ツレヅレグサ・ツー
            ッテナニ?

十一 十二 十三 十四


守護霊
未来
ダビンチ
感謝
コーヒーの逆襲
リラックス
シリアスな番組
ファミレスにて
瞑想
回転寿司
オッチャン
即興演奏
スパゲッティ
四川人
古本屋
脳細胞
念ずる心
浮雲
官僚
ハウス
ブルースええなあ
昔と今
兼好法師
携帯

 

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守護霊

さいきんなぜか守護霊の話がよく出る。僕は、守護霊という実体があるのかないのかは分からないけど、この人生を、自分の心身ひとつで渡るのか、なんらか先祖の力を借りるのか、という話にすると、とても自然な気がするのだけど。先祖というのは、極端に言えば、遺伝子として自分のどこかに刻まれているはず。それで、人間はきっと自分の持っている遺伝子の情報の大半は使っていないと思うんだよね。そう考えると、眠っている「いい遺伝子」を呼び覚ますことは、とても意味のあることになる。もちろん、「悪い遺伝子」を呼び覚ませば、悪くなる。その「呼び覚ます」ためのあれこれの方法論を、「先祖の力を借りる」と表現すれば、いいんじゃないだろうか。ここで「極端」と言ったのは、「極端に物理的ぽい考え方」という意味で、ベルグソンの信奉者で、かつユングに共感した自分としては、「遺伝子」だけではなく、無意識の向こうに、布を海に浸すように広がっている「過去の海」から、「良いもの」を吸い上げて、現世の意識の上に呼び覚ます、という風に、心理学的あるいは形而上的に、もっと広げて解釈したい。自分は孤独ではないんだ、という意識はやっぱり必要で、古今東西いろんな芸術作品に見つけることができると思う。実存主義世代には、孤独感はけっこう心身にしみついているものなのだと思うけど、きっと「その次」が、あるんだよ。


未来

3年後に実現したいことをいま計画するのは別にいいと思う。それを、よく「夢」などと言うが、それもいい。しかし、現在の状況から「夢」までの間の3年間に行われることが、すべてスナップショットのように現在見えているとしたら、これは「未来」とは言えず、これは「現在」である(日食の予告と同じ)。なので、途中の3年間のスナップショットを詳細に検討するのを止めて、「未来のあるべき姿」(夢)を作ることに集中する。つまり良い夢を見続けることで、3年間は、きっとおのずから形成されてゆくんじゃないかな。たぶん、抱えきれないほどの「偶然」が、その人をよってたかって助けてくれるよ。それで、3年たったら、きっと今見ている「夢」とぜんぜん違うけどもっともっといいものが得られるかもしれないよ。この考え方は、たぶん、楽天的というより、運命論だろうね。ま、どうだか?


ダビンチ

ダビンチがデッサンについて語るに「ものの中心にはひとつのうねうねした中心波があって、あたかもそれが表面波になって広がるように、その全範囲に向かって行くその特殊な仕方を、ものの対象の中から発見すること、それが秘訣だ」と言ったそうだ。すごいことを言うんだね。たしかに、ダビンチを始めヨーロッパの古典画家たちの絵には、複雑な表面波のうねうねした振動が見える。分かりやすいところで言うとルーベンスなんか、そのものだね。ただ、大切なのは、出来上がった作品がいかに複雑でも、その起源には、中心にうねうねの波がたった一つあるだけだ、と言っていることだろうね。たった一つの小さな種子が、破れて、成長して、広がって、入り組んだ大きな生きものになる、そんな創造的な進化を、画家の中で行う、ということなんだね。すごい言葉でびっくりした。


