食に対する関心は、いわゆるグルメブームも手伝ってここ数十年のあいだ急速に高まり、昔では考えられなかったほど多くの、レストランガイド、食に関する書籍と雑誌、料理本、そしてWebサイトが巷に氾濫している。そんな中で、私が、かねてから思っていたのは、私たち一般人が日々ふつうに食べている食べものについて、我々はどれだけその全体像を把握しているだろう、ということだった。日々の仕事の合間に、あるいは休みの日にちょっと近所に出たときなど、日常生活の中で何気なく食べているものについては、その平凡さゆえか、あまり気に留めることがなかったのではないだろうか。ひるがえって、私たちが知らない土地に旅行したとき、極端にいえば外国へ行ったとき、その土地の料理店で当然食事することになるわけだが、仮にそれが初めての場所であれば、すべては未知のもので、現地の人にとっては当たり前すぎて気にもしない変哲ない食べ物が、たいそうなエキゾチックな魅力で輝いて見える、そんな経験を、旅行をする者であれば必ずしているはずであろう。こういった旅行者の新鮮な目をもって、自国の変哲ない食に目を向けてみる、そんなことができるのではないだろうか。
そこで、ここでは、私たち一般大衆が日常的に接している「大衆食」について、これを研究し、体系化し、その全貌を明らかにしようと思うのである。実際、いろいろな土地や国を探訪してみると、その土地土地には必ず、そこの日常食というものがあり、この日常食は長年に渡って日々、数えきれない数の土地の人間たちに提供されてきたものであるゆえに、一種独特な洗練を見せた素晴らしいものであることが多い。一介の外国人が、この土地の大衆食というものに接すると、単に食い物を食べているという経験を超えて、まるで、その町そのものを食べているような錯覚に陥ることがあるほどである。これから、日本の大衆食について調べて行こうと思うのだが、これは、一種、外国人の目を持って自国の食を再認識してみようという試みでもある。
さて、大衆食には当然ながら流行り廃りがあり、常に変化している。それを、ある一時代で切り取って、その全体像を明らかにしようとしているわけだが、現れたばかりの流行りの食、あるいは、すでに顧みられなくなってしまった食、などが多く出て来るであろう。物事の観察研究は、ある時間で鋭く切り取ろうとすると単なるバラバラな情報の堆積に終わる傾向があり、逆に、時間のスパンを長くとって一般化しようとすると今度はいま現在の私たちの実経験の感触から離れてしまう、という相反した二つの傾向がある。そこで、あまりに網羅的にはせず、かといって、あまりに一般化もしない、そんなうまいまとめ方を見つけることが重要であろう。これについては、明確にここで宣言できないが、おそらくこの研究を、複数の人間で行って、それをうまく編集者の目でまとめて行くことで、最適な姿に収斂して行くと信じたい。
ところで、大衆食の系統だった研究は、私が調べた限りではまだ表だって行われていないようである。食に関する大半の情報は、おいしいもの、あるいは安いもの、あるいはサービスがいいもの、といった観点から作成され提供されている。あるいは、それに加えて、最近ではいわゆるB級グルメなどと呼ばれる大衆料理に関する情報が相当量出回るようになっている。ここで行おうとしている大衆食の研究も、要するにB級グルメみたいなものだろう、と受け取られるかもしれないが、それは少し違うと私は思っている。B級グルメには、美食に飽きてしまった人間たちが珍奇な変ったものを求める、という意味合いが強い。すなわち、そういう意味では、B級グルメは非日常を求めているのであり、日常を求めているここでの目的とは相反しているのである。ただ、B級グルメには、普段は隠れて目につかない自国の料理を、外国人の目をもって探して掘り出してくる、という方法論があり、その部分では往々にして一致することもあるだろう。
むしろ、ここで、「大衆」という、近年使われることもめったになくなって しまった古臭い言葉をあえて使ったのは、この「大衆」という代物を、新しい光の下に、いま一度、見直してみたい、という気持ちもある。大衆とい う言葉がもっともよく使われたのは、その昔、世界の生活の平均レベルがまだ低く、階級闘争そして労働問題が盛んだったころであろう。毛沢東はかつて、「大衆の衣食住の問題を解決せよ」と言ったが、この言葉は、文革時代に中国の大衆食を網羅してまとめた「大衆菜譜」という国の指導による書の冒頭に掲げられている。もう古くなってしまった、この「大衆」という言葉からいま改めて受ける語感は、実はなかなか微妙なものに感じられる。私の感触では、それは、一種、少し不気味で、得体の知れない、しかし綿々と打ち続く、強大な、そして沈黙した人々の群れというものを想像させるが、まさに、ここで明らかにしようとしている「大衆食」は、そういった感覚の伴うものであって欲しいのである。
すなわち、我々、大きな不自由もなく育った現代人のために日々製造され、流通して、捨てられてゆく氾濫する食情報のアンチテーゼとして、大衆が長年にわたって育ててきた、したたかで、永続的な、食の姿を明らかにしたいのである。
2013年 2月24日 林正樹