月別アーカイブ: 2012年8月

ドービニーの庭

広島に出張で来ている。午前中の仕事を終えて、午後からの仕事はすっ飛ばし、かねての予定どおりひろしま美術館へゴッホの作品「ドービニーの庭」を見に行った。来月から異国に住むことになるので、これが最後、というわけではないにしてもやはり名残惜しく、僕が一番好きな絵に対面して来ようと思ったのだ。

というわけで、このブログでは、このたった一枚の絵になぜそこまで僕がこだわるかについて、周辺的なことを書いておこうと思う。加えて、この絵を知らない人の方が多いだろうから、絵画に関する客観的なこともいくらか紹介しておこう。

思えば、広島へは仕事で何度も来ているが、ひろしま美術館へ寄ってこの絵を見ずに帰ったことは一回もなかったと思う。それほどこの絵は僕にとって大切な画布なのである。

今回、夏の終わりの猛暑の中、ひろしま美術館へ向かった。この絵だけが目当てである。なので、他の絵はほとんど見ていない。ちょっとクールダウンするのに館内散歩をするついでに眺めたていどである。ただ、ひろしま美術館のために言っておくが、ここは印象派以降のけっこういい絵を取り揃えているので、小さな箱だが、見学という意味では充実感があると思う。

しかし僕にとってはドービニーの庭だけが重要だ。

さて、再び、絵の前にやってきた。いったい何回見たら気が済むんだろう、この俺は、と思う。見ているときは、まあいいとして、それでもこうやって美術館を出て娑婆に戻ってくると、なぜかまたまた見たくなるから不思議だ。そういう意味では、あの絵には「娑婆」なところがまったく、これっぽっちも、かけらも、無い。

相変わらず、ものすごく美しい色彩である。絵というのはこうやって文章で感想を書くのは実際はほぼナンセンスで、何を伝えられるわけもない。純粋な視覚経験なのだから、文章への翻訳はまったく無理なのだ。しかしながら、それでも、何回も言うが、本当に美しい絵だ。

かつて僕はこの美しさを文章で表現しようとして、本を書いてその中で、その特殊な美しさを言葉で解明しようとしたことがある。成功したかどうかは分からないが、その文章は今でも残っている。たぶん、あの文章が一番うまく自分の感じていることを表現できていたと思う。「ゴッホ」という本の中の最終章の「オーヴェール・シュール・オワーズ」の一連の短文である。あの中で僕は、この絵の美しさを「教会の漆喰の壁が朽ち果てて長い間太陽の光の下に晒されて色褪せたフレスコ画」に例えたのだった。これについてはpdfで読めるのでもし興味があれば、どうぞ。

さて、ここではそれを繰り返してもしょうがないので、きわめて展覧会カタログ的な事実を、知らない人のために少し書いておこう。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホはいわずと知れたオランダ人の画家で、精神病を患いながらも嵐のように多くの画布を塗り、最後はピストル自殺で死んだ人である。後世を驚かせる画布を描いたのは、1888年から1890年に亡くなるまでのほんの3年たらず、南フランスのアルルからサンレミ、そして最後にフランス北部のオーヴェール・シュール・オワーズにやってきて、三ヶ月ぐらいして亡くなっている。

彼はオーヴェールで80点ほどの画布を残しているが、世間的に有名なのはおそらく「烏のいる麦畑」と「オーヴェールの教会」であろう。どちらも一種鬼気迫る感じが画布を支配していてわりとショックな絵である。特に前者は、その昔、かの小林秀雄を、絵の前のその場でへなへなと座り込ませ動けなくしてしまった、という逸話もある。この前者の「烏のいる麦畑」に表れているあまりに緊迫した感じのせいでこれをゴッホの絶筆とみなす説は数多いが、いろいろ調べてみるとどうやらそうではないようで、実はいま書いているこの「ドービニーの庭」がどうやら彼の絶筆であった、という説が有力だそうだ。

ということで、このドービニーの庭は、絶筆かどうかの真偽を置いておいても、彼がその最晩年に塗った画布だということは間違いないようである。

ゴッホは弟のテオにこまめに手紙を書いていて、自作についてペンによる素描を交えながら事細かに説明している。このドービニーの庭についても、素描とともにわりと細かく説明する手紙を書いている。特にこの作についてのゴッホの言葉ははっきりしていて、「ここに来てからずっと構想していたものだ」とか、「もっとも慎重に計画された画布のひとつだ」という風に書いている。特に後者の言葉は自殺の4日前の手紙にある。

ドービニーの庭の筆致が非常に静かで穏やかなものなので、とてもこれから自殺する人の絵に見えない、と言う人がよくいるがそれはどうか。絵画の中に「苦しみ、痛み、そして叫び」を表現することは、ゴッホの時代には実はまだほとんど無かった。僕らは現代の叫びに満ちた騒々しいビジュアル表現に慣れすぎているので、悩んだ人の絵に見えない、という感想が出てくるのだと思うのだが、それはほとんど当たっていないと思う。たとえば、時々、会ったときはあんなに元気だったのにその翌日自殺するとは、という文句を聞くが、そっちの方が近い事情かもしれない。

