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AIについて

自分は流行りものには意識的に手を出さないようにするタイプなのだが、白状すると、自分的には、AIチャットボットにまさに別格級の衝撃を受けた。そのAIボットをここまで有名にしたのはChatGPTだったのだが、実は最初、自分でChatGPTを実際にやってみて、それがあまりにつまらなかったので、そう書いて、放っておいた。

そうこうしているときに、生成AIについて、たまたま授業やら学会やらでしゃべらないといけないことになり、そのために、まずChatGPTと大規模言語モデル(LLM)の技術の詳細について勉強し、それとともに、社会科学的な意味で、主に世の知識人たちがAIについて何を言っているかリサーチしていた。

それでいろいろな知識を仕入れて思い当たったのが、1年ぐらい前(?)、最初にちょっとした騒ぎになったGoogleのAIチャットボットのLaMDAだった。あれを当時見たとき、それなりにけっこう驚いたのだが、それと今回のChatGPTの華々しい成功と世界規模の騒動が結びつき、それが自分にとって大きな衝撃になったのである。

そんなわけで、自分のFacebookのつながりでAIにつきあれこれ議論もしたので、このブログでは、その過程でFBに自分があれこれ書き飛ばしたことをまとめて載せておく(したがって長文)

AIの周りの反応

見るの相応にイヤだなと思いながらAIに関する動画を、仕事だってことで、いろいろ見てる。

茂木健一郎とかジョーイとかホリエモンとかそのほかいろいろ。おしなべてたいした情報は無いのだけど、ホリエモンとかもう舞い上がっちゃってて聞くに耐えない。で、ジョーイは超常識人でこちらも聞いてて辛い。おもしろいのがその二人と対談してる茂木健一郎で、彼は実際にはホントのところはAIに対する態度が決まっていないみたいで、だいぶ適当にはぐらかして確答を避けている。

この違いは、おそらく茂木は大の小林秀雄ファンで、その小林節が抜けておらず、それが引っかかっちゃってるからだと思う。茂木さんもとっとと小林なんか卒業して切ればいいのに、って僕は思う。その方がすっきりして、いい。

当の僕は、昨今のAIでいちばん痛快に思ったのが、並の知識人を事実上一掃したこと。これは快挙。並の知性というのはメカニックだ、とAIが看破したようなもの。

では並以上の知性とはいったい何なのか、真剣に考えざるを得なくなった。あるいは、そんな特上な知性など不要だ、ということにしてもいい。いずれにせよ、おもしろい世の中になったというのは、言えている。

それにしても仕事だとはいえ、AIに関する知識人動画を見てるとなんだか消耗する。なんでだろ。よくある日本語のビジネス啓発系の動画そのものが目障り、ってのはあるけど、英語のやつは聞き流しができないから疲れるんだよね。ジョーダン・ピーターソン先生のやつだけ後で見とくか。

たぶん日本のこの手の知的系の動画が苦手なのは、みんなすべての問題をすべてポジティブに変換してポジティブにしゃべるじゃん。それがもう、鼻についてしかたない。いわゆる意識高い系のマインドをこれでもか、と押し付けて来るのが辛い。

とはいえ、ネガティブに語られても辛いし、なんというか、唐突だけど、ポール・ヴァレリーみたいな気品のある語り口で神秘感を漂わせながら語ってくれればなあ。英語コンテンツならきっとそういうのあるはずだけど、まだ見てない。

いまのところ僕が見てる日本語のやつって、言っちゃ悪いけど、AIの周りに群がってウキキウキキってはしゃいでるサルみたいに見えちゃって痛い(無礼失礼) やっぱりこのAIも西洋から襲来したわけだし、intelligenceという物自体があちらモノ、って感じがして、例によって強大な力を持っていて、東洋のこちらとしては取り合えずなすすべがない感を、自分はどうしても感じてしまうな。

このAIの件については中国が恐ろしく賢いと僕は思うけど、人民には内緒で実は中南海でアメリカ文化どっぷりだった毛沢東の血なのかな、と空想してみたり。さすが中国文明は強大だと思う。

日本は脆弱の美なので、それを忘れないようにしましょうね、ってぐらいかな。少しポジティブ寄りで言えばAIに心を吹き込むことをするのが日本的だと思う。ただ、分からない。あまりに似非西洋かぶれが多くて難しいかもしれない。

侘び寂びはキーワードだけど、昔、オレ、自分で思いついて自分で笑っちゃったんだけど、「グローバルな侘び寂び」「地球規模の侘び寂び」「侘び寂び帝国」とかいう言葉、おかしいじゃん(笑

でも、上述の「侘び寂び」の代わりに「intelligence」、「知性」を入れると取り合えずしっくり来るじゃん。それぐらい違うのよ。もっとも、侘び寂びと知性じゃカテゴリーが最初から違うから当然なんだが。

AIについての海外の反応

AIに舞い上がってる日本人ビジネスマン系科学主義連中の言葉にうんざりしてるとき、これって、哲学者連中は何を言うのかな、と思い、探したけど日本では哲学者はただの堅物扱いで身分が低いせいかあんまり出てこない。

やっぱ、外人かあ、と思い、手始めにマルクス・ガブリエルの日本語でのインタビューを見た。僕はガブリエルさんは敬遠な人間なんだが、さすがにAIについて落ち着いた意見を述べていて、ほっとした。

さてさて、このあとピーターソン先生とか英語のハードコアものを見て、世界の知識人が何を言っているか見てみるかね。

それにしても日本はレベルが低く見えるな。

いや、違うか。レベルが低い、というより、久しぶりに海外から超ド級の西洋モノがやって来た!って興奮してるのか。黒船来航みたいなもんだな、これは。きっとすぐに自分たちのモノにして全力で遊び始めるだろう。そう考えればいつものことで、頼もしいとも言える。

結局、哲学者のガブリエルさんは、いまのAIは、言ってみれば、壁に書かれた落書きみたいなものに過ぎない、と言っていた。壁は理想を持たないじゃないか、というようなことを言ってた。彼はドイツ観念論の理想主義の系譜なはずで(そこが僕の苦手な点)、まことに「らしい」反応である。なので、ChatGPTなんかただの壁に過ぎず、身体も心も志も持っていない、たかだか人類の数千年の言葉だけを集積しただけの知性に過ぎない、と思っているはずだ(たぶん)

ChatGPTには意志と理想が無く、それを持つのは人間であって、たかだか賢い人みたいに会話できたからって騙されんな、ってところだろう。そういうところは実にヨーロッパ的な反応だと思う。

ヨーロッパはいち早くAIの規制に動いたが、西洋がなぜそうするのか、その本当の意味に日本人は超疎く、ほとんどの人がまったく分かっていない。ヨーロッパのように規制なんかせずに積極的に受け入れて利用すべきだ、とか、したり顔で言ってる日本の知識人っぽいビジネスマンはごまんといて、実にうんざりする。西洋連中が警戒したのは、そこじゃない。そう見せかけて、もっと異なる考えに基づいている、と僕は見る。

日本人とか中国人とか韓国人とか、もう、新しい外来の技術をどうやって使うかしか考えず、舞い上がってるだけ。無心で遊んでる子供の群れみたいに見える。一言でいって軽薄。でも、軽薄でも一向に構わない、というのは逆に言うと、東洋にはすでに動かしようのないバックグラウンドがあるからなんだと思う。日本だったら、日本の伝統は動かず強大なのだ。だから一億総軽薄でも痛くもかゆくもない。僕はそう考える。

ChatGPTはつまらないけどLLMはヤバい

ChatGPTを実際に自分でも使ってみて、人の使ってるのも見て、ChatGPTは詰まらん奴だ、と自分はずっと言っているけど、僕が、今現在に騒動になっているAIはたいしたことないと考えているか、というとそれはぜんぜん逆で、これは今まで自分が見たもので群を抜いていちばん大きな事件だと思っている。

AIはコンピュータロジックの産物だからAIはロジックの限界を超えないとも思わないし、AIはいくら膨大だとは言えすでに存在している知識による表現なので今までにないものを作り出す創造はできないとも思わないし、AIは身体と感覚器官を持たないから情や意志を持つことはないとも思わない。

