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ゴッホの過去再現を巡って

この前、アムステルダムのヴァン・ゴッホ美術館へ行って、彼の向日葵の画布に再会して、その前に立ったとき、さすがに全身の毛が逆立つような感覚を覚えたのだけど、それと同時に思ったのが、この絵の色は自分の記憶色とすべて一致していて、これなら来る必要もないな、だった。

そのあと、彼のいろんな絵に再会したが、ぜんぶ、そうだった。すでにその絵画が、ほとんど余すところなくぜんぶ自分の中に移行済みで、本物を必要としない、みたいな感覚を味わった。ゴッホ美術館へはもう行かないと思う。

もちろん、まだ彼の絵の画布でホンモノに出会っていないのはたくさんあるわけで、そちらはそうはいかない。今回も、たった一枚だったけど初めて見た絵があって、すごく長時間その画布の周りをうろうろしてた。名残惜しくてねえ、離れられないのよ。あまりに緑がきれいで。

思い出すな。むかし、ひろしま美術館にあるゴッホの「ドービニーの庭」という絵の、過去再現研究プロジェクトというのがあって、あるとき美術館へ行ったらその成果発表がされていた。で、それを見たあと、そのあまりの出来の悪さに、この件につき、そこらじゅうで口を極めて罵りまくったっけ。

どんなプロジェクトかというと、彼のその絵が油絵具で描かれて130年が経っているわけで、絵具が経年変化して色が変わるでしょう? その経年変化をキャンセルするために、絵具の組成成分分析をして、化学的な知見のもとに経年変化を戻して、130年前に描いたばかりの出来立ての色を再現する、というものだった。

その出来上がった過去再現した画像の出来がひどくてねえ。それを見た自分は、あまりのことに、これはまさに原作の冒涜以外の何物でもない、と怒ったわけだ。まだ自分も若くて血の気も多かったしね。印刷とモニターの両方で見たが、しかし、本当にひどい色だった。見ている自分は他人のやっていることに腹を立てているだけだが、もし、自分がこれを発表する側だったら、穴があったら入りたくなるだろうな、と思ったが、キュレーターとか澄ました顔して現代科学手法を賞賛したりしてる。バカか、こいつは、って思ったっけ。

これ、後日談があってね、この過去再現研究を先導した研究者の人と知り合いだ、という人に出会ったのである。その人は浮世絵の研究者なのだけど、ご存じ、浮世絵の刷りの顔料の色とその経年変化というのは非常に微妙で職人な世界で、それを鑑定するには色に関してかなり鋭い感覚を必要とする。

で、その色に関しての何らかの研究学会でもあったんでしょう、そこでその浮世絵研究者がたまたま、そのゴッホ過去再現の人に出会って、同業者として付き合いがあったらしい。で、その後、その浮世絵の人に聞いたんだけど、彼らが二人で話しているとき、そのゴッホ再現の人がぽつりと「私は化学の材料学の専門で材料のことはよくわかるんですが、実は絵の色についてはぜんぜん分からないんですよ」と、こう言った、というのである。

やはりそうだったか。ゴッホの油絵の色がハナから分からない人が、材料研究の成果を単純に応用して過去再現をしたというわけだ。それじゃあ、あの結果になるはずだ。種を明かせば、きわめてバカバカしい当たり前のことが起こったというだけで、それを聞いて、逆に怒りも失せて、気が抜けたっけ。

ま、結局、何にも知らない科学だけをやってる人が芸術にずかずかと土足で踏み込むな、と言いたくなる。それはほとんど冒涜である、ということぐらい礼儀としてわきまえておいて欲しい。科学者は謙虚に。最近の科学者は傲慢なのが多く、反省した方がいい。

それにしても、では、化学材料にも詳しくて、美術にも詳しい学者なんてそもそもいないだろうから、さまざまな専門家を集めてプロジェクトを組めばよいのだろうか。実際、そのために、この場合も美術館側からはキュレーターがプロジェクトに入っているはずなのだが、その当のキュレーターがあの体たらくで、嘆かわしいことだ。