それよりも、なによりも、僕には、この絵を前にしてはっきり感じることがあって、それは言葉にするのはほとんど不可能なのだが、あえて言うと、絵の中にある「過剰な静かさ」に常に驚くのである。こんな静かな絵は、後にも先にもないように思えてしまう。世の中のあらゆる雑事から完全に切り離された過剰な静けさなのだ。

それを感じるとともに、もう一つ驚くのが、この絵の「明るさ」である。この明るさは感情の明るさという意味ではなくて、純粋に視覚的な「明るさ」である。なんという形容しがたい明るさなことか。ゴッホの絵には、そういう明るい絵が多い。しかし、僕の感覚では、彼の並み居る明るい絵の中でも、特にこのドービニーの庭は極端に明るいのである。まるでそのまま昇天してしまいそうな明るさだ。

こうして美術館の展示室に並ぶ彼の絵を見ると、いつも僕は、ずっと離れた距離から彼の画布と一緒に並んでいるほぼ同時代なたくさんの画家の絵と、合わせて眺めてみるのだが、どうしてもゴッホの絵だけ飛び抜けて明るく見えるのである。そのせいでほとんど孤立して見えてしまい、もう少し言うと、そこになんらかの異常性をやはりどうしても感じる。彼が患った精神病という単純な一個人のメンタルな話というよりは、限りなく芸術的な高みな意味での異常性である。こればっかりは、どうにもこうにも毎回対面するたびに感じるので仕方ない。

どちらも過剰な、「静けさ」と「明るさ」なのだけど、実は、過剰な明るさの方を聴覚的なアナロジーで言うとそれは静かではなく、何度見ても、過剰に明るいがゆえに聴覚的にホワイトノイズ系の音が聞こえる。しかもかなりの音量で。そのせいで静かでないのに静か、と矛盾しており、それも自分を驚かせる。

だんだん訳が分からない話になってきたので、これはこのへんで止めよう。

話を戻すと、このドービニーの庭は、彼が、画家としての自らの持てる能力を理性的に最大限に発揮して製作した画布であった、ということだ。なので、僕らは彼の言葉を素直に信じていいのである。この絵は彼の絵画芸術の絶頂のひとつなのである。

さて、ゴッホはこのドービニーの庭を2枚描いていることはよく知られている。一枚はバーゼル美術館にあり、もう一枚がここ、ひろしま美術館にある。いろいろな調査の結果、バーゼル美術館のものが一枚目に描かれたもので、ひろしま美術館のものは後から、アトリエでゴッホ自らが一枚目の画布を写して描いたもののようである。僕は残念ながら一枚目のバーゼル美術館のものの実物は見ていないのだが、写真で見ると、一枚目と二枚目はわりといろいろなところで異なっている。僕の目から見ると、ひろしま美術館の二枚目の方が、ずっと整理され、堅実で、より多くの調和を持っているように見える。ただ、こればかりは一枚目の実物を見ないことには断言しがたい。

ところで、このブログにも一応写真を載せたが、僕が実物を目の前にして驚いている色彩の美しさ、静けさ、明るさなどの視覚的なことについては、写真はほとんどまったく役に立たない。というのは、特にその「色」をまったく写し得ていないのである。こればかりは実物を見るしか方法が無いのである。こういうことについては、この視覚技術の進んだ現代においても、本当に貧しいと思う。今後改善されることを望むが、昨今の技術界を見ていると、絵画の美しさを正確に伝える映像システムなどというマイノリティな技術は今後もほとんど現れることは無いかもしれない。まあ、これは仕方ないことなので、ほぼ諦めているが。

話を戻すが、この2枚についてはこれまで長い間、いろいろ紆余曲折があり、特に贋作問題がうるさく言われて来た。あるときはひろしま美術館の作が贋作と言われ、バーゼル美術館の方が贋作とされた時期もあったそうだ。現在では調査の結果、2枚とも真作ということで落ち着いたそうである。

それから、ドービニーの庭には「黒猫問題」というものが長くつきまとっている。それは、バーゼル美術館の画布、そしてゴッホの手紙の中の素描でも、本人の言葉でも言われている、画布の左下を横切る黒猫の姿が、ひろしま美術館の作には無いのである。代わりに黒猫のあるべきところの一帯が、まるで誰か別の人が塗ったように色調の違う絵の具が盛られているのだ。

これは実は、このひろしま美術館のドービニーの庭においてたった一つの残念なことで、その部分だけ色調が不自然に異なっているせいで、目障りなのだ。これは、最近の調査で、ゴッホが黒猫を描いた部分の上に、後年、他の誰かが黒猫を消すために絵の具を盛ったことがはっきりしたそうだ。これまでゴッホその人が黒猫を消したのかもしれない、という説もあったのだが、それは科学的調査により完全に否定されたそうである。

後年の誰かが、この絵を売るにあたって、この黒猫の存在を画家の失敗とみなして消したのだろう、と推測されている。調査によれば、この他人の絵の具の下にはゴッホが描いた黒猫がいるそうなので、絵の具をうまく削れば出てくるのだろうが、それはおそらく危険すぎてやらないだろうから、我々はこのまま見るしかないのである。

