ロシア文学と戦争

岸田首相が夏休みだかなんかで読書をしようと「カラマーゾフの兄弟」を読み始めたけれど、第一巻で挫折して放り出してしまった、って話、そういえばあったなあ。なんというか、ほほえましい話だな、と思い、笑ってすんだ。

逆に、あの本を読みこなし、なおかつ血肉にしてしまう首相がいたとすると、それはむしろだいぶ危険だと自分は思う。

実は今だから言うが、一年半ほど前の2月、ロシアがウクライナに侵攻した、というニュースを初めて聞いたとき、自分がほとんど反射的に思ったのが、それだった。おそらくプーチンは、岸田首相とは逆で、ドストエフスキーもトルストイも読んで血肉にしているはず。そして、これも彼についてよく言われるけれど、もっといろいろ広範に、ときには過激な書も自分のものにしているはず。

それが予想できただけに、侵攻に踏み切ったのを知り、それだけは踏みとどまって欲しかった、と思ったけど、とき遅し。だから、大国の長が、それこそ、カラマーゾフの兄弟が読みこなせて、さらにそれを我がものにできる教養を持つ、というのはむしろ危険でもある、と僕は思う。ああいう歴史的な著作というのは、時に絶大な暴発を引き起こす危険を内に持っているものなのである。

そんなことを言う理由のひとつは、ほとんど害のない小さな話とはいえ、この自分も、あの小説に過度に影響を受けすぎたせいで、自分自身が収集つかなくなる時があり、よくドストエフスキーの本は悪書なので若者に勧めるな、と言ってたから。もっとも、あの小説は、長過ぎて、くどくて、ロシア人の名前がこんがらがって、そもそも読みこなせないのが幸いしている。でも、それをきちんと読んでしまい、あれに本当にトラップされると実際は危ない、ということを自分は身をもって知っている。

そういえば僕の思い違いでなければ、大昔(たしか)フセインが捕まった直後に、ニュースで、彼が潜伏していた地下の部屋をカメラが映し出した映像が流れたそうで、そこにたしかカラマーゾフの兄弟(罪と罰だったかも)の本が一瞬映ったそうだ。これが思い違いでなければ、彼も、ドストエフスキーを愛読し、自分のものにしていた、ということになり、これは僕には感無量な出来事だ。

日本人が、ドストエフスキーとトルストイという、押しも押されぬ19世紀ロシアの文豪をいまどう理解しているか知らないが、あの二人は、二人とも手が付けられないほどの過激派だと自分は思っている。彼らの小説はその芸術性や多様性のせいで名著として歴史に残っているけれど、その核となる思想は過激で、あれは、正直に言ってしまうと、過度のロシア民族主義がその背景にあり、同時に、欧米文明に対する強烈極まりない批判に貫かれている。

だから、プーチンのような反欧米な国において絶大な権力を持つ人があれを持つと、はなはだしく危険なのである。

一方、日本人のこのウクライナ戦争に対する大方の反応は、まことにおめでたいもので、僕は呆れ果てて見ていた。さすが平和の国の日本だ。三島由紀夫が割腹自殺するはずだ、こんな国、と思った。

しかし、このおめでたい南国的反応は、日本に最後に残ったアドバンテージなので、これはもう絶対に大切にしなければいけない。矛盾して聞こえるだろうけど、寒い国々の謀略がこれまで世界を過度に牛耳って来たがゆえに、世界にはいま「南国」が欠乏している。日本はそれを持つ良い国の一つなので、そこは無くさないように。

ひょっとして地球温暖化って、そのせいで起こってるのかねえ、南国の不足…(笑

能力

知的障害者の人たちがいる施設でコーヒーの自家焙煎と販売をしてて、そこで3種類のコーヒーを買って、家で淹れてみたんだけど、なかなかおいしい。豆の種類でちゃんと味がはっきり変わるし、なに飲んでもあんまり変わらないどこぞのブランドよりよほどいいかも。

彼ら、日がなコーヒー豆を焙煎したり、悪い豆を一粒づつよけたりする、そういう仕事に向いているんだそうだ。

すぐ思い出したけど、そういう彼らが湖でボートに乗って遊んで、その感想文を集めたのを見たことがあって、その中に「ボートが右や左に行っておもしろかったです」という感想があって、けっこうその文にノックアウトされた。

いわゆる健常者の僕が言うとホントに変に聞こえるので困るのだけど、ああ、ボートが右や、左に、曲がっただけで物凄く楽しいんだろうな。きっとオレも5歳児ぐらいのときは、彼らと同じ感動を感じてたんだろうな、と思うと、なんだか今の自分が痛ましい気がしてくる。

同じ無邪気な喜びを得るために、今のオレはなんと紆余曲折したややこしい感覚を追い求めなければ済まないことだろう、と思うと人間の能力ってなんなんだ、って思う。

ちょっとしたホビー工作をするのに、モーターを見てるんだけど、探しても探しても中国製で、日本製で自分が知ってるのって、マブチとタミヤぐらいで、探してみるんだけど、プロ用と子供用の間の製品がごそっと抜けている印象で、逆にその中間の領域の製品は中国製が圧倒的。

で、これまた中国って、こういう、なんか、どーでもいいホビー用ニッチな製品を、よくもまあ、これだけの種類作るなあ、と呆れるレベルで揃っている。もちろん、そのうちの何割かは不良品のゴミで、買うのは賭けに近いんだけど、それにしてもゴミじゃないのもあるわけで、やっぱり品揃えがすごい。

こういうのってさあ、どんな分野にも言えてるんだけど、いわゆる「層が厚い」というやつで、こういうどーでもいい系のモノがふんだんに作れて揃ってる、というのが、その国の文化を支えるもっとも大切なことなのよねえ。

昔の日本はその層の厚さで、たとえば、マンガとかアニメの隆盛に見るような世界レベルのトップ作品の製作能力を支えてたんだけど、たかが工作用モーターで考えすぎかもだけど、こういう経験をすると、日本はもうダメかも、って思っちゃう。日本でいま残ってる層の厚い分野って飲食店ぐらいか?って思ったりする。

