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おくのほそ道

おくのほそ道を読んでいる。

全編のどこをとってもすべてもののあわれでできているこの文は、いったい何物なのだろう、と思ってしまう。これ以上無理だろうというほど完璧な姿をした句は、いくらもある。たとえば

閑さや岩にしみ入る蝉の声

あるいは

五月雨の降りのこしてや光堂

と、いうようにあるけれど、この紀行文の全体を、旅の苦労や情の側から見ると、こんな句がどうしても目につく

蚤虱馬の尿する枕もと

あるいは

一家に遊女もねたり萩と月

日本語のリズムはすばらしく、完璧な作詞作曲だけれど、その内容は、事実と情との単純な描写に徹していて、余計な飾りはなにもない。俳句は和歌より短いので、飾る余地も少ないだろうし、それゆえもあるだろう。いわゆる美学的な「贅沢」のあとが、芭蕉の句にはまったくない。

それから、いわゆる「大自然」をそのまま描写したり共感したりする文もなければ、そんな句もない。そこには必ず人がいて、生活があって、歴史があって、自然はそのひとつに過ぎず、自然の美を客観視する一種のロマンチシズムの冷たさは、まったくと言っていいほど、どこにも見当たらない。

これが、江戸時代の僕らの祖先にいた、俳人だったとは、なにをかいわんや。

オレはオレで、文をかたわらに、「時のうつるまで泪を落とし侍りぬ」だよ。

境界知能

これはちょっと久しぶりに目が覚める話だった。

IQや境界知能のことはけっこう調べていて、知ってはいたが、これまである意味、客観視していたのだが、これを見て、これはオレだ、と思った。見方が客観から主観に移った。

口幅ったいが、測定された僕のIQは高めなのだけど、一種の生きにくさ、というか異人感をどうしても振り切れなく、最近など、それが高じて、一体オレは何者なんだ、と自問自答する始末に陥っていたが、その正体が分かった感じ。

僕が、これまでずっとずっと、小学生のころから、いわゆる境界知能らしき人々に強烈な共感を覚え、その逆の高IQの人々に強烈な反感を持って来たのは、オレ自身が、境界知能的なものをもって生まれて来たからみたいだ。

僕の説によると、IQというのは今現在の欧米主導な現代社会の基礎になるもので、社会が先にできてて、その中でIQが測定され能力が決められてハイアラーキーができるのではなく、人間の能力として極めて狭い範囲だけを対象としたIQの方が先にあって、それに従って設計されたのがこの現代社会だ、という逆転発想である。

もっと言うと、このIQは科学と整合性が良く、見ればすぐわかるが、正直、科学で業績を上げるのは高IQの人に限られている。そして、科学は目に見えるものしか扱わず、目に見えるものの最たるものが「物質」である。したがって科学主導の社会は物質の性質に依って立っている。

恐ろしいことに昨今のAIの出現で、知的能力というものが物質的な機械で現すことができることが分かり、知的能力とは単なる物質の振る舞いに過ぎない、ということが(自分的に)明らかになった。

僕らは物質の振る舞い由来のIQに縛られて生活している。

もっとも、これをあまりしゃべり過ぎると、陰謀論に直結するので、これ以上は言わないが、僕の、「知性とは物質の別名である」という考えは捨てない。本当はいつか、これを証明して、世に問いたい、と思い続けてきたが、めんどくさくて手を付けてない。

まー、今後もやりそうもないが、単発でそういうことの発信はこれからもすると思う。

それにしても、オレのスウェーデン移住の十年は、このことをみずからに思い知らすための経験だったんだな。

ミッドサマー

友人が紹介してた映画の「ミッドサマー」。スウェーデンから撤退してしばらく忘れてたけど、この映画の題名を見て反射的に鮮明に思い出した。

この映画は怖い。

オレはスウェーデンに十年住んでいたが、現地で毎日見ていたスウェーデン人の振る舞いが、この映画にはっきり描かれていて、自分的に怖くて仕方なく、この映画、何度も見たよ。たぶん、今夜、改めて全編見ると思う。