この部分は実物で見ても、まるで「汚れ」のように見えるので残念である。加えて、この「汚れ」がなく、黒猫がそのまま描かれていたら、またどんな印象になるのだろう、と想像するのだけど、なかなかうまく想像できない。本当はこんなときこそ再現技術の出番なのだが、先に書いたように現在の技術の色再現が悪すぎて、それをやってもほとんど何の役にも立たないのである。残念だ。

僕は、この黒猫を汚く塗り潰したドービニーの庭を長年ずっと見てきたので、逆にオリジナルのように黒猫がいる状態がうまく想像できないのである。今までこの部分はずっと意識的に「無いもの」とみなして、見てきたのである。

今回、逆に、実物を前にして、ちょっと一生懸命、ここに黒猫がいる図を想像してみた。うまくいかないながらも、まず、「汚れ」がない「良さ」がすごく素晴らしく映るだろうと思う。それに加えて、ここに横切る黒猫がいる、その当の黒猫についても想像するに、なんだか自分が今までこの絵に「色彩の美しさ、静けさ、明るさ」だけを求めてきたのとは少し違う「何か」を感じるかもしれない、と思えてきた。

ひょっとすると僕は、ある意味、この絵について、いくらかの誤解をしてきたのかもしれない。僕がゴッホの最晩年の芸術から受け取った、「過剰な静けさ」と「過剰な光」、そしてそれゆえの「恍惚と昇天」という感覚だけで彼の最終形を語ることは、できないのかもしれない。

よく知られたように、彼は、死んでから、ほどなくして他の画家たちに多大な影響を与え始め、特にそれは「表現主義」や「フォービズム」といった方向に受け継がれるものが多かった。これらの芸術は、「静止」より「動き」の方に重点がある。僕がゴッホの最後の芸術から受け取ったものは「静止」しかも「完全なる静止」だったので、その反対のものである。ただ、僕だってゴッホの「動き」の部分は十分に理解はしているつもりである。ただ、僕の個人的体験としてゴッホの「静止」の方がより自分にとって「事件」だったのだ。

思い返せば、僕が最初に画集などでゴッホに触れたとき、若かった自分を魅了したのはゴッホの「動き」の方だった。その後、ゴッホの実物の絵画に上野の展覧会で出会い、そのとき僕は彼の持っている「静止」を初めて全身で感じ、それが僕を絵画芸術に開眼させたのだった。ちなみに、このへんの事情はここに書いておいた。

そういうわけなので、ゴッホの「動き」の部分が後世の画家たちへ受け継がれた、ということは僕にとっても、自然にうなづけるものだった。したがってそれは、芸術と歴史の必然に見えた。「動き」が伝承され、「完全に静止したもの」は、もうそこで死んで昇天するしかないのだ。そして、僕は、ゴッホその人を、芸術史において完全に孤立した「静止」の人とみなし、自殺した彼の魂の昇天とともに、彼の到達した極限の「静かさ」は、同じく昇天してこの世から消えてなくなったのだ、そしてそれは完全な無名性の中に埋没したのだ、と結論していた。少なくとも、僕がかつて書いた本にはそのことが書いてある。

しかし、どうだろう。そうじゃないのかもしれない。

少なくともゴッホは、この驚異的に「静止」したドービニーの庭を完成させたとき、その最前景にプルシアンブルーの筆で左から右に向かって「動く」黒猫を描いていたのである。この黒猫が横長の画布の前を横切って左から右に抜けて行った後には、この画布は、ブラマンクや、スーチンや、ムンクや、マチスや、そしてフランシス・ベーコンの画布にまで姿を変えるのかもしれないではないか。ゴッホは、この完全に静止した明るい色彩の静けさの完全無欠な調和の、一種の天国的な、開かれた牢獄から抜け出し、また地上的なものに舞い戻ることを可能にする、なにか小さな「出口」を持っていたのかもしれない。それが、この横切る黒猫の意味なのかもしれない。

そんな風に空想すると、芸術というのは、まことに果てしないものだな、と思う。

さて、結局ずいぶん長々と書いた。客観的な話にしようと思ったけど、やはり主観的な話をずいぶん書いた。このへんにしておこう。

七里ガ浜の墓参り

いつも真面目でややこしい長文ばかり書いているので、今回はあっさりと日記。

先日、墓参りに行ってきた。うちの親父のお墓は鎌倉の七里ガ浜にある。顕証寺というお寺で、江ノ電沿いにあって、敷地の半分以上は墓石がぎゅうぎゅうづめになった墓地になっていて、その上がりがまずまずなのか、お寺自体はこぎれいで新しく経済的に余裕がある感じである。七里ガ浜はサーファーが集まるビーチでもあって、墓地から江ノ電越しに長いビーチが見晴るかせ、サーファーが点々としている。このお寺、さらになかなかモダンでもあって、夏場のお盆のシーズンになると境内でハワイアンの生演奏をして、かき氷やらお酒やらを振舞ったりするイベントをやっている。毎年案内のハガキが来るのだが、あるときそれに「暑い夏、顕証寺でハワイアンを聴きながらお墓バーで一杯いかがですか」みたいな文句が書いてあって大笑いした。お墓バーとはなかなかいいネーミングだ。このことをさっそくネットに書いたら、どこぞの人が不真面目だ、みたいな反応をしていたが、馬鹿々々しいことだ。僕にしてみれば大いにけっこう。ひしめき合う墓石からポンポン出てくるご先祖たちの霊たちでひんやり涼しい空気の中、バーでお酒を一杯だなんて、あの世とこの世の懇親会みたいで楽しいじゃないか。

