月別アーカイブ: 2021年5月

プロのコピーライター

オレね、今また、自分の発案のサービスをやろうとしてて、それにサービス名を付けようとしてるの。で、今回は、オレはネーミングの決定には一切かかわらないことに決めてるの。

オレ、一回、これについて大きな失敗をしてるんだよね。もう時効に近いんで言っちゃうけど、かつてプロのコピーライターに頼んで、サービス名を作ってもらったことがあって、彼が5つぐらいの案を持ってきたのね。で、彼、これは自信作ですよ、って言って、ハイ!って見せたのが

「打っテレ」

だったの(ダメですよ、これ使っちゃ 笑)オレ、そのときの責任者で、決定はオレに一任されており、それで、これを却下しちゃったの。あまりに日テレみたいなのと、あまりにおふざけなのと、あまりにただのダジャレに見えたせいなの。で、結局、オレが選んだのは

「Zibang」

だった。これは、おそらくコピーライターの彼も、まあ、予備ていどに入れといた名前だったと思うんだけど、それを選んでそれに決めちゃったの。

それで、その後サービスをローンチして、で、まあ、1年弱ぐらいで頓挫したわけだが、もちろんその名前のせいでダメだったとは思わないけど、いま現在の大人になった自分(笑)から見ると、打っテレってネーミングは最高だった。心底、打っテレにするべきであった。

それ以来、プロのコピーライターというのは、やはり、すごい、って思うようになった。まったくのところもったいないことをした。オレの転職後1年半での頓挫人生には、これに類する後悔が山ほどある。

で、だいぶ賢くは、なった。なので、今回は、オレは絶対にネーミングに関わらないって決めたの。

何もしていないとき

だいぶ前から、僕らって何もしないとき何してるんだろう、って思ってた。何もしないってのは意識が飛んでるときのこと。
 
うちから学校まで自転車で10分弱なんだけど、かなり長い坂を下りて行く。車もほとんど通らず快適なのだけど、坂を下っている5分間のうち、意識があるのって合計1分ぐらいな気がする。何回か意識的に、自分がどれぐらい意識的か意識してみたことがあるんだけど(言ってること訳わからんな 笑)、やっぱりせいぜい2分ぐらいだった。あとの時間は、何にも見てない。いや、眼には見えているけど何にも処理されてない。
 
もっとも脳科学的に言えば、その何もしてないときには、なんか脳が外界や内界の状況につき自動思考をしてる、ってことになるんだろう。でも、そうだとしても、自分にとって「なにかの変化」が起きない限り、視覚は戻って来ない。
 
なにかの変化というのは、坂下りなら、もうすぐ路地がある、とか車の音が後ろから聞こえたとか、そういう変化である。これらの変化が無いときは、自分には何にも起こっておらず、眼が開いているだけの状態になっている。
 
やっぱり、それは見てない、ということじゃないだろうか。
 
一度、自転車で坂降りてるとき、無意識状態をなるべく保って降りようと試みたけど、すぐ怖くなって、つまり「怖くなる」という変化が心に浮かんで、そのせいですぐに意識が働いて、眼が見えるようになってしまう。
 
でも、もし、これが自転車じゃなくて、坂道に沿ったモノレールの上に乗ってるなら、自分の中に、怖くなる、っていう変化が起こらないから、そのまま無意識で支障ないし、現に、多くの人は電車で居眠りしてる。
 
大森荘蔵が言ってたけど、私たちは、盲目の人は真っ暗な暗闇を生きていると想像しがちだが、それは間違いで、彼らは私たちが前を向いているとき後ろが見えないのと同じ意味で見えないのである、とのこと、なるほど、と思ったが、その坂を下る5分間のうち、3分間は、オレは盲目の人とまったく同じ状況になっているはずだ。
 
そんなことを考えて、こうやって部屋でぼんやりしてると、自分ってのはホントに細切れで生きてて、大半の時間は無意識で何にもしてない。
 
ところで、コロナのせいでずっと引き籠り。