数年前、ホラー映画に夢中になりビデオをレンタルしては見ていた時期があった。僕は血も内臓もかなり苦手である。その昔、あのエクソシストを友達と一緒に見に行き、真っ白いシーツの上に真っ赤な血が飛び散る前半のシーンを見て気分が悪くなり、結局最後まで目をつぶっていたものである。映画館の中はビデオと違って逃げ場もなく、拷問のようだった。
そんな風だったから当然ホラー映画は敬遠していた。それだけでなく、およそ映画に興味がほとんどなかったので、見る機会もなかったのである。
それが数年前、偶然にビデオで見ることになったのが、Evil Deadというホラーで、それ以来ホラー映画を漁っては見る生活が突如始まったのである。邦題は死霊のはらわたというポルノ映画まがいである。たしかに、ホラー映画というのは人間が本来持っている残虐嗜好、残酷趣味などというけしからぬ欲望を満足させるという点ではポルノ映画に近いものであろう。その当時、友人に最近はホラー映画に夢中だ、と言ったらあんなのはポルノ映画と同じで一時的な自慰行為に近いその場限りの物で、真面目に取り上げる対象にはなり得ない、と彼は相手にしなかった。
ポルノ映画は性的欲望、ホラー映画は残虐嗜好をその基盤にしているが、両欲望が密接に関係していることは少しでも注意深い人には分かるであろう。そしてこれが人間の本質に固く結びついていることに疑いはない。エロティックなものに芸術から低俗まであるようにホラーもまた然りである。その点、何をやろうが通俗にしかなり得ない大半の映画より余程はっきりしたものである。
しかしちょっと待て、高尚なホラーなどいただけない。芸術か通俗か低俗かと分けるより前に没頭することが大切だ。人間というのは不思議なもので、どんなに下らない取るに足らない物であろうとも、本当に心から没頭することによって、そこから何か誰も気付かないようなものを引き出す能力があるのだ。競馬新聞片手にキオスクの脇でワンカップを飲むおじさん達然りである。
さあ、それでは僕の気に入っているホラー映画をいくつか紹介しよう。ただし積極的に勧めはしない。ホラー映画を見るには慣れが必要で、慣れない内に見ても気持ちが悪いだけでいいことはない。
それからここで紹介するのは主にB級ホラーである。ホラー映画も元は単なるHorror movieの訳語「恐怖映画」であろうが、以前ホラー好きの青年が幼女を連続殺害したあたりからホラー映画というと主に残酷映画を指すようになり、世間から疎ましがられるようになった。またホラーにスプラッターは付き物で、スプラッタームービーとは血や内臓が飛び交うものを指す。
ホラーに少しでも嫌悪感を持っている人に再度警告するが、見ない方が良い。
およそスプラッターというのはスラップステッィク(どたばた)と紙一重である。ある友人はこのEvil Deadを見て全編笑える映画だった、と言っていたが、この見方は通常のものである。それが証拠にこの手の正統派ホラーの2作目、3作目は大概どたばたコメディー風になってしまう。ここで展開されているグロテスクさというのは実際にはかなり耐えられないものである。これは想像するのもバカバカしいと思うだろうが、もし自分が現実にあのようなものを目の前で見たら、当然笑うどころか放心してしまうであろう。それに対し、例えばサスペンス映画というのはいかに見る人間にこの状況は現実にもあり得ると信じさせるか、ということが大切になる。サスペンスなら人はホラーのように笑いはしない。どんなサスペンスでも少なくとも最低限のリアリティは保証されているからである。できの悪いものなら見ないし、良ければ、自分の事のように感情移入して見る。ホラーの場合、あのあり得ない世界に人を没入させるためのもっとも端的な方法は、リアリティのある映像の力に頼ることであろう。近年のゴージャスなSFXを多用した荒唐無稽な映画はこの手法に依っている。この手法と恐らく対極を成すのが、作り手の真面目さと見る人間の真面目さから生まれる想像力を用いる方法であろう。昔の映画を想像してみればよい。あの一目で偽物と分かる稚拙な特殊効果で十二分に恐い思いをしていた頃には、見る人間の想像力が大きく働いていたはずである。EvilDeadの映像効果はまだ稚拙なので、これを見て笑った彼は、見ていて真面目にはなれなかったということだ。さて、これは映画の真面目さが足りなかったのか、彼の真面目さが足りなかったのか、それはなんとも言えないが、少なくとも僕は大真面目で見ている。
映画としては、そのかなり気持ちの悪い、執拗な特殊メークが話題になった。説明は面倒なのでしないが、いくつか良い場面がある。後半は、ひとり生き残った若者がひたすら悪霊に取り憑かれた友人達と戦う。最後の場面は、稚拙なパペットを使ったストップモーションによる奇妙な化け物が崩壊する場面だが、笑うなら笑えと言わんばかりのこのシーンが僕は大好きである。悪霊を倒してようやく屋敷から外へ出ると、明るく朝日が昇っている。次の瞬間、再び悪霊がカメラに成り代わって地を這うようにして背後から彼に襲いかかるが、カメラは猛スピードで暗い屋敷に一回入ってすぐに出て行く。この昨晩の酷い現実を再び一瞬髣髴とさせるほんの1、2秒がとても素晴らしい。
