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ロシア文学と戦争

岸田首相が夏休みだかなんかで読書をしようと「カラマーゾフの兄弟」を読み始めたけれど、第一巻で挫折して放り出してしまった、って話、そういえばあったなあ。なんというか、ほほえましい話だな、と思い、笑ってすんだ。

逆に、あの本を読みこなし、なおかつ血肉にしてしまう首相がいたとすると、それはむしろだいぶ危険だと自分は思う。

実は今だから言うが、一年半ほど前の2月、ロシアがウクライナに侵攻した、というニュースを初めて聞いたとき、自分がほとんど反射的に思ったのが、それだった。おそらくプーチンは、岸田首相とは逆で、ドストエフスキーもトルストイも読んで血肉にしているはず。そして、これも彼についてよく言われるけれど、もっといろいろ広範に、ときには過激な書も自分のものにしているはず。

それが予想できただけに、侵攻に踏み切ったのを知り、それだけは踏みとどまって欲しかった、と思ったけど、とき遅し。だから、大国の長が、それこそ、カラマーゾフの兄弟が読みこなせて、さらにそれを我がものにできる教養を持つ、というのはむしろ危険でもある、と僕は思う。ああいう歴史的な著作というのは、時に絶大な暴発を引き起こす危険を内に持っているものなのである。

そんなことを言う理由のひとつは、ほとんど害のない小さな話とはいえ、この自分も、あの小説に過度に影響を受けすぎたせいで、自分自身が収集つかなくなる時があり、よくドストエフスキーの本は悪書なので若者に勧めるな、と言ってたから。もっとも、あの小説は、長過ぎて、くどくて、ロシア人の名前がこんがらがって、そもそも読みこなせないのが幸いしている。でも、それをきちんと読んでしまい、あれに本当にトラップされると実際は危ない、ということを自分は身をもって知っている。

そういえば僕の思い違いでなければ、大昔(たしか)フセインが捕まった直後に、ニュースで、彼が潜伏していた地下の部屋をカメラが映し出した映像が流れたそうで、そこにたしかカラマーゾフの兄弟(罪と罰だったかも)の本が一瞬映ったそうだ。これが思い違いでなければ、彼も、ドストエフスキーを愛読し、自分のものにしていた、ということになり、これは僕には感無量な出来事だ。

日本人が、ドストエフスキーとトルストイという、押しも押されぬ19世紀ロシアの文豪をいまどう理解しているか知らないが、あの二人は、二人とも手が付けられないほどの過激派だと自分は思っている。彼らの小説はその芸術性や多様性のせいで名著として歴史に残っているけれど、その核となる思想は過激で、あれは、正直に言ってしまうと、過度のロシア民族主義がその背景にあり、同時に、欧米文明に対する強烈極まりない批判に貫かれている。

だから、プーチンのような反欧米な国において絶大な権力を持つ人があれを持つと、はなはだしく危険なのである。

一方、日本人のこのウクライナ戦争に対する大方の反応は、まことにおめでたいもので、僕は呆れ果てて見ていた。さすが平和の国の日本だ。三島由紀夫が割腹自殺するはずだ、こんな国、と思った。

しかし、このおめでたい南国的反応は、日本に最後に残ったアドバンテージなので、これはもう絶対に大切にしなければいけない。矛盾して聞こえるだろうけど、寒い国々の謀略がこれまで世界を過度に牛耳って来たがゆえに、世界にはいま「南国」が欠乏している。日本はそれを持つ良い国の一つなので、そこは無くさないように。

ひょっとして地球温暖化って、そのせいで起こってるのかねえ、南国の不足…(笑

能力

知的障害者の人たちがいる施設でコーヒーの自家焙煎と販売をしてて、そこで3種類のコーヒーを買って、家で淹れてみたんだけど、なかなかおいしい。豆の種類でちゃんと味がはっきり変わるし、なに飲んでもあんまり変わらないどこぞのブランドよりよほどいいかも。

彼ら、日がなコーヒー豆を焙煎したり、悪い豆を一粒づつよけたりする、そういう仕事に向いているんだそうだ。

すぐ思い出したけど、そういう彼らが湖でボートに乗って遊んで、その感想文を集めたのを見たことがあって、その中に「ボートが右や左に行っておもしろかったです」という感想があって、けっこうその文にノックアウトされた。

いわゆる健常者の僕が言うとホントに変に聞こえるので困るのだけど、ああ、ボートが右や、左に、曲がっただけで物凄く楽しいんだろうな。きっとオレも5歳児ぐらいのときは、彼らと同じ感動を感じてたんだろうな、と思うと、なんだか今の自分が痛ましい気がしてくる。

同じ無邪気な喜びを得るために、今のオレはなんと紆余曲折したややこしい感覚を追い求めなければ済まないことだろう、と思うと人間の能力ってなんなんだ、って思う。

ちょっとしたホビー工作をするのに、モーターを見てるんだけど、探しても探しても中国製で、日本製で自分が知ってるのって、マブチとタミヤぐらいで、探してみるんだけど、プロ用と子供用の間の製品がごそっと抜けている印象で、逆にその中間の領域の製品は中国製が圧倒的。

で、これまた中国って、こういう、なんか、どーでもいいホビー用ニッチな製品を、よくもまあ、これだけの種類作るなあ、と呆れるレベルで揃っている。もちろん、そのうちの何割かは不良品のゴミで、買うのは賭けに近いんだけど、それにしてもゴミじゃないのもあるわけで、やっぱり品揃えがすごい。

