月別アーカイブ: 2010年9月

とある哲学スレッドで

むかし、どこぞの哲学スレッドで、「整数と自然数の数量は同量である」という数学命題の証明があるが、あれが納得できない、と発言したことがあった。そしたら、そのスレッドの常連が、まるで子供の質問に答えるときのような口調で中途半端に諭してくれたことがあり、ちょっと頭にきたこと、あったな。別に彼らに説教する気はないが、哲学を志す者たるもの、定期的に初心に戻って、哲学界では常識と化してしまっている事柄を改めて疑い、自身の力でゼロから検討し直すべきだと思うよ。ああいう態度に出る人たちは、実はそれができていない場合がほとんど。

臨界点に身を置ける人

人間の活動のコンディションを正帰還の臨界点に持って行き、そこにしばらくそのまま留まっていることができると、ごく僅かな外来の刺激がたちまち無限大に増幅され、なだれ現象を引き起こす。そういう臨界点を、あるていど意図的に作るすべを知っている人って、ごくたまに、人間技と思えないようなことを仕出かす。ひょっとしていわゆる霊との交信というのも、そういった臨界点を利用して可能になるのかもしれない。ただ、臨界点を利用したなだれ現象では、いいも悪いも一緒くたに入ってきて増大するだろうから、実際には引き起こされたその結果の良し悪しに保証はないはず。そして、その地点で、はじめて、「その当の人間の資質」が表面化し、結果の良し悪しを左右するんじゃないだろうか。

アドリブマシン

音楽演奏のアドリブってのは不思議なもんだな。同じようにテキトーに弾いていても2人のプレイには確実に差が出る。で、なぜ、こっちのプレイの方があっちのプレイより「良い」か、理由がよく分からない。

アドリブのプレイの良し悪しを判定できる機械がもしできたら、その機械はどんなアドリブが良いかその理論を知っているわけだから、その理論に従って演奏して音にする機能を付与することで、アドリブプレイができるマシンができそうだ。

で、そのアドリブマシンがごきげんな演奏なんかしちゃったら、客席の女の子はマシンに惚れるぜ。それで、そのマシンが「デヘヘ」とかいってテレる機能を持ってたら、もう、かなりイケてる。

結局のところ、アドリブマシンの設計ポイントはフレーズ生成手法にあるのではなく、いかに聞いてる人間たちと友達になれるか、というところに落着するはず。

と、いうことで、マシンというのは今後、機能よりも演出に比重が移るとオレは踏んでいるのだが。

潰して中身を出す

フョードル・カラマーゾフ、疾走する因業爺の爽快さったらない。あれは「潰して中身を出す」という快感に通じる。実はこれはExpressionの語源だ、つまり「ExPress」だ。日本語の「表現」という訳語は、単に「表に現れる」だけなので、イメージがけっこう違うのだ。「表現者」っていうだけではなくEXPRESSIONISTになりたいね、押して潰して中身を出す人に。

エッセイ教室で習った文

エッセイ教室だとかに通って、いい点取って、自信満々で得意げに書かれたようなエッセイをときどき見かけるけれど、そういう文体って、ほぼ例外なく魅力に乏しいね。作られた顔というものを、人はけっこう敏感に察知するものだ。

文体軽視

編集部に文体を全面的に修正された自分の原稿を、さらに著者校正をしているのだが、読んでいてだんだん腹が立ってきた。無味乾燥な文体になってしまっていて、読んでいてせっかくのワクワク感がまるでなくなっている、ヤレヤレ。たとえば野坂昭如の文章をこの人が校正したらどうなる? ゲラ刷りはおそらく面積比で85パーセントぐらい真っ赤になるだろう。

特に理科系の書物の文体軽視、しかつめらしい字面と、舗装道路のような平坦さ、といったものは、このへんで考え直した方がいいと思う。客観性というものが最重要視された時代は哲学的に言ってもすでに過ぎさったのだ。こういうことは理科系が一番乗り遅れる。

そんな意味で、本よりブログの方が面白い、というのはけっこういいところを突いている。ブログでは、筆者の精神が、書かれている主題に反応して楽しくて踊り出しているような、そんなリアルタイムな精神の躍動が伝わってくることがある。それを、文体、というのだ。文体とは作者の身体なのだ。

プロの文とアマチュアの文

ちょっとエッセイに近い芸術に関する真面目論評をこの前書き上げ出版社に送ったら、ゲラが返ってきた。改めて全体を読み直してみたら、あれ? なんだか、おかしい。全体を読んでみた印象がすごく平板な感じなのだ。オレってこんな風に書いたんだっけ?

