唄 と ギ タ ー


Hola amigos, I am サボテンマン

ギターを始め、のちブルースにハマル、について

ギターを弾き始めたのは中学3年のとき、もう20年以上になる。高校のころはビートルズやレッドツェッペリンやディープパープルといった普通のロック好き青年で、エレキの音を歪ませてギャンギャンと明るく弾いていたのに、大学1年のときに何を間違ったのか黒人ブルースに完璧にハマッてしまい、以後約5年間の暗い青春時代の幕開けになってしまったのは、今思っても遺憾でアル

黒人ブルースといってもまずなじみがないでガショウな。もちろんエレキを弾くのであるが、音は歪ませず、ベンチャーズのようなペケペケ音で、感情的にあるいは攻撃的に弾くのが特徴である。これはもう何というかスカスカのサウンドで、ロックのようにグゥオッーと押し寄せてくる音の洪水の正確なアンチテーゼサウンドなのでアル

このスカペケサウンドの中で展開される感情の機微を理解するのはなかなか難しいのだが、いったん分かってしまうとなかなか抜け出せない、というオソロシイものである。若者は陶酔を求めているのでこんなキンコンカンコンした音はまずウけない。したがって大学時代は音楽サークルでは変わり者扱いされ、女性にまったくモテない、という悲惨な時代でアッタ

だからブルースにハマりそうになっている若者に、
ブルースをやるのは年をとってからでも遅くない、ロックをやりたまえ!
と忠告する次第でアル
 

大学のときの活動について


SIDE COAST BLUES BAND
G:根本、Vo:チカノ、B:福田、G:ボク、(Dr:富山)
さて、大学の頃やってたのはSIDE COAST BLUES BAND。横浜出身の奴が多いんでSIDE COASTというわけ。チカノという大バカものボーカルの日本語ブルースを演奏する、今考えるとアタマが痛くなるバンドだが、まあ、わりとまともに活動していた。相棒のギターの根本は当時からテクニシャンで、今も阿佐ヶ谷でギター中心の生活をしている。バッドインフルエンスというバンドで弾いている、もし会ったらハヤシを知っているとでも言ってみてくれたまえ 
大学後半からはJELLY ROLL BAKERSというバンドでよりオトナ向けのブルースを演奏していた。ちなみに英語の意味は「女たらし達」てな意味かな?まったく今考えると少し恐い。民謡系青春フォーク派ブルース歌手であるブンヤ章のブルースカラオケバンドと言えよう。歌手ブンヤの大阪東急ハンズ課長就任とともに解散。その後中年ドラムス三宅道郎の死により一時代が終わった感あり。 
JELLY ROLL BAKERS
東急ハンズ課長ブンヤ 中年ドラム三宅

チャレンジャーというヘンな地元ライブハウスについて

暗い大学生活と平行して、地元大森では駅前パチンコ屋の向かいにある小さなフォーク系ライブハウスチャレンジャーに入り浸っていた。回りより一段低い国鉄線路沿いの小道は地獄谷と呼ばれる小スナックが乱立する小路で、このチャレンジャーはその入り口に位置していた。まあ、あらゆる若者から中年までの吹き溜まりである。コワー

ぼくはほぼ毎日ここでサントリーレッドで飲んだくれていたが、ライブにも毎月出ていた。ここでは生ギター1本で、黒人カントリーブルースを日本語にするなどして歌って演奏していたが、これも今考えるとオソロシイ。ま、ここでありとあらゆる人間に会ったが、うーん、人間動物園みたいで暗いとは言えそれなりに良いトコロであった
 
その後、マスターである山口イワオが何を血迷ったかほぼ出家を敢行してしまい潰れる。現在女子供むけのスパゲティー屋になっている。これまた一時代が終わった感あり 
出家した山口イワオ

ジミー・ヘンドリックスさんコンニチハ、について

三宅道郎の死と山口イワオの出家により、ぼくの暗い黒人ブルース時代もそろそろ終わりが見え始めたようであった。今から4年ほど前からもう黒人ブルースのペケペケに徹底的に飽きてしまい、さあこれからはブルースロックでギャンギャン始めようかと漠然と思っていた
 
かの有名なJIMI HENDRIXを知らないはずはなく、大学の頃、彼の1枚目2枚目のLPを貸しレコード屋で借り、カセットのAB面に録音し、ちょっと聞いてつまんなかったのでカセットテープ箱の奥にずっと放っておいた。ある日なぜかこれを取り出し、通勤途上にウォークマンで聞き、これはもう 
 ガビビビーーーーン!!!
で、なぜオレはいままでこれに気付かなかったのだっ、と号泣はしなかったが、眼からウロコが十数枚は落ちたことは間違いない 