とはいえ、情状酌量の余地はある。科学者が行った科学分析の結果、機械的に出てきた再現された色が提示されたとき、それがいくら画布の上で調和していなく見えたとしても、それをそのキュレーターがいじって調和を取り繕う、ということは、「キュレーターの主観」が入る操作になる。仮にもヴィンセント・ヴァン・ゴッホという世紀の大画家の色の調和に関する感覚を、ただのいちキュレーターが修正することを意味する。そんなことはとてもできない、という気持ちは分かる。

もし、僕がそのプロジェクトにいて、出てきた絵に「これは違う!」と感じたとしても、じゃあ、それをどうすればいいですか、と言われたらかなり困惑するだろう。

ということは、結局、この130年前の色再現というプロジェクトそのものに大問題が潜んでいることがはっきりした、という結果になったはずだ。そして、その事態を、プロジェクトの最初から予見するのはすごく難しいことで、仕方ないとも思う。それで、その大問題が分かった時点で、どうしよう、となったとき、多額の金と時間と労力を使ったプロジェクトなわけなので、当のキュレーターが、仕方なしに

「これまで知ることのできなかった生きていたゴッホの本当の色彩感覚が、こうして科学の力で明らかになるというのは素晴らしいことだと思います」

などと公けの場で言ってしまう、というのも分からぬでもない。公けでは表面上、そういう体裁のいいことを言いながら、その内実では、以上に書いたような問題をキュレーターをはじめプロジェクトの面々が内心で共有していれば、今回のそれは次回の課題として取り組んでください、と大人の対応をしてもいいかもしれない。

で、このあとは僕の勝手な邪推だが、たぶん、そういうことあまり誰も分かってなかったんじゃないだろうか。なぜって、なにも分かっていないような言葉、顔つき、しゃべり方だったから。若かった自分は、それを見て、少しはすまなそうな顔しろよ! みたいにたいそう腹を立て、文化が病んでいる、と断定したのを思い出す。

さて、辛辣な言葉ばかり続けてしまったが、僕も科学分野の端くれにいるので、科学者的な立場でコメントをしておこう。最初に今回のその方法についてである。

この油絵具の経年変化のキャンセルの方法だが、まず、ゴッホの使った油絵を成分分析することから始める。相手が歴史的価値を持つものであり、試料を取るわけにはいかないので、非破壊分析を使う。可視光やらX線やらを使って光学測定器で分光特性をあれこれと取って、それによって使われている絵具の化学組成を分析し、特定する。その後、その成分の中で経年変化の分かっているものについて、その変化量を過去のデータを使って推定する。それで130年分さかのぼり、この絵のここに塗られたこの絵具の当初の組成はこうであっただろうと推定し、色見本を出す。

これを絵の全体にわたって繰り返すわけだが、差し渡し1メートルある絵のすべてにわたってそれを行うのは難しく、塗られた要所要所の絵具について、その推定を行い、修正をかける。たしか、特に、白の絵具、そしてピンクの絵具、ライラック色の絵具あたりを中心に調べ、再現を図ったはず。

で、そうするとどうなるかというと、絵の全面に渡ってそれを行うわけではなく、要所要所に塗られた絵具だけを修正して、他はそのまま、ということになるので、そこで色の調和が崩れるのである。修正しない部分については経年変化が少ない絵具を使った、という判断もあっただろうが、それを確定させるにはデータが少なすぎる。

結果、原画の上に取って付けたように鮮やかな白や赤や青が塗られたような状態になり、ピエロかなんかの厚化粧みたいな様相を呈した画像が出て来てしまう。それはそれはひどい出来だった。

そしてここにはもう一つ大問題があって、そもそも、印刷でもモニターでも現在の画布の原画の色すら、まったくきちんと再現されていないのである。そもそもめちゃくちゃな色で出てくる印刷やデジタルデータをさらに厚化粧したみたいなもので、破壊的にひどい結果になるのは明らかである。