親父の墓は江ノ電のすぐ隣のところにある。いつものようにビールとカップヌードルをお供えに買っていったが、今回は奮発して一本500円もする鎌倉の地ビール「鎌倉ビール」の瓶を買って持っていった。とはいえ、あとで自分が飲むので奮発も何もないのだが。墓石は潮風に吹きっさらしなのでいくらか腐食しているようなところもあるけど、まだ何十年も経っているわけでもなくきれいだ。お袋がこのモダンな江ノ電沿いに林家の墓を移してからずいぶん経つが、以前は、鳥取の一行寺という古寺に、苔むして角が丸くなった時間のお化けみたいなでかい墓石が立っていたのだ。親父とその一族のなかなかにお堅い雰囲気には確かにあの場所はぴったりの雰囲気だったが、あまりにいかめしい。それが今ではつるっと四角い小さな宇宙船みたいな墓石に代わり、モダンになっていい感じじゃないか。あの早くに亡くなった大正時代の怖そうな祖父やその一族はこんな場所でけしからん、と逃げちゃっただろうか。なにせ、ハワイアンでお墓バーだ。いや、きっとそんなこともないだろう。うまい具合に時代が遷り変わり、よかったな、と思う。

お墓参りのあと、せっかく鎌倉くんだりまで遠出したのだから、どこかへ寄ってゆこうと思った。それにしても終戦記念日の8月15日、お盆のど真ん中は暑い。ということでお墓から近いどこかのお寺でも寄るか、と思い、ふと、江ノ電の七里ガ浜駅の構内の目立たないところに貼ってある金属板の手描きの古臭い地図を思い出した。それには「日蓮上人雨乞イノ池」という場所への道が描いてあるのだ。そうだ、そこへ行ってみよう。iPhoneで地図を見てみると、どうやらその池は霊光寺というお寺に属しているらしい、ちょうどいいや。

真夏の真昼の暑い盛り、細い川沿いにしばらく歩くと池に着いた。立て看板があり、この池は、その昔から雨乞いの池として有名で、あるとき日蓮上人がきて雨乞いの修行を始めたらとたんに雨を呼んだ云々、みたいなことが書かれている。文語調なのであまりよく意味はわからないがそんな感じだった。池は浅く、淀んでいて、茶色く濁っていて、ところどころぶくぶくと泡が上がって汚くて、大量のアメンボウが水面をすいすい移動している。なるほど、これはどうにも雨乞いでもして新鮮な雨水が必要だな、みたいに思いながら、ぼんやりと池を一周した。こんなところなので蚊に三箇所も刺された。

さて、その先が霊光寺である。お寺は小高い丘のちょうど斜面に建っている。入り口の境内は広く、右側の少し高くなったところに広めに開けた墓地がある。見渡したところ、墓石は古く昔ながらに縦長で、代々続いている墓地のようだった。ちょうど林家のむかしのお墓みたいな感じだ。お寺の本堂へは左側のくねくねと丘に沿った石段を登ってゆく。あたりに人影はなく、ひっきりなしに鳴いている虫の声以外なんの音もしない。

この、ずっと鳴き続けている、「カーンカーン」みたいな声はいったいなんだろう。ただ、この声にははっきりした聞き覚えがあって、別にはじめてでもなんでもなく、とても親しい夏の森の中の声なのだけど、なんの虫が鳴いているのだか分からない。タタタタとも言えるし、カカカカとも言えるしタンタンタンとも言えるけど、その正体を自分が知らないせいで、なんという擬音語を当てていいかが分からない。ただ、自分としては「はっきりと知っている音」なのである。なんだか、それがすごく不思議な感じがした。ひっきりなしに鳴いているこの音に包まれながら、しかもそれをとてもよく知っていて、にも関わらず、それを言葉にまったくできないという体験は、今の現代の世の中そうそうあることじゃない。それにしてもこの声は美しい。すごくいい音だ。タンタンタンみたいな声が10秒ぐらい続くのだけど、その終盤でそのまま消え入るようなところが、恐ろしくもののあわれな調子がする。

辿り着いた霊光寺の本堂は小さくて、粗末で、管理の人も誰もおらず、わりと荒れていて、あたりに立ついろんな古びた石が傾いていた。相変わらずかのきれいな音の虫の声が鳴り渡る鬱蒼とした森の中に、時間のお化けは、ここにも、かしこにもいるような気がした。

なにもすることもないので、そのまま今来た石段を降りた。

さて、家に帰り、超モダンな僕はインターネットのWikipediaで蝉について調べ、いろいろクリックして分かったけどあのきれいな声はひぐらしだった。なんと53年も日本で生きてきて、今の今までかの有名なヒグラシの声を認識していなかったというのは驚きだな。Wikipediaでひぐらしをクリックするとそのルックスと、あと鳴き声のサンプルがあって、再生ボタンを押せば音が聞けるんだ。聞いてすぐに分かったが、これだ、この声だ。分かってしまえば何のことはない。今度あの音を聞いたら、すぐに脳にひぐらしっていう言葉が浮かんで、きっと耳にはカナカナカナという音が聞こえるだろう。