ジミー・ヘンドリックス
それ以来ジミー・ヘンドリックス一色であり、来る日も来る日もジミヘンの生活である。彼を知らない人にちょっと紹介すると、1968年からたった3年間活躍して死んだ黒人ギタリスト&シンガーで、ブルースR&Bをバックグラウンドとするロックミュージシャン。ギターの音がでかいのが特徴である。デビュー当時はそのあまりに物凄い音と、歯で弾くわ、ギターには火を付けて燃やすわのステージアクションで当時の人々をみんなぶっとんだー状態におとしいれた人である。

だてに暗い青春を送ったわけじゃない。黒人ブルースにハマリっぱなしだったからこそ、このジミヘンドリクスの音は、なんというか救世主の歌のように響いたのだった。これこそ古い黒人達のじゃなくてボクのジェネレーションのエレクトリック・ブルースだっ、とまあこう思ったのでアル
 

苦節十数年を経てついに自分のバンドTHIRD STONE、について


THIRD STONE
B:池田 Dr:高橋 G&Vo: 林
ジミー・ヘンドリクスから新しいロックギターの弾き方と、ブルースの新しい歌い方を習ったボクは、とうとうついに自分の3 Pieceバンドを持ったのであった。これほど嬉しいことはない、いままでボーカリストの後ろでやっていたボクが、ここじゃG&Voでワントップ、わいがスターやっ、てなものでアル。1995年の秋のことであった 
バンド名は、ジミヘンのサイケデリックインストルメンタル曲"3rd stone from the sun"から取ってTHIRD STONE。三回目の飛び、てな意味でしょう。サイケデリックフレーバーを入れたブルースロックを演奏し、月1でライブハウスに出演し評判も上々。それからドラムのおやじ高橋の趣味で何と原宿ホコテンでも数回演奏し、ガイジンにバカ受けで上機嫌であった。その後ホコテンは閉鎖されてしまった、しかしあれがいちばん楽しかったねー

バンドを維持するのはタイヘンだ。ドラムおやじが「もうマネージメントめんどくさくなった」などと文句を言い出し、1996年夏に解散。しかし近々に再スタート予定なのでヒマだったらみにきてくれー
 

いわゆるひとつの社会人バンド、について

自分のバンドを始める前から、世に言う社会人バンドに誘われ、ギターを弾いていた。バンドはBAYOU SATELLITES BANDという。あの民謡系青春フォーク派ブルース歌手ブンヤ章の元ニューオリンズR&B系バックバンドである。前記ジェリーロールベイカーズがブンヤの大阪行きとともに解散したように、このバイユーサテライツも解散しかかったが、いわゆる社会人バンドとして止めずに続けたというものである。 
BAYOU SATELLITES BAND
Accordion:長谷,Dr:前島,B:岡本,Slideguitar:中山,Harp:野本,Fiddle:茂木,Key:高野,G:ボク
ここで社会人バンドとは何か説明する必要があろう。これはメンバー全員が何らかのまっとうな職についており、音楽は余技であり、音楽性などという面倒な物は追求せず、単に居酒屋で飲むよりスタジオで演奏しながら飲んだ方が安上がりで楽しい、という理由のみで存続するバンドを言う。

練習は木曜の9時から11時、7時頃になると高田馬場シェイキーズに三々五々集まり始め生ビールをがぶがぶ飲む、そして9時にスタジオへ向かう途中の酒屋で500mm缶をしこたま買い込み、スタジオ入りし、音を出しながら飲み続けるというスタイルである。特にベースの岡本、フィドルの茂木は完全なアルコール依存症であり、ライブの当日、出番直前までふたりで生ビールを飲み続け本番は演奏にならなかったという前科をいくつも持っている。

つい最近、アルコール依存症とは言えバンドの大黒柱的存在であった岡本が、クニの青森へ帰ってしまい壊滅状態である。
 

ストリートで演奏する、について

ストリート・ミュージシャンは思ったより楽しい。ただし外国に限りである。生ギター1本だったり、ヘッドセットとアンプでやったり、手ぶらで行ってその辺で弾いている奴に声かけて弾いたり、色々である。日本だと皆が遠巻きに何となく聞くという感じだが、外国だと無視する奴と寄ってくる奴がはっきりしてて面白い。
 
ローマのスペイン階段で生ギター弾いて歌ってた時のこと、土地の若者やワインの大瓶を持った酔っぱらい浮浪者なども寄ってきてなんだかんだとしゃべっていたが、面白かったのが日本人の観光客達で、まるでボクがいないかのように振る舞い、完璧に無視である。気持ちは分かるがあーあ、てな感じだね。原宿ホコテンが日本なのに楽しかったのは、あそこは観光コースなので半分以上がガイジンだったのである。 

カナダのモントリオール、パリ、ロンドンなどでやったが、金を要求したことはない。金とるならもっとマジメにやらなきゃねー。でも今度じっさいどれくらい儲かるのかやってみようかなー、と思っている次第でアル 
 


ロンドンのレスターガーデンで

(続くか!)


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