感謝

人が生きていくうえで一番大切なことは「感謝」だろうね、さいきんそんなことばかり思う


コーヒーの逆襲

ずっと昔に安売り屋で買った500gのコーヒー豆、あまりにまずいのでほとんど飲まず、ずっと棚の奥に放っておいた。今朝、たまたまコーヒーが切れてしまったので「しかたねーな、このくそマズイの飲むか」と思い、棚の奥から乱暴にずるずる、っと引っ張り出したら途中で袋が開き、大量のコーヒー豆が、棚の中やら、床やら、冷蔵庫の下やらに、ばらばらー、とこぼれ落ちた。このコーヒー、棚の中で「チクショー」って思ってたのかな、あるいは、僕が無意識でずっと捨てたくてしかたなかったのかな? ま、どっちでもいっか。残り少なくなったから冷凍庫にでも入れとくか。で、夏になったらアイスコーヒーにでもしよっかな


リラックス

どこぞのミュージシャンが言っていたけど、ステージに上がったとき、リラックスして演奏することと、単に気楽に演奏することを勘違いしている人が多い、とのこと。そうだよね。たしかに、その人が特に何もしていないとき、それをはたから見ると、リラックスしてる人と、リラックスしてるつもりになっている人はルックスがあまり変わらない。でも、事が始まると、その違いはまったく埋めがたい。本当にリラックスしてる人は、心身に余計な力をかけていないので、周囲に対する反応のスピードが桁違いに速いんだよね。これって、何も演奏に限らず、何にでも言えていることだろうね。では、どうやったら本当のリラックスの境地に達することができるかと言うと・・ それが分かっていたら苦労しないよ! でも、たぶん、日ごろの地道な努力を長い時間積み上げて、苦労して、それで最後の最後に、何もかも忘れてぐっすり眠ることだろうね。その点、きっとお百姓と同じだよ


シリアスな番組

先日、とある式典で、優秀賞を取ったここ一年間のテレビ番組がダイジェスト的に5,6本流れ、それを次々と見ていたのだが、まとめて見せられるとけっこうなダメージだった。どれもこれも、不幸と困難、そしてそれを克服する力がテーマになっていて、改めて人間が生きて行くって大変だなと思った。しかしその力をどこからもってきたらいいものやら。テレビって、世の中のエネルギーの再配分なのかな。シリアスものだけじゃなくて、お笑いや下らない番組も含めて、エネルギーの余った人たちが、電波を使ってエネルギーを与えたり、売ったり、ばら撒いたりしている光景にも見える。うーん、エネルギーにこだわりすぎか


ファミレスにて

外勤の空き時間にファミレスに一人で入り、昼飯を食った。そのときに斜め前の席に座っていたのが、太っていて地味なそこそこの歳の女性。で、注文した日替わりランチが出てきて食べ始めたのだが、特においしそうに食べているのでもないのだが、うつむき加減に、挽肉をひとかけ、インゲンを一本、とゆっくり食べていて、なぜだか分からないのだけど、一口一口いつくしんで食べているように見えたので、けっこう感心してちらちら見ていた。そうこうしているうちに、今度はその隣に、茶髪のロングヘアをカーリーにした、とっても美人のお姉さんが座った。席についたとたん、煙草に火をつけ、カバンから書類を取り出し、どうやら一線のキャリアらしい。それで、このお姉さんも、かの地味な女性と同じランチを注文した。さあさあ、このバリバリのお姉ちゃんは、きっとファミレス飯をバカにするように、しゃかしゃかと食って出て行くんだろうな。だって、どうせいつもは高くて旨い飯ばかり食べてるんだろうし。やっぱ、あっちのイモ姉ちゃんの方がしみじみとした味があるよな、と僕は勝手に思っていた。ところが、注文したランチが出されると、このお姉ちゃん、ナイフとフォークを手に、なんか、ことのほか楽しそうに、このおいしくもないランチを食べ始めた。おっ、これは意外だ! このお姉ちゃん、けっこうやるな、この二人、なんだかんだで互角だ! と思って、とっても面白かった。  まあ、それにしても、こんなどうでもいいことを観察してる自分は、ちょっと変態ひとつ手前? というか、ヒマなんだな。


