民主主義について

昨日、ツイッターを見てたら誰かのツイートにこんなのがあった。

「民主主義って、最後は最大多数の最大幸福に落ち着くものだと思うんだけど、そんな中でごく一部の頭のおかしいクレーマーの意見がまかりとおるってのは、本来はおかしいんだと思うよ」

これを見て、あまりに正反対に間違っていると思ったので、思わず「ぜんぜんおかしくないと思うよ」とリツイートしたが、その後もいわゆる民主主義について何となく考えてしまった。

その日は鶴見線に乗って沿岸の工場地帯を散歩しに行ったんだけど、ぶらぶらと歩きながらあれこれ考えた。自分にしてはきわめて珍しい。というのは、ふだん、自分はあまりものを考えるということをしないのである。考えるときはだいたいこうして文章を書きながらで、頭だけで考えるということをあまりしないのだ。

自分は政治に興味がほとんど無いので、政治について考えることはほぼ皆無。投票も最近ようやくいくらかは行くようになったものの、成人になってから30年ぐらいはオール棄権だった。かといって「棄権」を自分のポリシーにしていたわけでもない。ただ、自分の興味の無いものに対して意思表示する、ということが嫌だとは常に感じていた。さいきん投票するようになったのはほとんど世間体からに近い。というか、前述の「なになにが嫌だ」というのは実は立派な意思表示であって、それを続けるのが面倒くさくなったというだけだ。歳を取って丸くなったとかそういうのではなく、単にそういうどうでもいい意思表示に使うエネルギーが惜しくなったという方が近い。ま、そういう意味では歳を取ったからであろう。

政治に興味がなければ、実際には民主主義という代物にもあまり興味はなく、まともに考えたことは無い。もっとも、民主主義についていうと、これは実は政治とは関係なく、社会が取った一種の「方法論」のように自分には思えるので、そういう意味では自分も社会で生活して社会活動をして生きているので、社会生活の前提として、一種の空気として感じていたことは確かだ。

なので、この言葉、「主義」という文字はついているけど、とても主義とは言いがたいと思う。結局のところ、自分が、子供時代から今まで育ってきた社会の空気がこの民主主義によるものだったので、すでにこの方法論は自分に染み付いて、染み渡っていて、改めて考えてみる必要もないと感じていたとも言えそうだ。

そういうことなので、冒頭のような言葉をいきなり聞かされると、ほとんど体が反応するのである。「それは違う!」という感じで。民主主義について言葉を弄して考えることはほとんどなかったけど、脳の奥の方では自分の心のどこかであれこれ考えて、というか想って、それなりの意見を蓄積して来たのだろう。

よく晴れた休みの日、殺伐としたコンビナート群を眺めながら、脳の奥に眠っていた考えを掘り起こしていた、というわけだ。

さてと、すでに前置きが長くなったが、冒頭の言葉の何が違うのか。

まず、この言葉を聞いておそろしく感心する、というか呆れるのは、人民の総意が社会を作るというやり方を取ったとき、それが最後には最大多数の最大幸福に行き着く、という発言の呑気さである。これは「考え」ではない、「感触」だと思う。この人は、人民が自分たちが一番いいという方法を取って考えて行動したとき、それが満足を与える平和な幸福な社会に行き着くと「感じて」いるのである。

人民が民主主義の方法を取ったとき、彼が言うような社会に「行き着かない」ということは同様にありえるはずだし、実際には、行き着くか行き着かないかはフィフティーフィフティーだ。では行き着かなかったときにどうするか。

この人の言葉から透けて見えるのは、もし行き着かなかったとするとそれは「頭のおかしい一部のクレーマー的人間のせいだ」という、これまた「考え」ではなく「感触」である。

だいたいが、この言葉は考えの表明ではなくて、感触の表明なのである。おそらく本人に聞いてもそう答えると思う。「私はそう感じるのです」と。そういう意味では、面白いのが、これは実は僕と同じだということだ。僕は「そう感じない」のであって、さっき書いたように「そう考えない」のではない。

あ、いや、これでは話が逸れてしまうので、この話はまた。もとへ

いまさら言うまでもないかもしれないが、この言葉はきわめて日本人的な楽観に基づいている。この人は、民主主義の社会に生きるにあたって、自分は最初から「大多数」の側に入るものだということを、おそらく一度も疑ったことがない。そして自分の属する民主主義社会の敵は少数の頭のおかしい人間たちであって自分がその頭のおかしい人になる可能性もある、ということを一度も想像したことがない。以上の事情がこの一文に染み渡っている。

いま自分はこの文を書き飛ばすにあたって珍しくWikipediaなどで裏を取っていないので、間違ったことを書くかもしれないが、そのときは直して欲しいが、民主主義は日本人の発明ではなく、西洋の発明品だ。そして、民主主義という方法論は、僕にいわせれば、人間性についてきわめて悲観的な見方を土台にして作り上げたものである。

