥心と呼べそうな、そんな心が見えていて、それでことのほか愛着を感じるのだなあ。それにしても、こんな素敵な墓に眠る、っていうのは、今では望むべくもないけど、元、文学青年だった親父も、鎌倉にお墓を移してよかったね。鎌倉へ行くと、そんないろいろな過去の人たちの親しい一群が、空気の中に漂っていて、自分たちを見守ってくれているような、そんな気分になるよ。とてもいい空気だと思う。 ずいぶんむかし、プロのカメラマンの人とお知り合いだったときがあった。あるとき、身内のパーティーで、その人がカメラ持ってときどき写真を撮るのを見ていたことがある。ふつうの人がシャッターを押すタイミングより、1秒から3秒ぐらい前にシャッターを切っていたのが面白かった。「さあ、みんな撮るよー、こっちむいて、はい」、で、バシッといくところが、この人は、「みんな」の「な」のあたりですでにシャッターを切っている。ときどきはファインダーも見ない。それで、素人さんの集まりだから気を使ってか、ちゃんと、最後に、ファインダーのぞいて、ふつうのタイミングでもシャッターを切っていたけど。まあ、縦横無尽に、とらわれることなく自由にシャッター切ってたなー、ああなると一種のパフォーマンスだね。なんというか、ジャズやブルースのアドリブ演奏で、歌の合間に、ギターやサックスで拍をずらして合いの手を入れる、そんなのに似ていた 仕事始めの日の夜は、早めに切り上げて、地元駅前の寿司屋ですし食ってビールを飲んだ。それほど高くない寿司屋で、実はあまり旨くないのだけど、それでも、カウンターで職人のおっちゃんに、「マグロとこはだ」とか言って注文して食うスタイルってのはいいね。大衆寿司屋だからおっちゃんたちも、気楽で、気さくで、こちらも気が楽だ。一皿、二皿と食っちゃあ、ビールを飲んでるとけっこうくつろぐ。ちなみに、すしで必ず頼むネタ、というのも人それぞれだと思うけど、僕はマグロとこはだだな。定番、という感じがするので。あと、理由はよく分からないのだけど、安寿司屋へ行くと、マグロ、かんぱちなどふつうの魚は味気なかったりするけど、なぜかひかりものはおしなべて外れがない気がする。いわし、あじ、さば、こはだ、と、ちょっと生臭いのを食って、ショウガつまんで、一息ついてビールを飲むってのが、これがまたよくてね 新年になると、なんだかんだでお雑煮のことで言い争いすることが多い気がする。お雑煮って、とってもローカル色が濃くて、みな、自分のところのお雑煮が正統だと思っているので、それがちょっとでも違うと、すぐにケンカになったりする。ここさいきんの元旦は、うちの奥さんの実家でお雑煮をいただいているのだが、東京育ちの自分としては、高松スタイルがなかなか慣れなかったのだが、ようやく慣れた、と言いたいところだが、うーん、どうでしょう。高松スタイルは、酒かす甘酒のように甘めでどろっとした白みその汁に、大根と人参を入れ、その汁で丸餅をどろどろに煮て、最後にセリを乗せて作る。で、その丸餅の中に、なんと、甘いつぶあんが入っている、という、東京育ちにはカルチャーショックな代物なのである。とはいえ、僕の実家は、親父が鳥取出身だったせいで、例年、元旦には東京風のお雑煮だが、元旦の次の2日には、前述の高松式雑煮からつぶあんを抜いた、丸餅と白味噌の雑煮を食べていたので、まだまだ慣れる下地はある。しかし、お餅の中から甘いアンコがどろー、と現れるのは、いやはや、どうも・・(実家のお父さんすいません・・) まあ、と、いうわけで、元旦の夕方、カミさんの実家から帰る途中、オレは2日の朝には東京式雑煮を食う、と宣言し、材料の買出しに、値段が高くて商品の質が悪い駅前のスーパーに寄った。ぎんなんと三つ葉が必要だったのだが、異様に高く、えー、こんなの買うの? とまず、ケンカ。それで、三つ葉じゃなくてセリでしょ? でもう一度ケンカ、それで、鶏肉がまた高く、またケンカ、と、笑っちゃうね。