瞑想

瞑想をやったことのある人に聞いたのだけど、今まで2回、この世のものじゃない幸福感を味わったそうだ。何と説明したら分からないけど、この世のものじゃない、としか言いようが無い、とのこと。社会生活のタガが完全に外れるときに幸福感は来るのだろうね。逆に社会生活は人に苦しいことばかり強いるけど、何のためなのだろうね。たぶん「進化」を止めさせないためなのだろうけど、では、何で人間は進化しないといけないんだろうね。ここまで来ると、誰かが仕組んでいる、としか考えようが無い。「自然」か、「神様」か、あるいは、その意志をくんだ生身の「人間」か


回転寿司

休みの日にあんまりおいしくない町の回転寿司屋へ行って昼から大瓶のビールを飲むのに長年あこがれてるのに未だにやったことない。そういう店の前を自転車で通りかかるたびに、大瓶飲んでるオヤジをうらやんで見てる。回転すし屋がみなガラスばりなのはそういう効能なのかね


オッチャン

バスに乗ってたら、後ろに座っていた土方っぽいオッチャン2人が話していて、一人が「しかたねえから仕事行くけどよ、ほんとは家帰って、酒でも飲んで、ペタッと寝てえよ」と言ったのを聞いていたく感心。ペタッと練る、ってのはスゴイ、というかかわいいというか。バタンと寝るでも、ゴロッと寝るでもなく、ほんとにペタッと寝そうなオッチャンだったからさ。オレってここずっとペタッと寝たことなかったな、と思った


即興演奏

この前、ジャムセッションでエレキギターを即興で演奏していて思ったんだけど、ギターのフレットは横に長くて、縦に6つ(弦が6本)の2次元的エリアがあって、そこに、なんか幾何学的な模様をイメージしながら弾いているんだね。これがピアノだったら、横一列の1次元的でしょ? ドラムの人はたぶん太鼓の配置に基づく3次元感覚があるはず。で、サックスだったら、両手指の押さえるコンビネーションを変化させるという0次元的感覚があるのかも。こうしてみると、皆、音楽を奏でることは同じでも、本当に違う「空間的見通し」にしたがって演奏している気がする。音というのは「時間」に沿って出てくるもので、即興演奏しているときも、過去に弾いたフレーズを継承して未来のフレーズを組み立てる、という後戻りできない時間の流れと共に作業しているんだけど、実際にギターを弾いているときの自分を思い起こしてみると、先に言った「2次元的な、視覚的な見通し」に頼って演奏していたりする。こういうところに、本当に不思議な「時間」と「空間」の関係が現れたりしているんだね。この相容れない両者は、何か事を創造するときに、どうしても必要なもので、どちらかだけではいかんともしがたい、という風に思う。ということは、とりもなおさず、「時間」と「空間」は、まったく異なる性質を持ったもの、とみなせると思う。ずっと昔、アインシュタインの相対性理論の解説本を読んだとき、時間tにcだかなんだかを掛け算して、x,y,z,ct(かな?)などと時空間を定式化していたのに、すごく違和感を感じたのは、直観としては正しかったんだね。だって、何で空間を表すx,y,zと、時間を表すtが同一の式に出てくるわけ? こういうことをやることで、得るものはたくさんあるのだろうけど、きっと、同時に、何かを取りこぼすはずじゃないかな(たとえば音楽)。これって、ベルグソンの思想そのものだけどね。でも、先日、アインシュタインの語録のようなものを読んだのだけど、アインシュタインその人は、ほとんどベルグソンと同じことを言っていたりするんだね、ホント不思議。


スパゲッティ

トマトが余っていたので、中華しか作らない僕が、昨日、数年ぶりにトマトソーススパゲティを作った。さて、洋皿が無いので中華皿に盛って、食卓に運び、さあ食おうかと思ったところ、今度はなんとフォークが無かった。しかたないから箸で食ったけど、箸で食うスパゲッティっておいしくないね


