うわべを飾るということ

とあるネットニュースで、最新の経営手法に関して、社員の健康悪化そのものもコストに換算して管理対策するという考え方について読んだ。いやー、大変な時代になっちゃったね。これを読んでいると、ハリウッド映画に出てくるステレオタイプ経営者の姿が目に浮かんでくるね。「みんなで明るく元気な職場にしましょう」というスローガンの裏に渦巻くこの非情さ。しかし人の世というのはたしかにそういう二重性に支えられて、いるよね。

孔子は、二千年以上前に、「人民を従わせることはできるが、その理由を教えることはできない」と、はっきりと言い切っている。思うにあの人は、いわば、フリーの経営コンサルの元祖みたいな人だったね。後半生は、為政にも、人民にも、属せず、それでいて厭世でもなく。孔子を経営コンサルタントとして考えると、彼が飽きるほど繰り返す「仁」「徳」「孝」という代物たちの本当の意味が見えてくるような気がする。

孔子が解こうとした人性の謎は、いまだにまったく解けていない。いや、待てよ、彼は解こうとしたんじゃなくて、途方もない人性をいかに飼い慣らすかについて工夫を凝らした人だったっけ。徹底した現実主義なのだ。うわべが君子であれば、裏が二重だろうが三重だろうが人の世は平和、ってこと。ソクラテスもそういう人だった。

ある異国の人相見がソクラテスに会い、人相を見るに、「あなたは知見も狭く情欲に傾く性質がある」と言った、そうしたらソクラテスは「よく私という人間を見抜かれましたね」と答えた、という逸話はニーチェで読んだが、あれは本当なのか?

しかし、なんで古今東西の思想家やら何やらの人の多くは「うわべがすべて」のようなところに行き着くんだろう。あるいは、この自分がそういう人ばかりに惹かれるんだろうか。もっとも、この俗世で、うわべがすべてなんていう発言をするとかなり誤解されるだろうけど。今の世のように、本当にうわべがすべての世界になってしまうと、かえって「うわべがすべて」と宣言することが嘘つきや不誠実と受け取られることが多いとは、皮肉なもんだ。

うわべの下に隠れている心は、誠実でも不誠実でも善悪は問わないが、一つだけ重要なことはその心が「深く」なければいけないということだ。浅い心の持ち主がうわべを飾ると、そのうわべはすぐに取り繕えなくなり、馬脚をあらわし、無様なことになる。

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