それで、結局、あまりに材料が高いので野菜類を買うのをやめ、最低限の餅と鶏肉だけ買って帰って、それで、翌日、責任を取って(笑)、自分でダシを取って、東京風お雑煮を作ったのだが、これがまた、いまいちうまくできない、そうなのである、僕は中華料理以外はできないのである。オーブントースターで餅を焼いたら、焦げ目が付く前にふくれてベチャベチャにくっつくわ、野菜はありあわせの人参とカブしかなく、薬味もないわ、さんざんである。でも、まあ、一応できあがったが、はっきり言って旨くない。そのせいで、正月気分にもならない、ははは。 かくのごとく、やはり、お雑煮は、代々の実家で、代々作っている人に作ってもらったものを食べるのが正しい。結局、カミさんの実家のお父さんの作ってくれた、高松雑煮の方が、うーん、やっぱり旨かったのである。 2日になってしまったけど、とりあえず、新年と相成った。元旦の昼に、神社へ行って、お賽銭投げて、お祈りして、鐘をひとつごーん、と鳴らして、百円のおみくじをひいて、早々の警告を読み(いまだかつておみくじがよかったことがない)、それで、配っている甘酒を一杯飲んで、おみくじを木に結んで、焚き火の前でしばらくぼんやりしてから、のろのろと出口へ、と、またまた、ふつうの年が始まった。新年というのは、まあ、毎年、かくも平凡に始まるものだ。新年早々の痛飲っていうのもここ最近はない。忘年会で疲れすぎていて、飲酒がままならない。しかし、新年からお酒で、まったり、あるいは、バカ騒ぎってのも、たまにはいいよね。それで、1月は、忘年会と新年会の疲れを癒すのに使って、2月は、おとなしくして、3月は、春に備えて準備をして、それで4月から本格稼動。と、いう風に、むかしはのんびり暮らしていたような気がするが、そうもいかぬがこの現代。まあ、とにかく、せわしい世の中になったもんだ 住宅街にぽつんと一軒だけあるイタリア料理屋さんにお昼に行ったときのこと。こぢんまりしていて、店内の音楽もかすかに流れているだけなのでとても静かで、ときおりナイフとフォークが触れ合う音が聞こえてくる、その、町の料理屋さんという感じが、とても懐かしかった。マスターは初老の人で、長年この店をやっている、いまだ完全現役という感じのとても元気そうな人だった。僕らが入ってほどなくして、腰が曲がって杖をついているけどちょっと大柄な老人が一人でよちよちした足取りでお店に入ってきた。マスターがすぐに「あ、社長」、と呼びかけたところをみると、元社長で、とっくに現役引退して、この店の近所に住む常連さんらしい。「今日は、ほら、柔らかいメニューは、この白菜とあさりのアクアパッツァですから」と勧められるまま注文し、カウンターによっこいしょ、と腰を下ろした。それで、白ワインのハーフデキャンタを注文して、出てきた料理をゆっくり食べながら、一口ワインを飲み、それを繰り返しながら、ときどき何とはなく皺だらけの目で前を向いて遠くを見ている。それで一人で食事を終えると静かに帰っていった。その光景を見ながら思ったのだけど、その様子が只者じゃないような感じを醸し出していたので、過去にはずいぶんと第一線で活躍した人じゃなかろうか、と勝手に想像した。すべては過ぎ去って、それで、今はこうして目立たない、ほとんど無名の町の料理屋で一人、残された時を、特にあわてることも、悲しむこともなく送っているんだろうな、と思うと、単純極まりないけどとても純粋な辞世の句を詠んで、それで去っていった戦国時代の武将をなんとなく思わせるものがあって、もののあはれは、こんな小さな街角にもあるんだなあ、と思った 外で泊まると、ここぞとばかりテレビを見る。家にテレビがないので新鮮きわまりなく、夢中になって見たりする。ところで、先日、ひさしぶりに数時間テレビ見たんだけど、面白いことは面白いけど、あまりの低俗さにビックリした。