後から知ったのだけど、校正の人が文体の大半を修正していたのだった。文章は分かりやすくなっているが、僕の文体のリズムは失われていた。先方も仕事だということを理解できるので、別に怒りはしない。まったく、そんなことはなかったんだが、文体って、なんだろう、と、ちょっと考えちゃったよ。

それにしても、ここ数年来、ずっと、自分は、プロの文章とアマチュアの文章についていったいどっちが本当に他人の心に届くのだろう、と思うことが多くなった。いわゆる名文と呼ばれる文体がほぼ過去のものになってしまい、現代ではその人の文体というのはその人の衣服みたいな感じになっている。そのせいで当然、文体が氾濫していて、さらにそれらを楽しむ、という余裕もできあがってきた。

逆に、名文の衰退と共にプロの文体というのもなんだかわからなくなり、だんだん画一化し、サラリーマンのスーツみたいな印象のものが増えたように思う。色とりどりのアマチュアの文体をファッションとして楽しむ、ということが一般的になってしまうと、変わり映えのしないスーツファッションはどれも退屈なものに見える。

まあ、以上が、昨今のプロとアマの文体の自分の感触である。それで、こうしたことを元に考えると、プロに修正してもらった自分の文章は、たしかに「プロの文章」になっているんだけど、やはり、その「いい加減なブレのある文体の個性」はなくなってしまい、私服を脱がされて無理やりスーツを着せられたみたいで、そんな風になってしまった文章はやたらと平板だ。

さて、どうも自分の文体を大幅修正をされたことに腹を立てて書いているみたいに思われるかもしれないが、実は、自分の知っている別の知人の文章も同じプロの人が校正して文体改変されていたのだ。僕はその人のオリジナルの文章を読んでいて、多少文は乱れているが、その人の性格そのものが飛び出してくるような溌剌とした文体を自分は知っていたのだ。そのすばらしい文章エネルギーは修正後はかけらも無くなっていて、とても残念に思ったのである。

以上は、そういう時代の成り行きなのか、単にプロが怠慢なだけなのか、よく分からない。もちろん文章は文体だけではなく、内容というものがあるのは当然のこと。以上は文体だけの、話である。

病草紙はオモシロイ

病草紙(やまいのそうし)はほんと、オモシロイよ。「けつのあなあまたあるをとこ」とか。烏帽子を被ったきわめて情けない顔の男がケツをまくり上げて糞をしている。しかし、尻全体から糞がしたたり落ち、まことに辛そう。その悲惨なケツを女が覗き込んでいる。それでは台詞をもう一回反芻してみよう。「あなあまたある」というところに「あ」が六つ続いている。実はこの病気は今でいう「痔ろう」なのであるが、この音により、複数の肛門ができてしまったこの男の尻の様子を視覚的に知ることができる。などなど、このように、病草紙にはたくさん見ものがある。

アジア的大団円

上野の博物館に仏陀の死を描いた絵があるはず。そこでは横たわる仏陀を囲んで、たしかにあらゆる生き物が泣いている。一番下の方にはなんとムカデもいるのだ。ムカデは、一番末席の一番下等なところにいるが、その彼も仏陀の死を悲しんで泣いているのだ。それにしても、これ以上美しい大団円があるだろうか。反面、ここでは絶対的な階級社会を前提として、そこに美しい大団円を描き出している。僕には、これこそがアジア的なものに感じられるのだけど、当然ながら、これは現代人の心情にはそぐわないし、現代社会の問題解決にはならない。なので、役には立たず、心の中にしまっておくような感じだ。