四川人

四川省に住んでいる日本人のブログでたまたま読んだんだけど、四川人の男女には、愛している、と憎い、の区別が無いんだそうだ。あるのは、関心がある、関心がない、だけで、関心があれば一緒にいて、僕ら日本人からは愛憎劇を演じているように見えても、それが普通のことで、それが愛情なのか憎しみなのかは問題にならないのだそうだ。日本だと、まずは、確かに関心があって、一緒にいて、そのあと愛憎関係が生まれて、楽しかったり、快適だったり、苦しかったり、悩んだり、という劇が続くんだけど、四川では「興味がある」で終わりだというんだから、よくよく考えてみると、すごく不思議なカルチャーショックだね。ところで、四川料理の味付けは、通常、十種類以上もの調味料を混合して、それぞれの調味料が、引き合ったり、反発したり、強調し合ったり、互いの味を緩和したり、という複雑な関係を作り出して、その混合された複雑さをそのままの形で好む、という一面があるんだけど、これを連想するね。


古本屋

いつも百円で文庫を買っている近所の老舗の古本屋で、今日初めて本を売りに持って行ってみた。ゴッホに関する評論二冊である

これ、買っていただけますか  う〜ん、これねえ、二冊で五百円ですね  えっ、そんなにもらっていいんですか、けっこう汚いし  五百円でいいの?  はい

という会話だった。百円の文庫を一冊買って、計四百円もらった。店を出て、ああ、これで吉野家で牛丼が食えるんだ、と思った。百円玉四枚が、なんとなくいつもと違う気がした。物々交換でもらった金だから、一応まっとうにお金をもらったという気になる。銀行のキャッシュマシンからお金が出てくるのとやっぱり違うね。ずいぶん昔、ストリートミュージシャンを一時間だかやって五百円もうけたときと一緒の感じだった。


脳細胞

たまたま買った脳の本を読んでいるんだけど、脳細胞の数は産まれてから死ぬまで同じで、こわれても決して再生しないんだって。どこかで聞いたことがある気がするんだけど、えーそうだっけ?と思った(笑) 神様にとって細胞の複製を作るなんて事はいとも簡単なことだろうに、脳細胞については止めたんだね。「種」としては増えたりするだろうけど、「個体」としては増減無しなんだ。「これでやって行きなさい」ということだね。「精神」は物理的な場所を占めないからいくらでも大きくなれるけど、外界との関わりは厳しく制限しているというわけだ。勝手な連想としては、大きく膨らんだ精神の袋から、狭い口を通って、風神みたいに風を吹かせたとする。精神がどんなに大きくなっても、吹き出し口(肉体、というか人間)の大きさは変わらない。だから、精神が大きくなるほど風は強くなる。同時に吹き出し口には大きな負担がかかる。精神と肉体が比例関係にあったら、風の強さは万人で同じ。肉体が大きくなったら精神の風は拡散して無くなる。まあ、よく分からないけど、色んな秘密があるんでしょう


念ずる心

先日、音楽つながりのある人と飲みながら話したんだけど、人が何かを念ずる心というのは、その人が死んでも残る、逆にそれ以外は残らないんじゃないか、とのこと。その通りだと思う。怨念話が往々にして出るのはそのせい。死んだある人が持っていた念ずる心が、生きている人にくっついて、それでその心を具現化して行く。ひとしきり死んだ親族やらなにやらの話をしたあと「僕らがやっている音楽が時につれ発展して行くのもそういう理由だよな」ということで意気投合した。僕はジミヘンドリックスが好きだけど、たしかにジミは僕の心の中に生きているからね、決して死んではいない。ジミは死んだがその音楽が生き残ったんじゃなくて、本人が生きている、そんな感じを持つんだよね、感覚的に。というわけで、音楽ってのは、不思議なものだよ、本当に。


浮雲

成瀬巳喜男監督のこの映画を見て久々に泣きました。主演は、若かりし日の高峰秀子、そしてすでに中年の森雅之。戦後の動乱の中で、生活に疲れて堕ちてゆく穴のあいた心と、そんな中で、くすぶった火のようにぱっと燃え上がったり、静まったりしながらも、決して消えない愛と憎しみを描いた、切なくて、悲しい物語です。しかし、古い日本映画っていいねえ〜 そして主演の二人の演技は、これは宝石だよ、ほんとに