なにが悲観的かって、多数の人民が社会に生きていたとき、それらすべての人々が一つの美しい理念に基づいて協力して、和を乱さず、整然と、その理念に基づいた社会を作り上げ、そこにすべての人々が幸福に助け合いながら暮らすということは、「不可能だ」、という前提から出発しているからである。そんな共通理念はどこにもないし、そもそも共通理念というのは幻であり実在しない、という長年の社会経験に基づいた感覚から出発しているのだ。

だから、「仕方なく民主主義」、なのだ。それが出発点だ。つまりこの主義は理念に基づいていない。そうではなくて「方法論」なのだ。だからこの文の最初の方で、民主主義は主義というより方法論だと書いたのである。

仕方ないから理念を設定せず人民の総意に任せた。そして仕方ないから殺し合う前に議論というものをしましょうということにした。それで決まらないときは仕方ないから多数決という方法を取るようにした。で、それでも少数の負けた人たちは恨みから破壊に走る可能性が高いので、仕方ないから制裁は加えず彼らの主張を封じ込めないようにした、などなど。

かくのごとく民主主義は苦肉の策だというのが自分の考え方である。

この「仕方ないから民主主義」という図式が、このように苦肉の策だとすると、これは本当に出発点であって、この策はそのままでは短期間しか機能しないのは目に見えている。そこで西洋ではどう考えたかと言うと、この「策」を「主義」にまで高めるべく、その策を取ることにみなが同意し、そしてみなで運営できるように、「人民を教育する」、ということを一番大切なこととして掲げた。

要は民主主義はその方法論だけではあまり機能しないはずで、人民の意識の教育と改造の方がずっとずっと重要な課題なはずなのだ。西洋では、この民主主義が定着するまでにそのような、個人と社会、そして自由と束縛、個人的責任と社会的責任などなどについての長い検討の歴史があって、その検討は一部の選ばれたエリートたちによるものだったが、結局、現代の民主主義に至る長い長い準備をしてきたようなものだったと思う。

さて、日本の民主主義にはかくのごとくの西洋で行われてきた訓練がほとんど欠如した状態のままここまで来ているように思う。冒頭の言葉に戻ると、努力しなくても大多数幸福に行き着けるという楽観が今でも支配しているように見える。単一民族の島国の日本ならではという気もする。

それで、この楽観自体は決して悪いことではないと思う。皮肉で言っているわけではなく、むしろ良いことだと思う。ただ、この楽観を民主主義という言葉と結びつけることが間違っているし、しかもそれは「悪い」と思う。だってこの楽観は民主主義とは相容れないものだから。

では楽観に基づく民主主義を標榜して何が悪いのか。

まず民主主義を名乗った時点で、国際社会において民主主義を名乗る西洋と同じ土壌に立ったことになる。したがってその時点で、同じ民主主義を標榜する国として連中と同じ土壌で戦わないといけなくなる。経済でも軍事力でも政治力でも文化力でもなんでもいいが彼らに勝るものを持たないと国は衰えてゆく。

さて、楽観に基づく民主主義は、みながあまりものを考えず、周りと同調することで、努力せずに大多数の同意を形成する風景になる。そして、冒頭の言葉に象徴されるように、基本的に、この大多数同意に同調しない少数の人間を排除することで大多数の同意を継続し、大多数幸福を維持しようとする。で、どうなるかというと大多数の同意に基づく社会は原理的にレベルの低い方にその重心が移る。

大多数が同意する集団と、その同意に基づく集団の社会活動についてのレベルはほぼ必然的に下がると思う。これはほとんど統計的に仕方ない成り行きだと思う。せいぜいうまく行ってガウス分布の真ん中の中間層のレベルに一致する道理だが、しかし、実際にやってみると中間層よりも下がる。なぜなら中間より低い層にも理解できる同意である必要があるわけで、その同意形成のための、たとえば「社会政策」のレベルは、中間層より下げないとうまく行かない。

さて、別にこのようにレベルが低くても大多数幸福な社会はうまくやれば作れると思う。ただ、問題は先に言ったように、民主主義を標榜したことで西洋の国々と同じ土壌で戦わなければいけなくなったという事実である。

ちなみに、集団の同意のレベルが平均よりずっと低い、というのはなにも日本に限らず西洋でも同じだ。問題は、そのレベル低下が長期的な意味で結果的に引き起こす「社会の停滞」をどう克服するかである。この停滞は厄介である。なぜなら停滞したままだと、同じ土壌の他国に負けてしまい、最後には当の社会を平和に維持できなくなってしまうからである。

この停滞は、大多数の側にいて、大多数に従順で、大多数の幸福を享受している人には克服できない。なぜならその当の停滞をそれら従順な人々が招いているからだ。ではどうするかというと、停滞の克服は少数の異分子こそが成し遂げることになるのである。

自分の考えでは、民主主義に理念らしきものがあるとしたら、大多数幸福を維持するという方にではなく、この、少数の異分子を排除しないメカニズムの方にあると思う。そこにこの民主主義の一番の発明のポイントがあると思う。先にも書いたが、民主主義はほとんど「仕方なしに」という理由で取った方法で、人性に対する悲観から成り立っているものの、たった一点、楽観というか、明るい部分があるとすると、それは、大多数が理解できない異分子を、分からないながらに皆が排除せずに尊重していると、ある日、偶然にその異分子の誰かが自分たちの停滞した社会にブレークスルーをもたらし進化させ、自分たちを停滞から救ってくれるのだ、というきわめて楽観的で根拠のない感覚にあると思う。