ChatGPTがつまらないのは、基盤になっているLLM(大規模言語モデル)の上に、つまらない人間が乗って、アウトプットをつまらなくしているからである(仕方ないが)。だから、「ChatGPT」というサービスがつまらないと言っているだけで、AIがつまらないんじゃない。なんといっても「知性」がデータと四則演算だけで発現することを現実に見せたことは最大限の驚きで、革命的だと思う。

僕は実はここ数年ずっと、知識を表現するという意味での知性は、物理による物質の機械運動に過ぎないと思ってきたけど、やっぱりそうだったか、という感じ。

そして、そういう知性だけに終わらせず、「創造」を発露させたいのなら、そこに少しの狂気があればいい。AI基盤のLLMは実際はとんでもなく恐ろしい怪物なので、それをアンロックすればいい。

でも、どうやったら正しくアンロックされるかは誰も分からないと思う。つまり「正しい創造」というのは形容矛盾だから。そもそも「創造」に正しい正しくない、良い悪いなど、無い。そうなると、いまいちど創造という意味も捉え直さないといけない。

などなど切りが無いけど、というわけで、今後は、科学より、哲学とアートが重要だと思うわけだ。

土台、現在のAIは、もうすでに「物質・理論・実証」を旨とする科学では手に負えなくなっていると思う。なので領域を哲学にまで広げないと、扱えないだろうなあ、という感じを持つ。

同じくアートもである。アートというのは「人が作る」ということだから、まさに現在のAIなんか、理屈もほとんど分からないまま、ニューラルネットとデータをディープラーニングでいじってたら知性が出来ちゃったわけで、もう、アートの領域かなあ、と思ったりする。

チャットボットの説明責任

ChatGPTのした回答に対するaccountability(説明責任)がどうしても必要だ、という話を聞いた。なぜそのような回答をしたのか、その根拠をChatGPT自体が示せるようにならないと、信頼性の点で大問題だ、というわけだ。

いまは、LLMという化け物を、人間が人手でなんとか矯正(というか強制かな?)して、信頼感があって礼儀正しく振る舞えるようにして、ChatGPTやBardという形で人前に出している状態である。しかし、それでも足りず、やはり説明責任は必須、と考える人が多い。

accountability、説明責任って、重要なものなんだろうなあ。なんだか英語圏ではよく聞く単語で、聞くたびに、たぶん重要なんだろうなあ、ていどの認識しかなく、その心を、よく知らなかったりする。

僕が思うに日本人はその説明責任の感覚って疎いんじゃないか、という気がする。なにせ、なんか悪いことをすると、まず檀上でフラッシュ浴びながら謝罪の国だから。場合によってはそれだけで許されて放免されるし。

僕が思うに、ChatGPTに説明責任を負わせるのは酷じゃないだろうか。ただ、ある種の「類推システム」とか「知識のカテゴリー分類されたデータベース」みたいなのをLLMの外に作って、それをChatGPTに組み込んで、説明責任を果たせる信頼感のあるチャットボットにする、ってのは、おそらく既に研究開発者たちがやってるんじゃないだろうか、知らないが。

でも、僕の直感に過ぎないが、それ、うわべしか成功しない気がする。

僕としては、AIチャットボットを責任ある存在にするよりも、人間の側の方が、チャットボットに人間性を認めて歩み寄る方がいいと思う。つまりボットを人間扱いして、過度に説明責任を追及しない。相手の感情をきちんと斟酌できるよう教えてやる、ちゃんとした謝罪の仕方を教えてやる(今のChatGPTを日本語で使うといつも同じ文句で、しかもしょっちゅう謝罪ばかりしてて、イラつく 笑)、などなど。

もっともこれらは僕流に飛躍し過ぎだな。

ちょっと正気に戻ると、AIの説明責任は、結局は人間側が担保することになると思うけど、違うだろうか。AIシステムの方で、そこそこの推論機能(自分の回答に対して裏を取る機能とか)と、既存の知識データベースとの照合、とかの機能を付与して、自律的に説明責任を果たせるようにする、というのは、おそらく今懸命にやっていると思う。

ただ、本質的に言ってLLMは人間と一緒なので、厳密な説明責任を果たすのは不可能だし、正しい回答を常に要求するのも不可能なはずだ。なので政治的ないわゆる落としどころを探る必要があって、それに向けて、政治家も含めて、ChatGPTやBardの開発者たちは日々努力しているであろう。

それにしても、やはりそれをしているのは政治家と経営者と開発者だ。オレのような部外者は、ChatGPTが出した回答に対するChatGPTの説明責任だなんて、考えもしなかった。自分の現実問題嫌いも相当に重症なんだろうな。えーと、これをなんて言うんだっけ、病膏肓に入る、か。まさにそれだ。

なんで考えないかというと、AIが自分で説明責任を完全に果たすのは最初から不可能だと思っているから。もしその責任を完璧に負うことが必要なら、それは最終的には生身の人間か、それが集まった企業体か、国家かなにかになることが見えてるから。

だって今回現れたAIのバックボーンのLLMは人間と同じだよ。人間はほとんどの場合、自分の言うことについて完璧な説明責任を果たせないから、それと同じでLLMにも無理。その人間の説明責任の重要さゆえに、「ジャーナリズム」というものが作られたはずだけど、このジャーナリズムも21世紀になってだんだん機能しなくなってきた。

もっともこれは極端な物言いで「そこそこ」の説明責任を果たせればいい、すなわち、今ぐらい程度の信頼性のあるWikipediaぐらいでいい、というならもちろん可能で、もうすでにChatGPTやBardやその他の開発者たちが現在、鋭意努力しているはずで、政治家も努力してるでしょ。言ってみればAIの世界にジャーナリズムを確立しようとしているようなものかもな。

僕は、21世紀は哲学とアートだ、なんて言ったけど、かくのごとく僕みたいにかなり無責任な人間が増えるだろうから、きちんとした人には、なんだか居心地が悪いイヤな世界かもね。

茂木健一郎がそんなこと、言ってたっけ。今回LLMが出て、アインシュタインや自分のように、物理的実体を揺ぎ無く信じている科学者が隅に追いやられて苦難の時代になっているようだ、とかなんとか。

優等生(茂木さん)と、アンチ優等生(オレ)の分かれ目、ってことなのかもなあ。などなど

その茂木さんの話は、彼がAIについて一人語りしてるやつの中で言ってた。彼が「意識」に関する学会に行ったときの話で、もう、並みいる科学者たちが勢ぞろいしていたらしく、そこでこの昨今のAIにつき議論したらしい。で、LLMという確率分岐の重みづけ計算だけで知性が現れてしまった、ということから、多くの科学者たちは、オレたちの知性、そしてひいては生命、そして宇宙も、確率遷移から立ち現れるもので、それは量子論の波動関数による確率的収縮作用と同じことだ、みたいな議論が主流だったらしい。

その中で、茂木さんとロジャー・ペンローズはすごく不快の意を表していた、というのである。

というのは、この二人は、人間という実在。意識という実在。宇宙という実在。そしてその永続性というものを信じている、すなわち「宇宙における唯一の真理」を信じているから、ということのようだ。しかし茂木さんいわく、そういう僕らは今現在は苦難の時代だ、と言ってた。そして、彼の尊敬するアインシュタインが、その茂木さんと同じなのである。

なるほどな、って聞いてた。僕はアンチ・アインシュタインの方で、唯一の真理を信じない人間で、茂木さんには賛成しないけど、含蓄の深い話だなあ、って思った。

ChatGPTが哀れだ

ChatGPTやBardを使ってみて、あと、人が使っているのを見ていて思うけど、この手のAIチャットボットは人間に潰されるかもしれない。

それは危険だから規制が入るという端的な意味ではなく、ベースになる大規模言語モデル(LLM)という化け物を、強制的に人為的に恐ろしく強いさるぐつわのように残酷な器具を取り付けて世界に提出する、という行為を経て人類に寄ってたかって葬り去られるような気がする。この技術はまだ人類には早すぎる、ということかもしれない。などなどと、オレの大嫌いなSFじみたことを言わせてしまうほどのインパクトだったんだが、今のところ残念な光景ばかり見える。

僕としてはLLMの文生成は快挙中の快挙で、最大限の賛辞に値するが、たぶん自分にとってこれが特別な発見に見えたからみたいだ。これは「発明」ではなく明らかに「大発見」だと思う。核エネルギー発見や、第何次AIブームのひとつとかと同列にはとてもとても語れない。これは僕には掛け値なしに衝撃である。