官僚

いつだったか「官僚」とは「与えられた仕事に対して、与えられた枠の中で、最大限のアウトプットを出す能力を持つ人である」と聞いたことがあるが、とても明快な定義で感心した。ということは、官僚には入力と出力と地位があって、その中で最高のパフォーマンスを発揮できる人のことなので、与えられた入力より前、出力する結果より後に広がっている世界については見ない、という能力を持つ人とも言えそうである。この定義からたぶん思いつくのは、よく言われる「歯車」だろうが、これは間違っていると思う。というのは、状況につれ、世につれ、要求される入出力、そして自分の地位は常に変化しているので、その変化に完璧に追従することが必要なのである。つまり「適応」する能力が必須で、歯車のように、常に同じことをしていてはだめで、官僚はつねに状況に完全に適応して動いていないといけないのである。これを逆に言うと、彼らは「静止」していることが実は苦手で、行動のエネルギーの元を「運動」の中にのみ求めているようにも感じられる。じっさいに出来のいい官僚たちに会うと、彼らは例外なく、元気で、エネルギッシュで、明るいのである。「官僚的な人」の姿を思い浮かべると、ふつう、四角四面の生真面目なルックスが思いつくと思うが、実はこれは全く逆で、とっても上機嫌でフレキシブルな感じの人たちなのである。ただし、たしかに「創造」はしない。要求さえあれば、しているように見せかけるのもうまいが、あくまで見せかけである。官僚たちの表情には「不機嫌」は無い、存在しないようにすら見える。悪く言えば、コンピュータに向かって「出来ないこと」をタイプインしたときに、コンピュータは無表情で固まるが、あれを連想する。僕は、「創造」のみなもとは「不機嫌」だと思う。不機嫌万歳!(笑)


ハウス

ある日の真夜中ぐっすり寝ているとき、ピンポンとチャイムが一回鳴り、寝ぼけながらも、え? と思って耳を澄ましていると、ガザガザと郵便受けに何かを入れる音がして、静かになった。真夜中専門に訪問する新興宗教か? と思いつつそのまま眠った。朝起きて思い出し、郵便受けを開けるとDVDが一枚入っていた。は? なにこれ、とプレイヤーにかけてみると、突然、ハウスミュージックのビートが流れ、どこか外国の、小汚い街角かなんかで、老若男女大勢の黒人が、夕日が差し込む中で、激しく踊ってる異様な光景が現れた。やっぱり新興宗教だ、それもゲットーの黒人宗教だ!(笑) 朝っぱらから、こんなのを見て、すごく変な気がした。

それにしても、やっぱり貧しい黒人ってすごいね。ほんとにやつらにはどんな神様がついてるんだろう。アフリカの凶暴な神様しか想像できない。エモーションというものがあれほどカラカラに乾いている様子って、他に思いつかない。クラブ・ミュージックが渋谷を席巻したはずだ。黒人ダンスの中でロボットの真似をするのがあるけど、あれって、万博で二足歩行ロボットがほのぼのと演技している光景の、正確なアンチテーゼに見えるよ。人間がロボットになっちゃうんだから、それも本当に、動きだけじゃなく心も。現代社会の問題の完全に最先端を行っているね、本気で感心。

ところで、数日後の朝、チャイムが鳴ったので出てみると、右腕に一面に刺青をして坊主頭のヒップホップ兄ちゃんが、友だちが間違えて入れちゃって、とすまなそうにDVDを取りに来た