こりゃ、ひどいもんだね。低俗だって分かって見ていれば大丈夫、などと無用心に眺めていると、少しずつ脳がやられて行きそう。でも、これ以上ひどくはならなさそうなので、折り返し地点なのかもね、と呑気にしてるのが一番いいかな。テレビを悪く言っても仕方ないし、それって、オレはバカだ、って言っているのに等しいことだからね。いずれにせよ、いまの世の中、自分のことは自分で守らなくちゃいけないってわけだ。 ほとんど年に一度の中華街もうで、みたいなのをやってきた。何のことはなく中華街をぶらぶらするだけだけど、ホント隔世の感があるね。中華街へ初めて行ったのは、たぶん、三十年ぐらい前のことだったと思うけど、そのころの中華街には独特の情緒が漂っていたよね。目抜き通りはともかく、狭い路地はまだ舗装されずに泥道だった気がする。なんか、そこで婆さんが野菜を洗っていたり、ニワトリが歩いていたり、時折自転車が通ったり、それで、人出も少なく、濃厚に生活感があった気がするなあ。もっとも、中国本土と勘違いしているかもしれないけど。 そんな、当時あまり経験することもなかった異国情緒の中にいて、そんな光景に囲まれていると、こう、なんというか、恍惚とした、時間が止まっちゃったような感じを受けることがあって、そういう時間って一体なんなんだろうね。実は、ここ最近、知らないところとか歩いたりしていると、ふとそういう感じに襲われることがよく、ある。そういうときは、なぜだか、いつも、ああ、俺ってなんのために生きてるんだろう、という風に思うことが多い。別に生きている意味が分からなくなる、というんじゃなくて、何と言うか、こんなに充実した時間が自分のすぐそばにあるのに、何をあくせくしているんだろう、というか、こういう完結した時間があるのなら、その一瞬を生きれば、それでもう十分じゃないか、というか。うーん、これって問題かな? でも、こういう怪しい感じ、というのは、やっぱり何らか「過去」が囁きかける瞬間なのだろうね。 ところで、中華街だけど、やはり三十年近く前に初めて入って食べた上海飯店に、毎年必ず行く。お店の入れ替わりの激しい中華街で、大型の老舗でもないのに、あんなラーメン屋みたいな小さな店が三十年以上続いている、というのもたいしたもんだ。どうやら、あの料理人のあんちゃん(もうおじさんだが、僕にとっては、初めて見たときと変わらずあんちゃんである)は、中華街の寄り合いには非協力的らしく、共同施設建設寄付金の名前リストに入っていなかったり、頑固で豪快なあんちゃんらしいや。店のとなりにできた世界チャンピオンの店、とかいうまるでどうでもいいミーハーバイキング屋の立ち退き圧力にも負けなかったみたいで、バイキング屋、そのせいで上海飯店を囲んでL字形になってる。 調理はずいぶん適当になったけど、味は変わってないね、昔のままだ。あれほど適当に作って同じ味というのも感心する。昔から調理を見ているので、同じ料理でもずいぶん調理法が変わって来ているのを、僕はずっと見てきたんだなあ。最近なんか、下ごしらえをあまりしておらず、ピーマントリ(鶏モモ肉とピーマンの炒め)をたのんだら、ガチガチの冷凍モモ肉を2枚取り出して、解凍してそのまま料理してたもんな。昔は、肉類はあらかじめきちんと下味をして冷蔵庫に入れていたんだけどね、最近はその場で即席に作っている。でも、料理ができあがると、なんだかんだいって、昔と変わらず、旨い。 結局、中華街へ行って、変わらないのは上海飯店と、あと若干のお店、というだけで、あとはもう、ほとんど遊園地だね。情緒も何もなく、ただただ、人出がすごい。そんなわけで、いまさら中華街へ行っても、いたずらにくたびれるだけなんだけど、それでも、上海飯店がある限りは行くだろうな。 さいきん会社に入ったちょっとユニークな彼を入れて一杯飲んだ。彼は理科系で、いまだに、自分は、宇宙の果てがどうなっているのか気になってしかたない、なんて言っていた。