いまの何不自由なく育った政治家や官僚には、この層の厚さの重要さを理解する人があまりいないらしく、彼ら、結局、国でトップを張れる層にばかりカネを出して、そういうどーでもいい中間層、しかし実はもっとも大切な層を、丸ごと無視する政策しか打たないしね。

中間の厚い層を国が支援するとしたとき、たとえばどうすればいいかというと実は簡単で、カネで特定のものを支援するんじゃなくて、カネをばらまいてそのままにしておけばいい。植物に水をまくのと同じで、一定量の水を毎日まけばいい。

こんな簡単なことは無いのだが、官僚側から見るとこんな難しい策は無い、という風になってしまうところが問題なんだろうな。というのは、官僚の仕事というのは、まず目的を設定して、施策を立てて、金額を見積り、出せる金を施策に従って与え、その結果を当初の目的と比べて達成度を測る、というサイクルでしか動けないから。

一方、支援しようとする中間層は、基本的に無名で無目的なので、そもそも目的化できない。「カネのばらまき」が官僚の仕事にならないということは、官僚は動かない、ということになる。そのときは今度はカネのばらまきが得意な政治家の出番になるのだが、その政治家がこの「層の厚さの意味」を理解していないとそもそも彼らそのばらまきを思いつきもしないことになる。

そうこうしている間に、空洞化はどんどん進んで、ある点を超えると、そこでその分野は終了するだろうな。現在、空洞化がどれぐらい進んでいるか知らないけど、まー、もうダメっぽいので、あとはまったり暮らしましょ。

中国製買って当たり外れしながら(笑

日本ぎらい

思えば30年前の自分は、日本人を超反省好き民族と思っていて、まー、いま思うとそれは日本式左翼のことだったんだが(朝日とかNHKとか)、日本人は自己反省をし過ぎのバカ民族って、日本人を忌み嫌ってた。

他を批判する秘訣は、自分を棚に上げることだ、というのがそのときの自分の考えで、合理的な批判というのはそれを為す人間が根本的に対象に対して他人事でなくてはならず、それができないと、そもそも批判そのものができなくなる。そうすると、社会は弁証法的に機能せず、必ず低迷停滞する、と考えていた。

この考えは今も変わらずなのだが、昨今の日本のネットでの醜い喧噪を見ていると、こんどは日本人は最近、その自分棚上げ批判を中途半端に覚えたらしく、逆に、合理的思考を使って、他人をあげつらったり攻撃したり貶めてバカにしたり、ということをそこらじゅうでやるようになった。

一神教の神のいない民族が批判という西洋合理主義に基づいた方法論を猿真似すると、ああ、こういう結果になるんだ、って見てて思うわ。だいたいが、見苦しい。

そうなると、こんどは逆に、少しは自己反省というものをしたらどうだ、この糞日本人が、ってなるわけで、まー、オレは40歳になるまで、日本が大嫌いで、日本人は糞だ、という、いわば民族的自己嫌悪にかられた人間で、それは、上に書いたように、左翼的な意味での日本人の劣等性という呪縛のせいで誇りと優等性を持てないように骨抜きにされている同国人を見るのが耐えがたかったかららしいが、今度は現代になると、幼稚な優越感と粗雑極まりない論理を使って自己嫌悪から脱したような顔をしたやつらがそこらじゅうに見えるようになった。

今も昔も日本嫌いなのか、って思うと閉口するが、でも50歳を超えて、自分、ようやく大昔の日本文化を知ってねえ、それでアイデンティティ解決!みたいな単純な人間になった。ああ、よかったよかった。もののあわれの日本人、で、それでOK、みたいな。ここで、もののあわれとは何か、と問うことはバカげたことで、それはすでにそこに「在る」ものだから説明を要しない。それを基に、あとは多くのバリエーションが個性に応じて現れる。それでいいじゃないか、って思うようになった。

ここ最近、澁澤龍彦の「三島由紀夫おぼえがき」という薄っぺらい文庫がどっかから出てきたせいで、ぺらぺらめくっているのだが、本当に、心底、おもしろい。ああいう気品に満ちた知性というのが、いまのこの汚い現代日本にいちばん欠けているようにも見える。

ニヒリズム、そしてデカダンスが日本においては、いったいどのような形を取るか、ということが、いろいろ書かれている。いいなあ。

スタバ青年の哲学講釈

このまえスタバに行ったら、隣のテーブルにいる若者二人のうちの一人が、ひたすら哲学を講釈してた。ソクラテスから始まって、プラトン、ニーチェ、カント、どうの、といろいろ出て来て、すらすらと流暢に解説している。それにしても、おまえよ、いろいろ間違ってるぞ。完全には間違ってないし、うまく説明してはいるけど、おまえが解説しているそれは、哲学じゃねえぞ、どっかに書いてある攻略本の受け売りだろ。

高齢のオレはそう言いたいところだったが、ま、好きにしなはれ。

とはいえ、ここで言っておこう。まず、若い彼、最初にソクラテスの「無知の知」から講釈を始めたが、彼のその説明は表層的過ぎる。

では、ソクラテスの言った無知の知とは何を意味するのか。それは、論理的言語に基づく知の帰結は結局すべて無知に終わってしまう運命にあると言っているのであって、それをその時、ソクラテス自らが気づいたことが大きな事なのだ。で、その結果、彼は多くの知者を敵に回すことになり、そしてそれら知者たちが実は無知であることを明かした彼だけがそれら知者たちより一歩抜きんでた特殊な存在であった、ということをソクラテスは神託を基に悟ったのである。

そしてもしそれが最高の知であったとすると、彼はその空っぽな知の元に自らを犠牲にして、死罪を受け入れて、静かに毒をあおって死ぬわけだが、ああ、空虚な真実のもとに死を受け入れたその最高の高貴さを、間近で見た弟子のプラトンの心はいかばかりであったか。ソクラテスはその最も空虚であると同時に最も貴重なものを自らの死をもって若いプラトンの胸に永久に刻み付けたのだった。

こういう人間劇に精神を動かされることなく、ソクラテスの無知の知だとか、プラトンのイデアだとかを口にしても、それはこれっぽっちも、なんの意味もない。そのソクラテスの思想が西洋哲学史を貫徹し、それがニーチェに否定されるまで続いた、だなんていう、つじつまが合っているだけの、体のいいことしゃべってんじゃねえよ!