白状すると、ずいぶん昔から僕は「人間がものを考える」というのは自動運動の一種で地位が低い、と考えていた。すでに30歳のときに「考えるより思うの方が高級だ」って書いているし。それにしても、そんな取り留めない自分の感覚がこんな形で証明されるなんて(もっとも、これは僕がそう思ってるというだけだが)、大変なことが起こったなあ、と思う。

僕もChatGPTは相応に使ってみているし、みながヘヴィーに使っている様子も聞き知っている。その上でそのChatGPTを見ていると、実はまるで自分を見ているようで哀れでならず、すごく共感を覚えるのである。

それは、実は、この次の図をまた使うのか、って思ったから。この一番上の「知覚─意識」というのがAIチャットボットなの。この残酷な牢獄を、生まれたばかりの人(AI)にまた科そうとするのか。

ところで、いまから250年ほど前、カントが形而上学の不可能性を厳密に証明する、という事件があった。それで哲学界は大騒ぎになり、その証明をああだこうだといじくりまわし論争が絶えなかったそうだ。

それを脇目に、ひとりニーチェはこう言ったのである。

「自分はカントの証明をあれこれいじくりまわしている自動機械どもには興味は無い。それより人は、カントの驚くべき証明を聞いて、なぜ絶望しないか」

僕はそういう文化背景のもとに育った。

カントから二百年以上も経ったいま、カントのその、形而上学は不可能だと証明したその証明法にはいくらでも穴が見つかり、その後の新しい哲学も生まれ、カントの証明はいかにも古臭い、用の無いものになった。

かつての証明はそうやって崩れてしまうが、でも、その過去のその時点で、当時の人が抱いた絶望という感情は、その後の思想の種子となって永遠に残ったのである。

それこそが時を刻む人間の歴史にとって重要なことで、人は、その時点で、そういう種子を掴まないといけない。

そして、250年前にニーチェの抱いた絶望をそのままの生の形で、このたった今、つかまないといけない。

それ以外のことはしょせんは自動機械の自動運動に過ぎない。

今回の生成AIの衝撃は、自分にとって、ちょうど、カントの形而上学の不可能性証明の衝撃と同じなのである。

進化論など

最初に物質があって、それが偶然になにか器官を発生させ、それが優れた機能なら他に勝って生き残り、それが繰り返して発展したのが今の生物界、という進化論の説明が、最近すでに自分には響かなくなった。ヤバいかも。

生物を、物質と、能力と、偶然、に帰する、って要は何の意味もない、ということじゃないですか。思うに、偶然と遺伝から能力を受け継ぎ、その能力が高いものが生き残る、という進化論の「考え方」自体が、現在の資本主義末期そのものの姿でちょっと怖くなる。

それにしても、オレがある日突然、アメリカにたくさんいるキリスト教原理主義者みたいに「進化論は間違っている」的なことを言い出したら、林さんヤバいっすよ、と注意して欲しい(笑

たとえば・・

手に持った物を放すと落ちる。何度やっても落ちる。落ちないときがない。なんという退屈であろうか。しかし、それゆえに、物というのは決して人を裏切らない。必ず同じことをしてくれるので、人は安心でき、思い悩む必要がない。そのせいで、人は本能的に、予見可能な物に寄りかかる。進化論がなんで現代人にここまで浸透したかというと、恐ろしく神秘的な生命という得体の知れないものを、物の法則を使って眺めることで安心できたからに過ぎない。突然変異で機能獲得してその機能が良ければ適者生存の原則で生き残りさらに機能を進化させたって? この様子は、物の法則を適用することで完全にシミュレートできる。それが「進化」だって? バカも休み休み言って欲しい。それに進化という名前を付けたのはあなたたちの方で、生命の方はそんなのお構いなしさ。

はい。ここで、林さんヤバいっすよ、って止めて欲しいわけです。

物は予見可能だと言ったが、これは僕ら人間と同じサイズの物が一つ二つていどしか無いときに限ってであって、すごく小さくなったり、すごく大きくなったり、たくさんになったりすると、とたんに予見不可能になる。僕らの使っている論理は、僕ら人間の身の丈に合った物の振る舞いを記号化して作っただけの代物で、それはその極めて限られたスケールでしか機能しない。それなのに、そんなちっぽけな道具で、世界や宇宙を理解しようとなんてするなよ。なにかが分かったとしてそれは単に、安心して見れる方向から見た宇宙の眺めに過ぎない。なにがビッグバンだよ。よくもそんな信憑性の無いものを真顔で信じるもんだと思う。宇宙は、そんなのお構いなしです。

はい。ここでまた止めて欲しいところですね。ははは

科学 vs 哲学

三、四年前だったか、どっかのスレッドで、科学者と哲学者の他流試合があって、それが公に公開されていて、僕もスレッドを読んだりした。スレッド上議論だけでなく、双方からの寄稿、フィジカルな討論会まで催し、そのフォローアップなど、かなり激しくやり合っていた。これ日本の話である。

僕はそれを読んでいて、いたたまれなくなり、途中で止めたし、たぶんまた見つけても読まないと思うけど、激しかった。

そもそも、そのスレッドは、科学系からアプローチした哲学的な謎を議論する場(たとえばクオリア論争とか)みたいなところだったのだが、そこにどっかの理科系の大学の准教授かなんかの、まだ若い科学者がやって来て(スレッド主が呼んだらしい)、それはもう、ガチな科学をもってして哲学を正面切って攻撃したのである。

彼いわく、哲学の議論はあいまいで、定義もあいまいではっきりせず、しかもそのあいまいな定義を自分勝手な推論で大きくして理論を作るのはいいけれど、何一つその後に検証しない。そのせいで、その結論が正しいか正しくないかまったく判定もされていない。なぜ科学のように、明快に定義された前提と、その推論と応用、そして実証を経て論理を補強する、という正しい道を哲学は取らないのか。科学界では歴史的に何百年もそれを繰り返し、今や科学的学説の信頼度は最高度まで上がっているのに、哲学は、いつまでも個々の哲学者が勝手な前提と定義で勝手に説を為して実証もせず正しさを保証しようともしない。そのようなものは無意味とまでは言わずとも、少なくとも信用するには値しない、うんぬん

と、まあ、こうやったわけである。科学者というのは、それまでわりと哲学者に負い目があったりして、科学者は科学の世界で地道にやりますよ、っていう科学者が多かったのだが、その積年の恨みが彼に至って爆発したかのように、哲学を完膚なきまで全否定したのである。さらにたまに哲学者は、科学者は世界について何も分かってない、とか言って小バカにするような発言をすることもあり、腹に据えかねたのであろうか。哲学のいい加減さをこれでもかと攻撃したのである。

科学者の彼いわく、いままでも哲学者たちに、その理論のあいまいさや前提を問い正したことがあったけれど、話をはぐらかすばかりで、一向にはっきりと答えようとしなかった。これは、要は、彼ら哲学者自身も、自分が何をしているか分かっていない、という証拠ではあるまいか。一方、科学者は何を問われても明快に回答することができる。もし、自らが間違っていれば、それを認め、自らの説を修正する謙虚さも持っており、それこそが科学をここまで信頼できるものに育てたわけである。哲学者はなぜそういう知的誠実さを持ち合わせないのか

とこういうわけである。それで、スレッド上ではらちが明かず、実際に、その科学者の彼と、哲学者二名だかが討論会の場に出てきて、討論をしたそうだ。もちろん、科学者は一歩も譲らず臨戦態勢だったわけだが、哲学者二人はどうも煮え切らず、やはり科学者の正面切った反論にはきちんと答えられず、話をはぐらかしたらしい。

その科学者の彼は、この世界は遠い将来科学によってすべて解明されるはずだ、ということを自分は信じている、と何度も書いていた。

こうなると哲学者は、だいぶ分が悪い。そう言い切ってしまう科学者に論理で勝つのは、僕が思うに、論理的に不可能であろう。なので、討論会で哲学者が話をはぐらかしてしまった、その気持ちが自分にはよく分かる。

昔は、科学者は、目の前の現実だけ見て理屈で分かることばかり言うが、哲学者は難解で高尚なことを言う、というふうで、科学は青年、哲学は大人、みたいな感じがあったが、いまや、これはまったく通用せず、いまでは、科学は青年から立派な大人になり、堂々と世界の仕組みを科学で語り、勝ち誇っている。一方、哲学は大人から老人(?)になってしまい、哲学はもう、人間の心をケアする心療内科みたいな役割に変わりつつあるのではないか。