そうか、そういえば自分も中学生のころ、4次元だとか、宇宙の果てが気になってしかたなかったっけ。相対性理論だ、宇宙論だ、と、その辺のブルーバックス系のを読んじゃあ、やっぱり分かんないや、とずっと腑に落ちない状態だったっけ。いつしか追求もやめてしまったけど、結局は、「分かる」というのがどういうことなのか、というところに落ち着くのだろうね。それで、「分かる」ということを「分かる」ために色んな経験をして、それで、対象が何であっても「分かった!」と言えるものを次々と経験して行く、というのが人生なんだなあ、といった感じになって行った、という訳だ。こんな風に人生を考えると、いきおい、「分かる」はずのものにまず当たりをつけて選択して、それを「分かろう」とすることになるのだが、まあ、これは勝算が無いものには始めから手をつけない、ということも意味する。じゃあ、「分かりそう」か「ダメそうか」という判断をどうするかというと、これはもう単なるカンによるしかない。自分が「何に取り組むか」ということを、カンと偶然に任せるということは、自分の天分がもろに自分を左右してしまう、ということになり、大丈夫か? と不安になるかもしれない。そんなときに、自分を信用する楽天家気質は重要だね。いや、それにしても、最初から「分かる」勝算がある、ということは、もう、既に対象を「分かって」いるわけで、なにをそれ以上苦労するのか、という気もする。でも、その苦労が、人生なんだなあ。苦労、ってのも面白いよね。「分かる」のは一瞬だけど、「苦労」には時間がかかる、それが違うよ。そうしてみると、人生っていうのは「時間がかかることを好んでする」ためにあるんだろうね。もし、すべてが分かってしまえば、人生は一瞬で終わってしまい、人生なんて必要ないからね。「時間がかかる」ということに感謝するのはこういった瞬間だな。僕の好きな言葉に「一杯の砂糖水ができるのを待つ時間は、生きた時間だ」というのがあるんだけど、たかが砂糖水ができるのを待つ時間にすら「感謝」する、というのは素晴らしいことだね。 さて、宇宙の果てだけど、これを「感覚的に分かる」ことについては勝算がないね。とはいえ、自分は、昔も今も、宇宙の果てっていうのは、なんかすごく静かなところにあって、なめらかな曲面になっていて、手で表面をなでることができる、という風に想像する。それで、その表面は鉄みたいに硬いんじゃなくて、なんか可塑性のもので、指でぶすっ、と穴を開けられる。でも、宇宙の果てなはずなのに、指を1cm挿入しただけで、果てであることを止めてしまわざるを得ないわけなので、結局、果ての向こうにまた何かあって、そこにも果てがある、ってことにならざるを得ない。で、上記の指をぶすっていう行為が繰り返し、繰り返し、続いて行く、ということになって、そうこうしているうちに、すべてがまばゆい光に包まれて、次の瞬間にはまた暗くて静かな果てに戻る、みたいな光景をイメージする。「果ての向こうにまだ何かある」という風な言葉を発しただけで、これが無限に続くことが確定するわけで、宇宙の果て、という無限を思わせる言葉と吊り合っている気がするので、あながち間違った想像じゃないのかもね。あと、宇宙の果てに指を入れて穴を開ける、という連想も、エロチックで、生命の連鎖を思わせて、これもまあいいのかもよ。逆に、この宇宙に生命がまるで無かったとすると、すべての想像は無意味になって、果てはあっても無くてもいいことになるし、時間があっても無くてもいいことになるし、結局のところ、宇宙がある、ということだけで十分で、それ以外の性質は必要ないゆえに無い、ということになりそうである。まあ、この辺になると、純然たる哲学の問題で、勉強しようとしてみると途方もなく、大変だ。ただ、やっぱり、こういうことを考える、ということは面白いことだなあ 兼好も、自慢だった話、というのを載せているので、自分もひとつ。