と、オレは即座に反応し、スタバなんかに来なきゃよかったよ、って思ったわけだ。

隣のタリーズにしときゃよかったぜ。なんちゃって(笑

しかし、若者はさあ、「哲学が大切だとか言われて読んだけど、ほんっとわけわかんない!」って言っているむかしの若者のころが花だったな。いまは、一部の若者のやつら、哲学どころか、なんだって分かったつもりになってしゃべりやがるからな。ひろゆきやホリエモンや中田敦彦その他もろもろの悪い影響だろうな。

だいたいのところ、哲学には、ある「核」のようなものがあり、それが掴めていないと、論理をいくら深く掘っても無駄だ。そして、その「核」は論理によっては掴めない。そこを察知するのは、一種の哲学的カンや経験による。世に言う天才は、それをすでに学ばずとも持っているものだが、一方、秀才は、長い経験を経て身に付ける人もいるけど、無駄に高IQの人は、論理を追っている間に核を見失ったり、そもそもそれを軽視したりする。したがって、秀才には、ちゃんとした人と、大バカが混在している。で、さて最後に凡人は、これはもういろいろたくさんで、いろんな裾野を形成する。それこそ凡人の方が秀才なんかよりはるかにはるかに哲学を理解していることだってある。

と、まあ、勝手なことを言ってるが、以上は哲学に限らず、なんだってそうだよな。

そしてもうひとつ哲学に必要なのは「しつこさ」である。ではなぜ哲学者といわれる人種はしつこく追及するのか。これは、ちょっと考えれば分かるが、なぜそうなるかというと、それがその人にとってかけがいないほど切実であること、偏執狂的にこれが分からないと世界が終わる、自分も破滅する、と思い詰めていること、自分に真理に見えるものは誰がどう数学的に完全に否定したとしても全無視して自分の真理を信じないと気が済まない性癖、などなど、といったもののせいだ。

つまり、病人なのだ。

現実に沿って普通に生活をすることを旨とする人は、ダメだったらあきらめるか、いいところ迂回ルートを考えるでしょ? それが出来ない病人。

こんなわけで、一般生活を送る一般人にとっては哲学は害毒に違いない。でも害毒になるほどの哲学狂、ってことになると、これは不幸だ。

これが文学だと、それがわりと世間の目にも留まるね。太宰は心中マニアみたいなもんで最後はホントに死んじゃったし、芥川も川端も自殺、三島に至っては人騒がせぶっそう極まりない凄惨な死に様。ああなってしまう人たちを性癖では済ませられないでしょう。それと同じなので、病人、と言うのだ。

ところで、ソクラテスのこの有名な無知の知という日本語は誤訳だ、という説があるらしいのを知った。「無知の知」ではなく「無知の自覚」だとか。

もしこれが、「無知の自覚」だったらこんなに有名な言葉にならず、みなふつうにスルーしそうだ。自分がまだまだ無知であることを自覚しなさい、って、今ではごく普通の処世訓だから。ソクラテスは、ちまたにあふれてた「オレはすべてを理解した」とおごっている知者を次々と論理で粉砕して行った、そうしたら皆に恨まれた、それで死刑宣告された、というなんだかおそろしく平凡な劇になっちゃう(で、すごくありそうなこと)

ところがこれが「無知の知」ってことになっちゃうと、とたんに、無いものが在る、いや、在るものは無い、いや、それじゃおかしいから、そもそも無いや在るという言明がおかしく、万物は生成の途中だ、いや、それもおかしい、と論理が循環する。これは論理というものの宿命であろう。何千年もたって数学者のゲーデルがとどめを刺したが、ギリシャの時代からその宿命は自覚されていたような気がする。

スタバ青年の講釈によれば、ソクラテスは無知の知(自覚)を発見したが、同時に「知」が確実に存在することを知っていた。そして、それを初めて形あるものとして取り出したのがプラトンで、それが「イデア」である、だそうだ。哲学論理的に考えて順当に映る話なので、ここで

「なるほどねえ、若いお人よ、あんたモノが分かってるじゃないの」

と言ってもいいところだが、彼に決定的に欠けているのが、その「知」がソクラテスからプラトンへ譲渡される劇を成就させるために、ソクラテスは自らの死を賭けた、ということについての自覚がまったく欠けているところだろう(などと若者に説教するのは、極めて大人げないのでしないが 笑)

若いお人が言った「ソクラテスのこの原理はニーチェまで続いた」、という説は、おそらくニーチェがソクラテスを初めて完膚なきまでに批判したことから来ているのだろう。ニーチェの批判は、ソクラテスは無知の知という本質的に無意味な論理の構造を、アテネ市民を騙して吹き込んだ。当時のアテネ市民は論理もそこそこに、善いのびのびした「本能」で生きていた。ソクラテスは論理という空虚な武器で、その本能を根絶やしにしようと目論んだ、というところだった。

しかし、ニーチェはニーチェで、当時のアテネ市民の本能が、爛熟を越して堕落していたことも分かっており、それは一掃される運命にあったのだろう、ということも認めており、ソクラテスはその重い重い荷を負わされた悲劇の人、と捉えることもできる。そして、ソクラテスその人は、その心に邪悪な本能を擁していた。それは彼のその醜い容姿を見れば分かる、とニーチェは言うわけだ。

