コトバとモノ

廣松渡という哲学者が言っているが、世界構築について、古代は「生物」を、近代は「機械」を、そして現代は「言葉」をリファレンスにしている、とのこと。すばらしいことを言うもんだ。「モノが先にあって、それをコトバが説明する」のではなく、「コトバの存在により、モノが現れる」ということ。廣松渡はモノ的世界からコト的世界へのパラダイムシフトと言っている。

ちょっと外出でもして実際にやってみると分かるが、自分の中からコトバを完全に追い出した状態で、目の前に広がる木々や大地や空を見ようとしても、ほとんど不可能に近いほど、難しい。ときどき1秒ぐらいできるような気がするときがあるけど、その瞬間、自分が完全な白痴になっているような気配がしないか。

しかし、おかしなことだけど、その瞬間こそがコトバがモノを作り出す原動力になっている。人間というのはコトバの無い世界ではすでに生きられなくなっている。まさにコトバが世界を作っているのである。しかし、その当のコトバ、そしてその当のモノというものを世界から狩り出して来るには、その当の「世界」を白痴になって感じる体験がどうしても必要のようだ。

そして、芸術家と呼ばれうる人間の大半は、それが、意識的に、できるのである。

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