ひろしま美術館にあるゴッホのドービニーの庭って絵が好きだって話はずいぶんしてるけど、彼のいい絵は日本にあと数点ある。
小品だけど、オーヴェールで描かれた「あざみの花」という画布も好きだ。ドービニーの庭と同時期の死ぬ少し前に描かれた絵で、どちらも色使いはほとんど同じ。このころのゴッホは、どの絵も、十数色程度の色数だけを使い、それを塗り絵のように塗っているだけで、使われている色彩の数がそんなに多くない。そういう意味では、それこそ浮世絵の多色刷りみたいな感じになっている。
このあざみの花は箱根のポーラ美術館にあり、先日行って見てきた。やっぱり素晴らしいな、いつまで見ていても見飽きない。
ここまで絵そのものが好きになってしまうと、もう、実は、これが本物である必要はなく、この絵の完璧なレプリカがあれば、オレはそれで十分満足する。結局のところ絵画というのは視覚的なものなので、視覚が満足させられれば、それでいいのだ。
ということは、完全な複製が製作できれば、それは本物と正確に同じ価値を持つということだ(少なくとも僕にとって)。それで、本物と完全に同じものを製作するには絶対にデジタル技術でなければ不可能だ。腕の立つ複製職人もかなりのところまで行くが、こと完全複製となると困難と思う。
最近、ネットで、そういう超器用な職人が出てきて、紙の上に写真そっくりな絵を描いて、皆が無邪気に驚いているのとか見かけるけど、あれは対象が写真だからできるので、絵画の場合はできるか否か怪しい。特にゴッホの絵などの場合、絵の具の盛り上げと、偶然を利用したタッチが多用されているので困難さは写真を写すよりはるかに高いと思われる。
まあ、最近の高度なCG技術を使えば写真みたいな絵はあっという間にできるのを見ても分かるように、写真そっくりに描くのは意外と簡単なはず。皆が驚いてるのがバカみたいに見えたりする。
ま、とにかく、完全な複製はデジタルであるべきだ。
というわけで、ゴッホの絵は、無数に増やすことが可能な道理になる。オレは、それを一枚、是非、欲しい。額装して飾って家に置いて、いつでも見たいんだ。
それなのに、オレの今の環境では、超不完全な複製印刷、超ひどい出来の画集、液晶モニタの上の汚いデジタルデータ、しかもすべてオール凸凹なしのペラ紙しか、無い。凸凹特殊印刷の複製ってのがミュージアムショップで売ってたが、見たけど、いい加減なもんで、しょせん色彩は全然再現できてないし、凸凹がついた紙なだけで、油絵の具の質感とか皆無だ。
というわけで、電車で箱根まで行って、バス乗って美術館行って、入場料払って、本物を見るしか、今のところ方法が無い。
3Dプリンターもあるんだから、ボタン一つでゴッホのこの「あざみの花」の完全なデジタル複製が出てくる、っていうシステムはできないものか。いや、これは今現在のテクノロジーで十分に可能なはずだし、研究室の中では実現できているに違いない。
そうなった暁には、初めて、この、ゴッホの貴重な「あざみの花」は永遠に増殖しながら生き残るのではないのか(デジタルだと経年変化が無い、という下等な意味ではない)。
デジタル複製の場合、それが完璧になれば、「増殖」というのは当たってないと思う。というのは、ボタン押せばいくらでも同じものが出てくる、ということは、それは「複数」では無く「一個」ということだ。だから、そのようなことが可能になって、初めて、このゴッホの「あざみの花」という芸術作品は、「唯一無二」の、ほとんどあの世に属する、完全に抽象的な、一個の「表現」に形態を変えて昇華するのに、違いない。
だから、デジタルにすると劣化せず退色しないだとかなんだとかいう話は些末事で、どうでもいいことなのだ。
今はまだデジタル技術がまだまだイマイチなんで、ゴッホの「あざみの花」はポーラ美術館所蔵の「本物」が本物なだけで、その形態はまだ不完全だ。そのせいで、オークションに出て何十億円とかで競り合ったり、印刷した画集が売れたり、盗難にあったり、火事で燃えたり、贋作だったり、なんだかんだという「人間的なあまりに人間的な」ドラマが「本物」の周りでドタバタ劇のように繰り広げられているのだ。
そんな喧噪の中で、この「あざみの花」の純粋な「ビジュアル」は沈黙をたたえて存在している。オレは、その孤高な沈黙に会いに箱根へ行くわけなのだが、その唯一無二の芸術精神を、大仰な額縁に入れられて壁に固定されている、その目の前に見えている牢獄から「救い出したい」と切に思う。
がんじがらめの「物理」から、「理想」を救い出すには、もう、完璧なデジタル技術しか、方法が無い。
さいきん、自分は、そんな風に「デジタル」を捉えている。
早く、そうなんねーかな。
って、研究者なんだから自分でやれよ、か。
(Facebookから転載)