ニーチェその人は、この堕落してソクラテスが抹殺する前の、ギリシャの善きのびのびした本能を、まるでかつて14世紀にイタリアルネサンスが花開いたように、19世紀に花開かせようとして、強引に、ツァラトストラという一大詩を書いて目論んだが、失敗して、狂死した。

ニーチェがどこかでソクラテスに兜を脱ぐ場面がある(見つからないけどどっかの本)

「ああ、ソクラテスよ、ソクラテスよ、それがそなたの秘密であったか、その時代で誰よりも賢明な知を宿した巨人よ」

みたいな文句がある。僕はかつてそれを読んで、ショックを受けた。こういう二つの巨大な魂の交感を「分かる、感じる」ことが哲学であって、それ以外はただの屑に過ぎない、と僕が考えるようになったのもそういう経験からである。

ああ、それにしても、オレはオレで語り出すと、止まらない(笑

しかし自分は自分で、哲学を文学的にとらえ過ぎなんだろうなあ、とは自覚している。

ああ、中国

とある大学で聞いたんだけど、ある中国人の先生が入ってきたら、その人の論文の引用数がその大学で断トツに高く、表彰されたそうだ。で、その人のその年の研究発表リストが大学のホームページに掲載されて、それを見たら、10人ぐらいの中国人研究者が相互リンクして大量に投稿していて、その数が、明らかにほかのふつうの研究者の発表数とバランスが取れていない(1人だけ20倍30倍の発表数)

そうなっちゃうと、論文数がすご―い、って感心するより、かえって中国の信用を失う結果になっているように見える、って言ってたな。僕もなんだかそう思う。その中国人先生も、少しセーブして最低でも自分が筆頭のペーパーだけを自分の大学では公表すればいいのに(もっともそれでも多い)、と思っちゃうな。

僕は、過去に日本に新しい文化を伝来してくれた中国、その昔には孔子が出た中国、仏教と儒教をベースにした高いモラルなど、中国をずっと尊敬してきたのだけど、昨今の中国には閉口することが多い。金と権力とクオリティを極限まで追求する浅ましい亡者に見えることが多くなってしまった。

世界のアカデミアもおそらくかなりの部分、中国人に支配されているんじゃないかと、なんとなく邪推してしまう。

ところで中国といえば、大学生のころ中国料理に魅せられてから、もう40年以上ずっと、作ったり、食ったり、調べたりしている。

僕が好きだったのは、中国料理は、それがいかに絶大な権力を持つ皇帝の料理由来の宮廷料理であっても、そこに消されることなく刻印されている中国庶民の感覚だった。どんなに贅を尽くした高級なものにも必ず付きまとう庶民感覚。それこそが、僕が心に抱き続けた中国文化の尊敬と憧れの対象そのものだった。

それは広大な土地に生きる無数の庶民の群れと、それを統治する絶大な権力の間に共有、共感された文化そのものの姿で、それが中国料理の膨大な世界にいちばんよく表れていると思った。

これは、一神教のもとに人民主導の民主主義というフレームワークに行き着いた西洋圏と鮮やかな対照を成していると思った。そういう意味で、「僕にとって中国料理は別格で、西洋思想と対をなすもの」だったのだ。

昨今の状況を見ていると、この僕が尊敬する中国文化が、だんだん見えなくなりつつある。もし中国が、明示的には毛沢東から始まる唯物論に完全に侵されてしまったとすると、これは恐ろしい。庶民にはいまだに共感されている形而上的な感覚が、権力中枢とエリートたちから遮断されてしまったとすると、おそらく彼らエリートたちは留まることを知らずに突き進むだろうと思う。

ただ、それでも、僕はときどき中国本土を訪れ、そのへんをほっつき歩いて場末で食って飲めば、変わらず執拗に維持された中国庶民感覚にいまも圧倒されるわけで、こういうものが無くなるはずがない、と確信する。

でも、中国上層の人々は、いま、もういちど、孔子や仏教の国だったことを思い出し、その強靭な庶民感覚を上層エリートの世界にもきちんと持ち込んで欲しい。

実は、以上の事情は、日本もほぼまったく同じである点、同じ東洋の国という気がする。

AI生成トレーラーの戦慄

このAIの作ったアルプスの少女ハイジのトレーラーだけど、すでに何十回も見てしまった。しかし、うーむ、これは素晴らしい作品だな。まさに宮崎駿いうところの生命に対する侮辱、そのものだ。

それなのにオレにとってはこれは最大限の賛辞を捧げたくなる代物に映ってしまうわけで、これってこのオレのなんらかの人間的欠陥なような気すら、してくる。

まさに、早く人間になりた~~~い、みたいなもんかもな。

そうだ。まだ人間のいない太古の時代から、生命が死屍累々の果ての恐ろしい努力を積み重ねてきた、その生命の深い深い奥底に沈むドロドロの沼の中から、AIがなにかを掴みだして投げ出しているような印象を受ける。

まさに、AIそのものが、早く人間になりた~~~い、と叫んでいる、その声が聞こえてくるようだ。

これはおそらく、僕がその昔読んでショックを受けた、フロイトの精神分析学入門の中の彼の言葉を想起するからかもしれない。彼は、人間の無意識の底にある得体の知れないエネルギーである「エス」というものについて語っているのである。エスには善悪も時間も空間も無い、という言葉に深い印象を受け、戦慄したものだ。

というのは、僕にはそのエスが認識できるからだ。これはおそらくなんらかの自分の先祖からの遺伝だと思う。そういう問題意識のようなものがどこかにすでにあって、自分はそれを持っているのだと思う。

それにしても、四則演算をでたらめに組み合わせるだけで、そのエスの姿をこうやって白日の下に曝け出すことができるとは、真に驚きだ。

ChatGPTやBardは、すでに人類に抹殺されてしまったので見えなくなったが、AI映像の方はたぶん一般民衆が鈍感なせいで抹殺対象にまったくならなかったのだろうな。