これで時間のお化けが一つ退治されたってわけだ。

しかし退治っていうのは、自分と相手がいてその自分の目の前から対象がいなくなって見えなくなったというだけで、当のお化けがこの世からいなくなったわけじゃない。こうやってエアコンのきいたクリーンなお部屋でノートPCというものに向かってキーボードをカチャカチャ打っている間にも、鎌倉の七里ガ浜の奥の人けのないあの霊光寺の森の中には、変わりもなく、かのお化けがじっと座っているんだろう。退治されたってびくともしないのがお化けというもんだ。だからお化けって言うんだ。

羽田の鳥居

6月30日の土曜日のこと、うちの奥さんは前日に用事で実家に帰っていて、久しぶりに朝から一人だった。ここさいきん急に仕事が忙しくなり、週末はやむを得ず仕事をしたりしていて、それで、仕事以外もやりたいこと、やらないといけないことはたくさんあるので、あれこれやっているうちに週末が過ぎる、ということが多かった。

その日は、梅雨の雨が連日降り続いたちょどなか日のようで、おだやかに晴れていた。自分は運動が好きではないので、ただでさえ体を動かさないのだが、忙しさと梅雨の雨にかまけて、さいきんはひたすら家にこもっていることが多かった気がする。そこで、天気もいいし、その日は自転車でどこか適当に遠出をすることにした。

自転車で当てもなくうろうろとでたらめに走って放浪するのは、僕はけっこう好きで、ときどき思い出したように出かけては走っている。走っている時間の半分以上は迷子の状態で、それが楽しいのだ。東京は走っていればどこかの駅や線路にぶつかるので迷子になっても実はぜんぜん平気なのである。それに長年の土地勘もあるし。

そういえば、少し前、スウェーデンの小さな街で自転車を借りて同じようなことをやったら、本当に迷子になってしまい、しかもその町には線路も駅も無く、一瞬、これは帰れないかも、と思ったことがあった。ただ、これもでたらめに走っていたら何となく元に戻れた。まあ、最悪、歩いている人に方角だけ聞けば帰れるはずなので別に不安にはならない。海はどっちですか、と聞けばいいのだ。

さて、昼飯を食ったあと、自転車で出発。どっち方面へ行こうかな、と考え、ふと、いつも多摩川沿いのサイクリングコースを走るとき、川の向こう岸になんだか巨大都市みたいなのが見えるエリアがあるのを思い出した。縦にも横にもえらくでかい建物がいくつも集まって建っている未来都市みたいなのが見えるのである。そうだ、あそこへ行って見物しに行こうと思い、多摩川沿いにゆっくりと走り始めた。

目的の場所はそれほど遠くはなく、ほどなくしてそれっぽい風景になってきた。もっとも、目的といえるほどのものではなく、こうやって自転車で放浪するのも、実は走りながらいろいろ考え事をするのが常で、むしろそっちの方が目的だったりする。その日は、少し前にフェイスブックで話題になったソーシャルネットについてあれこれ考えていたのだ。僕は実はソーシャルネットという言葉が嫌いで、なぜ嫌いと感じるかについてつらつら考えていた。考えたことはすでにブログに書いたので、ここはその話ではない。

川沿いの巨大都市に着いた。

何のことはない、ただの巨大なマンションがやたら建っている人工的な街であった。いくつかの、これまたやはり巨大な工場だか研究所だかが建っていたので、その大企業で働く人が主に住んでいるマンション群なのだろう。ビルディングもきれいだし、敷地もたっぷり取っていて、かなり広い公園や緑地も整備されていて、よくあるひとつの人工的に作った街のようになっていた。スーパーマーケットや病院、学校までもその区画に作って、その区画から出なくても生活できる、そんな場所である。今風にきれいにできてはいるが、いわゆる昔の団地の発展系という感じだ。

週末の休みなので、子供を連れたたくさんの家族がいた。なるほど。僕は人工的な町を概して悪く言う傾向があるが、こうして実際にそこに来てみると、みなそれぞれの人生を送っているわけで、別に人間まで画一的なわけでもなんでもない。ただ、僕のような物好きな観察家が来て面白いところではないことは確かだ。

よし、もっとごちゃごちゃした汚いところを見に行こうと思い、蒲田へ向かうことにした。今いる川沿いから斜めに逸れていけば蒲田に着くはず。あそこは、都内で新宿の次に飲み屋の多い場所と聞いたことがある。で、裏町をうろつくとまことにディープな場末の町が今でも広がっているのである。

僕は蒲田方向に向きを変えて走り始めた。しかし、なぜだか分からないけど、とある交差点で信号待ちをしているとき、蒲田方向へ向かう細い道が目の前にまっすぐどこまでも長く見えていて、なんだかそのまま走ってゆくと、ひゅるひゅると道が細くすぼまって行くような、そんな感じがして、それで何となく信号を渡るのをやめ、そのまま右に曲がり、またまた多摩川沿いの方へ進路を取ってしまった。もっとも、これは今思い出してそう言っているだけで、そのときはさしたる意思はない。でも、妙に先細りの目の前の長い道の光景はなぜか覚えている。