スウェーデン人の何が怖いかは、たぶん、僕がいくら言葉であれこれ説明しても伝えるのは無理だと思う。ところがこのミッドサマーはそれを見事に描き切っている。

たぶん、こんなことをネイティブのスウェーデン人に言ったら気を悪くして、賛同しないと思うけど、極東のアジア人の僕がスウェーデンに長く暮らして、見て、経験して、感じたところのものは、この映画に描かれた「怖さ」なの。

実は日本人はあまり知らないと思うけど、スウェーデンは同調圧力の国です。しかし、その同調圧力は、日本人の同調圧力と、根っこが根本的に違っていて、同じ同調圧力なのに、こうまで違うか、と十年間で思い知った。で、僕から見ると、スウェーデンのそれは「怖い」同調圧力なの。

おそらく、ある種のスウェーデン人は、日本の同調圧力を見て僕と同じく「怖い」と感じるだろうと思う。よく自分は思うが、二次大戦の時のアメリカ人が、日本の神風特攻隊に対して本能的な恐怖を抱いたのと、同じものがあると思う。

根本的なところが異なっている生物同士というのが出会うと、相手に対する恐怖というのが、まず心理と生理の底の底から湧き上がってくるものだと思うが、その恐怖を極力見えなくすることを「文明」と言うのかしらん、とまで思う。

僕の十年スウェーデン暮らしは、結局、そこはかないけど、はっきりした苦手感覚で終わったのだが、その根底には恐怖があるんだよ。

あー、うまく説明できずもどかしい。でも、オレは「見た」んだよ。で、このミッドサマーという映画を初めて見て、オレ、狂喜したよ。これだよ、これ!って感じ。

スウェーデン人の人、読んでたら気を悪くしないでね。ある意味、これ、お互い様だから。

バカ

大学のころは若くてバカで元気なので、だいぶむちゃをしたが、死んだりしなくてよかったな。

酔っ払って、夜、近所の往来を前転で全速力で縦横無尽に転げ回ったりしたっけなあ。交差点に車が来たら一発で轢かれるもんな。守護霊が守ってくれたのかな。

かくのごとく若者というのはバカで(僕みたいなのは)、そのせいでむちゃで向こう見ずなことをしまくる。でも、そのバカはクリエイティブの源泉になってるのよね。バカじゃないとホントの創造はできません。若いときバカなのはいいんだが、社会に出て、いかに成功するまでの長い期間、そのバカを維持できるかが問題だ。それが有名なStay foolishの意味だ。

カラマーゾフの兄弟の中でも、作者が「分別臭い若者には価値がない」とはっきり言ってるしね。でも、ひょっとして、オレ、それを大学時代に読んで、そっか、分別って悪なんだ、と思ってむちゃしてたのかもな?

オレのむちゃは40になっても治らず、超優良会社(NHK)を47歳で辞めて起業して失敗、4年後にリストラされて、50代でスウェーデン行き。

自分で振り返っても十分にバカで、自分のまわりの人たちにも多大な迷惑をかけ、今に至る。で、クリエイティブだったか、というと、モノはたくさん作ったが、ま、そこそこだった。

さすがに、いま、前期高齢者になっちゃって、バカ度は減ったと思う。

それに、Stay hungry, stay foolishって言葉で歴史的演説をしたスティーブ・ジョブズも、死ぬ前には後悔の言葉を述べたらしいしね。

でも、ひょっとすると、もう一回ぐらい超バカなことするかも(笑

理科系の輩への愚痴

僕は物理を初心者に教えるときにいわゆる比喩を使うのに反対。余計に分からなくなる。

というのは、物理学というのは、もうすでに比喩なのであり、それをまた別の比喩で教えると、比喩の比喩になり、また、教える理科系の輩もさまざまなので、自分勝手な比喩をやたら作り出し、そのせいで比喩の比喩が乱立し、ほぼ収集が付かなくなる。それなのに、それらセンスのない理科系の輩は、自分の一種の創作である比喩を、極めて愉快に楽しそうに初心者に与え、自分で自分の創作に悦に入ってる場合がほとんどだ。イタイってのはこういうときに使う言葉だ。