恐ろしいことになったもんだ。

AIについて

自分は流行りものには意識的に手を出さないようにするタイプなのだが、白状すると、自分的には、AIチャットボットにまさに別格級の衝撃を受けた。そのAIボットをここまで有名にしたのはChatGPTだったのだが、実は最初、自分でChatGPTを実際にやってみて、それがあまりにつまらなかったので、そう書いて、放っておいた。

そうこうしているときに、生成AIについて、たまたま授業やら学会やらでしゃべらないといけないことになり、そのために、まずChatGPTと大規模言語モデル(LLM)の技術の詳細について勉強し、それとともに、社会科学的な意味で、主に世の知識人たちがAIについて何を言っているかリサーチしていた。

それでいろいろな知識を仕入れて思い当たったのが、1年ぐらい前(?)、最初にちょっとした騒ぎになったGoogleのAIチャットボットのLaMDAだった。あれを当時見たとき、それなりにけっこう驚いたのだが、それと今回のChatGPTの華々しい成功と世界規模の騒動が結びつき、それが自分にとって大きな衝撃になったのである。

そんなわけで、自分のFacebookのつながりでAIにつきあれこれ議論もしたので、このブログでは、その過程でFBに自分があれこれ書き飛ばしたことをまとめて載せておく(したがって長文)

AIの周りの反応

見るの相応にイヤだなと思いながらAIに関する動画を、仕事だってことで、いろいろ見てる。

茂木健一郎とかジョーイとかホリエモンとかそのほかいろいろ。おしなべてたいした情報は無いのだけど、ホリエモンとかもう舞い上がっちゃってて聞くに耐えない。で、ジョーイは超常識人でこちらも聞いてて辛い。おもしろいのがその二人と対談してる茂木健一郎で、彼は実際にはホントのところはAIに対する態度が決まっていないみたいで、だいぶ適当にはぐらかして確答を避けている。

この違いは、おそらく茂木は大の小林秀雄ファンで、その小林節が抜けておらず、それが引っかかっちゃってるからだと思う。茂木さんもとっとと小林なんか卒業して切ればいいのに、って僕は思う。その方がすっきりして、いい。

当の僕は、昨今のAIでいちばん痛快に思ったのが、並の知識人を事実上一掃したこと。これは快挙。並の知性というのはメカニックだ、とAIが看破したようなもの。

では並以上の知性とはいったい何なのか、真剣に考えざるを得なくなった。あるいは、そんな特上な知性など不要だ、ということにしてもいい。いずれにせよ、おもしろい世の中になったというのは、言えている。

それにしても仕事だとはいえ、AIに関する知識人動画を見てるとなんだか消耗する。なんでだろ。よくある日本語のビジネス啓発系の動画そのものが目障り、ってのはあるけど、英語のやつは聞き流しができないから疲れるんだよね。ジョーダン・ピーターソン先生のやつだけ後で見とくか。

たぶん日本のこの手の知的系の動画が苦手なのは、みんなすべての問題をすべてポジティブに変換してポジティブにしゃべるじゃん。それがもう、鼻についてしかたない。いわゆる意識高い系のマインドをこれでもか、と押し付けて来るのが辛い。

とはいえ、ネガティブに語られても辛いし、なんというか、唐突だけど、ポール・ヴァレリーみたいな気品のある語り口で神秘感を漂わせながら語ってくれればなあ。英語コンテンツならきっとそういうのあるはずだけど、まだ見てない。

いまのところ僕が見てる日本語のやつって、言っちゃ悪いけど、AIの周りに群がってウキキウキキってはしゃいでるサルみたいに見えちゃって痛い(無礼失礼) やっぱりこのAIも西洋から襲来したわけだし、intelligenceという物自体があちらモノ、って感じがして、例によって強大な力を持っていて、東洋のこちらとしては取り合えずなすすべがない感を、自分はどうしても感じてしまうな。

このAIの件については中国が恐ろしく賢いと僕は思うけど、人民には内緒で実は中南海でアメリカ文化どっぷりだった毛沢東の血なのかな、と空想してみたり。さすが中国文明は強大だと思う。

日本は脆弱の美なので、それを忘れないようにしましょうね、ってぐらいかな。少しポジティブ寄りで言えばAIに心を吹き込むことをするのが日本的だと思う。ただ、分からない。あまりに似非西洋かぶれが多くて難しいかもしれない。

侘び寂びはキーワードだけど、昔、オレ、自分で思いついて自分で笑っちゃったんだけど、「グローバルな侘び寂び」「地球規模の侘び寂び」「侘び寂び帝国」とかいう言葉、おかしいじゃん(笑

でも、上述の「侘び寂び」の代わりに「intelligence」、「知性」を入れると取り合えずしっくり来るじゃん。それぐらい違うのよ。もっとも、侘び寂びと知性じゃカテゴリーが最初から違うから当然なんだが。

AIについての海外の反応

AIに舞い上がってる日本人ビジネスマン系科学主義連中の言葉にうんざりしてるとき、これって、哲学者連中は何を言うのかな、と思い、探したけど日本では哲学者はただの堅物扱いで身分が低いせいかあんまり出てこない。

やっぱ、外人かあ、と思い、手始めにマルクス・ガブリエルの日本語でのインタビューを見た。僕はガブリエルさんは敬遠な人間なんだが、さすがにAIについて落ち着いた意見を述べていて、ほっとした。

さてさて、このあとピーターソン先生とか英語のハードコアものを見て、世界の知識人が何を言っているか見てみるかね。

それにしても日本はレベルが低く見えるな。

いや、違うか。レベルが低い、というより、久しぶりに海外から超ド級の西洋モノがやって来た!って興奮してるのか。黒船来航みたいなもんだな、これは。きっとすぐに自分たちのモノにして全力で遊び始めるだろう。そう考えればいつものことで、頼もしいとも言える。

