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鈴ヶ森の刑場

そういえば、大田区の大森の鈴ヶ森の刑場が、移転しようとすると、次々と悪いことが起こり、祟りだということで移転できないらしい、ということを聞いた。言われてみれば、そんなこともあるだろうなと思った。
 
鈴ヶ森刑場の思い出は以前にも書いたが、僕に強烈な印象を残した場所だった。たぶん小学生の高学年のときだったと思うが、親父に連れられ、初めてそこへ行ったのだった。当時、親父は家族に対しては強面で、昭和のサラリーマンそのものらしく家にもあまり帰ってこず、子供たちとあまり交流がなかったのだが、長男の僕はごくたまに、こうして親父に連れられ遠出することもあったのである。
 
僕の家は大森中央だったが、そこから親父と二人で自転車に乗り、鈴ヶ森に向かうのである。だいぶ遠いので、たぶん1時間以上はかかったはず。親父は歴史好きだったので、旧東海道の道をわざわざ選んで鈴ヶ森へ向かった。ここは江戸の昔は街道だったんだぞ、と親父に言われ、自転車を走らせるまだ小さな僕は、その「旧東海道」という言葉を聞いて、そのつもりで道の両側に並ぶ家々を見ると、なんだか江戸の宿屋の人懐こさがそのまま見えているようで、痺れるような快感を感じながら、自転車を走らせていたのを思い出す。
 
そうして、その旧東海道を抜けると、恐ろしく広い道路にぶつかった。いま思うとそのへんの国道なわけだが、横断歩道なんかない、まるでアメリカかどこかの3車線ぐらいの道路みたいで、大量の車だけがびゅんびゅん走っている。
 
そこを親父は、横断歩道とかへ行かず、車の間を縫うみたいにして自転車で渡るので、小さい自転車に乗った小さい自分も必死になって親父の自転車の後について、恐ろしい量の車が走る国道を無我夢中で渡った覚えがある。
 
そして、そこに現れたのが鈴ヶ森。たしかに鈴ヶ森は今でも国道沿いにあるのである。子供の僕の中の記憶では、それはこんもりとした森だった。うっそうと茂る木々のせいで中はまったく見えない。自転車を降りて、森の中を入って行き、しばらく歩くと、その真ん中に行き着く。
 
そこには、二つの石の土台が並んでいて、一つは丸穴が、もう一つは角穴が空いている。丸穴は鉄棒を立て罪人を火炙りにした穴、角穴は材木を立て罪人を磔にした穴である。差し渡し10センチぐらいのその穴には、水が溜まっていた。
 
僕はそのとき、その刑場跡の光景を見ていた。ここで「見ていた」という以上のことが思いつかない。何一つ余計なことは考えていない。罪人がどうとか、処刑がどうとか、そんなのはもちろん、およそいかなる言葉も無く、ただ、見ていただけだ。大人なら分かると思うが、ものを見るときに自分の心から言葉が完全に無くなる状態、というのはまれなはずだ。大人は必ず頭で考える。その分だけ見ることがおろそかになるのだ。
 
でも、その小さな自分は、子供がゆえに言葉はなく、ただただ見たのだ。
 
こういう経験が日本人のネイチャーにとってどれほど重要なことか、今の自分は切実にそう思う。僕はだいぶ前から、日本文化の特質の一つを「見ること」としてきた。それは僕には今ではあまりに自明なことなのだが、当の日本人にそれを言っても、それほど分かってくれる人は多くない。
 
ところで、親父との自転車散歩に戻るが、ストーリーとしては、目くるめくワンダーランドとしての、とっても快適で親しくて楽しい旧東海道を通り、その後、自動車がびゅんびゅん行き交う国道を信号抜きで横断する危険を経て、最後に森に行き着き、そしてその中心に着くと、そこに、死を象徴する静かな刑場の石が並んで終わる、という一連の流れが、あまりに「安逸 ー 危険 ー 死」という典型的な構造をしているのに気付くが、これは人生のダイナミズムそのものだろう。
 
では、あの、水をたたえた、丸穴と角穴の後に、何が待っているのだろう。どういう「再生」が待っているのか。少なくとも、親父との自転車遠征は、この鈴ヶ森の刑場のところで思い出が途切れ、終わっている。実際には、その後があっただろうに、一切覚えていない。
 