こういうのってさあ、どんな分野にも言えてるんだけど、いわゆる「層が厚い」というやつで、こういうどーでもいい系のモノがふんだんに作れて揃ってる、というのが、その国の文化を支えるもっとも大切なことなのよねえ。

昔の日本はその層の厚さで、たとえば、マンガとかアニメの隆盛に見るような世界レベルのトップ作品の製作能力を支えてたんだけど、たかが工作用モーターで考えすぎかもだけど、こういう経験をすると、日本はもうダメかも、って思っちゃう。日本でいま残ってる層の厚い分野って飲食店ぐらいか?って思ったりする。

いまの何不自由なく育った政治家や官僚には、この層の厚さの重要さを理解する人があまりいないらしく、彼ら、結局、国でトップを張れる層にばかりカネを出して、そういうどーでもいい中間層、しかし実はもっとも大切な層を、丸ごと無視する政策しか打たないしね。

中間の厚い層を国が支援するとしたとき、たとえばどうすればいいかというと実は簡単で、カネで特定のものを支援するんじゃなくて、カネをばらまいてそのままにしておけばいい。植物に水をまくのと同じで、一定量の水を毎日まけばいい。

こんな簡単なことは無いのだが、官僚側から見るとこんな難しい策は無い、という風になってしまうところが問題なんだろうな。というのは、官僚の仕事というのは、まず目的を設定して、施策を立てて、金額を見積り、出せる金を施策に従って与え、その結果を当初の目的と比べて達成度を測る、というサイクルでしか動けないから。

一方、支援しようとする中間層は、基本的に無名で無目的なので、そもそも目的化できない。「カネのばらまき」が官僚の仕事にならないということは、官僚は動かない、ということになる。そのときは今度はカネのばらまきが得意な政治家の出番になるのだが、その政治家がこの「層の厚さの意味」を理解していないとそもそも彼らそのばらまきを思いつきもしないことになる。

そうこうしている間に、空洞化はどんどん進んで、ある点を超えると、そこでその分野は終了するだろうな。現在、空洞化がどれぐらい進んでいるか知らないけど、まー、もうダメっぽいので、あとはまったり暮らしましょ。

中国製買って当たり外れしながら(笑

日本ぎらい

思えば30年前の自分は、日本人を超反省好き民族と思っていて、まー、いま思うとそれは日本式左翼のことだったんだが(朝日とかNHKとか)、日本人は自己反省をし過ぎのバカ民族って、日本人を忌み嫌ってた。

他を批判する秘訣は、自分を棚に上げることだ、というのがそのときの自分の考えで、合理的な批判というのはそれを為す人間が根本的に対象に対して他人事でなくてはならず、それができないと、そもそも批判そのものができなくなる。そうすると、社会は弁証法的に機能せず、必ず低迷停滞する、と考えていた。

この考えは今も変わらずなのだが、昨今の日本のネットでの醜い喧噪を見ていると、こんどは日本人は最近、その自分棚上げ批判を中途半端に覚えたらしく、逆に、合理的思考を使って、他人をあげつらったり攻撃したり貶めてバカにしたり、ということをそこらじゅうでやるようになった。

一神教の神のいない民族が批判という西洋合理主義に基づいた方法論を猿真似すると、ああ、こういう結果になるんだ、って見てて思うわ。だいたいが、見苦しい。

そうなると、こんどは逆に、少しは自己反省というものをしたらどうだ、この糞日本人が、ってなるわけで、まー、オレは40歳になるまで、日本が大嫌いで、日本人は糞だ、という、いわば民族的自己嫌悪にかられた人間で、それは、上に書いたように、左翼的な意味での日本人の劣等性という呪縛のせいで誇りと優等性を持てないように骨抜きにされている同国人を見るのが耐えがたかったかららしいが、今度は現代になると、幼稚な優越感と粗雑極まりない論理を使って自己嫌悪から脱したような顔をしたやつらがそこらじゅうに見えるようになった。

今も昔も日本嫌いなのか、って思うと閉口するが、でも50歳を超えて、自分、ようやく大昔の日本文化を知ってねえ、それでアイデンティティ解決!みたいな単純な人間になった。ああ、よかったよかった。もののあわれの日本人、で、それでOK、みたいな。ここで、もののあわれとは何か、と問うことはバカげたことで、それはすでにそこに「在る」ものだから説明を要しない。それを基に、あとは多くのバリエーションが個性に応じて現れる。それでいいじゃないか、って思うようになった。

ここ最近、澁澤龍彦の「三島由紀夫おぼえがき」という薄っぺらい文庫がどっかから出てきたせいで、ぺらぺらめくっているのだが、本当に、心底、おもしろい。ああいう気品に満ちた知性というのが、いまのこの汚い現代日本にいちばん欠けているようにも見える。

ニヒリズム、そしてデカダンスが日本においては、いったいどのような形を取るか、ということが、いろいろ書かれている。いいなあ。

スタバ青年の哲学講釈

このまえスタバに行ったら、隣のテーブルにいる若者二人のうちの一人が、ひたすら哲学を講釈してた。ソクラテスから始まって、プラトン、ニーチェ、カント、どうの、といろいろ出て来て、すらすらと流暢に解説している。それにしても、おまえよ、いろいろ間違ってるぞ。完全には間違ってないし、うまく説明してはいるけど、おまえが解説しているそれは、哲学じゃねえぞ、どっかに書いてある攻略本の受け売りだろ。