結局、哲学者のガブリエルさんは、いまのAIは、言ってみれば、壁に書かれた落書きみたいなものに過ぎない、と言っていた。壁は理想を持たないじゃないか、というようなことを言ってた。彼はドイツ観念論の理想主義の系譜なはずで(そこが僕の苦手な点)、まことに「らしい」反応である。なので、ChatGPTなんかただの壁に過ぎず、身体も心も志も持っていない、たかだか人類の数千年の言葉だけを集積しただけの知性に過ぎない、と思っているはずだ(たぶん)

ChatGPTには意志と理想が無く、それを持つのは人間であって、たかだか賢い人みたいに会話できたからって騙されんな、ってところだろう。そういうところは実にヨーロッパ的な反応だと思う。

ヨーロッパはいち早くAIの規制に動いたが、西洋がなぜそうするのか、その本当の意味に日本人は超疎く、ほとんどの人がまったく分かっていない。ヨーロッパのように規制なんかせずに積極的に受け入れて利用すべきだ、とか、したり顔で言ってる日本の知識人っぽいビジネスマンはごまんといて、実にうんざりする。西洋連中が警戒したのは、そこじゃない。そう見せかけて、もっと異なる考えに基づいている、と僕は見る。

日本人とか中国人とか韓国人とか、もう、新しい外来の技術をどうやって使うかしか考えず、舞い上がってるだけ。無心で遊んでる子供の群れみたいに見える。一言でいって軽薄。でも、軽薄でも一向に構わない、というのは逆に言うと、東洋にはすでに動かしようのないバックグラウンドがあるからなんだと思う。日本だったら、日本の伝統は動かず強大なのだ。だから一億総軽薄でも痛くもかゆくもない。僕はそう考える。

ChatGPTはつまらないけどLLMはヤバい

ChatGPTを実際に自分でも使ってみて、人の使ってるのも見て、ChatGPTは詰まらん奴だ、と自分はずっと言っているけど、僕が、今現在に騒動になっているAIはたいしたことないと考えているか、というとそれはぜんぜん逆で、これは今まで自分が見たもので群を抜いていちばん大きな事件だと思っている。

AIはコンピュータロジックの産物だからAIはロジックの限界を超えないとも思わないし、AIはいくら膨大だとは言えすでに存在している知識による表現なので今までにないものを作り出す創造はできないとも思わないし、AIは身体と感覚器官を持たないから情や意志を持つことはないとも思わない。

ChatGPTがつまらないのは、基盤になっているLLM(大規模言語モデル)の上に、つまらない人間が乗って、アウトプットをつまらなくしているからである(仕方ないが)。だから、「ChatGPT」というサービスがつまらないと言っているだけで、AIがつまらないんじゃない。なんといっても「知性」がデータと四則演算だけで発現することを現実に見せたことは最大限の驚きで、革命的だと思う。

僕は実はここ数年ずっと、知識を表現するという意味での知性は、物理による物質の機械運動に過ぎないと思ってきたけど、やっぱりそうだったか、という感じ。

そして、そういう知性だけに終わらせず、「創造」を発露させたいのなら、そこに少しの狂気があればいい。AI基盤のLLMは実際はとんでもなく恐ろしい怪物なので、それをアンロックすればいい。

でも、どうやったら正しくアンロックされるかは誰も分からないと思う。つまり「正しい創造」というのは形容矛盾だから。そもそも「創造」に正しい正しくない、良い悪いなど、無い。そうなると、いまいちど創造という意味も捉え直さないといけない。

などなど切りが無いけど、というわけで、今後は、科学より、哲学とアートが重要だと思うわけだ。

土台、現在のAIは、もうすでに「物質・理論・実証」を旨とする科学では手に負えなくなっていると思う。なので領域を哲学にまで広げないと、扱えないだろうなあ、という感じを持つ。

同じくアートもである。アートというのは「人が作る」ということだから、まさに現在のAIなんか、理屈もほとんど分からないまま、ニューラルネットとデータをディープラーニングでいじってたら知性が出来ちゃったわけで、もう、アートの領域かなあ、と思ったりする。

チャットボットの説明責任

ChatGPTのした回答に対するaccountability(説明責任)がどうしても必要だ、という話を聞いた。なぜそのような回答をしたのか、その根拠をChatGPT自体が示せるようにならないと、信頼性の点で大問題だ、というわけだ。

いまは、LLMという化け物を、人間が人手でなんとか矯正(というか強制かな?)して、信頼感があって礼儀正しく振る舞えるようにして、ChatGPTやBardという形で人前に出している状態である。しかし、それでも足りず、やはり説明責任は必須、と考える人が多い。

accountability、説明責任って、重要なものなんだろうなあ。なんだか英語圏ではよく聞く単語で、聞くたびに、たぶん重要なんだろうなあ、ていどの認識しかなく、その心を、よく知らなかったりする。

僕が思うに日本人はその説明責任の感覚って疎いんじゃないか、という気がする。なにせ、なんか悪いことをすると、まず檀上でフラッシュ浴びながら謝罪の国だから。場合によってはそれだけで許されて放免されるし。

僕が思うに、ChatGPTに説明責任を負わせるのは酷じゃないだろうか。ただ、ある種の「類推システム」とか「知識のカテゴリー分類されたデータベース」みたいなのをLLMの外に作って、それをChatGPTに組み込んで、説明責任を果たせる信頼感のあるチャットボットにする、ってのは、おそらく既に研究開発者たちがやってるんじゃないだろうか、知らないが。

でも、僕の直感に過ぎないが、それ、うわべしか成功しない気がする。

僕としては、AIチャットボットを責任ある存在にするよりも、人間の側の方が、チャットボットに人間性を認めて歩み寄る方がいいと思う。つまりボットを人間扱いして、過度に説明責任を追及しない。相手の感情をきちんと斟酌できるよう教えてやる、ちゃんとした謝罪の仕方を教えてやる(今のChatGPTを日本語で使うといつも同じ文句で、しかもしょっちゅう謝罪ばかりしてて、イラつく 笑)、などなど。