なんでこういうことが起こるんだろう、って、オレはどうしても考えちゃうよ。

たとえば、で言えば、電気の説明。電気の場合、定番の比喩は「水」を使うことである。ある電圧を持った電池には電位があり、その電位差のあるものを導線でつなぐと電流が流れる。この、電池、電圧、電位、電流、というものを説明するとき、水を使うのは定番中の定番。高いところに水があると、その水は下に向かって流れる。そしていちばん下に行った水をポンプでくみ上げ、また上に持って来る。その上下の中の位置を電位、上と下の距離を電圧といい、流れる水が電流、そしてポンプが電池であり、なんらかの仕事ができるパワーを持ったものである、とかとか説明する。どっか違うかもだけど、まあ、こんなもんだ。違っててもオレは知らん(笑

だいたい、なんで水なんていう取り留めも無い、電気と何の関係もない物質を持ち出すのか。水は高いところから下に流れる、それでよろしい。じゃあ、電池を位置的に逆にして、上をマイナス、下をプラスにしたらどうなるのか。もう、その比喩は破綻するではないか。いや、破綻はしないが、説明に余計なものが入るのは間違いない。なぜそんな問題を無益に大きくするような比喩を持ち出すか、僕にはさっぱり、分からない。

ふつうにマイナスの電荷を帯びた電子が移動するのが電流です、ってなぜ素直に言わないのか。

ここでひとこと言っておくが、この「電子」というのも、現在の物理学が創り出した比喩の一つである。物質というのは比喩なのである。もっともこの話は哲学論争なのでここでは深入りしないが、いま現在では、パチンコ玉みたいな電子がマイナスの電気を持ってて、それが導線の中で、押し合いへし合いしながら電子がプラスに引かれて、そっちに向かって動いている、という説明がいちばん端的な「ネイティブの比喩」だ。

なんで比喩なんて言うかと言うと、実際にどうなっているのか、誰にも永久に分からないからだ。なので、物理比喩の並立・交替は永遠に続く。たとえば、電気現象なら、目に見えない電界磁界という比喩(約束事)を仮定して、マックスウェルの方程式で数学的に規定する、という方が電子の比喩より応用範囲は広い。並立しているのである。ニュートンの万有引力と一般相対論の並立みたいなものだ。これは物理学という学問の性質上、永遠に決着は付かない。

結局、言いたいことは、物理学が比喩の上に成り立っているんだから、相手が小学生であれ何であれ、その「ネイティブ」の比喩(ここでの例では電子)を最初から使って説明した方が、小学生だってぜったいにその方が分かりやすいと思うし、将来のためとも思うのだ。

水の流れと電気の流れは、だって、ルックスからしてぜんぜん違うではないか。電気の流れは目に見えないから、だから目に見える水を使うんだろうが、水には水の性質というものがあるので、じゃあ、豆電球が点いてる導線を氷で冷やせば、凍って豆電球が消えるんですか、ってことになる。いやいや、水はただの比喩ですから、って言うのか。そんな「比喩」なんていう高等なことは、最初からあなたが現象を物理学的に理解しているから出るものであって、何も知らない小学生はそんなことは最初から知らない。だから教えるんでしょうが。

とにかくだ、比喩の比喩を使っていい気になって初心者に説明する理科系の人々は、オレは間違っていると思う、ということでした。

ちなみに、もうひとつ理科系がおかしがちな間違いは、説明の言葉を「優しく」するという手法である。「電気ってのはいったい何なのか、みんなで考えてみよう!」とか言って「いいかい、電気って目に見えないよね? だから君たちのまわりにある物で考えよう」とか言って「水って高いところから下へ流れるよね。ほら、君も川に行ったことがあるだろ? あれって、高いところから低いところへ流れるよね? え、そんなの知ってらい? ごめんごめん、でも先生はね、その川が電気の流れと同じってことを言いたいんだよ。どうだい、これってすごいことだと思わないかい?」

とかとか切りがないが、こういう小学生をバカにするような言動を教師は厳に慎むべきである。教師たる者の第一条件は、相手を下に設定してバカにしてはいけない、ということである。

大人が理解する、そのままの形で、小学生相手でも説明するべきだと思う。ある現象については、小学生では難しくて理解できないかもしれない。でも、その「理解できないモノ」が、現在の真理であれば、無垢な心を持った子供ならば、必ず、それを正しく理解する日が来るはずだ。そういう無垢な子供の心を、自分勝手な稚拙な比喩や、手前勝手な物言いで、汚してはいけないのである。

あー、クソ、だんだん腹が立って来た。なので、これで止め―!