高齢のオレはそう言いたいところだったが、ま、好きにしなはれ。

とはいえ、ここで言っておこう。まず、若い彼、最初にソクラテスの「無知の知」から講釈を始めたが、彼のその説明は表層的過ぎる。

では、ソクラテスの言った無知の知とは何を意味するのか。それは、論理的言語に基づく知の帰結は結局すべて無知に終わってしまう運命にあると言っているのであって、それをその時、ソクラテス自らが気づいたことが大きな事なのだ。で、その結果、彼は多くの知者を敵に回すことになり、そしてそれら知者たちが実は無知であることを明かした彼だけがそれら知者たちより一歩抜きんでた特殊な存在であった、ということをソクラテスは神託を基に悟ったのである。

そしてもしそれが最高の知であったとすると、彼はその空っぽな知の元に自らを犠牲にして、死罪を受け入れて、静かに毒をあおって死ぬわけだが、ああ、空虚な真実のもとに死を受け入れたその最高の高貴さを、間近で見た弟子のプラトンの心はいかばかりであったか。ソクラテスはその最も空虚であると同時に最も貴重なものを自らの死をもって若いプラトンの胸に永久に刻み付けたのだった。

こういう人間劇に精神を動かされることなく、ソクラテスの無知の知だとか、プラトンのイデアだとかを口にしても、それはこれっぽっちも、なんの意味もない。そのソクラテスの思想が西洋哲学史を貫徹し、それがニーチェに否定されるまで続いた、だなんていう、つじつまが合っているだけの、体のいいことしゃべってんじゃねえよ!

と、オレは即座に反応し、スタバなんかに来なきゃよかったよ、って思ったわけだ。

隣のタリーズにしときゃよかったぜ。なんちゃって(笑

しかし、若者はさあ、「哲学が大切だとか言われて読んだけど、ほんっとわけわかんない!」って言っているむかしの若者のころが花だったな。いまは、一部の若者のやつら、哲学どころか、なんだって分かったつもりになってしゃべりやがるからな。ひろゆきやホリエモンや中田敦彦その他もろもろの悪い影響だろうな。

だいたいのところ、哲学には、ある「核」のようなものがあり、それが掴めていないと、論理をいくら深く掘っても無駄だ。そして、その「核」は論理によっては掴めない。そこを察知するのは、一種の哲学的カンや経験による。世に言う天才は、それをすでに学ばずとも持っているものだが、一方、秀才は、長い経験を経て身に付ける人もいるけど、無駄に高IQの人は、論理を追っている間に核を見失ったり、そもそもそれを軽視したりする。したがって、秀才には、ちゃんとした人と、大バカが混在している。で、さて最後に凡人は、これはもういろいろたくさんで、いろんな裾野を形成する。それこそ凡人の方が秀才なんかよりはるかにはるかに哲学を理解していることだってある。

と、まあ、勝手なことを言ってるが、以上は哲学に限らず、なんだってそうだよな。

そしてもうひとつ哲学に必要なのは「しつこさ」である。ではなぜ哲学者といわれる人種はしつこく追及するのか。これは、ちょっと考えれば分かるが、なぜそうなるかというと、それがその人にとってかけがいないほど切実であること、偏執狂的にこれが分からないと世界が終わる、自分も破滅する、と思い詰めていること、自分に真理に見えるものは誰がどう数学的に完全に否定したとしても全無視して自分の真理を信じないと気が済まない性癖、などなど、といったもののせいだ。

つまり、病人なのだ。

現実に沿って普通に生活をすることを旨とする人は、ダメだったらあきらめるか、いいところ迂回ルートを考えるでしょ? それが出来ない病人。

こんなわけで、一般生活を送る一般人にとっては哲学は害毒に違いない。でも害毒になるほどの哲学狂、ってことになると、これは不幸だ。

これが文学だと、それがわりと世間の目にも留まるね。太宰は心中マニアみたいなもんで最後はホントに死んじゃったし、芥川も川端も自殺、三島に至っては人騒がせぶっそう極まりない凄惨な死に様。ああなってしまう人たちを性癖では済ませられないでしょう。それと同じなので、病人、と言うのだ。

ところで、ソクラテスのこの有名な無知の知という日本語は誤訳だ、という説があるらしいのを知った。「無知の知」ではなく「無知の自覚」だとか。

もしこれが、「無知の自覚」だったらこんなに有名な言葉にならず、みなふつうにスルーしそうだ。自分がまだまだ無知であることを自覚しなさい、って、今ではごく普通の処世訓だから。ソクラテスは、ちまたにあふれてた「オレはすべてを理解した」とおごっている知者を次々と論理で粉砕して行った、そうしたら皆に恨まれた、それで死刑宣告された、というなんだかおそろしく平凡な劇になっちゃう(で、すごくありそうなこと)

ところがこれが「無知の知」ってことになっちゃうと、とたんに、無いものが在る、いや、在るものは無い、いや、それじゃおかしいから、そもそも無いや在るという言明がおかしく、万物は生成の途中だ、いや、それもおかしい、と論理が循環する。これは論理というものの宿命であろう。何千年もたって数学者のゲーデルがとどめを刺したが、ギリシャの時代からその宿命は自覚されていたような気がする。

スタバ青年の講釈によれば、ソクラテスは無知の知(自覚)を発見したが、同時に「知」が確実に存在することを知っていた。そして、それを初めて形あるものとして取り出したのがプラトンで、それが「イデア」である、だそうだ。哲学論理的に考えて順当に映る話なので、ここで