人と映画を見ているときのこと。貧乏から若くして外国に身を売られ、娼婦になりながらも強く生きてゆく女の物語。娼家の、女の部屋でのシーンで、壁にかけられた絵と女が一瞬ツーショットになる場面になったとき、僕はこの絵を知っていたので、「マグダラのマリア」とつぶやいた。相手は「へえ、そうなの」 それで、さらに「ティッチアーノ」と言うと、「そういうことには教養があるね」と感心されて、とっても得意だった とあるハイエンドオーディオ技術者の話を読んだのだけど、20Hz以下の重低音がどう聞こえるかを実験するために、1500Wのアンプ2台、計3000Wで、畳2畳分の大きさの発泡スチロールでできた振動版を振動させて音を出したんだそうだ。 はっはっは! すごいね。 で、20Hz以下になると、いくら音量を上げても、目の前で発泡スチロールの板がものすごい勢いで振動しているのが見えるだけで、まるで何にも聞こえなかったそうだ さいきんうちの奥さんが次々と古い日本映画を借りてきて、僕もときどき一緒に見たりするのだが、いまから四、五十年以上前の日本というと、どうも男が最低最悪に描かれているものがとても多く、ちょっと閉口する。強いものにヘイコラして、弱いものに威張りちらし、女をバカにしていて、ずるくて、弱いくせして見栄っ張りで、能力はなくて、頼りにもならない、なーんていう男のオンパレード。それに対して、登場する女はだいたい、不幸だけどしたたかで、芯が強くて、逆境の中を立派に生き抜いていたりする。とまあ、そんなわけで、昔の日本の男が嫌いになる映画を見ていると、当時の遊郭の話なんかもよく出てくる。いわゆる赤線のある町は、有名な吉原とかだけじゃなくて、色々なところに点在していたらしい。映画とかを見ると、建物や街の雰囲気に独特の風情がある。で、家から一番近いところで、武蔵新田の駅近くに小さな赤線があったというので、自転車で多摩川を3,40分走って行ってみた。大田区の中ほどのここら辺になると、ほとんど崩れそうなぐらい古い建物にまだ人が住んでいたり、店を出していたりするので、それを眺めるだけでもけっこう面白い。それで、当の赤線の名残りの建物は、スーパーの裏に3軒並び、黒いタイルでびっしりと覆われている、と聞いていたのだが、行ってみると、やはりもう跡形も無く、いらかの小さな分譲住宅と住宅予定地になっていた。まあ、仕方ない成り行きだろう。それで、そこから商店街をちょっと行ったところの角に、ものすごく古ぼけた蕎麦屋があったので、遅い昼飯に入ってみた。この蕎麦屋の店内は感動的だった。つくりがひどく昔風で、砂壁はほとんどはげてしまっていて、一つだけある座敷の畳はほとんど擦り切れて、木の椅子の上に張ってある畳地は、長年の人の汗だかなんだかを吸い込んで、煮しめたがんもどきみたいに醤油色に染まってテカテカしている。お店は、たぶん70を過ぎていると思われるじいさん一人だけで、なんと給仕から料理からお会計まで全部一人でやっていた。古いせいで色がずれてしまったテレビからはNHKの民謡番組が流れていて、さて、それでは、と、瓶ビールを注文して変哲ないガラスコップに注いで飲んだけど、ホントいい気分だった。食った蕎麦も出汁がきいていて旨かった。お代を払うときもじいさん、もちろん、そろばんである。しかし、とっても元気なこのじいさん、恐らくだいぶ昔からの老舗の蕎麦屋だろうから、近くにあった赤線の昔を知っているだろうな。聞いてみたい気もするけど、それには、この店の常連にならなくちゃね 昼をかなり回った時間に、赤坂を歩いていて目についた老舗の中華料理屋に入ってランチを食べた。エビと野菜の塩味のあんかけごはんと汁ソバのセットである。この両品とも、なんというか、ひさしぶりに「プロ」の作ったものに出会った、みたいに思ってびっくりした。