さて、また川沿いに戻ったのだが、そうこうしているうちに住所が「六郷」になっている。へえ、六郷なんかに来たのは初めてだ。なぜだか六郷と多摩川という名前は自分の中で結びついていて、ひょっとして大むかし、学校で、郷土についての授業かなんかで習ったのかもしれない。なんだか水路だかなにか水道施設が六郷にあったような気がするけど思い出せない。いずれにせよ、ここに来たのは初めてだ。

特段に変わったところもない古くも新しくもない変哲ない街だった。そのまま走り続け、六郷を抜けたら住所は羽田になっていた。

あら、羽田に着いてしまった。それにしてもあたりが寂れていて殺伐とした雰囲気になってきた。二車線ぐらいの道をあたりを見回しながらゆっくり走っていたのだが、古臭い居酒屋や、流行ってないラーメン屋、町の電気屋などなど、どこにでもある古い町とはいえ、なんだかあまりに荒涼感が漂ってるなあ、と思っていたら後ろから車のエンジンの物凄い音が聞こえ、クラクションをパパパパパーと鳴らしながら猛スピードで車が横を突っ切っていった。こんな狭い道をたぶん100キロ以上は軽く出ていたと思うんだが、瞬く間に走り去っていった。あれはいわゆる暴走族ではない感じ。なんだか、本当に急いでいるか、あるいはブレーキが壊れているような感じだった。

暴走車が走り去り、ふたたびうら淋しい街の光景に戻った。時刻は三時を少し回ったぐらいだったと思う。相変わらずいい陽気だったが、そんな柔らかい午後のもうろうとした日の光の中で、羽田の古い町はさらに殺伐と感じられた。

そのまま走っていったら、すごく広い道路に出た。これは産業道路だ。車やダンプがびゅんびゅん走っている。

かつてずっと大田区の住民だった自分は産業道路はよく知っている。これを左へ行けば平和島、右へ行けばすぐに多摩川を越えて神奈川県だ。自分にとって昔から産業道路は殺伐の象徴だったっけ。産業などという形容詞がつく道路なんて、いまどきは道路にそんな名前をつけないよな。高度成長期の日本では、この産業というのは明るい未来の象徴だったかもしれないが、もちろんそうやって成長してきたかつての日本を支えた産業も、大量の労働者の労役に支えられて来たわけで、その中身をのぞけば、そこは何かしら殺伐とした荒涼とした風景や、義理人情や愛憎でどろどろになった人間関係が広がるのだ。産業道路は自分にとってその象徴のようだった。殺伐や荒涼と正反対の、明るく華やかでクリーンな現代生活を表面だとすれば、裏面はこんな風なんだ。

さっきから、殺伐、殺伐、とやたら繰り返しているが、実はそれほど悪い意味で言ってはいない。僕はブルースを演奏するギター弾きでシンガーでもあるが、僕が心の故郷のように感じている黒人ブルースがまさにこんな殺伐とした風景の音楽なのだ。こんな産業道路のようなところに来ると、思わず自分の頭の中でエルモア・ジェイムズの音楽が鳴るのである。あの汚く歪んだギターを重機のように連打する三連符の響きと、ヤスリのようにザラザラした声でシャウトする、あの歌が鳴るのだ。

妙なことなのだが、自分はずっと生まれ的にどちらかといえば殺伐と正反対の環境の中で生きてきた。にも関わらず、これは自分が小さいときからそうなのだが、僕を惹きつけるものはいつでも自分と反対の環境だったのだ。まあ、自分に無いものに憧れる、というあれなのだろう。ただ、僕の場合は少しばかり重症で、それが50歳を超えた今日まで何だかんだで続いていることだ。

産業道路に立って眺める辺りのコテコテに日本な風景にシカゴブルースが生まれた50年代のアメリカの都市の眺めを連想するなんて滑稽なことだ。でも、それがどこであっても殺伐として荒涼とした風景は、今でも自分を惹きつける。だから、殺伐としている、というのは自分にとってはそれほど悪い言葉ではないんだ。

さて、産業道路まで来ちゃったけど引き返そうかな、って思ったんだけど、まてよ、ここはもう羽田なんだから、この大通りを渡ってそのまま真っ直ぐ行けばたぶんすぐに羽田空港だな、と思い、せっかくだから行ってみるか、と、大通りを渡って直進した。ふたたび羽田の住宅街だが、こちらはそれほど殺伐としてはおらず、どこにでもある住宅街だ。

そうこうしているうちに、狭い道を抜けると急に視界が開け、目の前に広大な羽田空港が現れた。

いま来た道はそのまま地下トンネルへ下って行き、このトンネルを抜けて向こう側に行くと、そこはもう羽田空港の敷地内だ。このトンネルへ消えて行く道の風景には見覚えがある。これまで何度か、バスやタクシーで羽田空港へ行ったときに、このトンネルを毎回くぐっているのである。

トンネルの入り口の右側はもう海なのであるが、その際のところに大きな赤い鳥居がぽつんと立っている。鳥居の回りはちょっとした空き地になっていて申しわけ程度にベンチが並び、柵の向こうは東京湾の海だ。しかし、この鳥居は知らなかったな、こんなものあったっけ、と、自転車を降りて鳥居を見に行った。