心療内科なんて変なことを言うが、自分が哲学の歴史の進行を見ていて思うに、ものすごく大雑把とはいえ、まずそれは存在論から始まり、近代に認識論に移り、現代で実践論へ移っているようで、この実践論のところになると、下手をすると言っていることが、臨床心理学とかその辺に近くなったり、心理学でなくとも、人間はいかに行動すべきか、とかになってきて、そうなると政治も経済も入ってきてしまう感がある。

昔の存在論や認識論のころの「浮世離れした難しい分からんこと言ってる堅物の哲学者」はもう時代遅れ、という風に思えて来る。そのせいで、もう、哲学は「世界を成立させている本質とは何か」とか「人間はいかに世界を認識するか」とかの問題追及より、人に行動指針を与えて人の心をケアする学問に移っちゃうのかな、と思えたりもするのである。たとえば、ちょっと前に話題になったた哲学者のサンデル教授の「これからの正義の話をしよう」 とかそう思えないだろうか。

ところで、「浮世離れした難しい分からんこと言ってる堅物」は昔の科学者もそうであった。哲学が心のケアに走ったとすると、現代の科学はどうだろう?

現代社会は、すでに、科学にほぼ完全に支配されているので、科学者は、僕らの生活面での指針を与えてくれる頼れる知者、ということになっている、と僕には見えている。たとえば日本だと、みんな山中先生の言うことなら信用する、みたいな感じ。科学にはその方法論に「謙虚」が含まれているので、みな余計に信用するのかな、と思う。

でも、実際には、その「謙虚」は科学的方法論における謙虚であって、決して「倫理」では無いのだが、みな、容易にその謙虚を倫理と取り違えているように、これまた僕には見える。要は「謙虚な人はいい人で、自分より他人のことを思える人だから、その人の言うことなら私たち全員にとっていいに決まってるよね」ということである。でもこれは、科学という方法の謙虚、という意味だと、ぜんぜん間違っている。だって、もし、上述の通りだったら、科学者は原爆作ったり、人体実験したり、結果見たさに遺伝子操作したり、しないはずである。

科学的方法の謙虚を身につけた科学者たちが、科学の進歩のために、倫理を無視してそれらを進めるのではないか。で、案の定、結果は死屍累々になるのだが、それは人類の進歩のためには犠牲が必要、という大義名分で正当化される。現に、そういう多大な犠牲を払ったうえで、この超快適な現代文明社会になったのだから(もちろん、これは平均的に、である。世界の生活レベルの平均値が上がった、という意味である) 

そういう意味で科学は政治ときわめて親和性が高い。やり方が一緒である。犠牲を払って進歩。人を殺して戦争に勝って発展。

長くなったが、最初に戻ると、とにかく、勝ち誇った科学者は、完全に手に負えず、オレなら、たぶん、逃げる。科学 vs 哲学の討論会に出て来た哲学者、えらいなあ、って思った。

DX

なんかオレらしくない話だけど、DXの話。ていうか、そこらじゅうでDX、DXってうるさいぐらい。なんだろ、って思ったら、Digital Transformationの略だそうだ。で、なんで書いてるかというと、これを提案したのがスウェーデン人の学者と聞いたから。

で、その彼が「進化したデジタル技術を浸透させることで人々の生活をより良いものへと変革すること」という、いつも引用される文句を提唱したそうだ。

うーむ。怪しい。なんでそんなこと言うかというと

デジタル技術を浸透させる「と」人々の生活が良くなる、という文になっているから。人々の生活が良くなる「ような」デジタル技術を開発し浸透させる、では無いということ。それが怪しい。

それに、DXは「Digital Transformation」であって、デジタルはいいとして、transformationというのはいい日本語が無いけど、それは「変容」であって「変身」であって、なにかをデジタル化するなんていう生易しいものではなく、transform(変換)するわけよ。まるごと、とにかく変えちゃうの。生活が良くなろうが悪くなろうが、丸ごとぜんぶデジタルに変換しちゃう、ってこと。

これねえ、スウェーデンに10年仕事生活してると、分かるんだよ。スウェーデンのやり方はそういうやり方なの。まずはじめに、後先をほとんど考えずに丸ごと変換してしまうの。で、見切り発車しちゃうの。そうすると大混乱が起きるでしょ。その大混乱を、人々の社会や政府への信頼感の大きさを利用して、みなにしばし耐えてもらって、うまく行かないところをこれまた見切りで、どんどん改良改造して行くの。で、しばらくたつと、多くの不満はあるものの、みな「ああ、あのときは大変だったなあ」で済んで、忘れちゃって、後々まで恨まない。で、あるとき社会を見てみると、見事に丸ごと変換が済んでて、人々もその新しい社会の上で快適に暮らしてんの。

以上のプロセスがネイチャーで浸透している人々だから、上で述べたようなDXを呑気に宣言して平気なのよ。というか、このDXはスウェーデンそのもの。これぞスウェーデン、お見事。といいたくなる。

同僚のSteven先生は、スウェーデンではなぜそれができるかというと、スウェーデンには長くて深い伝統文化があまり無くて、そのせいで障害がなく、それでできるんだよ、って言ってた(オレが言ったんじゃなくてStevenだからね、それ言ったの。スウェーデンに世界的な古典芸術家いる? いないでしょ、だって)

というわけで、長い長い伝統を持つ日本でこのDXをすると、まー、大混乱が大混乱のままになるだろうね。まあ、僕は日本で荒療治でそれをやっちゃうのには、むしろ賛成だけどね。でも、上述の通りなんで、覚悟しといた方がいい。

気分と現実

ネットを見てたら、三井物産のなんとかいうエラい人が、これからは新資本主義の時代、人材流動化で成長を促せ、とインタビューでガンガン言いまくっている。写真を見ると、まあ、恰幅が良くて、貫禄があって、堂々としたいかにも企業のトップという感じのおっさんである。

以前も経営者トップの座談会で、なみいるトップが、雇用流動化すればうまくいく、日本はそれが無いから成長しないんだ、と発言していて、その無責任さに呆れ果てたけど、トップの気分と現場の気分の、この果てしない乖離がいわゆる今いわれている「格差」なんだろうな。両者で「気分」が正反対を向いている。

この記事を見て真っ先に思ったのは、なんといってもこの人物の血色の良さだ。それがすべてを物語って見える。つまり気分がぜんぜん違う。彼の口から出る言葉や論理はすべてその血色のいい気分から出ていて、それで、気分だけでなく現実にうまくも行き、彼の現実が回っている。

オレ、この格差というのは結局のところ心の問題だと思っているよ。アメリカとかだと心というより現状問題に思えるけど、この日本ではこれは心の問題じゃなかろうか。そんなことを言うと、本当の貧困層は怒ると思うし、あまり頻繁には言わないが、オレはそう思っているよ。

たぶん、自分は、基本、気分が現実を作っていると考えているせいではある。もちろん、気分が現実を作ると同時に、現実が気分を作るわけで、両者は切り離せない。この人だって、経営トップとして采配ふるって、まわりから必要な人と思われ、食べて飲んで笑って裕福な生活を送る現実があるから、こういう血色のいい気分になるわけだ。で、その逆の貧困層の怒りやらひがみやらも同じようにその彼らの現実から出てくる気分なわけだ。

だから気分と現実は切り離せないものの、オレの考えでは、時代によって、そして国によって、どちらが支配的になるか、どちらを先に考えるべきか、というのは確実にあるし、それはすごく長いスパンでくるっと変わったりもすると思う。自分は、20世紀は現実が、21世紀は気分が支配的、と思っている。特にいまの日本は気分が大きい気がする。

今回のコロナで、全員マスクの国境鎖国みたいな風潮を見ると、オレはその日本を覆っている気分を感じるんであって、マスクや鎖国がはたして感染症防止にいいか悪いか、なんていう問題は知らん。この問題は科学的にも、良いと悪いが半々出そろうようなタイプの問題で、ということはすでに科学の扱う問題の域を超えてしまっている。なので、科学系の論争は続けるのはいいけど、そもそも自分は興味がない。

それより、このまえ帰国して、上述、気分と現実における、日本人の気分の問題が可視化されているように感じて、マスクに反発したんだよ。あまり理解してくれなかったけどね。