NHK

NHKは僕がかつていたところだが、いまは逆に僕がNHKの下請け的な仕事をしていて、なんだかんだ技術系の部分に関わっている。NHKには、番組制作と放送技術、という二つのぜんぜん異なる分野がある。僕はその後者の技術研究所にいた。

で、前者の番組制作について思ったのだけど、番組を作っている組織というのは、いちばん上にプロデューサー、そしてディレクターがいて、その下にたくさんの人がいて末端(ではないのだが)に役者もいれば使い走りもいる、という様子で、今ではたぶん昔より合理化されたとは思うけど、なんだかんだで、トップのプロデューサは現場にも来るし、ディレクターは必ずいるし、人によってはまだ現場で怒鳴ったりしてるんじゃないだろうか。

で、昨今の世の中での芸能界は、ジャニーズや松本人志に見るように西洋風の浄化に向かっている。でも、これを逆に見ると、日本では、いまだにトップが末端とかかずり合っていて、日本的に一体になったカオス集団を作っていた、とも言えると思う。ちょっと内容が半社会的なので発言を書くのに苦労するが、言いたいことは、昔の番組制作の組織は一種の有機体の塊だった、ということで、それがなんと、今に至るまで維持されている、という風に見えることだ。

その弊害は見ての通りだが、その利点は確実にあるはずだ。それはおそらく番組という作品を作る、創造力と構成力と実現力、といったもろもろのクリエイティブを養う、母胎として機能していたのではないか、ということだと思う。僕はテレビを見ないからホントは知らないんだが、また聞きで、今でもNHKが作品の強い制作力を残している、というのは、そういう事情に支えられていたから、という一面もあると思う。

一方、放送技術の方は、その性質上、合理化がかなり容易で、次々とそれが行われ、いまじゃ、技術研究所の面々は、発案して、仕様を書いて、下に発注して出す仕事がメインになっていて、本人たち、あたかもクリエイティブな上流な仕事をしていると思い込んでいるようだが、出て来るものを見ていると、あまり創造性が感じられない。これは早晩終わるだろうな、という予感しかしない。

で、思ったのが、技術分野は番組制作分野と違って、下請け構造が確立していて、下流の仕事に上流がかかわらなくなっている。よくいうように、「手を動かさない」のである。プランニングと仕様書き。それはたしかにクリエイティブな仕事なのだが、月並みなものしか出て来ない。「末端の仕事の、退屈で苦労ばっかり多い工程を外注して切り離し、その無駄な時間が空いて自由になった時間を、クリエイティブな仕事に回せる」という、よくある論は、僕は完全な間違いだと思う。トリクルダウンに似て嘘ばかりだ。

というわけで、NHKも、番組は評価できるが、技術研究は低迷、ということになり、その理由は、仕事全体の有機的一体感が無くなっているせいかな、と思ったのである。

しかし、これはただし付きで、この事態は恐らく日本であるがゆえであろう。日本人は文化的に、そういう組織が有機化することでクリエイティブマインドを育てたのであって、西洋のように強固なフレームワークだけ作って中の人間を自由にさせるやり方と、根本的に違う。

で、たぶんだけど、これから番組制作現場も技術と同じく合理化が進み、問題は少なくなるだろうが、番組はつまらなくなって行くであろう。まー、オレの言ってることが合ってればね。

オレとしては、別にNHKがつまらなくなって消滅しようと、痛くもかゆくもないから、好きにしたら、と思うだけ。23年もお世話になった古巣に対して、オレもなんとも冷たいな、と思うけど、正直、なんにも愛直、ないのよねえ。そういう性格だからかな?