だからきっと再生は無いんだな。それは死を身近なところに置く、日本の、一種の美学だろうな。

親父の躾

Facebookに軽く書こうと思ったが誤解もされそうだし、なによりお袋が真っ先に読んで心配するかもしれないので、こっちの個人ブログにひっそりと書いておこう。

僕の小さかったころの家庭は裕福ではなかったけれど、不自由はなく、家庭環境もおだやかで、恵まれていた。親父はたしかに厳しい方だったけど、叩かれたりした覚えはないし、幼少の愛情に満ちた環境については本当に両親に感謝している。

ということを前提に、ちょっと話すが、僕は、勉学の成績は良い方だったけど、どうも素行が安定しないところがあって、親父にしょっちゅう叱られていた覚えがある。落ち着きがない、責任感がない、ふざけてばかりいるかと思うとぼーっとしている、などなどだったらしい。

その中で、一つだけ強烈に覚えている光景がある。

やはり、親父に叱られた時のことだった。当時、うちは小金井の田舎の長屋住まいで、僕が小学校の1、2年のときのことだったと思う。何かの原因で親父に叱られ、僕は家を飛び出し(あるいは追い出され)、たしか扉を閉められてしまい、僕はその扉を叩いて、ごめんなさい、もうしません、とか泣き叫んだ。それで、その後が覚えがないのだが、もちろん入れてくれず、何かを言われたんだろうか、僕はそのまま走って、隣の長屋の知っている家の扉を叩いて、助けを求めた気がする。そうしたら、そこの家のおばさんがびっくりして扉を開けて、正樹ちゃんどうしたの、みたいに言って、僕は泣き叫んでいて、そうこうしているうちに、たしかお袋が迎えに来て、そのまま家に連れ返されたと思う。その後はまったく覚えていない。

ここで面白いなと思うのが、いったい「何」について叱られたかまったく覚えていないのである。そして、僕が家へ連れ返され、親父の怒りが収まったであろう後も、いったい自分がそれで「何」を改善したかまったく覚えていないことである。

覚えているのは上述のように、自分が泣き叫んだことだけなのである。

思うに、こういう経験は恐ろしいトラウマになっているのだろうな。当の「叱られた原因」はきっと僕の心身のどこかに刻印されていて「絶対に避けないといけないもの」とみなされるに至ったと思う。ただ、今に至るもそれが何だか分からないわけで、いったい何を避けないといけないか、今の自分は知らない。

しかし、おそらく、僕が、いま、これまで生きてきた中で、ほとんど生理的な感覚を伴うまでに「してはいけない」と考え、思い、感じることは、きっとその幼少に強烈に叱られたあの経験が関係していると思う。

人の人格と、それが導く人生、というのは、そういうものが骨子になって出来上がっているのかな。僕はときどき、そういう「厳しさ」によってしつけられた「硬い規範」というのがほとほと嫌になり、そこから自由になりたいと願い、その規範をわざと破るような一種の代償行為に走ることがあるが、当の規範と正面対決をしようとはしていないような気がする。むしろ一時的な逃避であり、あくまでも代償行為に留まったりしている。

これは、自分というものが、その当の硬い規範で、なんとか持ちこたえているという自覚も同時にあるせいで、それと全面闘争できないのだと思う。人間の自由というのは、実は考えているほど大きい物でないのかもしれない。

思うに、自分は「社会的に認知され責任の伴った自由」という考え方をずっと嫌って来ており、自由というものを、社会と無関係な無制限な自由とすることを理想として来た。ところが、僕がこの人生でやってきたことは、ほとんどが前者の自由の結果であって、後者の自由の道に、僕は結局進むことはできなかった。

あの幼少の経験で、親父は僕に「なにか」を叩きこんだはずだが、それは何だったか。それを僕が自分から完全に外してしまったら、いったい僕は本当に破滅するんだろうか。あるいはそれはただの錯覚だろうか。

生理的に心身に刻印された規範というものが、社会の枠を作ってきたのは確かだろうが、僕はこれまでずっとずっとその厳しく無慈悲な規範を捨てたい、捨てたい、と思ってきた。そして、そういうものの無い世界を夢見てきた。

不思議なことに、歳を追うごとに、その気持ちが強くなってきていて、少々困る。しかし、人生はうまくできているのか何なのか、規範の無い世界へ移動するのに必要なエネルギーが、還暦近い歳のせいで不足していることも同時に感じる。

となると、いったい世代を重ねて人間社会が進んでゆく、というのはどういう意味なのだろう。正直、この歳になっても皆目分からない。