「なるほどねえ、若いお人よ、あんたモノが分かってるじゃないの」

と言ってもいいところだが、彼に決定的に欠けているのが、その「知」がソクラテスからプラトンへ譲渡される劇を成就させるために、ソクラテスは自らの死を賭けた、ということについての自覚がまったく欠けているところだろう(などと若者に説教するのは、極めて大人げないのでしないが 笑)

若いお人が言った「ソクラテスのこの原理はニーチェまで続いた」、という説は、おそらくニーチェがソクラテスを初めて完膚なきまでに批判したことから来ているのだろう。ニーチェの批判は、ソクラテスは無知の知という本質的に無意味な論理の構造を、アテネ市民を騙して吹き込んだ。当時のアテネ市民は論理もそこそこに、善いのびのびした「本能」で生きていた。ソクラテスは論理という空虚な武器で、その本能を根絶やしにしようと目論んだ、というところだった。

しかし、ニーチェはニーチェで、当時のアテネ市民の本能が、爛熟を越して堕落していたことも分かっており、それは一掃される運命にあったのだろう、ということも認めており、ソクラテスはその重い重い荷を負わされた悲劇の人、と捉えることもできる。そして、ソクラテスその人は、その心に邪悪な本能を擁していた。それは彼のその醜い容姿を見れば分かる、とニーチェは言うわけだ。

ニーチェその人は、この堕落してソクラテスが抹殺する前の、ギリシャの善きのびのびした本能を、まるでかつて14世紀にイタリアルネサンスが花開いたように、19世紀に花開かせようとして、強引に、ツァラトストラという一大詩を書いて目論んだが、失敗して、狂死した。

ニーチェがどこかでソクラテスに兜を脱ぐ場面がある(見つからないけどどっかの本)

「ああ、ソクラテスよ、ソクラテスよ、それがそなたの秘密であったか、その時代で誰よりも賢明な知を宿した巨人よ」

みたいな文句がある。僕はかつてそれを読んで、ショックを受けた。こういう二つの巨大な魂の交感を「分かる、感じる」ことが哲学であって、それ以外はただの屑に過ぎない、と僕が考えるようになったのもそういう経験からである。

ああ、それにしても、オレはオレで語り出すと、止まらない(笑

しかし自分は自分で、哲学を文学的にとらえ過ぎなんだろうなあ、とは自覚している。

ああ、中国

とある大学で聞いたんだけど、ある中国人の先生が入ってきたら、その人の論文の引用数がその大学で断トツに高く、表彰されたそうだ。で、その人のその年の研究発表リストが大学のホームページに掲載されて、それを見たら、10人ぐらいの中国人研究者が相互リンクして大量に投稿していて、その数が、明らかにほかのふつうの研究者の発表数とバランスが取れていない(1人だけ20倍30倍の発表数)

そうなっちゃうと、論文数がすご―い、って感心するより、かえって中国の信用を失う結果になっているように見える、って言ってたな。僕もなんだかそう思う。その中国人先生も、少しセーブして最低でも自分が筆頭のペーパーだけを自分の大学では公表すればいいのに(もっともそれでも多い)、と思っちゃうな。

僕は、過去に日本に新しい文化を伝来してくれた中国、その昔には孔子が出た中国、仏教と儒教をベースにした高いモラルなど、中国をずっと尊敬してきたのだけど、昨今の中国には閉口することが多い。金と権力とクオリティを極限まで追求する浅ましい亡者に見えることが多くなってしまった。

世界のアカデミアもおそらくかなりの部分、中国人に支配されているんじゃないかと、なんとなく邪推してしまう。

ところで中国といえば、大学生のころ中国料理に魅せられてから、もう40年以上ずっと、作ったり、食ったり、調べたりしている。

僕が好きだったのは、中国料理は、それがいかに絶大な権力を持つ皇帝の料理由来の宮廷料理であっても、そこに消されることなく刻印されている中国庶民の感覚だった。どんなに贅を尽くした高級なものにも必ず付きまとう庶民感覚。それこそが、僕が心に抱き続けた中国文化の尊敬と憧れの対象そのものだった。

それは広大な土地に生きる無数の庶民の群れと、それを統治する絶大な権力の間に共有、共感された文化そのものの姿で、それが中国料理の膨大な世界にいちばんよく表れていると思った。

これは、一神教のもとに人民主導の民主主義というフレームワークに行き着いた西洋圏と鮮やかな対照を成していると思った。そういう意味で、「僕にとって中国料理は別格で、西洋思想と対をなすもの」だったのだ。

昨今の状況を見ていると、この僕が尊敬する中国文化が、だんだん見えなくなりつつある。もし中国が、明示的には毛沢東から始まる唯物論に完全に侵されてしまったとすると、これは恐ろしい。庶民にはいまだに共感されている形而上的な感覚が、権力中枢とエリートたちから遮断されてしまったとすると、おそらく彼らエリートたちは留まることを知らずに突き進むだろうと思う。

ただ、それでも、僕はときどき中国本土を訪れ、そのへんをほっつき歩いて場末で食って飲めば、変わらず執拗に維持された中国庶民感覚にいまも圧倒されるわけで、こういうものが無くなるはずがない、と確信する。

