坂口安吾は実は僕はほとんど読んだことがなく、大昔に読んだ堕落論ぐらいだった。それより、あのゴミ屑だらけの書斎に、厚底丸メガネをかけて悠然と座ってカメラをにらみつけてるあの安吾の、気骨があるけど愚直な感じが印象に残っていただけだった。
あとは、小林秀雄との対談。あれはなかなか面白かった。安吾が小林秀雄をコテンパンに批判した「教祖の文学」というのを発表した直後で、編集部をはじめ周りの人たちは、つかみ合いのケンカでもするんじゃないかとだいぶ気を遣ったらしいが、そんなことはぜんぜん起こらず、安吾は小林に、あの本は小林秀雄の賛美ですよ、世の中の人は分からないんですかね、みたいに言ってた気がする。あのころの対談はだいたい酒を飲みながらで、最後には安吾が明らかにかなり酔っ払ってて、クールな小林を前に、涙を絞り出すように訴えてたっけ。なにをか、っていうとカラマーゾフの兄弟のアリョーシャは宝石だ、奇跡だ、なんだ、かんだ、って言ってたはず。
まあ、とにかく、安吾の、あの、硬い殻のように堅固な気骨と、でたらめでぐにゃぐにゃな率直さを、併せ持った性格が、僕みたいにたいして彼の言葉を聞いてない人間ですら、よく想像される、というわけだ。
今回、あらためて安吾の「堕落論」と「続堕落論」を読んだのでいまこんなことを書いている。青空文庫ですぐ読めるいい時代なのだ。
くだくだ感想は書かないが、読んですぐ、本当に安吾らしい文だ、と思った。安吾の文学ここに極まれりで、書いてあることは文学。そして安吾の文学理解は、僕とまったく同じ。ここでいう文学とは単純なことで、社会の中で個がなにか実践をすると、個ゆえに社会に衝突し、時にさんざんな目に遭う、それを歌うのが文学、ということだ。結論だとか、解決だとかいう低級なものは一切ない。それが文学。そして坂口安吾という人間ほど文学を生きた人も、そうそういない、ということがよくわかる。
そんなむちゃくちゃな生活を送ったためか、安吾は48歳の若さで突然の脳出血で死んでしまう。惜しい人を失くした、だなんて言葉から、もっとも遠い坂口安吾の死。ああ、やっぱりノタレ死んだか、と言われて一向にかまわない、あの文学一徹に生きた、愚直な感じが、すごく親しみに満ちて感じられる。たいした人だ。
堕落論では、日本人は「堕落せよ」というキーワードだけ覚えていた自分だが、おそらく30年ぶりぐらいに、十分に大人になって読み返してみて、ああ、彼のいう堕落とはこういう意味だったか、と納得した。それはさっき書いた文学の原理と同じことで、個がみな持っている心、本当はこうしたい、実はああしたい、こう言ってやりたい、ああしてみたい、ということに、正直になりなさい、ということである。そうするとこれはもう当たり前のように社会の規範と衝突する。そして、その対立や矛盾に苦しむ。で、そうなったら、苦しむだけ苦しみなさい、それしか道は無いのだ、ということである。そういう行為を称して堕落と呼んでいる。
一見、あれ?それが堕落? と思うかもしれないけど、安吾のいう堕落とは、その意味としては、社会規範を破って個が堕ちてゆくことを指し、そしてその実は、個が堕ちることにより生じる社会の混沌を指すのである。逆に個が社会規範に沿って行動すれば、皆は整然と社会の中で様式通りに行動することになり、混沌は生まれない。混沌とは全く逆に、人々は形式化して強固な規範に守られた群れを作る。堕落せよ、とは、そこから外れ、そしてひいてはその既存の規範を壊せ、という意味である。そして、その個が衝突した当の社会規範は、その堕落によってまた姿を変えて蘇る、ということだ。
思うに、この安吾の堕落論の考え方は、西洋圏で言われる個人主義と社会規約の関係と同じに見える。しかし、これは僕の意見だが、これらは決定的に違う。ただ、この話は厄介なので、ここではしない。安吾の堕落論は、実に日本文化的だと思う。日本では、規範と堕落の交替による変化によって、その文化が変化して綿々と続いてきた、ということだ。
そして思うのだが、いわゆる文学の習得は、この個の堕落を通して行うしか方法は無いのではなかろうか。システマティックに教えることができない「何物か」なのではあるまいか。そしてこの「文学」をもうちょっと拡大して「人文」としても、同じようなことが言えるのではあるまいか。
昨今、大学、特に理科系大学でのリベラル・アーツ教育の不足が言われることが多いが、僕はそんな教育をいくら大学でやったところで、おそらく何の役にも立たないと思う。やらないよりマシていどのもので留まるような気がする。人文の核は、システムとして学ぶものではなく、それは個の混乱と混沌から身に付けるのだと思う。
ただ、その混沌(カオス)を最初から否応なしに持たされる若者がたまにいるのは確かで、彼らは辛い若者時代を送るけれど、その人文の核を実に早いうちからしっかり身に付けるはずだ。でも、カオスを極力避ける環境でしか育っていないと、それは無理ってもんだ。大学は昨今、教育システムにおけるカオスを極力排除する方向で設計運営されているので、若者は、学校ではカオスに出会えない。なので外へ出るしかない。
実際、外界はいまだってカオスに満ちている。そこで堕落するんですね。そうすればリベラル・アーツなんていうものは、その後、大人になってひとりでに身に付くもんだ。わざわざ教育の重要性なんか叫ぶ必要もない。
本当は坂口安吾みたいな人が学校に先生としていることが重要なんだが、昨今の教育システムにそういう先生がフィットするかは疑問だね。