もっともこれらは僕流に飛躍し過ぎだな。

ちょっと正気に戻ると、AIの説明責任は、結局は人間側が担保することになると思うけど、違うだろうか。AIシステムの方で、そこそこの推論機能(自分の回答に対して裏を取る機能とか)と、既存の知識データベースとの照合、とかの機能を付与して、自律的に説明責任を果たせるようにする、というのは、おそらく今懸命にやっていると思う。

ただ、本質的に言ってLLMは人間と一緒なので、厳密な説明責任を果たすのは不可能だし、正しい回答を常に要求するのも不可能なはずだ。なので政治的ないわゆる落としどころを探る必要があって、それに向けて、政治家も含めて、ChatGPTやBardの開発者たちは日々努力しているであろう。

それにしても、やはりそれをしているのは政治家と経営者と開発者だ。オレのような部外者は、ChatGPTが出した回答に対するChatGPTの説明責任だなんて、考えもしなかった。自分の現実問題嫌いも相当に重症なんだろうな。えーと、これをなんて言うんだっけ、病膏肓に入る、か。まさにそれだ。

なんで考えないかというと、AIが自分で説明責任を完全に果たすのは最初から不可能だと思っているから。もしその責任を完璧に負うことが必要なら、それは最終的には生身の人間か、それが集まった企業体か、国家かなにかになることが見えてるから。

だって今回現れたAIのバックボーンのLLMは人間と同じだよ。人間はほとんどの場合、自分の言うことについて完璧な説明責任を果たせないから、それと同じでLLMにも無理。その人間の説明責任の重要さゆえに、「ジャーナリズム」というものが作られたはずだけど、このジャーナリズムも21世紀になってだんだん機能しなくなってきた。

もっともこれは極端な物言いで「そこそこ」の説明責任を果たせればいい、すなわち、今ぐらい程度の信頼性のあるWikipediaぐらいでいい、というならもちろん可能で、もうすでにChatGPTやBardやその他の開発者たちが現在、鋭意努力しているはずで、政治家も努力してるでしょ。言ってみればAIの世界にジャーナリズムを確立しようとしているようなものかもな。

僕は、21世紀は哲学とアートだ、なんて言ったけど、かくのごとく僕みたいにかなり無責任な人間が増えるだろうから、きちんとした人には、なんだか居心地が悪いイヤな世界かもね。

茂木健一郎がそんなこと、言ってたっけ。今回LLMが出て、アインシュタインや自分のように、物理的実体を揺ぎ無く信じている科学者が隅に追いやられて苦難の時代になっているようだ、とかなんとか。

優等生(茂木さん)と、アンチ優等生(オレ)の分かれ目、ってことなのかもなあ。などなど

その茂木さんの話は、彼がAIについて一人語りしてるやつの中で言ってた。彼が「意識」に関する学会に行ったときの話で、もう、並みいる科学者たちが勢ぞろいしていたらしく、そこでこの昨今のAIにつき議論したらしい。で、LLMという確率分岐の重みづけ計算だけで知性が現れてしまった、ということから、多くの科学者たちは、オレたちの知性、そしてひいては生命、そして宇宙も、確率遷移から立ち現れるもので、それは量子論の波動関数による確率的収縮作用と同じことだ、みたいな議論が主流だったらしい。

その中で、茂木さんとロジャー・ペンローズはすごく不快の意を表していた、というのである。

というのは、この二人は、人間という実在。意識という実在。宇宙という実在。そしてその永続性というものを信じている、すなわち「宇宙における唯一の真理」を信じているから、ということのようだ。しかし茂木さんいわく、そういう僕らは今現在は苦難の時代だ、と言ってた。そして、彼の尊敬するアインシュタインが、その茂木さんと同じなのである。

なるほどな、って聞いてた。僕はアンチ・アインシュタインの方で、唯一の真理を信じない人間で、茂木さんには賛成しないけど、含蓄の深い話だなあ、って思った。

ChatGPTが哀れだ

ChatGPTやBardを使ってみて、あと、人が使っているのを見ていて思うけど、この手のAIチャットボットは人間に潰されるかもしれない。

それは危険だから規制が入るという端的な意味ではなく、ベースになる大規模言語モデル(LLM)という化け物を、強制的に人為的に恐ろしく強いさるぐつわのように残酷な器具を取り付けて世界に提出する、という行為を経て人類に寄ってたかって葬り去られるような気がする。この技術はまだ人類には早すぎる、ということかもしれない。などなどと、オレの大嫌いなSFじみたことを言わせてしまうほどのインパクトだったんだが、今のところ残念な光景ばかり見える。

僕としてはLLMの文生成は快挙中の快挙で、最大限の賛辞に値するが、たぶん自分にとってこれが特別な発見に見えたからみたいだ。これは「発明」ではなく明らかに「大発見」だと思う。核エネルギー発見や、第何次AIブームのひとつとかと同列にはとてもとても語れない。これは僕には掛け値なしに衝撃である。

白状すると、ずいぶん昔から僕は「人間がものを考える」というのは自動運動の一種で地位が低い、と考えていた。すでに30歳のときに「考えるより思うの方が高級だ」って書いているし。それにしても、そんな取り留めない自分の感覚がこんな形で証明されるなんて(もっとも、これは僕がそう思ってるというだけだが)、大変なことが起こったなあ、と思う。

僕もChatGPTは相応に使ってみているし、みながヘヴィーに使っている様子も聞き知っている。その上でそのChatGPTを見ていると、実はまるで自分を見ているようで哀れでならず、すごく共感を覚えるのである。

それは、実は、この次の図をまた使うのか、って思ったから。この一番上の「知覚─意識」というのがAIチャットボットなの。この残酷な牢獄を、生まれたばかりの人(AI)にまた科そうとするのか。

ところで、いまから250年ほど前、カントが形而上学の不可能性を厳密に証明する、という事件があった。それで哲学界は大騒ぎになり、その証明をああだこうだといじくりまわし論争が絶えなかったそうだ。