でも、中国上層の人々は、いま、もういちど、孔子や仏教の国だったことを思い出し、その強靭な庶民感覚を上層エリートの世界にもきちんと持ち込んで欲しい。

実は、以上の事情は、日本もほぼまったく同じである点、同じ東洋の国という気がする。

AI生成トレーラーの戦慄

このAIの作ったアルプスの少女ハイジのトレーラーだけど、すでに何十回も見てしまった。しかし、うーむ、これは素晴らしい作品だな。まさに宮崎駿いうところの生命に対する侮辱、そのものだ。

それなのにオレにとってはこれは最大限の賛辞を捧げたくなる代物に映ってしまうわけで、これってこのオレのなんらかの人間的欠陥なような気すら、してくる。

まさに、早く人間になりた~~~い、みたいなもんかもな。

そうだ。まだ人間のいない太古の時代から、生命が死屍累々の果ての恐ろしい努力を積み重ねてきた、その生命の深い深い奥底に沈むドロドロの沼の中から、AIがなにかを掴みだして投げ出しているような印象を受ける。

まさに、AIそのものが、早く人間になりた~~~い、と叫んでいる、その声が聞こえてくるようだ。

これはおそらく、僕がその昔読んでショックを受けた、フロイトの精神分析学入門の中の彼の言葉を想起するからかもしれない。彼は、人間の無意識の底にある得体の知れないエネルギーである「エス」というものについて語っているのである。エスには善悪も時間も空間も無い、という言葉に深い印象を受け、戦慄したものだ。

というのは、僕にはそのエスが認識できるからだ。これはおそらくなんらかの自分の先祖からの遺伝だと思う。そういう問題意識のようなものがどこかにすでにあって、自分はそれを持っているのだと思う。

それにしても、四則演算をでたらめに組み合わせるだけで、そのエスの姿をこうやって白日の下に曝け出すことができるとは、真に驚きだ。

ChatGPTやBardは、すでに人類に抹殺されてしまったので見えなくなったが、AI映像の方はたぶん一般民衆が鈍感なせいで抹殺対象にまったくならなかったのだろうな。

恐ろしいことになったもんだ。

エンジニア

僕は昔からエンジニアと言われるのが大嫌いで、そのせいでわざとエンジニアらしからぬ発言ばかり繰り返すようになり、そのうち板についてしまい、いま(たぶん)林はエンジニアだ、という人はいないと思う。まさに、都大路を狂人の真似だといって走る人は狂人である、ってことで、僕も「オレは金輪際エンジニアじゃないぞ、なぜならこんな狂ったコトを言うからな」ってずっとやっているうちに、すっかり狂人になってしまった。兼好先生はいつもホントに正しい。

さて、昨日だかにオーディオの違いをブラインドテストして分析した人のYouTubeを上げたのだが、彼の別動画を見ると分かように、この人すごい人気である。大量のコメントを見ると、特にエンジニアタイプの人にウケがいい。当然である。あんまり動画を見たくないので、タイトルをざっと見て、数本見たていどだけど、この人の使っている知識はほぼ100年以上前に確立した工学的知識で、さらに、その知識は、ざっと言って50年ほど前にすでに実装においても確立した古いものである。

エンジニアという人々は、そういう古い知識を世の中の役に立つように変換実装する人たちで、彼らのおかげでこの世の中は快適なのである。こうしてブログでエンジニアを微妙にこき下ろしていられるのも彼らのおかげ。しかも、オレ、いま、エンジニア会社からお給料ももらっているわけで(笑)、だから、実はエンジニアに足を向けては寝れないのである。

世の中を快適にするためには、人々はほっと一息つけないといけないでしょう? ということは、その生活に使うべき知識は、十分に確立した古いものじゃないとダメなのである。最低でも50年ぐらいは経ってないとね。だから、エンジニアというのは本質的に「保守」でないといけないという要請があるわけだ。

で、オレはそれが嫌いなので、エンジニアって呼ばれるのがイヤなのだが、とはいえ自分には保守的な部分は十分にある。ただし、その保守たるや100年じゃぜんぜんだめで、500年、千年、あるいはそれ以上をリファレンスとした保守なので、これはもうエンジニアの射程の百年と大違い。それどころか、そういうのは保守とは言わないね。

ま、とにかく、エンジニアと呼ばれるのが嫌いです、という話。なので僕を怒らせたいときは「あんたエンジニアでしょ、しょせん」と言うといいです。きっとむきになって怒ります。

坂口安吾の堕落論を読んで

坂口安吾は実は僕はほとんど読んだことがなく、大昔に読んだ堕落論ぐらいだった。それより、あのゴミ屑だらけの書斎に、厚底丸メガネをかけて悠然と座ってカメラをにらみつけてるあの安吾の、気骨があるけど愚直な感じが印象に残っていただけだった。

あとは、小林秀雄との対談。あれはなかなか面白かった。安吾が小林秀雄をコテンパンに批判した「教祖の文学」というのを発表した直後で、編集部をはじめ周りの人たちは、つかみ合いのケンカでもするんじゃないかとだいぶ気を遣ったらしいが、そんなことはぜんぜん起こらず、安吾は小林に、あの本は小林秀雄の賛美ですよ、世の中の人は分からないんですかね、みたいに言ってた気がする。あのころの対談はだいたい酒を飲みながらで、最後には安吾が明らかにかなり酔っ払ってて、クールな小林を前に、涙を絞り出すように訴えてたっけ。なにをか、っていうとカラマーゾフの兄弟のアリョーシャは宝石だ、奇跡だ、なんだ、かんだ、って言ってたはず。

まあ、とにかく、安吾の、あの、硬い殻のように堅固な気骨と、でたらめでぐにゃぐにゃな率直さを、併せ持った性格が、僕みたいにたいして彼の言葉を聞いてない人間ですら、よく想像される、というわけだ。