あまりグルメ評論家みたいなことは言いたくはないのだけど、かけごはんも汁ソバも、きれいに磨きあげられた曲面みたいに、完璧に仕上がっていて傷なし、という感じ。何尾か入っていたエビは仕上げが微妙で、エビ一尾一尾の個性までわかるようだったし、塩味のあんはこれ以上は無理だろうというほど滑らかだった。汁ソバのスープは、雑味がなくて単純で、必要最低限なものだけ入れて、余計なものは一切入れずに作った、という感じで、塩味もとても深くて微妙で、ふた切れ乗っていたチャーシューは点心として焼き上げたもので、ちょっとすえたような発酵したような伝統の香りが漂っていて、ただ肉に味付けして焼いただけでは絶対にこうはならない、という風格がある。しかし、たかがランチセットなのにたいしたものだ。ランチ終了間際に入ったので、客は僕一人で、後半は、お店の料理人から給仕までみなが出てきて、奥の円卓でにぎやかにまかない飯を食っていたのだけど、日本人は一人もおらず、全員中国人だった。参考までに、お店は「鼎秦豊」で、支店がいくつもある有名店だけど、こういうのって、そのとき担当した料理人いかんというところもあるので、運がよかったのだろうね。それにしても、ホンモノのプロの仕事というのはたいしたものだ。 手品はわりと好きである。タネあかしに興味はあるけど、単純に不思議なだけで満足してしまう。中学生のころ、仲間うちで手品がちょっと流行ったことがあって、本などで覚えたカードマジックなどをお互いにやり合う、みたいなことをしていたことがあった。その中で、自分で考え出したスゴイ手品を一回だけ友だちに試して成功したことがあり、これは大優越感だった。それは、手品の本に書いてあった法則で、人は、カードを選ぶとき、いちばん自分に近く突き出されたものを無意識に取ってしまう、というのだけを使った超テキトーな手品である。まず、相手にカードを一枚取らせて、それを山に戻す。それでカードを切るのだが、そのカードの場所だけはちょっとしたテクを使って覚えておく。さて、それで、カードを開いて、相手にカードの半分を選んでもらい、残りのカードは捨ててしまう。このとき、当たりカードの入っている方を微妙に相手に向かって突き出して、そっちを選んでしまうように誘導する。半分になったカードを軽く切って、また同様の手法を使って半分選んでもらう。カードが十数枚ぐらいに少なくなってきたら、今度はカードを床の上に裏返しに広げて、やはり、その半分を選んでもらい、選ばれない方を捨てて行く。この時も、当たりカードが入ってるのを相手に近く配置して誘導する。まあ、なんとも心もとない原理なのだが、その友だちが運よく、たまたま、すべて当たりの方を選んでくれたのである。それで、もう4枚ぐらいになっちゃうと、テクニックもへったくれもなく、あとはまぐれで当たるのを期待するだけ、となる。で、4枚、2枚、まで来て、お、あと一回だ、これでこいつが当たりを引けば、オレはスターだ、という感じで見守っていると、はたして、友だちは見事に当たりカードを自分で引いてくれて、最後に残った一枚をめくると、大当たり、となった。この友だち、ホント、すごくびっくりして、確かギャラリーも二人ぐらいいたんだけど、みな、かなりビックリして、僕はスター扱い。イヤー、気持いいねえ。ほとんどマグレなのに。それで、僕は鼻高々で、どうやってやったのかしつこく聞かれても教えてやらず、もう一回やってくれ、との声にも耳を貸さず、このスゴイ手品は、友だちの間で、伝説として残ったのであった かくのごとく、最小限の労力で、最大限の効果を得るためには、かなりをマグレに頼るのであるが、伝説として残るという実質的な世の中に対する痕跡を残すことができた、ということからも、マグレというのは人間の実力のうちなのである(笑)
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