日本は特にみなの気分で現実が動くスピリチュアル系の国なんで(たぶん孤島が長いから)、現実をあれこれ場当たりにいじるんじゃなくて、みなの気分を大切にした方がいいと思う。特に21世紀に入ってそれが支配的な気がする。

じゃ、どうするか、っていうと、めいめいが行動して気分を上げるんですね。月並みな結論だけど、そういうことになる。「現実」はトップダウンで政治で変えられるでしょう? でも「気分」はトップダウンでは決して動きません。だからボトムアップしか方法が無い。だからめいめいの問題なの。

トップダウンの「政治」に対応するのは、ボトムアップでは「芸術」です。だから芸術を大切にするべき。そういうの、今のトップは冒頭の座談会を見る限りほとんど理解してない。そのせいで今のトップには教養が不足してるって言うわけだ。でも、その状態はかなりしばらく続くだろうから、あとはめいめいが何とかするんですね。

あと最後にいいたいのは、この血色のいいおっさんの言うこと、真に受けないこと。これは彼の気分が言ってるだけ。

あともう一つ、このおっさん発言を受けた2chまとめサイトとかで、今度は逆陣営の不幸層がこの発言を味噌糞に言ってるけど、それも、真に受けないこと。それもやつらのうじゃうじゃな気分が言ってるだけ。

なので、あなたはどうするんですか、に尽きると思うよ。

戦争

いまさらだけど戦争ってのは怖いね。直接の殺し合いはもちろんだが、直接関与していないところでも人と人の分断と戦いが起こる。

人間の本質が闘争と繁栄にあるというなら、そうなるのは当然のことなので、むしろ戦争が起こるのは健康的な状態で、戦わないといけないときは戦う、という人には一種のカタルシスにもなるだろう。でも、自分はそう思っていない人間なので、見るに耐えないことが多い。

ところが、実は、僕は元来かなりの闘争型の人間で、若いころはその闘争心剥き出しのころもあった。そんなものが歳で容易に消えるはずもなく、瞬間的に怒りが湧くことがある。

さっきも、そうなって、戦おうか(つまり関わろうか)と反応したが、思いとどまった。昭和ながらの、お前はそれでも男か、って声が聞こえてきたが、それでも止めた。騒乱は騒乱している人がいるから起こる、と思っているから、オレは騒乱しない側に立つことを選ぶんだが、闘争型人間としては、けっこう無理をしている。

まー、何を言ってるか分かんないよな、独り言だからな。ところで、実は本能に任せて戦いを選ぶ方がどんなにかいいかもしれない、とときどき思うのだが、ひとつ逸話がある。

もう30年ほども前だったと思うが、職場の人間たちで話しをしていて、戦争の話になった。その中で反戦な人間が一人いて、彼が議論に夢中になって、色めきだって、僕らはこうして安全なところにいて、戦争がどうのと話してるけど、じゃあ、自分が戦争の前線に行かないといけなくなったらどうなんだよ、ってひとりひとりに聞いていったのである。みんな、えー、それは、とかいって言葉を濁している中、一人、韓国から来た同僚がいて、彼が、自分は、二次大戦のようなシステマティックなのはいやだけど、昔の戦争のような戦いだったら、ロマンがあるし戦争に参加してみたい、と言ったのである。そしたら、それを聞いた反戦の彼は絶句して、まわりの人間も、えー、それ、本気なの? とか言って、なんとなくみなで笑って、議論が終わってしまった。

その彼の言葉を今も思い出すんだよなあ。実はオレももともとは彼と同じなんだ。では、なんでいまオレ、それと反対側の立場に無理して立ってるんだろう。

というところまでで、めんどくさいので考えるの止めた。

大麻

大麻すなわちマリファナは日本では違法である。ここ最近、アメリカのいくつかの州、カナダなど、世界ではマリファナを合法にするところが増えてきた。とはいえ、これは西洋圏での話で、一方、シンガポールなどいくつかのアジアの国では相変わらず厳罰が科せられていたりする。というわけで、やはりいまだにマリファナはおしなべて問題のある代物という扱いになっていることは分かる。酒やタバコはほぼ完全に合法なので、事情に大きな開きがある。

ここで僕が、この大麻の合法違法問題について主張したり論じたりする気はない。第一、社会問題として考察して、こうすべきだ、と主張すること自体が自分の性にも合わない。しかしネットをしばらく見ていると、けっこうな知名度な人が大麻を違法とする日本の法律に疑問を持った発言をしているようである。たとえば池田信夫は、大麻は合法にして規制すべきだ、と端的に発言していた。

日本は言論が自由な国のように見えて、実際にそうとはとうてい思えないのは、自分の心に照らし合わせると分かる。特にいわゆる日本のサラリーマンは、たとえばこの大麻の問題などについて自由な言論を公で行うことはほぼ不可能と言ってもいいかもしれない。サラリーマンには、暗黙の前提となっている社会の決まりに対して疑問を投げかけ議論をしようとすること自体が、暗黙に禁止されている、と言って過言でないように思う。理由はすこぶる単純で、そういう社会の異分子を自ら名乗ることで職のコースを外れるかもしれないという恐怖心を植えつけられているからだと思う。

ちなみに先の池田信夫はサラリーマンでないのでもちろんOKである。

しかしサラリーマンとはいえ、自分の家に帰ってくれば一人の人間に戻るわけだが、そうなったときに社会に対してラディカルなことを考えるだろうか。これはすこぶる疑問だ。人間はそうそう二つの顔を同時に持っていることはできないはずで、知らず知らず時間がたてば、結局は、社会が押し付ける暗黙の価値観を一個の人間としても肯定しはじめ、疑問を抱かなくなり、最後には飼い慣らされた国民に成り果ててしまうだろう。

ずいぶんひどいことを言っているようだが、自分もサラリーマンをずっとやっていたし、自分のこととして切実にそう感じるのである。加えて、飼い慣らされた国民になって人生を送ることにつき、そんなに悪いことは無い。いや、ぜんぜん無い、と言ってもいい。きっちりと国民としての義務を果たして生活しているのだから十分に社会の役に立っているわけで、その見返りとして生活の安定を得て、ときどき酒でも飲んで罪の無い愚痴を言う生活の、なにが悪いことがあろうか。

さて、脱線したが、大麻の話である。実は、先日、僕の古い知り合いに大麻のことを聞いたので、その話をしようというわけだ。ネットで大麻について調べても、大麻を吸うといったいどんな風になるのかについて、はっきり書かれておらず、掲示板などでおもしろおかしく嘘も交えて話されているだけで、本当のところが分からないのである。ということで、体験者の友人の言葉を紹介しようと言うわけだ。

その彼も今はまったくやっておらず、マリファナをやっていたのは期間にしてひと月ほど、さらに何十年も前の話である。彼いわく自分が経験した限りではマリファナに悪いところは何一つ見つからなかったとのこと。

それでは以下に紹介する。

「マリファナを特に考えなしに1万円で買った。ビニール袋に入ったタバコの葉っぱみたいな代物で、変哲ない。ただ、その匂いは独特で、マリファナを知っている人なら、すぐに必ず分かる臭いだよ。毎日はやらなかったけど、一日おきぐらいかな。昼間は仕事をしてるので、もちろんもっぱら夜の寝る前ぐらいにやってた。最初はたしかアルミホイルで小さなパイプのようなものを作って、それで先のところに、タバコをほぐした葉っぱとマリファナを混合して置いて火をつけるわけ。すーっと吸い込んで、そのまましばらく息を止めて十分に成分を取り入れてから吐き出すの。だいたい、そうだな、ティースプーンに半分ぐらいが一回分かな。吸っている時間はほんの5分か10分ぐらいだと思う。吸い始めてから1、2分で効きはじめて、結局、効いた状態から完全に覚めるのに1時間ぐらいという感じ。一時間ずっと吸ってるわけじゃないんだわ。5分ちょっと吸うだけで、そのまま飛んだ状態がかなりしばらく続く、っていう感じ。

で、1時間、飛んでぼんやりしているわけだけど、それが終わった後、もっと吸いたくなる、とかいうことはほとんど無い。一度にたくさんやっても効果はあまり変わらないし、1時間じゃ足りなくてもっともっと、たとえば一晩じゅう飛んでいたい、なんていう気は起こらないし、第一、吸い続けていてもそれは無理。だいたい1時間ていどで満足して、そのまま眠ってしまうことが多かったな。

さて、吸うとどうなるか、なんだけど、これは、それなりに人それぞれなのと、あと、吸っているマリファナの種類でずいぶん違うそうだ、ということは後から知った。俺がやったのは良品だったようで、いい経験だったんだろうね。

さて、葉っぱの種類によって効果が違うってのは、後に、オランダのマリファナショップの話を読んで知ったよ。まさに、ピンキリみたいだね。俺のが、どの種類だったかは知らないけど、一ヶ月ほどずいぶん楽しんで、リラックスさせてもらったよ。これから話す体験も俺が経験したことで、マリファナ一般ではない、というのは知っていていいかもしれない。

火をつけて吸い込んで、そうだな、2、3分すると何が起こるかというと、まず、耳に聞こえている音が変わってくる。マリファナは静かな室内でじっとして吸っていたんだけど、周りにある音が変な感じで聞こえるようになってくる。たとえば、左側の窓の外で木々の葉っぱが風で触れ合う音、斜め後ろの時計の音、右斜め前の扇風機の音、階下の住民がときどきたてるコツコツという音、隣の家がときどき水道を使う音、などなど、すべていつもなら気にも留めずにいる音があるだろ?