ブルースええなあ

すごくむかしバンドメンバー募集かけたとき、ボーカルやるってヤツがやってきて、スタジオ入って、そのあと飲みに行き、けっこういいやつだったし、一緒にやろうということになった。僕は当時からブルース野郎だったので、ブルースやろう、ということになった。そいついわく「ブルースええわなあ、ほんまにええ(大阪人)、今度スタジオ入るときまでにブルースやっときますわ」と言って別れた。1週間ほどしてまたスタジオ入ったら、そいつ、激しく声がしゃがれて、つぶれて、まともにしゃべれもしないほどだった。当然、演奏して歌を歌ってもしゃがれちゃって声が聞こえない。どーしたの? って聞いたら、ブルース歌うために前日「一晩でウィスキー1瓶ストレートで飲んでハイライト2箱吸ったですわ。声、ブルースやろ?」 って、あんたねえ!(笑) さっき、突然、ヤツを思い出した。とんでもない勘違い野郎だったけど、いいやつだったなー


昔と今

近所の蕎麦屋で昼飯を食いながら、マンガ三国志を見ていて思ったんだけど、昔の生活ってほんと大変だったんだね。日々、流転する環境にあくせくと対応しながら、生きていくためにしなければならない仕事は毎日山積していて、休む暇もない。そうやってあれこれと忙しく日々を送りながら、悲しい出来事はしゅっちゅう、そしてごくたまに、楽しいことがあったりする。一見すると単調な生活なような気がするけど、よく考えると、予測できないことが常に起こるせいで、毎回意識的にそれぞれに対応しないと生活できない、そんな、単調とはほど遠い生活だったんじゃないだろうか。現代人が、多かれ少なかれみな経験する「退屈」という感覚は起こりようが無かったと思う。それで、その昔は人生は五十年ほど、今では八十年にまで延びて、およそ倍の人生を生きているわけだけど、意外と「体感人生時間」は昔も今もあまり変わっていないんじゃないかな。体感時間って、「単調」や「退屈」で短くなるから、今の我々の人生は体感上速く過ぎてゆくはず。だから、結局あまり変わらないどころか、昔より体感上、短命だったりするかもね。


兼好法師

兼好法師は僕のあこがれの人なんだけど、徒然草って、考えてみると、あれってブログだよね。日記でもあり、覚書でもあり、雑記でもあり、自己表現でもあり、そういう文章がごちゃまぜに配列されている。徒然草のあの形式は、今でもやはり新しい。いいものというのは、いつまででもそうやって生き残って、その心は、ときに姿を変えては顕在化して、そして時代を作ってゆくんだね。僕も兼好法師をめざしてがんばろ


携帯

携帯は僕も持ってるけど、かかってきても、その場で出ることがほとんどない。これがものすごく不評で「電話しても出たためしがない、いっそ携帯持ってないヤツよりはるかに始末が悪い」と言われるのだが、いまだに、携帯はカバンに入れっぱなしでほとんど出ない。で、携帯で、24時間通信しながら生活してる人を間近で見ると、なんか、その生活に、独特の浮遊感があるね。携帯の番号を教えあっている仲間内であれば、いつでもどこでも交信して、その偶然の交錯を楽しんでいるような、そんな光景が見える気がする。アート系、クリエーター系には特にこの手の人たちが多いみたいで、みな、偶然を謳歌しているように見える。これは、皮肉ではなく、一種の進化なのだと思う。しかし、一方、今朝、とある昔の対談集を読んでいたら、何百年か前に、学問をやっていた学者ってのは、今の学者とは全然違っていて、学問上の方法論が今のように確立していないせいで、みな、ぎりぎりの自分の説を展開しながら、とにかくぎりぎりの姿で学問していたのだ、現代の安定した学問態度などは望むべくもなかったのだ、などと聞いて、とても不思議な気持になった。情報の流通が今に比べて極端に悪かった昔では、一体どの説を信用したらよいのか容易には判断できず、ほとんど何もないところから、自分の意志の力で信用できるものを築き上げていかなければならなかった、というのである。逆に現代では、情報が流通し過ぎていて何を信用したらいいか分からない状態なので、今度は信用できる仲間を身の回りに集める、ということになる。今も昔も、人というのは結局は孤独なものなのかね