舞台はアメリカ南西部、恐ろしく暑い真夏に起こった墓荒らしの事件から始まる。墓から掘り返した腐った死体の各部分が針金で奇妙にからげられ墓場に放置されている。カメラは無意味に大口を開けた腐った頭部から徐々に引いて行き、テキサスの朝の殺伐とした風景を映し出す。直後にタイトルに切り替わるが、それは真っ黒い背景に赤黒い太陽が炎を吹き上げている光景である。このイントロの優れたイメージで全てが決まったようなものである。最後の最後までどこを取っても文句なしに素晴らしい。
映画はおおまかに前半と後半に別れている。前半は、数人の若者が古屋敷に泊まり込み(このパターンはホラーの常道である)、薄汚い皮の仮面を被った大男(恐らくジェイソンの原型であろう)に次々と殺されて行く様を描いたものである。一人生き残った女性はチェーンソーを振り回す大男に執拗に追い回され、別の屋敷に逃げ込んで後半が始まる。その屋敷はその大男の家族が住む家だったのである。後半はこの屋敷で、椅子に縛り付けられた女性を囲んで行われる無秩序な儀式を描いたものである。この家族は代々屠殺業を営んできたが、ハンマーによるものから電動ドリルを使う屠殺に移行した時に失業した連中ということになっている。彼らは今度はこの捕まえた人間を昔ながらの方法で屠殺する儀式に及ぶ。感想を言えば、前半は、人間の様々な心理と、そんなものとはお構いなしに過酷に突き進む自然の対照を描いた天才的なリアリズムであり、後半は、土地に染み込んだ血と肉がそのまま形になったような、これは正確にスペインの画家ゴヤの描いた奇怪な儀式そのものである。そうした意味で、この作品は立派な芸術作品であるとして一向に構わない。しかし、注意すべきは、全編に渡って描写されているのは、真夏のテキサスの田舎で繰り広げられる殺伐とした物語に徹しているということである。この芸術作品は慰めがなく過酷である。一言で言って、これはヒューマニズムより自然が、心理より生理が優先する残忍な世界である。ヒューマニズムがいかに脆弱で崩れやすい基盤しか持っていないか、という事を思い知らすのは、ホラー映画の特徴のひとつと言えるだろうが、この映画はまさに上質のものであろう。こうした意味で近親としてあげられるのは「2001年宇宙の旅」かもしれない。この、一般に難解で高尚であるとされている映画をホラー映画に分類はできないが、内容的には高級なホラー映画としても構わないように思う。あの映画で描かれていたのも徹底的なヒューマニズムの否定であった。この映画についてはまたいずれ別に書くことにしよう。
後半の儀式は、ちょっとした隙に女が屋敷を逃げ出すことで終わる。窓ガラスに飛び込んで外に転がり落ちると、あたりは明るく既に朝である。チェーンソーの大男とその弟は女を追いかけ、大きな通りに出ると、そこにはいつものようにトラックや車が行き来している。女は間一髪でトラックの荷台に飛び乗り、間断なしに悲鳴をあげながら遠ざかって行く。大男は、朝もやを通して鈍く輝く太陽を背にして、恐ろしいうなり声をあげるチェーンソーを無意味に振り回す、とここで物語は突然終わる。このエンディングも実に天才的な見事さである。
このバッド・テイストつまり「悪趣味」という映画は、最初からどたばたを狙ったものだが、何というかドキュメンタリー風の真面目さがあって、この手の映画では破格に面白い。ピーター・ジャクソンはニュージーランドの無名の監督で、この映画は超低予算の中で作られ、作っているうちに金がなくなるので4年かかって作ったそうである。金がないので舞台はただのニュージーランドの田舎、俳優は自分を含めて彼の友人達、一目でB級な映画だが、ふらついたカメラワークの面白さ、昼間の太陽の下のスプラッターの新鮮さ、俳優ずれしていない恐ろしく自然な演技、どれを取ってもCoolである。
物語は、ある田舎町に宇宙人がやって来るところから始まる。彼らは宇宙の食品会社の社員で、ホモサピエンス肉を新商品として売り出そうとやってくるのである。そこに地球防衛隊の若者4人が調査に向かう。とはいえこの4人思いっきり普通のあんちゃん達であり、宇宙人も地球人に変身しているのでこれはもうただのニュージーランドのバカな若者達そのものである。この宇宙人達があまりに低能で相当笑える。地球防衛隊のうちのひとりはデレクという変態で、これは監督その人が演じているが、かなりキテいる。さて後半はひたすら銃撃戦で、地球防衛隊の彼らは次から次へと出てくる宇宙人を全部やっつけてしまう。最後は頭のイカれたデレクが宇宙船に乗り、チェーンソーをぶん回して奴等の本拠地に乗り込んで行く。地上では、例の若者達が夕日に向かって走るイカれたサイケ風の車に乗って去って行くが、この時かかるエンディング曲がタイトルと同じBad Tasteというレイドバックぎみの実にかっこいいアメリカンロックで、一仕事終えた後に、いつものように葉巻やらふかしてよたを飛ばしながら帰って行くこのラストシーン、何度見ても生きる希望が沸いてくるから不思議である。