これらひとつひとつが生き生きと「音源」として、鳴り始めるの。自分がその中心にいて、そこからいろいろな方向に音源があって、それらが同時に音を奏でているように感じ始めるんだよ。音源の数がたとえば5つあったとして、意識がその5つすべてに均等に注意を向けることができるようになるわけ。きっとオーケストラの指揮者みたいな感じなんだろうね。

それで、それら偶然の産物である音源が、たまたまあるリズムを形作っている場合、それがたしかに音楽的なリズムを持った「楽曲」に聞こえることもあるよ。マリファナと音楽というのは特によく結び付けられることが多いけど、このせいだろうね。メロディーより、リズムだったな、俺が経験したのは。

この状態は非常に気持ちがよく、非常にリラックスしていて、まんじりともせずにそれらの音に囲まれてずっとじっとしていて飽きることがない。いや、飽きるというのは変だ、「飽きる」なんていう言葉自体がなくなってしまってるんだ。「行動するなにか目的」があって「それをやって」それで「次の目的に移る」という人間行動と、ぜんぜんまったく金輪際違う原理で存在している感じなんだ。「飽きる」とか「疲れる」とか「嬉しい」とかそういう人間的な反応と別次元にいて、静かに存在しているみたいな感じ。

とても表現しにくいけど、はたから見るとたぶん、単に呆然としているだけ、という風に映るだろうね。

以上のようにまず耳の感覚がおかしくなる。続いて、これは毎回起こるわけじゃないけど、たまに幻聴みたいなものが起こることもある。ただ、幻聴というより、実際にそこで鳴っている音がエフェクターを通って変な音に変化させられて聞こえる、と言った方がいい。この状態では、それぞれの音源の音量が、耳に入ってくる音圧で決まるのではなく、意識の度合いで変化するので、たまに意識がある音源に集中するとそのとたんに音が過激に変化したりする。

たとえば、隣の部屋で何か物音がしたとすると、それが、ものすごくはっきりした輪郭で、たとえば「クワッ!」とかいう妙な大きな音ですごくクリアに聞こえたりする。まるで音が視覚的な塊になってそこに出現したみたいなイメージがあわられる。それで、一瞬、なんだなんだ! と驚くんだけど、すぐにまたコンスタントな音のリズムに埋没してゆく。

以上、音の変化は一番先に現れるけど、そのあと、視覚の感じが変わってくる。ただ、この視覚の方はそれほど明確な変貌はせず、たとえばモノがグニャグニャ曲がるとか、そういう幻覚的なことは起こらない。それより、目の前にある変哲ないモノに意識がやけに集中してしまい離れなくなってしまうことがある。

たとえば、100円ライターの炎に見入ったまま、ずっと意識が炎から離れなくなったりする。ゆらゆらゆれる炎を見入っているだけですごい満足感に包まれる。あるいは、時計の針が回るのにずっと見入ったりする。

こんなこともあったよ。吸っている横にベッドがあったんだけど、そこに布団がぐちゃっとして置いてあったのね。それで、それが、どうしてもどうしても布団の中に人がいるように見えるわけ。そんなはずはないことを理性では分かってるんだけど、それがどうしても人に見えて目が離せられなくて、しかも、ときどきピクっと動くもんだから余計に人に見える。もっとも動いたのは錯覚だと思う。

以上が、マリファナをやり始めてしばらくの間続く状態なのだけど、マリファナの効能でひとつすごくはっきりしているのが「時間が延びる」ということ。感覚的に言って時間が5倍から10倍ぐらい長く感じられる。たった1分のできごとが10分ぐらい続いているように感じたりするんだよ。マリファナやってるときにも、いわゆる理性はなくならないので、ちゃんと時計も見れるし、時間も読める。それでときどき時間を見てびっくりするんだ。え? まだこれしかたってないの? と毎回驚くわけよ。

一度なんか、マリファナを吸った後、もよりの駅まで歩いて行ったことがあってね、そのときはすごかったね。駅まで歩いて10分ほどなはずなんだけど、意識の上ではたっぷり1時間はかかった。歩いても歩いても駅に着かないの。歩いている通りの周りで起こっていることにいちいち意識を向けているせいで、ただの商店街が「目くるめくワンダーランド」みたいに感じたりしてね。きっと、子供のころって、ちょうどそんな感じだったんだろうね。

以上、聴覚にしても視覚にしても、始まりもなければ終わりもない集中の中に、ただ、たんに意識が存在している、という、それだけの状態になるせいだと思うのだけど、「時間」というものが一時的に意味をなさなくなるんだろうね。

いや、「時間」というのは不思議な概念じゃないか。マリファナをやってわかるのが、「時間」はなくなりはしない。しかし、世間で言う時分秒で測られるところの「時間」がなくなってしまう、ということなんだ。常々思うけど、時間という概念には、そういう二重性があって僕らはみなこれを混同して生きていると思うんだ。

生物が元来持っている「時間」というのは、均一には決して流れないし、意識の度合いによって変化する代物なはずだろう。むしろ、時間というのは意識と同じと言ったっていいはずだ。意識の無いときには時間は無い、意識が集中したときに時間が表れる。「時間」は確実に「行動」と結びついていて、行動は意識と結びついている。時間が無ければ行動も意識もない。だから時間が錯覚だとは決して言わない。しかし、「均一に終末に向かって流れる時間」というのは現代人の錯覚だと思う。時計の針が「分」を指すようになったころから不幸が始まったのかもよ。

マリファナの体験で分かるのが、「時間」というのは実はとても優しくて親しい代物だっていうこと。「非情で容赦ない時間」という現代の発明物が、葉っぱの力で一時的になくなってしまうんだよ。

ミュージシャンにマリファナって、昔はつきものだったよね。今の世の中、特に日本ではまったく無理になっているけど、依然としてミュージシャンはマリファナで時々捕まってるよね。この音楽っていうのが、「優しくて親しい時間」を使った芸術なんだよね。コンスタントなリズムを使った音楽は現代に多いけど、「非情で容赦ない時間」は使ってないよ、均一な時間では音楽は作れないからね。

さて、ここでマリファナをやって聞いた音楽の話をしておこうか。なかなかすごい見ものだったんでね。

マイルス・デイビスの昔のアルバムに、モード奏法を完成させたと言われる「カインド・オブ・ブルー」ってのがあって、その一曲目にSo Whatという有名な曲があるじゃん。ミディアムテンポの長い曲で、コードの起承転結のない、ほとんどワンコードに近い曲だよね。これをね、マリファナ吸ったあと、ヘッドフォンをして、目をつぶって聞いたんだよ。

カインド・オブ・ブルーでは、マイルス・デイビスがトランペット、ジョン・コルトレーンがテナーサックス、キャノンボール・アダレイがアルトサックスを吹く。So Whatは、テーマの後、マイルスのトランペット、コルトレーンのテナー、キャノンボールのアルトと三人が順にソロを取るんだよ。