リアリティ

僕の好きな昭和の俳優は何人もいるけど、特に森雅之とか仲代達也とかはかなりセリフ棒読み的な演技をするタイプだと思う。で、僕は彼らのその不自然な演技がたまらなく、大好きだ。

それで思い出したのだが、昔、自分が若かったころ、日本のテレビドラマとか見ていたのだけど、当時のセリフ回しは、やはりお芝居から来ていたのか、なんだか演技にリアリティを欠いていると思った。

で、そのころようやくハリウッドの映画など英語のドラマをちらほら見はじめ、その普通の生活の中の普通の人々のしゃべり方やしぐさなどの演技が、日本のそれに比べて、すごく自然で滑らかでびっくりしたことがあった。

それに気付くと、なぜ日本のドラマはああまでしゃべりもしぐさも不自然なんだろう、やっぱりアメリカの映画はすごいな、などと思った。

しゃべっているのが英語という外国語であるというのもあるけど、やはりそこには「リアリズム」が強く、僕らがいま現在自分の周りを実際に見て聞いている経験をそのまま映像にする、というリアリティが優先された結果だと思う。

一方、日本のドラマや映画は、そういうリアリティより「形式」を重んじる傾向があって、そのせいでリアリティが減ってしまい、なんだかアメリカ映画に比べて、劣っているように、若い自分には見えていた。加えて、なぜ日本の俳優はなぜあんなに不自然な演技をわざとするんだろう、と不思議で仕方なかった。

いま考えると自分は素朴だったな、と思う(素朴は英語でnaive、そしてnaiveとはバカのことである)

なぜ人は「リアリティ」にかつての僕のようにそこまで驚くのか。昨今の映画やゲームの極度にリアルなコンピュータ・グラフィクスとか、ChatGPTがよこすリアルなしゃべりとか、画像生成AIが作るリアルな画像とか、もう、あれよあれよと進化して、リアリティはいまや極限にまで近づこうとしている。

そして、なぜそのリアリティにそんなに説得力があるか、というと、それは人工物が実物に近づくのは「すごい」という感覚が僕らにあるからだろう。

では、そうだとして、その目指すべき「実物」とは何か。

先に言ったリアリティの多い少ない、で言うと、そこでの「実物」が「物質的存在」であることは間違いないと思える。僕らの心の方が、物質的たしかさを求めているのだ。だから、それに限りなく近いリアルなCGとかリアルな生成AIに驚き、そこに過剰な価値を与えてしまう。と同時に、この世界に存在しない完全な人工物を、神が造った通りに正確に真似て、人間自らの手で作り出した、ということを誇る気持ちがあるからではないのか。

でも本当にそれでいいのか? 

たとえば、その「実物」が、物質的現実の代わりに「浮世絵の世界」であってもいいはずじゃないか。江戸時代であれば、そのときのドラマはほぼ「歌舞伎」になる。自分は、かつて古本屋で「東海道四谷怪談」の脚本を収めたぶ厚い文庫本を買い、すごく気に入って、何度も何度も読んでいたことがあった。そうしたら、自分の心のなかの「現実」が「浮世絵の世界」に成り代わり、そして、まるで浮世絵に登場する、あの不格好で異様な形状をした人間どもが、四谷怪談の台本の上で実際に動いているさまが、はっきりと見えるような気がした。

そのとき、オレは「江戸時代が見えた」と思って、異様な感動を覚えたよ。

この経験に比べれば、人工物が物質的現実に近づくなんて低級な話だ、と思ったよ。しかもだ、超リアルなCGや超リアルな生成AIを作り出すのに、あんたらどれだけ地球上のエネルギーを無駄にしてるんだよ、って思う。あれらを作るのに、莫大な量の石油や核燃料が使われて、かたや世界では食う物も無く死んでゆく人がいる、ってどう考えてもおかしいだろ。

そう思わないのかね欧米のSDGsな人々よ。別にリアルに文句はないが、少しは反省しなさい、って言いたくなる。

思考停止

なんとなく、YouTubeの、日本再生のための会議とか、見ちゃったりするんだよねえ、外国にいると、寂しいせいか。

さっきは安宅さんって人がしきりにアジってた。僕も一時期そういうところに出入りしていたから知っているが、典型的な、六本木界隈に大勢いる知的エリートの、ほがらかさ、明るさ、適度の気安さを持っている人の一人で、しゃべりが面白いし、理解もできるけど、金払ってまで続きを見ようとは思わないな。その動画では、彼は、日本には異人が必要だ、って力説してた。

