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フェラ・クティ

前々から思ってたが、ジャズのサックスってみんな似たように吹くよね。基本的な枠組みはチャーリーパーカーの分散フレーズと、ブルースの骨格、加えてコルトレーンっぽいディスコードな連続音が入って、などなど。 しかし、それと、もう、ぜーんぜん違う原理で吹いてるのがフェラ・クティのサックスだ。たとえばZombieという曲のサックスソロは、聞くとホント不思議な息づかいを感じる。それにしてもFela Kutiを最初に聞いたのはOriginal Sufferheadという、ワンコードで20分以上続く曲だったのだが、そのあまりのサウンドに、驚嘆して、唖然として、戦慄したよ、誇張でなく。

神秘

心霊現象とか、UFOだとか、超能力だとか、一般に現在の科学では解明できない現象を神秘的な現象と呼んだりするが、この神秘に対する態度って本当に人それぞれでけっこうはっきり分かれるものだ。自分はというと、神秘というものがあることを疑ったことはまず、無い。現状の科学を持ち出して神秘的現象そのものが真実かウソかを判定しているのを時々見かけるが、馬鹿げたことだと思う。自分としては、その神秘的現象を経験した当人の心にそれが何を残すか、ということこそが問題だ。そうすると、結局、その神秘的経験によって心に残った代物を、今度は真実とみなすのかウソとみなすかの、という問題になり、問題の局面が変わる。

たとえば、ひとだまの生成プロセスが科学的に解明されたからってひとだまの価値が落ちるわけではない。たしかに、科学的に解明された神秘現象はこれまで山ほどある。迷信や迷妄から開放されて生活が整理され快適に向かって行くことは、間違いなく有益だ。しかし、解明済みの神秘現象といっても、それを経験した当人にとってみれば、なぜまたそのタイミングで自分の目の前でそういう物理現象が起こったのかについては、誰も説明してくれはしない。

もともと科学というのは理性の飛び道具なのだ。それは時間と空間に飛び回る有象無象を一つ一つ撃ち落して、不安のない平穏な生活空間を作ることを目指している。それに対して有象無象と一緒に仲良く暮らすことを目指す能力を「本能」という。「本能」がなぜ科学的に再構成できないか、というのは根が深い問題だと思う。が、しかし、何百年か後にはできるようになるだろうね。その暁には、きっと科学というもの自体が変質してるだろう。

ところで、こんな風に考えているということは、結局のところ自分は科学をなんとなく毛嫌いしているんだろうな、と思わざるを得ないな。というか、いま現代、すっかり庶民レベルに落ちてきたこの「科学的解明」というものが気に入らないというべきか。物事が庶民の場にまで降りてくるには何十年もかかるんだけど、とうとう科学も落ちて来たね。それで結局、その多くは新種の迷信のようになってしまうんだろうね。

若者老人

この惨憺たる現代日本は構造改革するほか先はなさそうだが、その方法論が今の若者たちのビヘイビアーの中に昆虫的本能として発揮されているはず、と、誰か賢い人が分析解明してくれないものか。やっぱり、老人は後続に道を譲るべきだと思う。それも、今こそ。それで新しい人に任せるとしばらく数年は混乱するので、それを乗り切るだけの力を最低限確保した上で、なのだが。まあ、これからの老人は趣味で多忙だから、現役をあっさり引き下がる人は増えるだろうね。しがみついてる老人は、独りになると何もすることがなく不安なんだろうな。

今昔

20年前のバブル期は、若いカップルがセンチュリーハイアットを予約してドレスとタキシードでディナーしてたって。最近のカップルは、七輪焼肉で270円のホルモン食ってホッピー飲んでる。進化したなー(笑

うわべを飾るということ

とあるネットニュースで、最新の経営手法に関して、社員の健康悪化そのものもコストに換算して管理対策するという考え方について読んだ。いやー、大変な時代になっちゃったね。これを読んでいると、ハリウッド映画に出てくるステレオタイプ経営者の姿が目に浮かんでくるね。「みんなで明るく元気な職場にしましょう」というスローガンの裏に渦巻くこの非情さ。しかし人の世というのはたしかにそういう二重性に支えられて、いるよね。

孔子は、二千年以上前に、「人民を従わせることはできるが、その理由を教えることはできない」と、はっきりと言い切っている。思うにあの人は、いわば、フリーの経営コンサルの元祖みたいな人だったね。後半生は、為政にも、人民にも、属せず、それでいて厭世でもなく。孔子を経営コンサルタントとして考えると、彼が飽きるほど繰り返す「仁」「徳」「孝」という代物たちの本当の意味が見えてくるような気がする。

孔子が解こうとした人性の謎は、いまだにまったく解けていない。いや、待てよ、彼は解こうとしたんじゃなくて、途方もない人性をいかに飼い慣らすかについて工夫を凝らした人だったっけ。徹底した現実主義なのだ。うわべが君子であれば、裏が二重だろうが三重だろうが人の世は平和、ってこと。ソクラテスもそういう人だった。

ある異国の人相見がソクラテスに会い、人相を見るに、「あなたは知見も狭く情欲に傾く性質がある」と言った、そうしたらソクラテスは「よく私という人間を見抜かれましたね」と答えた、という逸話はニーチェで読んだが、あれは本当なのか?

しかし、なんで古今東西の思想家やら何やらの人の多くは「うわべがすべて」のようなところに行き着くんだろう。あるいは、この自分がそういう人ばかりに惹かれるんだろうか。もっとも、この俗世で、うわべがすべてなんていう発言をするとかなり誤解されるだろうけど。今の世のように、本当にうわべがすべての世界になってしまうと、かえって「うわべがすべて」と宣言することが嘘つきや不誠実と受け取られることが多いとは、皮肉なもんだ。

うわべの下に隠れている心は、誠実でも不誠実でも善悪は問わないが、一つだけ重要なことはその心が「深く」なければいけないということだ。浅い心の持ち主がうわべを飾ると、そのうわべはすぐに取り繕えなくなり、馬脚をあらわし、無様なことになる。