今回、あらためて安吾の「堕落論」と「続堕落論」を読んだのでいまこんなことを書いている。青空文庫ですぐ読めるいい時代なのだ。

くだくだ感想は書かないが、読んですぐ、本当に安吾らしい文だ、と思った。安吾の文学ここに極まれりで、書いてあることは文学。そして安吾の文学理解は、僕とまったく同じ。ここでいう文学とは単純なことで、社会の中で個がなにか実践をすると、個ゆえに社会に衝突し、時にさんざんな目に遭う、それを歌うのが文学、ということだ。結論だとか、解決だとかいう低級なものは一切ない。それが文学。そして坂口安吾という人間ほど文学を生きた人も、そうそういない、ということがよくわかる。

そんなむちゃくちゃな生活を送ったためか、安吾は48歳の若さで突然の脳出血で死んでしまう。惜しい人を失くした、だなんて言葉から、もっとも遠い坂口安吾の死。ああ、やっぱりノタレ死んだか、と言われて一向にかまわない、あの文学一徹に生きた、愚直な感じが、すごく親しみに満ちて感じられる。たいした人だ。

堕落論では、日本人は「堕落せよ」というキーワードだけ覚えていた自分だが、おそらく30年ぶりぐらいに、十分に大人になって読み返してみて、ああ、彼のいう堕落とはこういう意味だったか、と納得した。それはさっき書いた文学の原理と同じことで、個がみな持っている心、本当はこうしたい、実はああしたい、こう言ってやりたい、ああしてみたい、ということに、正直になりなさい、ということである。そうするとこれはもう当たり前のように社会の規範と衝突する。そして、その対立や矛盾に苦しむ。で、そうなったら、苦しむだけ苦しみなさい、それしか道は無いのだ、ということである。そういう行為を称して堕落と呼んでいる。

一見、あれ?それが堕落? と思うかもしれないけど、安吾のいう堕落とは、その意味としては、社会規範を破って個が堕ちてゆくことを指し、そしてその実は、個が堕ちることにより生じる社会の混沌を指すのである。逆に個が社会規範に沿って行動すれば、皆は整然と社会の中で様式通りに行動することになり、混沌は生まれない。混沌とは全く逆に、人々は形式化して強固な規範に守られた群れを作る。堕落せよ、とは、そこから外れ、そしてひいてはその既存の規範を壊せ、という意味である。そして、その個が衝突した当の社会規範は、その堕落によってまた姿を変えて蘇る、ということだ。

思うに、この安吾の堕落論の考え方は、西洋圏で言われる個人主義と社会規約の関係と同じに見える。しかし、これは僕の意見だが、これらは決定的に違う。ただ、この話は厄介なので、ここではしない。安吾の堕落論は、実に日本文化的だと思う。日本では、規範と堕落の交替による変化によって、その文化が変化して綿々と続いてきた、ということだ。

そして思うのだが、いわゆる文学の習得は、この個の堕落を通して行うしか方法は無いのではなかろうか。システマティックに教えることができない「何物か」なのではあるまいか。そしてこの「文学」をもうちょっと拡大して「人文」としても、同じようなことが言えるのではあるまいか。

昨今、大学、特に理科系大学でのリベラル・アーツ教育の不足が言われることが多いが、僕はそんな教育をいくら大学でやったところで、おそらく何の役にも立たないと思う。やらないよりマシていどのもので留まるような気がする。人文の核は、システムとして学ぶものではなく、それは個の混乱と混沌から身に付けるのだと思う。

ただ、その混沌(カオス)を最初から否応なしに持たされる若者がたまにいるのは確かで、彼らは辛い若者時代を送るけれど、その人文の核を実に早いうちからしっかり身に付けるはずだ。でも、カオスを極力避ける環境でしか育っていないと、それは無理ってもんだ。大学は昨今、教育システムにおけるカオスを極力排除する方向で設計運営されているので、若者は、学校ではカオスに出会えない。なので外へ出るしかない。

実際、外界はいまだってカオスに満ちている。そこで堕落するんですね。そうすればリベラル・アーツなんていうものは、その後、大人になってひとりでに身に付くもんだ。わざわざ教育の重要性なんか叫ぶ必要もない。

本当は坂口安吾みたいな人が学校に先生としていることが重要なんだが、昨今の教育システムにそういう先生がフィットするかは疑問だね。

ゴッホの過去再現を巡って

この前、アムステルダムのヴァン・ゴッホ美術館へ行って、彼の向日葵の画布に再会して、その前に立ったとき、さすがに全身の毛が逆立つような感覚を覚えたのだけど、それと同時に思ったのが、この絵の色は自分の記憶色とすべて一致していて、これなら来る必要もないな、だった。

そのあと、彼のいろんな絵に再会したが、ぜんぶ、そうだった。すでにその絵画が、ほとんど余すところなくぜんぶ自分の中に移行済みで、本物を必要としない、みたいな感覚を味わった。ゴッホ美術館へはもう行かないと思う。

もちろん、まだ彼の絵の画布でホンモノに出会っていないのはたくさんあるわけで、そちらはそうはいかない。今回も、たった一枚だったけど初めて見た絵があって、すごく長時間その画布の周りをうろうろしてた。名残惜しくてねえ、離れられないのよ。あまりに緑がきれいで。