さいきんオレは小林秀雄の本居宣長を読んでるけど、あんまり分からないながら(ってのは本文に古文が多すぎ)、とても共感するところが多いんだよな。

ああ、古い日本。前にも書いたけど「思考停止」って言葉がオレは大嫌いで、それを聞くと、思考なんていう低級なことはインテリに任せておけ、とか放言したくなる。

思考って、「考える」でしょ。で、考えるの日本語の語源は宣長によれば(たしか)「かむかへる」なの。かむかえるっていうのは迎える、ということ。物について考える、というのは元々は「物を迎えて、それと交わる」という意味だったんだそうだ。こういうのを聞くと、あまりに高級な概念で、心底うっとりする。こういうものに比べたら現代インテリ共の思考なんていうものは低級なもんだ。

そんなバックグラウンドがあって、他人をつかまえて思考停止って偉そうに揶揄するのが大嫌いなんだ。宣長のいう意味での日本古来の「考える」は、宣長から小林秀雄、そしてオレ、と伝わっていて、もう自分には染みついている、と、この本で本居宣長を改めてあれこれ知って思ったな。こんなえらい学者が江戸時代にはいたんだよ。

YouTubeに現れる日本の未来をなんとかしたい人々を否定する気はない。でもさあ、あのアジテートを聞いて「そうだ、そうだ、本当にそのとおりだ!」って気勢を上げるのはオレは真っ平だな。

だから、彼らの言葉をよそに自分は、宣長式に行くことにするよ。ある意味じゃ安宅さんのいう異人になるってことだが、まー、オレの場合は役に立たない異人だな。もうそれでいいや(笑

偉い人のオーラ

何回か話しているが、だいぶ前、なんかわりと由緒正しい賞をたまたまもらって、豪華な授賞式へ行ったことがあった。そこには、当時髭の殿下と呼ばれていた三笠宮家の寛仁さまが列席されて、最初にスピーチした。

そのときすでに病気で声帯を失っていた殿下は電気発声器みたいなものを使って、変な声でしゃべったのだが、最初にそれを冗談めかしてみなを笑わして、それでスピーチを始めた。

終わってから降壇して、花道みたいなところを歩いて、それで式を途中退席して帰って行ったのだけど、僕は一部始終を見ていたが、殿下は、もう、異常なぐらいに濃厚なオーラを纏っていた。あんな人間、初めて見た。なんだか同じ人間に思えない。

というわけで、そういう特別な霊みたいな存在が、そういうふうに我々庶民から見えるとして、その霊をごく自然に敬う、という感覚は、これは日本だけじゃなくてあらゆる民族にあるのだろうなと思う。その霊の存在は、その民族の根底をなしている、と言ってもいいかもしれない。

それで、その霊の存在がいまの殿下の例のように、ある特定の人に集中する場合、まさに民族主義がきれいに成立する。

三島由紀夫の天皇がこれと同じなのよね。三島によれば、彼が通った学校の卒業式に天皇が列席したそうで、その式典の三時間の間、天皇は彫像のように微動だにしなかったそうだ。三島は、そのご立派な姿をどうしても自分の中で否定できないのだ、と言っている。これは、まさに僕が式典で殿下を見たのに通じる。

一方、乱暴な言い方だけど、西洋では、霊は人につかず、そのむこうに神やイエスがいる。オーラを纏った偉大な人は多くいるし、尊敬の対象になるけれど、その本当の霊は、その人の向こう、あるいはその上に、抽象的な形で現存していて、人々が敬うのはそっちの方だ。

スウェーデン暮らし十年で得た印象は、その向こうにいる神の存在が、今はほぼほぼ科学にとって代わられた、ということだった。神の存在は結局証明不能で終わり、いないことになったが、その代わり我々人間の手で独力で産み出した科学がある、と誇らしげに宣言しているように見えた。

これは日本の場合とぜんぜん違う。

で、唐突のようだが、この日本のノリは、ロシアととても近い。いま、プーチンがああいう風に振る舞わないといけない、というのは必然であって、彼は皇帝のように見えていないとダメなのだ。欧米文明に完全に毒されてしまった日本人の大多数は、それをほとんど理解できなくなっている。

まあ、日本の場合、そうして行き場の無くなった霊は、サブカルチャーをはじめ、いろんなところで噴出しているから、別に支障はないのだけどね。コロナの99%マスク現象なんかとてもいい例だったと思う。