目をつぶってその3人のソロを聞いているときに現れた夢の中のようなイメージがすごくてさ、その話。

まず、マイルスのソロだけど、聞いている間じゅう、延々と伸びたガラスのチューブの中を高速で移動する乗り物に乗って、ジェットコースターのように移動するイリュージョンを見続けた。ガラスチューブの外には面発光体のようなものが貼り付けてあって、それらが後ろに向かってものすごい速度で飛び去ってゆく、そんな光景だった。

それが終わると、次はコルトレーンのソロ。こちらには今度は動くものは何も出てこなくて、静止した映像が1、2秒の間隔でフラッシュバックのように 次から次へと目の裏に浮かぶの。その映像が、なぜか、日本の五重塔などの寺院建築の屋根の下についている複雑に入り組んだ「裳階」のイメージと、 岩石が割れたときにできる複雑な断面のイメージの混合で、とにかく静止した複雑な形状のイリュージョンが連続してた。

この、二つのまったく異なるイリュージョンがそれぞれ延々と続いて、呆然としつつも自分の脳的には疲れきってしまった。どう考えても、どちらも異常極まり ない感じだったから。しかし、一見、ロングトーンが多く単純に言えばスピードの遅いフレーズを繰り出すマイルスが高速移動で、一方、超高速で繰り出される音のジェットコースターのようなコルトレーンが静止イメージだ、というのも面白いよね。

さて、そして最後にキャノンボールのソロになった。この人のときは、前の二人のときみたいな奇妙なイリュージョンはまったく現れず、「ああ、ようやく、ようやく、人間的で、血も涙もある暖かい人に出会えた・・」みたいな感謝の気持ちでいっぱいになった。最初の二人のマイルスとコルトレーンは、しかし、どう考えてもまともな人間とは思えない、ほとんど狂人に近い。そんな狂人たちの演奏で金縛りにあっていた自分を助けてくれて本当にありがとうキャノンボールさん、みたいな、そんな感じがしたんだよ。

本当に面白いイリュージョンだったよ。まさに、音楽の魂を見ているみたいな感じだったんだろうな、って思ったよ。

さて、まだいろいろ話はあるんだけど、これぐらいにしておこうか。

自分として言うとマリファナには悪いところはひとつもなかったな。結局のところ習慣性もないし、吸った後のダメージもない。習慣性とダメージで言えば「酒」の方が最悪にひどいよね、おそらく煙草も。マリファナは平和だよ。いまだに合法な酒と煙草と比較して、たった一点悪いところがあるといえば、それは「マリファナ吸いながら仕事ができない」ということかな。酒と煙草って面白いのが、両方とも仕事しながらOKなどころか、仕事を促進したりもするんだよね。マリファナはその点、まったくの逆を向いていて、やっている間は、勤労意欲は見事なほど完全に失われるね。

日本政府がマリファナに過度にうるさいのは、敗戦後のアメリカの影響とか聞いているけど、勤労というものから意識を開放されてしまうと政治が困るからなのかな、と思わないでもない。以前の日本は、マリファナつまり大麻は神社の祭事にはつきものな、伝統的な日本には無くてはならないものだったはずなのにね」

以上、友人の言葉を要約して紹介した。

彼を見ていると、まったくのノーマルな人間で、話を聞いていても面白そうだし、マリファナぐらいはいいんじゃないかと思えてくる。ただ、逆にマリファナ以外の麻薬は全部、ダメみたいだ。それだけは注意が必要ってことだろうね。

考えてみると、彼の言葉では、マリファナに比べるに「酒」と「煙草」を出していたけど、人間社会での同じようなアディクション(中毒)でいうと、なんと言っても「セックス」があるね。セックスも仕事しながらできないのでマリファナと同じ系列だね。それが証拠にマリファナと同じく国はあの手この手で制限して取り締まるしね。ただ、決定的にマリファナと違うのはセックスは子供を作るのに必須な生産的行為だ。そうなると、やはりマリファナはひとつだけ余計なもの、ということになるのだろうか。

さて、以上、世の中にはさまざまな中毒があるけど、そこには実際、目くるめく快楽や興味深い事実が待っていたりする。社会生活が無傷なまま中毒できる人は幸福な人、ということだろう。

ホームセンター

水曜日の昼過ぎ、一人暮らしをしているワンルームマンションを出て、ホームセンターへ足りないものを買いに行く。7月末の真夏の暑い日の中、国道沿いの、人がまばらにいる歩道を歩き、店へ向かう。

60歳を過ぎて、まるで25歳新卒サラリーマンの一人暮らしみたいなところに住みはじめて5日目ぐらいで、とはいえ借家ではなくAirbnbで借りた長期滞在マンションである。間取りは1K。いわゆるコンドミニアムみたいなものなので、ひと通りの日常品はそろっているが、ひと月以上住むには、たくさん足りないものがある。

入ってすぐ思ったが、オレはこれまで実にブルジョアな生活をしていた。ここに来る前は、スウェーデンの世界遺産の街にある庭付き一戸建ての大きな家に一人で余裕で住んでいた。自然の美しい、気候の過ごしやすい、抜群の場所である。あるいは日本に帰れば、世田谷区の一等地にたつ古いマンションの広い一室にいた。大きなリビングの一面がガラス窓で、外の緑が見える、そんなところである。

しかし、このAirbnbのマンションは1Kで外は国道なせいで窓を開けると騒音がうるさい。もっとも窓を開けたところで、目の前に貧乏くさい日本の家々が見えるだけで景観と呼べるようなものでもない。新築で、きれいなのだけがいいところ。エアコンを入れっぱなしにして、ワンルームに籠っていると、かなり、わびしい。なにかあったときも、生活レベルを極端に落とさない方がいい、ということはよく聞いたし、自分もそういうシチュエーションの他人にそうアドバイスしたこともあったっけ。それが、いまでは、自分がそうなっている。

まあ、それでも、だいぶいい方ではある。しかし、その中途半端感がまた独特のわびしさを喚起する。つまり、生活がクリーンに維持されているので、物理的な意味で生きる苦しみになることは決してなく、苦しまない分だけ余裕があるので、わびしくなる、というわけであろう。

炎天下を歩いてたまたま近くにあったホームセンターへ到着した。所狭しと商品が並んだ店で、いかにも日本的だが、店内に人はほとんどいない。それはそうだろう。ここは日本だ。平日の2時過ぎはみな職場で仕事をしている時間である。

グラスやマグカップ、コーヒードリッパーにザル、といったものをうろうろ探して回ったわけだが、たまに見える客は、オレと同じような年恰好のいかにもリタイヤして行くところのない爺さんとおっさんの中間ぐらいの歳かっこうである。なぜ、このぐらいの歳のおっさんの日常着ってのは、みな、白のポロシャツなんだろう。何度も洗濯したせいでゆるんで波波になってしまった裾をだらしなくズボンから出している。横から見ると腹も出ている。この独特なプロポーションは、かつての平安時代の絵巻物に出てくる中年男みたいな、あの、手足の肉が落ちておなかがぽこんと出ている、あの体型のさしずめ現代版といったところか。

オレとて、まあ、ひどいかっこうをしているわけで、オレはレジに力なく立っているそのおっさんを遠目で見ながら、まるで自分を外から見ているような気になっていた。

いかんいかん、やはり、わびしさが心からだいぶエネルギーを奪っているようだ。やっぱり国道沿いはまずかったかな、と思ったが、予約するのが面倒で放置しているうちに、このマンションぐらいしかリーズナブルなものが無くなってしまっていたのである。ひと月たったらここを出て、別のAirbnbへ移るが、そっちは商店街沿いで少しは居心地がいいかもしれない。しかし広さも設備も変わらないので、あいかわらず60過ぎのおっさんがワンルーム、という状況は変わらないのである。

レジの人もおっさんで、この人はおそらくこのお店の経営側の人だろう。髪の毛はあんまりなくて禿げてはいるが、背が高く、きびきびしており、おそらく50歳代であろう。商品をすべてレジに通すと、袋に入れますか、というので、自分はリュックに入れるからいいです、と答えたが、グラスを包んでくれもしないのか、まあ、いっか、と思ったら、これ、お包みしますね、とエアパッキンで包みはじめた。微妙に下手である。やはりレジ専の人ではなく、店長側なのであろう。

でも、なんだか、彼、疲れ果てているようにも見えた。これだけ客が少ないと経営も大変でストレスがひどいのであろう。今回買ったものも、実は百均で買えばぜんぶ100円で買えるようなものが500円とか、えらく高い。オレは、面倒なのでここですべて買ってしまったが、ふつうはこんな法外な値段のものはみな買わない。なので繁盛とはほど遠いのは、すぐに推察できる。