思い出すな。むかし、ひろしま美術館にあるゴッホの「ドービニーの庭」という絵の、過去再現研究プロジェクトというのがあって、あるとき美術館へ行ったらその成果発表がされていた。で、それを見たあと、そのあまりの出来の悪さに、この件につき、そこらじゅうで口を極めて罵りまくったっけ。

どんなプロジェクトかというと、彼のその絵が油絵具で描かれて130年が経っているわけで、絵具が経年変化して色が変わるでしょう? その経年変化をキャンセルするために、絵具の組成成分分析をして、化学的な知見のもとに経年変化を戻して、130年前に描いたばかりの出来立ての色を再現する、というものだった。

その出来上がった過去再現した画像の出来がひどくてねえ。それを見た自分は、あまりのことに、これはまさに原作の冒涜以外の何物でもない、と怒ったわけだ。まだ自分も若くて血の気も多かったしね。印刷とモニターの両方で見たが、しかし、本当にひどい色だった。見ている自分は他人のやっていることに腹を立てているだけだが、もし、自分がこれを発表する側だったら、穴があったら入りたくなるだろうな、と思ったが、キュレーターとか澄ました顔して現代科学手法を賞賛したりしてる。バカか、こいつは、って思ったっけ。

これ、後日談があってね、この過去再現研究を先導した研究者の人と知り合いだ、という人に出会ったのである。その人は浮世絵の研究者なのだけど、ご存じ、浮世絵の刷りの顔料の色とその経年変化というのは非常に微妙で職人な世界で、それを鑑定するには色に関してかなり鋭い感覚を必要とする。

で、その色に関しての何らかの研究学会でもあったんでしょう、そこでその浮世絵研究者がたまたま、そのゴッホ過去再現の人に出会って、同業者として付き合いがあったらしい。で、その後、その浮世絵の人に聞いたんだけど、彼らが二人で話しているとき、そのゴッホ再現の人がぽつりと「私は化学の材料学の専門で材料のことはよくわかるんですが、実は絵の色についてはぜんぜん分からないんですよ」と、こう言った、というのである。

やはりそうだったか。ゴッホの油絵の色がハナから分からない人が、材料研究の成果を単純に応用して過去再現をしたというわけだ。それじゃあ、あの結果になるはずだ。種を明かせば、きわめてバカバカしい当たり前のことが起こったというだけで、それを聞いて、逆に怒りも失せて、気が抜けたっけ。

ま、結局、何にも知らない科学だけをやってる人が芸術にずかずかと土足で踏み込むな、と言いたくなる。それはほとんど冒涜である、ということぐらい礼儀としてわきまえておいて欲しい。科学者は謙虚に。最近の科学者は傲慢なのが多く、反省した方がいい。

それにしても、では、化学材料にも詳しくて、美術にも詳しい学者なんてそもそもいないだろうから、さまざまな専門家を集めてプロジェクトを組めばよいのだろうか。実際、そのために、この場合も美術館側からはキュレーターがプロジェクトに入っているはずなのだが、その当のキュレーターがあの体たらくで、嘆かわしいことだ。

とはいえ、情状酌量の余地はある。科学者が行った科学分析の結果、機械的に出てきた再現された色が提示されたとき、それがいくら画布の上で調和していなく見えたとしても、それをそのキュレーターがいじって調和を取り繕う、ということは、「キュレーターの主観」が入る操作になる。仮にもヴィンセント・ヴァン・ゴッホという世紀の大画家の色の調和に関する感覚を、ただのいちキュレーターが修正することを意味する。そんなことはとてもできない、という気持ちは分かる。

もし、僕がそのプロジェクトにいて、出てきた絵に「これは違う!」と感じたとしても、じゃあ、それをどうすればいいですか、と言われたらかなり困惑するだろう。

ということは、結局、この130年前の色再現というプロジェクトそのものに大問題が潜んでいることがはっきりした、という結果になったはずだ。そして、その事態を、プロジェクトの最初から予見するのはすごく難しいことで、仕方ないとも思う。それで、その大問題が分かった時点で、どうしよう、となったとき、多額の金と時間と労力を使ったプロジェクトなわけなので、当のキュレーターが、仕方なしに

「これまで知ることのできなかった生きていたゴッホの本当の色彩感覚が、こうして科学の力で明らかになるというのは素晴らしいことだと思います」

などと公けの場で言ってしまう、というのも分からぬでもない。公けでは表面上、そういう体裁のいいことを言いながら、その内実では、以上に書いたような問題をキュレーターをはじめプロジェクトの面々が内心で共有していれば、今回のそれは次回の課題として取り組んでください、と大人の対応をしてもいいかもしれない。

で、このあとは僕の勝手な邪推だが、たぶん、そういうことあまり誰も分かってなかったんじゃないだろうか。なぜって、なにも分かっていないような言葉、顔つき、しゃべり方だったから。若かった自分は、それを見て、少しはすまなそうな顔しろよ! みたいにたいそう腹を立て、文化が病んでいる、と断定したのを思い出す。

さて、辛辣な言葉ばかり続けてしまったが、僕も科学分野の端くれにいるので、科学者的な立場でコメントをしておこう。最初に今回のその方法についてである。

この油絵具の経年変化のキャンセルの方法だが、まず、ゴッホの使った油絵を成分分析することから始める。相手が歴史的価値を持つものであり、試料を取るわけにはいかないので、非破壊分析を使う。可視光やらX線やらを使って光学測定器で分光特性をあれこれと取って、それによって使われている絵具の化学組成を分析し、特定する。その後、その成分の中で経年変化の分かっているものについて、その変化量を過去のデータを使って推定する。それで130年分さかのぼり、この絵のここに塗られたこの絵具の当初の組成はこうであっただろうと推定し、色見本を出す。