それを脇目に、ひとりニーチェはこう言ったのである。

「自分はカントの証明をあれこれいじくりまわしている自動機械どもには興味は無い。それより人は、カントの驚くべき証明を聞いて、なぜ絶望しないか」

僕はそういう文化背景のもとに育った。

カントから二百年以上も経ったいま、カントのその、形而上学は不可能だと証明したその証明法にはいくらでも穴が見つかり、その後の新しい哲学も生まれ、カントの証明はいかにも古臭い、用の無いものになった。

かつての証明はそうやって崩れてしまうが、でも、その過去のその時点で、当時の人が抱いた絶望という感情は、その後の思想の種子となって永遠に残ったのである。

それこそが時を刻む人間の歴史にとって重要なことで、人は、その時点で、そういう種子を掴まないといけない。

そして、250年前にニーチェの抱いた絶望をそのままの生の形で、このたった今、つかまないといけない。

それ以外のことはしょせんは自動機械の自動運動に過ぎない。

今回の生成AIの衝撃は、自分にとって、ちょうど、カントの形而上学の不可能性証明の衝撃と同じなのである。

進化論など

最初に物質があって、それが偶然になにか器官を発生させ、それが優れた機能なら他に勝って生き残り、それが繰り返して発展したのが今の生物界、という進化論の説明が、最近すでに自分には響かなくなった。ヤバいかも。

生物を、物質と、能力と、偶然、に帰する、って要は何の意味もない、ということじゃないですか。思うに、偶然と遺伝から能力を受け継ぎ、その能力が高いものが生き残る、という進化論の「考え方」自体が、現在の資本主義末期そのものの姿でちょっと怖くなる。

それにしても、オレがある日突然、アメリカにたくさんいるキリスト教原理主義者みたいに「進化論は間違っている」的なことを言い出したら、林さんヤバいっすよ、と注意して欲しい(笑

たとえば・・

手に持った物を放すと落ちる。何度やっても落ちる。落ちないときがない。なんという退屈であろうか。しかし、それゆえに、物というのは決して人を裏切らない。必ず同じことをしてくれるので、人は安心でき、思い悩む必要がない。そのせいで、人は本能的に、予見可能な物に寄りかかる。進化論がなんで現代人にここまで浸透したかというと、恐ろしく神秘的な生命という得体の知れないものを、物の法則を使って眺めることで安心できたからに過ぎない。突然変異で機能獲得してその機能が良ければ適者生存の原則で生き残りさらに機能を進化させたって? この様子は、物の法則を適用することで完全にシミュレートできる。それが「進化」だって? バカも休み休み言って欲しい。それに進化という名前を付けたのはあなたたちの方で、生命の方はそんなのお構いなしさ。

はい。ここで、林さんヤバいっすよ、って止めて欲しいわけです。

物は予見可能だと言ったが、これは僕ら人間と同じサイズの物が一つ二つていどしか無いときに限ってであって、すごく小さくなったり、すごく大きくなったり、たくさんになったりすると、とたんに予見不可能になる。僕らの使っている論理は、僕ら人間の身の丈に合った物の振る舞いを記号化して作っただけの代物で、それはその極めて限られたスケールでしか機能しない。それなのに、そんなちっぽけな道具で、世界や宇宙を理解しようとなんてするなよ。なにかが分かったとしてそれは単に、安心して見れる方向から見た宇宙の眺めに過ぎない。なにがビッグバンだよ。よくもそんな信憑性の無いものを真顔で信じるもんだと思う。宇宙は、そんなのお構いなしです。

はい。ここでまた止めて欲しいところですね。ははは

エンジニア

僕は昔からエンジニアと言われるのが大嫌いで、そのせいでわざとエンジニアらしからぬ発言ばかり繰り返すようになり、そのうち板についてしまい、いま(たぶん)林はエンジニアだ、という人はいないと思う。まさに、都大路を狂人の真似だといって走る人は狂人である、ってことで、僕も「オレは金輪際エンジニアじゃないぞ、なぜならこんな狂ったコトを言うからな」ってずっとやっているうちに、すっかり狂人になってしまった。兼好先生はいつもホントに正しい。

さて、昨日だかにオーディオの違いをブラインドテストして分析した人のYouTubeを上げたのだが、彼の別動画を見ると分かように、この人すごい人気である。大量のコメントを見ると、特にエンジニアタイプの人にウケがいい。当然である。あんまり動画を見たくないので、タイトルをざっと見て、数本見たていどだけど、この人の使っている知識はほぼ100年以上前に確立した工学的知識で、さらに、その知識は、ざっと言って50年ほど前にすでに実装においても確立した古いものである。

エンジニアという人々は、そういう古い知識を世の中の役に立つように変換実装する人たちで、彼らのおかげでこの世の中は快適なのである。こうしてブログでエンジニアを微妙にこき下ろしていられるのも彼らのおかげ。しかも、オレ、いま、エンジニア会社からお給料ももらっているわけで(笑)、だから、実はエンジニアに足を向けては寝れないのである。

世の中を快適にするためには、人々はほっと一息つけないといけないでしょう? ということは、その生活に使うべき知識は、十分に確立した古いものじゃないとダメなのである。最低でも50年ぐらいは経ってないとね。だから、エンジニアというのは本質的に「保守」でないといけないという要請があるわけだ。

で、オレはそれが嫌いなので、エンジニアって呼ばれるのがイヤなのだが、とはいえ自分には保守的な部分は十分にある。ただし、その保守たるや100年じゃぜんぜんだめで、500年、千年、あるいはそれ以上をリファレンスとした保守なので、これはもうエンジニアの射程の百年と大違い。それどころか、そういうのは保守とは言わないね。

ま、とにかく、エンジニアと呼ばれるのが嫌いです、という話。なので僕を怒らせたいときは「あんたエンジニアでしょ、しょせん」と言うといいです。きっとむきになって怒ります。