鳥居だけが唐突に立っていて、その周りは工事中の柵のようなものでいい加減に囲まれていて、その柵に、文字や写真を載せたパネルがベタベタ貼ってあり、合間合間に「世界平和祈念」みたいな文句が書かかれたお札のようなものが混じっている。パネルをざっと読んでみると、どうやらこの羽田空港を建設したときに立ち退いた元々あった村を記念して建てられた鳥居のようだった。

僕はパネルをながめながら鳥居の向こう側に回り、すぐ向こうに広がる海や広大な空港の土地をぼんやりと眺めていた。

すると少し離れたところに、車椅子に乗ったかなりの歳の老婆の姿が目に入った。顔が見えたのだが、この婆さん、まるで生きる苦しみの真っ只中でそのまま表情が固まってしまったような、ひどく辛そうな表情をしている。辛そうと言っても、その場で辛くて肩で息をしている、とかそういうのではなく、苦しみにこわばった表情のまま微動だにせず、目を大きく開けて、海のかなたをずっと向いたまま動かない。車椅子に手をかけている人はこの婆さんの息子さんだろうか。

婆さんのこの表情は痛ましくて見ておられず、僕は一瞬で目を逸らしたが、それでもなんとなく居たたまれなくなり、もう、戻ろうと思い、自転車に乗って今来た道を引き返した。

再び、産業道路へ。

もうすでに三時間以上は自転車に乗っているし、時間もそこそこ遅くなってきたし、道草せずに帰ろうと思い、多摩川を渡って、すぐに川沿いのサイクリングコースに入った。そこからは、もう、一直線に走って行けば、二子玉川へ戻れる。僕は、今まで考えたことや、見たことなどは全部忘れて、多摩川の岸の道をやたらと飛ばした。広い川と広い空、両岸に広がる草木、そしてその合間に点々と見えるホームレス小屋などを呆然と眺めながら、頭を空っぽにしてひたすら走った。

家に着いたときはもう夕方を過ぎていた。五時間以上は自転車に乗っていたことになる。1年分運動したような感じで、気分は爽快だった。缶ビールを飲んでくつろいで、その日は早めにぐっすりと寝た。

さて、翌日、7月1日の日曜日。

さすがに前日あれだけ自転車に乗っていただけあって、体がいくらか痛い。筋肉痛はあまりないが、骨が痛い。うちの奥さんはまだ帰っていないので、相変わらず一人である。天気も昨日とそれほど変わらず、気持ちのいい朝だ。いつものようにコーヒーを淹れて、簡単な朝飯を食べて、朝風呂を沸かして入り、昨日の運動のせいで気持ちいい疲労感の残る体を湯船に伸ばして、そして、ぼんやりと考えごとをした。

何を思ったかというと、ここ一年ぐらいの自分の状態である。自分は実はずいぶんと自信を喪失していて、かなり辛い状態にあった。なかでも一つよくない思い出があり、その一部始終を思い出していた。

それは、自分より一世代年配の知り合いと飲みに行ったときのことで、そこで自分はその人にさんざん説教されたのであった。いちいちここに内容を書きはしないが、要は、あなたにはだめなところがたくさんある、それを自分で気づいていない、だから俺があえてそれを指摘してやる、という内容だった。人生や人間関係で何が一番大切かおまえは分かっていない。それというのも、これまで苦労せずに育ったツケが回ってきているのだ、などなど。その飲みは終始その調子で、僕はというと、ときどきは反論してみるものの、あっという間に、そういうところが駄目だ、と逆に説教された。さらにご丁寧に、飲み屋を出てからも最後の最後、僕の支払いの不始末で相手を怒らせ、なんと僕は平謝りに謝るという始末だ。そうしたらその人が、結局、最後に言ったのが、あなたぐらいの歳になると俺が言ったようなことを面と向かって言ってくれる人はいないよ。だからあえて指摘してあげたんだ、まあ、がんばりなさい、とこうだ。僕は、はい、わかってます、とか言ってさんざん彼に頭を下げて、別れた。

いまこうして書いていてもはらわたが煮えくり返るのだが、なぜ、あのとき僕はあそこまで打たれっぱなしだったろう。彼の言ったことを思い出しても、ある面では正しいが、ある面では明らかに間違っている。それに、人のあり方、そして個性、というものはそんなに一方的な正論で決まるべきものじゃ無いじゃないか。彼の言う、人にとって大切なこと、というのは、彼にとって、さらには彼のような人間の集団にとって大切なだけで、必ずしも僕に当てはまるわけではない。そんな簡単なことがなぜあの時の僕には分からなかったのか。おまけに、くだらない不手際でぺこぺこ頭を下げて謝るとは、なんと馬鹿な自分だったか。相手は別に仕事のお客さんでもなんでもない、ただの知り合いじゃないか。

僕は、これらを思い出して、実際、心底怒りがこみ上げてきた。書き出したら切りが無いので書かないが、こういったことは、ここ一年の僕の情けない一例に過ぎず、他にも似たようなことがいろいろあったのだ。この手のことでは相手は年上が多かった。きっと僕のような人間には気持ちよく説教できるのだろう。僕は自分について無防備で、あけすけで、欠点を認めすぎるのだ。それこそ彼が言うように、苦労をあまりしなかったせいでそのような性格に育ってしまったのだが、もっと自分を防御して、そして少しは攻撃することを覚えないと駄目だ。