これを絵の全体にわたって繰り返すわけだが、差し渡し1メートルある絵のすべてにわたってそれを行うのは難しく、塗られた要所要所の絵具について、その推定を行い、修正をかける。たしか、特に、白の絵具、そしてピンクの絵具、ライラック色の絵具あたりを中心に調べ、再現を図ったはず。

で、そうするとどうなるかというと、絵の全面に渡ってそれを行うわけではなく、要所要所に塗られた絵具だけを修正して、他はそのまま、ということになるので、そこで色の調和が崩れるのである。修正しない部分については経年変化が少ない絵具を使った、という判断もあっただろうが、それを確定させるにはデータが少なすぎる。

結果、原画の上に取って付けたように鮮やかな白や赤や青が塗られたような状態になり、ピエロかなんかの厚化粧みたいな様相を呈した画像が出て来てしまう。それはそれはひどい出来だった。

そしてここにはもう一つ大問題があって、そもそも、印刷でもモニターでも現在の画布の原画の色すら、まったくきちんと再現されていないのである。そもそもめちゃくちゃな色で出てくる印刷やデジタルデータをさらに厚化粧したみたいなもので、破壊的にひどい結果になるのは明らかである。

では、その科学者はどうしたらよかったか。

いちばんいいのは、こんなことは最初からしないことだ。でも、したい気持ちは分かるし、科学のターゲットの選定に原則として倫理も善悪も関係ない。科学者はやってみたいからやるわけで、それがどんな結果になろうと、全体として科学の進歩に寄与すればいい、というのは科学のいちばん基本的な戦術である。なので、理解はできる。でも、それをやった後、もし難しい問題が持ち上がったことが分かったら、それを正直に述べることはどうしても必要であろう。しかし、このように本人に絵画が分かっていない場合、それは無理なのである。となるとキュレーターの責任だろうか。そのように責任分界点を定めるのが順当かもしれないが、僕はそう思わない。

しかし僕は、出てきた推定絵画の質について科学者にも責があると考える。それは、なぜか。

科学的に言うと、まず、絵具の経年変化は物理的事実で、組成が分かればあるていどは予見できる。しかし、130年の年月ということになると、科学的に正確に推定するのは困難で、その130年の間にその画布に何が起こったか分かっていないと無理な道理である。仮に分かっていても困難なのは目に見えている。どんな温度と湿度の環境で、どんな扱いを受け、どんな修復がなされ、それがいつどこでどのように、と言い始めると、不可能と言ってしまって構わない。

そんなとき科学はどうするかというと、それらの条件を人為的に固定して、つまり仮定して(通常は単純化する)、その仮定に基づいて分析して結果を出す。で、「その仮定の元ではこうであったはずだ」と結論する。でもその仮定は事実と反しているかもしれない、というか、かならず事実と反していると言い切れる。そこに「仮定」という、当の科学者の「人為」が入るからである。

それから、このような測定を伴う科学的実験プロセスには実際にはコントロールされるべきパラメータがたくさんあり、科学者はそれをいじって望みの結果を出す。そのコントロールは当の絵画に関係ない化学実験に伴う操作に過ぎないと言うかもしれない。しかし、そうであったとしても、それが人為であることは間違いない。ただ、それが最終結果にどう影響するか当人が分かっていないというだけである。

科学は客観性が売りだが、実は科学には「完全なる客観性」というのはありえない。原理的に不可能である。そういう基本的な科学の意味を、今の現代人はほとんど忘れ果てている。素人が知らないのは仕方ないけれど、プロの科学者でも分かっていない人が大半、という嘆かわしい状況なのが現代という時代だと思う。

それから、最終的に出てきたゴッホの修正絵画が果たして、彼が130年前に塗ったものに近いのか、あるいは僕が感じたようにでたらめに近いものだったか、というのは明らかに絵画芸術に対する価値判断を含んでおり、それがいいか悪いかを判定する絶対的基準というのは無いし、これは往々に非常に難しい問題である。したがって、この科学者にも、キュレーターにも、責を負わせるのは酷で、そもそも正解がはっきりしないものを扱っているわけだから、断罪するのはおかしいという意見が、この客観主義と相対判断が幅を利かせた現代では必ず、出る。

しかし、僕はそれも拒否する。では、結局、なにがいいたいのか。

科学者が絵具の推定をする際に、さっき説明したようにそこに自身の人為的仮定を持ち込む。そしてその「主観」は、当の科学者の判断に任せられる。で、それを任されたそのときに、その科学者に、対象に対する「愛」が必要となるのである。その愛が無い状態だと、科学分析というのはいくらでも無制限に悪用することができる道具になりえる。

結局、この科学者には、そしておそらくキュレーターにすら、ゴッホが130年前に描いたこのドービニーの庭という画布に対する愛が端的に無かった、というのが結末だと思う。科学者が愛したのは絵具の化学組成だけであり、キュレーターが愛したのは名声と自己実現手段としての画布と画家への執着だけだったのだろう。

この問題は大きな問題で、実は、対象に対する「愛のない科学者」と「愛のある美術専門家」が組んで解決するような生易しいものではない。なので、結論的に言うと、科学も芸術も両方が分かって、両方に愛を持っている一人の人間が、どうしても必要になるということでは、なかろうか。