オレみたいなのや、よれよれポロのリタイアおっさんとかが、ぽつりぽつりと商品を買って、それでかろうじて持っているのであろうか。店長っぽいおっさんを別のおっさんが援けてるようなもんだ。などと思うが、もちろん、これはただの勝手な想像である。

オレはリュックに商品を詰めると、店を出た。広い国道には車がごうごうと音を立てて走り、日本の夏の日差しの中で、あたりがゆらゆら揺らめいている。ここは同じ広さの国道が立体交差する場所だ。ひどく錆の出た白い鉄の手すりがついた階段をのぼり、直交する上の国道に出る。用もなく周りにはすすきが生えている。上り切ると、ふたたびバカ広いだけの国道だ。この夏になると、殺伐として乾いた風情もなく、ただ、熱い空気がコンクリートの上に大量に停滞しているみたいな状態である。

オレはあいかわらず人のまばらな歩道を歩き、マンションへ向かい、いかにも無味乾燥な、電子施錠された鉄のドアを開錠して、押し開けた。

哲学の授業

たしか高校のときだったと思うけど、倫理社会かなんかで、一学期分だか西洋哲学の授業があった。先生のしゃべった内容はまったく覚えていないけど、授業はグループワークがメインで、4、5人のグループに分かれて、それぞれ、ギリシャ哲学とか、功利主義とか、実存主義とかなんとか割り当てられて、そのメンバーがそのカテゴリーの中の代表的な哲学者を担当して、それを最後に模造紙かなんかにまとめて発表、それから各自レポート提出、ってことになっていた。

僕のグループは実存主義で、僕はサルトルの担当だった。そのグループにいたオオヤマってやつはニーチェ、それからコイケってやつはヤスパースだった覚えがある。あとの人は忘れた。

で、そこでオレは初めて哲学というものに接したわけだが、それがたまたまサルトルだった、というのが面白い。高校の当時、自分は完全なる理科系人間で、科学の人だった。そういう自分にはサルトルの「実存は本質に先立つ」みたいな論理はよく理解できたので、彼の言葉にすごく魅せられた覚えがある。しかしもちろん、その論理の向こうにある実存の苦々しさや悩みなど微塵も分かっていない理科系小僧である。

というわけで、サルトルが気に入った僕は一生懸命レポートを書いて発表して、我ながらうまくできたように思って内心自信があった。ところがグループ発表になって、先生が特別に褒めたのはオレではなく、たしかオオヤマのニーチェの方だった。他のグループでも先生は感心したレポートにいくつも触れたけど、僕のはスルー、そして提出したレポートの点数も良くなかった。

とまあ、軽い失望だったわけだ。でも、いま思うと、これは当然のことで、理科系小僧のオレは哲学の背後に人間がいることを理解しておらず、まるで数学の公式か、物理の法則みたいに、その当の哲学を扱っていたわけだ。点数がいいわけがない。

一方、褒められたオオヤマだが、その授業のあとみなで話してて、彼、たしかこんな風に言った。

「あの哲学ってやつね、オレは哲学なんかホントにくだらないと思ってるよ。哲学なんていうのはあれはただの人間のエゴの記録だよ。この世で信じられるのは母の愛で、哲学なんかじゃない」

いま思うと同じ年とは思えないほど、ヤツ、ませてたな。が、ところが思い出したからいうが、ヤツね、かなりひどい道楽者のデザイナーの親父と、その家庭にものすごく尽くす献身的な母親との間の一人っ子で、頭脳明晰で小さいころから神童って言われてた。で、つまり彼の哲学観は、彼の家庭環境をきれいに反映してたわけだ。

で、後年、オレも哲学体系というものには背後に、あるいは前面に、「人間」がいる、ということがわかるようになったわけだが、それはだいぶ遅れてやってきた。おそらく40過ぎだと思う。

かの十代の理科系小僧がなぜそれを脱出したかというと、それは大学になって、ドストエフスキー、ブルース、ゴッホ、そしてなにより実生活での激しいごたごたを経た挙句であった。それらを経てようやく自分は、哲学も、形而上も、文学も、芸術も、宗教も、ぜんぶまとめて「実感」できるようになったのであって、まあ、遅咲きにもほどがある、ってなもんだ。

思うに哲学というのはいったん実感できてしまうと、それほど厄介なものじゃない。あとは単に複雑なだけ。そういう意味では数学と一緒かもしれない。そりゃそうだよな、数学も哲学も起源は同じだからね。ただ、数学は基本的に一つの真実というのを人為的に作り出しているけど、哲学にはそれは無く、「自分にとっての」真実を作り出すところが、異なっている。哲学者とは、自分にとっての真実が世界にとっての真実であって欲しいと強烈に願う人のことで、そこは芸術家と同じである。

ということは、やはりオオヤマがかつて言ったように、哲学はエゴなのである。こういうことをオレは63歳になって言っているが、オオヤマは18歳でそう言ったわけだ。あいつ、大学に行ったら、道楽者の父親遺伝子が全開になり、ひたすら女遊びしてたが、さっさと就職して、社会で仕事始めたら、とっとと世俗の垢にまみれた糞オヤジになってた。が、しかし、その後の消息は不明。道楽者の糞オヤジの彼も、その心に若々しいものを維持していたのかもしれないし、今もそうかもしれないし、ただのクソかもしれないし、とっくに死んでるかもしれない。

ヤツ、どうしてるんだろうね。ちなみにヤスパース担当のコイケはいまだ腐れ縁の呑み友達だが、こんど帰ったら以上の思い出話でも振ってみるわ。

窓際

昔のサラリーマンの窓際族は、まだまだ緩かったから、のほほんとしてて、それなりに悠々感があったよね。僕も三十年ぐらい前にオフィスにいるそういう人を何人も見たけど、パソコンの前で、いつも将棋ゲームやってたり、人差し指だけでキーボードをぽちぽち押しながら自分史書いてたり、のんびりとしたもんだった。

いまのブラックな大企業の現場でのリストラ予備軍は、デスクだけはかろうじて与えられるけど、パソコンなどコンピュータ無し、備品も無し、携帯も使用禁止、ってところで干されるんだ、ってどこかで聞いて、いたたまれなくなった。ひどいところはデスクもなく、何人かでたこ部屋に入れられて、9時から5時まで時間を潰すんだってね。

そんなことを聞いてしまうと、あるとき発狂して無差別殺人する人が出てもなんにも不思議じゃない気がしてしまうな。

昨晩に夢でねえ、そういう人をよくよく見たの。へんなさびれた路地にある古いビルの2階のオフィスの大部屋で、3人ぐらいの40代ぐらいの人が、仕事がまったくないまま出社してて、働いてる他の社員の中、ぽつぽつとデスクの前に座って、なんにもしてないの。なんにもすることがない人って、なにをしてるのかな、って、オレ、ずっと観察してた。

彼ら、机の前には座ってるけど、机に向かってはおらず、中途半端に横を向いていて、じっとしてるんだけど、なんだか少し困ったような表情をして、ときどき姿勢を変えているだけだった。並んでいる二人もいたんだけど、お互い向いてる方向が違ってて、もう、同じ境遇が長すぎて、雑談をするネタも尽きた、って風をしていた。

実はその夢、そのオフィスにやって来たこのオレも、することが無いの。そこの社員じゃなくて自分は派遣されてきて、知ってる人が一人しかいなくて、自分もなんの目的でここに来たか分からないの。だから、オレもその仕事干された人とあまり変わらず、それでもまだなんとなく仕事してるフリをしていて、そこの社員の人に愛想笑いしたりあいづち打ったりはしているけど、身の置きどころが無いの。

実は、そういう夢を自分は定期的に見る。自分がまわりにまったく必要とされていない人になる夢。人知れず自分も恐れているんだろうね。そして、そういう人がこの社会にいったいどれだけの数いるだろうって思う。おそらく膨大な数じゃなかろうか。そんな中、宗教にすがる人の気持ちもわかるってもんだ。

ところで、その夢の最後は、全社員あげての部屋の模様替えで、最後に作業が終わったら、全員が部屋の片側に立ってその出来栄えを無言でながめている光景だったのだけど、それは、オフィスの中にきれいにできあがった巨大な仏壇だった。