月別アーカイブ: 2011年3月

お岩の幽霊

東海道四谷怪談に出てくるお岩の幽霊について。

僕たちが生活しているこの世に「恨み」という有害なものが跋扈している状態を避けるために、幽霊であってもこの世で通用する実質的な「力」を与えてやって、恨みを現実的に解消させていること。お岩は決して足の無い漠然とした幽霊としては現れていない。恨みを解消させる実質的な力としては万能に近い能力が与えられている。しかし、お岩の幽霊は伊右衛門を直接手にはかけず、最後の最後、与茂七に引渡し、降りしきる雪の中、みごとにあだ討ちを、こんどは実社会で完遂させている。おみごと。

東海道四谷怪談

東海道四谷怪談で、戸板に打ち付けられたお岩の幽霊が出て、伊右衛門に言う文句、

田みや、伊藤の血筋をたやさん。

この文句の、意味じゃなくて、字面と響きが、なぜか、大好きだ。東海道四谷怪談は歌舞伎の脚本で、鶴屋南北の作だが、これはオレの最愛の書。この本のどこを開いても、いつでも毎回、自分の心の中にある目と耳がそのとりこになる。

東海道四谷怪談を読むことで喚起される「ある感覚」とは、現代人のオレの心にもたしかにしっかりと江戸時代が生き続けているという証拠でもある。というわけで、時代というのは不死なのだと思う。しかし、たとえ古い時代が死んでいないとしても、今生きている自分がそれに気付かなければ、自分の目の前には現れないわけで、その「気付き」を担うのが、たとえば四谷怪談という作品、ということに、なる。

ということは、四谷怪談というのは、オレにとって正しくタイムマシンに相当する、ということになる。行ったことの無い土地へ電車に乗って出会いに行くのに、まあ、似ている。

先日、ホーキング博士は、未来へ行くタイムマシンは可能だが、過去に戻るタイムマシンは不可能だ、とコメントしたと聞いたが、きわめて唯物論な発言だ。でも、それって、世の中を「唯物論な科学者」の目で見たら、その通りで、どこにも間違いはないんだよね。

オレの目は、ホーキング博士のそれとは異なるので、同じ世界を別様に経験しているということになり、実は博士の言と少しも矛盾しない。なんで矛盾しないかというと、二人は住んでいる世界が違うからだ。これって一種のパラレルワールドかもしれないね。

芸術というのは過去と未来を独特の仕方で結びつけるタイムマシンのように思えて、面白いな。

ブレア・ウィッチ・プロジェクト

じつは、ブレア・ウィッチ・プロジェクトを見てすごく気に入ってしまい、本当はもう一回借りて見たいのだけど、うちの奥さんには面白くも怖くもなかったらしく、面と向かってアレの何が面白いの? と、言われ、そのときなんとなく虚勢を張ってしまい、まあ、別にたいした映画じゃないんだけどさ、とか答えてしまい、そのせいでなんだか借りれなくなっちゃった。

ブレアウィッチのなにが自分に面白いかというと、二人の男と一人の女性の行きつ戻りつのちょっとしつこい人間劇っぽい展開。これは脚本が、気に入った。で、ブレアウィッチで自分が怖いと思うところは、エンディングの、廃屋の階段を叫びながら昇ったり降りたりするシーン。自分が子供のころ外で遊びまわってたときの恐怖経験みたいなものが蘇るから、らしい。

それで、さっき、ブレアウィッチに似た超低予算の素人ドキュメンタリー風の恐怖映画「パラノーマル・アクティビティ」を見たのだけど、やっぱ、オレはこれも怖いわ(相変わらず奥さんはまるで怖くないって 笑) そういやずいぶん昔だけど、かの「リング」を見て、怖くて、一ヶ月、電気をつけて寝てたもんな。これも奥さんに、バッカじゃないの、といわれている。