では、その科学者はどうしたらよかったか。

いちばんいいのは、こんなことは最初からしないことだ。でも、したい気持ちは分かるし、科学のターゲットの選定に原則として倫理も善悪も関係ない。科学者はやってみたいからやるわけで、それがどんな結果になろうと、全体として科学の進歩に寄与すればいい、というのは科学のいちばん基本的な戦術である。なので、理解はできる。でも、それをやった後、もし難しい問題が持ち上がったことが分かったら、それを正直に述べることはどうしても必要であろう。しかし、このように本人に絵画が分かっていない場合、それは無理なのである。となるとキュレーターの責任だろうか。そのように責任分界点を定めるのが順当かもしれないが、僕はそう思わない。

しかし僕は、出てきた推定絵画の質について科学者にも責があると考える。それは、なぜか。

科学的に言うと、まず、絵具の経年変化は物理的事実で、組成が分かればあるていどは予見できる。しかし、130年の年月ということになると、科学的に正確に推定するのは困難で、その130年の間にその画布に何が起こったか分かっていないと無理な道理である。仮に分かっていても困難なのは目に見えている。どんな温度と湿度の環境で、どんな扱いを受け、どんな修復がなされ、それがいつどこでどのように、と言い始めると、不可能と言ってしまって構わない。

そんなとき科学はどうするかというと、それらの条件を人為的に固定して、つまり仮定して(通常は単純化する)、その仮定に基づいて分析して結果を出す。で、「その仮定の元ではこうであったはずだ」と結論する。でもその仮定は事実と反しているかもしれない、というか、かならず事実と反していると言い切れる。そこに「仮定」という、当の科学者の「人為」が入るからである。

それから、このような測定を伴う科学的実験プロセスには実際にはコントロールされるべきパラメータがたくさんあり、科学者はそれをいじって望みの結果を出す。そのコントロールは当の絵画に関係ない化学実験に伴う操作に過ぎないと言うかもしれない。しかし、そうであったとしても、それが人為であることは間違いない。ただ、それが最終結果にどう影響するか当人が分かっていないというだけである。

科学は客観性が売りだが、実は科学には「完全なる客観性」というのはありえない。原理的に不可能である。そういう基本的な科学の意味を、今の現代人はほとんど忘れ果てている。素人が知らないのは仕方ないけれど、プロの科学者でも分かっていない人が大半、という嘆かわしい状況なのが現代という時代だと思う。

それから、最終的に出てきたゴッホの修正絵画が果たして、彼が130年前に塗ったものに近いのか、あるいは僕が感じたようにでたらめに近いものだったか、というのは明らかに絵画芸術に対する価値判断を含んでおり、それがいいか悪いかを判定する絶対的基準というのは無いし、これは往々に非常に難しい問題である。したがって、この科学者にも、キュレーターにも、責を負わせるのは酷で、そもそも正解がはっきりしないものを扱っているわけだから、断罪するのはおかしいという意見が、この客観主義と相対判断が幅を利かせた現代では必ず、出る。

しかし、僕はそれも拒否する。では、結局、なにがいいたいのか。

科学者が絵具の推定をする際に、さっき説明したようにそこに自身の人為的仮定を持ち込む。そしてその「主観」は、当の科学者の判断に任せられる。で、それを任されたそのときに、その科学者に、対象に対する「愛」が必要となるのである。その愛が無い状態だと、科学分析というのはいくらでも無制限に悪用することができる道具になりえる。

結局、この科学者には、そしておそらくキュレーターにすら、ゴッホが130年前に描いたこのドービニーの庭という画布に対する愛が端的に無かった、というのが結末だと思う。科学者が愛したのは絵具の化学組成だけであり、キュレーターが愛したのは名声と自己実現手段としての画布と画家への執着だけだったのだろう。

この問題は大きな問題で、実は、対象に対する「愛のない科学者」と「愛のある美術専門家」が組んで解決するような生易しいものではない。なので、結論的に言うと、科学も芸術も両方が分かって、両方に愛を持っている一人の人間が、どうしても必要になるということでは、なかろうか。