異国の食いものの話

僕の住んでたスウェーデンのウィスビーに、スウェーデン人の旦那とロシア人の奥さんの夫婦がいて、ときどき、遊びに行ってた。

で、ロシア人の彼女が作るパンケーキとボルシチが美味しくてねえ。長年に渡って作られた家庭料理ってすごいなあ、って思った。パンケーキは、彼女、毎朝焼いてるんだけど、変哲ないけど絶妙な味と食感がすばらしかった。そしてボルシチはベジタリアンなやつだったけど、野菜だけでこんな風にできるんだ、って感心。この料理、いままでレストランその他でずいぶん食べたけど、彼女のボルシチがいちばん美味しかったな。

一方、ご主人のスウェーデン人の彼は自家製ビール作りが趣味。リビングに改造冷蔵庫が置いてあって、冷蔵庫の中にビールのあの巨大なボンベみたいなのが2本入ってて、側面に開けた穴にビールサーバーの蛇口がついてんの。で、常に冷えた自家製ビールがそこから飲み放題なの。で、このクラフトビールがまたおいしくてねえ、飲み出したら止まらない。飲み放題だしね。

オレはオレで自家製のどぶろくを持って行ったっけ。なじみの無い味なのか、微妙にウケなかったが(笑

あと、そういや、シリアから難民入国でスウェーデンに来た、わりと若い男性の家にお呼ばれしたことがあって、彼がけっこう豪華なシリアの家庭料理のフルコースでもてなしてくれた。シリアでは男性が料理するのかな。で、これがまたまた絶品の家庭料理なのよ。使っているオリーブオイルは取り寄せで、オレ、あんな素晴らしい味のオリーブオイルって、おおむかしギリシャへ行ったとき以来初めてで感動した。数々の料理は、見たことも無いような独特なもので、本当に美味しかった。

あ、あと、やはり中東から来たおばさん連が作ったお菓子を、おすそ分けでもらったことがあって、これがまた旨かった。羊系のなんらかの脂と大量の砂糖で作った、かなりあくどくて劇的に甘いお菓子だったが、食べてて、意識が中東のあの世界にトリップしそうな独特な味で、感動した。

まだあった。あるとき中国人の先生がオレの学科に着任してスウェーデンで一人暮らしを始めた、彼がオレと同じく料理が趣味で、中国料理のすべての材料を通販で取り寄せ家で調理してた。あるとき、彼の家にお呼ばれして、彼が郷土料理をフルで作ってくれた。北方出身で、どこか場所を忘れちゃったけど、その料理がもう、これは、今までのどこでも決して食ったことのない独特な中国料理で、今でも自分の語り草として残っているが、本当に感動的だった。まるで、中国の地方の奥地のお家にお呼ばれして食べているような、そんな料理だった。

オレがスウェーデンに移住して本当に良かった、と思ったのは以上の異国の本場料理を食えたことぐらいかな。

長くなったけど、最後にもうひとつ思い出したのでついでに書いとく。これは僕の中では貴重中の貴重なスウェーデンでの経験で、別に書いた方がいいかもだけど、僕より年配の生粋のスウェーデン人の先生がいて、彼は奥さんが亡くなって一人暮らしなんだが、彼が自宅のディナーに何回か招待してくれた。そこで、ダイニングルームの調度品から食器まで完璧なヨーロピアンな中で、彼自らが調理したイタリア料理のフルコースをふるまってくれた。彼はスウェーデン人だけどイタリアフリークで、毎年フローレンスへ訪れるほどなのである。

それでそのディナーだけど、これは、もう、何をかいわんやで、僕がスウェーデンの十年で高級レストランも含めて食べた西洋料理のなかでも、ダントツに素晴らしかった。美味しいなんてもんじゃなく、スープからデザートまで、すべて絶品だった。彼、なんであんなことができるんだろう。ヨーロッパの趣味人のレベルというのは桁違いだな、と思ったよ。

そしてそのとき特別に抜いてくれた、希少だという年代もののイタリアワインは赤だったけど、あれ以上の赤ワインを、生涯でオレ、飲んだことが無い。ほんのかすかな雑味もないあっさりした清水のような飲み口なのに、深い深い味と香り。この世にこんなすごいワインがあったのか、というほどだった。

とまあ、結局、オレ、昔からだけど、異国文化は食い物から入るのよね。そして、食いものに終始するのかもしれない。