これは自分の感じ方だけど、この「異分子」というのは別に「よいもの」では全然ない。そして、さっき停滞を克服する、という風に言ったけれど、そういうポジティブなものですらない。単に、異分子なだけだ。

もっとも冒頭の言葉を言った人ならこう言うかもしれない。「たしかに異分子は社会を発展させたりする。さいきんの例ではスティーブ・ジョブスという超変人がネット社会を進歩させたように、そういう変わった人がブレークスルーを生み出すというのは分かる。でも「単なるクレーマー」は違うだろう? もっと極端な例では「犯罪者」は違うだろう? そういう異分子は排除するべきだ」、と。

では社会の異分子を横一列に並べて、どいつが社会の発展に貢献してどいつが害悪を流すか誰が判断して取捨選択するのか。大多数で構成されるレベルの低い集団が判断できないのは、これは原理的に自明だ。で、自分が思うに、厄介なことに、レベルの高い層の人たちであってもその判断はほとんど無理だ、ということである。要は誰が発展に寄与するか分からないのである。

ここで言っている発展は継続的発展のことではなくブレークスルーのことである。長く続く停滞を打破する力のことである。こういうことについては、基本、判断はできない、運任せである。異分子100人だか一万人だか10万人だかしらないが、その中から1人、それが出来る人間があるとき躍り出るのである。極端かもしれないが犯罪者予備軍もその中に入っている、あるいは極端には犯罪者も含めて誰がそれを起こすかはわからない。昔から言われるように天才と狂人は紙一重なのである。

以上の理由から、「だから」、異分子は排除してはいけないのである。それどころか、たとえその異分子の人の言うことが、一般の大多数の人にとってまったく理解不能であり、迷惑極まりなく、完璧に理不尽であっても、とにかく尊重してあげないといけない。そしてさらに、そういう異分子が活動できるようにしてあげないといけない。これは実際には大多数にとってはリスクであり、痛みである。しかし、そのリスクと痛みを大多数側は「負う覚悟」をしていないといけない。

この「覚悟」は、実際にはなかなか難しい行為である。なにせ理解不能でもの騒がせな異分子を認めろというわけだから。大多数から見ると「あいつがいなければ平和なのに」って考えるところ、立ち止まって、「いや、あいつにも生きる場所があるのだ」と尊重しないといけないわけだから。

最近起こった、この手の象徴的出来事の一つは、ノルウェーでたった一人で罪の無い70人以上の、主に若者たちを殺した自国の極右のテロリストに対する、ノルウェーでの裁判の経過かもしれない。これほどひどい異分子に対しても、正当な法をもって判断するということにノルウェー人たち自身が誇りを持っている。自分たちが作り上げた民主主義はこの極端な犯罪者によっても崩壊することはない、という自信が伝わってくる。もちろん国法(ノルウェーは死刑も無期懲役も無い)に反して死刑にすべきだという意見もある。しかし、それと同時に彼ら人民の頑固なまでの民主主義社会を堅持する態度も見える。調べてみるといい、日本では決して見られない光景である。あるいは中国なら即日死刑で終了かもしれない。

結局、まとめると、民主主義は大多数の幸福のための発明ではなく、むしろ少数の頭のおかしい人たちを認めるというところにその方法論のダイナミズムがある、ということ。そういう意味で冒頭の言葉は正反対だと自分は考えていること。さらにきわめて日本人的な楽観に基づいた言葉なのはいいがそれを民主主義と勘違いすることは、勘違いだけで済まず日本の衰退につながるということ。民主主義本場の西洋では、その主義についてかなり高いリテラシーを人民が持っているらしいということ。

さて、以上、冒頭の言葉に対して、「それは違う」、と自分が反応した中身である。

思うに、西洋の民主主義はネット社会になって一段階進んだようである。ここで言った「異分子」というものを、合理的に育て、場所を与え、さらに社会で活動できる方法を与えること、というメカニズムの新しい形態をインターネットによって作り出したからである。民主主義というのはつくづく進化論のメカニズムの延長にあるのだなと思う。閉じた社会と開いた社会を交互に繰り返すことによって社会を発展させてゆく、という見方は進化論のメカニズムそのものに見える。

ネット社会はたしかにそのように進んでいるように見えるが、これは大きく言って西洋の話だ。日本は少なくとも同じ土壌に乗ってしまったので、以上のようなことを自分は言っているが、そもそも最初からその土壌に乗らない、という選択肢もある。たとえばイスラムがそれだろう。

いわゆるグローバルスタンダードについては、自分はかなり苦々しく見ている。東洋には東洋の独自のスタンダードが見つけられるはずだ、とも思っている。しかし、これはまた別の話なので、この話はこれで終わる。

久々の書き飛ばし、乱文失礼!

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