などなど考えて、そして、最後に結局こう決心した。もう俺は年寄りの説教は一切聞くのを止めよう、そして人に説教するような人間と付き合うのは止めよう。

これは不遜なんじゃない、今までの俺が不甲斐なさ過ぎたんだ。そうだ、俺はもっと自分に自信を持たないとだめだ。それに対してここ一年の俺はいったいどういう有様だったか。年配からは説教され、同年には弱音を吐き、年少には自己主張を避け、情けない限りだ。思えば十年ほど前の俺は、自信と誇りに満ち溢れていた。もちろん自分は、日本文学の私小説系のノリがあるので、文学的な悩みを自分の中に抱えることはあった。しかし、外に対しては、自分のあれこれの才能にも頼んで、堂々と、風を切って歩いていた。その状態で、自然と周りの人たちもついてきてくれていた。それが正しい状態じゃないか、そうあるべきじゃないか、誇りを忘れたらだめじゃないか。僕はようやく以上のことに思い至り、そして固く誓った。俺は俺なのだ、自分に自信を持つことがすべての始まりなのだ、今後俺はそのように生きてゆこう、と。

そんな風に考えると、ずいぶんと爽快な気分になった。風呂を出て、パソコンの前に戻り、それでツイッターやミクシィに、断片的にではあるけど、以上の決心について書き飛ばした。

そうこうしているうちにようやく思い至ったのである、昨日の6月30日が、ちょうど一年前に僕が前の会社から整理解雇されたまさにその日だったことを。なんと、そうだったか、なんという偶然だろう。

前の会社には三年いたが、僕が自らのアイデアで始めたものをあるていどの形にして、何とか推進しようとしていたのだが、会社自体の経営方針からすべての事業から撤退することが決まり、それに伴って僕を含めた8人がリストラ。理不尽なことはいろいろあったが、それ自体はあるていどやむを得ないことで、僕は去年の7月1日から無職になり、ずいぶんと必死にあちこちを駆けずり回り、アクティビティを落とさず、何とか自分の世の中での仕事の道を見出すことはできた。なので、リストラされたことによる精神的ショックは表立ってそれほどは無いと思っていた。しかし、そんなことはなかったのだ。リストラに加えて、それに先立つ仕事上のあれこれの行き詰まりは、自分をすっかり「自信のないやつ」に変質させていたのだ、恐ろしいことだ。

しかしそれも今日で終わりだ。なんだか実に気分が爽快で祝杯をあげたい気分だ。ちょうど1年たって喪があけたようなもんだ。

さて、以上が1年前のリストラからちょうど一年たって自分に起こったことのすべてである。前日、体を思い切って動かしたからよかったのかもしれないし、なんだか分からないが、ぴったり一年後にそういう内心の変化が起こるというのも不思議な話だ。

さて、まだもうひとつ話すことがある。それは昨日自転車で辿り着いた羽田空港の赤い鳥居のことである。

あの鳥居はいったいなんだったのだろう、と思い、ネットで調べたらすぐに分かった。あの鳥居は羽田空港建設で立ち退いたかつての三つの村にあった神社の鳥居だったのだ。穴守神社という神社で、本体はとうの昔に移設され近くに建っているのだが、その大きな鳥居だけは移設できず残ったそうだ。それは、この鳥居を移設しようとすると、工事で事故が起こって人が死んだり、関係者が謎の死に方をしたり、と悪いことが続き、これは祟りだということで、移設できなかったそうなのだ。移設は何度か試みられたそうだが、そのたびに悪いことが起き、中止になったとのこと。そのせいで空港の敷地内の駐車場だかの中にずっとぽつんと立っていたそうである。しかし、十年ほどまえ、ようやく羽田空港の入り口にあたる、今ある場所に移設を完了し、いまでは無事にあそこに立っているのだそうだ。

そうだったか、いわくつきの鳥居だったか。それにしても偶然というのは重なるものだ。あの6月30日のその日に、自転車で放浪していた僕は、なんだか引き寄せられるようにあの大きな赤い鳥居に辿り着いたのだった。日本人的にふつうに解釈すると「厄を下ろした」ということになるであろうか。

それにしても、あの鳥居のそばで海を向いて動かなかったあの老婆はいったいどういう人だったのだろう。僕はいったいなぜあのときにあの老婆に遭遇したのか。

ちなみに羽田空港の建設は調べると今から80年前だ。かの老婆はたぶん80歳以上だったとは思うが、立ち退いたかつての村の住民だったのかどうかというと、そんなことは無いかもしれない。しかし、どうしてもそう思わせるようなところがあった。今はもう永久に失われた、自分が若かったころに生活した今はなき村の姿を、海の遠く向こうに見ていたのではないか、と、どうしても感じてしまう、そんな風情があのときに、あの赤い鳥居と黒い海の対照の中にたしかに、あったのだ。

一種の、死と再生の物語なのだろうか。

以上、自分の人生の節目になるといってもいい二日間について、書いておいた。