未分類」カテゴリーアーカイブ

エンジニア

僕は昔からエンジニアと言われるのが大嫌いで、そのせいでわざとエンジニアらしからぬ発言ばかり繰り返すようになり、そのうち板についてしまい、いま(たぶん)林はエンジニアだ、という人はいないと思う。まさに、都大路を狂人の真似だといって走る人は狂人である、ってことで、僕も「オレは金輪際エンジニアじゃないぞ、なぜならこんな狂ったコトを言うからな」ってずっとやっているうちに、すっかり狂人になってしまった。兼好先生はいつもホントに正しい。

さて、昨日だかにオーディオの違いをブラインドテストして分析した人のYouTubeを上げたのだが、彼の別動画を見ると分かように、この人すごい人気である。大量のコメントを見ると、特にエンジニアタイプの人にウケがいい。当然である。あんまり動画を見たくないので、タイトルをざっと見て、数本見たていどだけど、この人の使っている知識はほぼ100年以上前に確立した工学的知識で、さらに、その知識は、ざっと言って50年ほど前にすでに実装においても確立した古いものである。

エンジニアという人々は、そういう古い知識を世の中の役に立つように変換実装する人たちで、彼らのおかげでこの世の中は快適なのである。こうしてブログでエンジニアを微妙にこき下ろしていられるのも彼らのおかげ。しかも、オレ、いま、エンジニア会社からお給料ももらっているわけで(笑)、だから、実はエンジニアに足を向けては寝れないのである。

世の中を快適にするためには、人々はほっと一息つけないといけないでしょう? ということは、その生活に使うべき知識は、十分に確立した古いものじゃないとダメなのである。最低でも50年ぐらいは経ってないとね。だから、エンジニアというのは本質的に「保守」でないといけないという要請があるわけだ。

で、オレはそれが嫌いなので、エンジニアって呼ばれるのがイヤなのだが、とはいえ自分には保守的な部分は十分にある。ただし、その保守たるや100年じゃぜんぜんだめで、500年、千年、あるいはそれ以上をリファレンスとした保守なので、これはもうエンジニアの射程の百年と大違い。それどころか、そういうのは保守とは言わないね。

ま、とにかく、エンジニアと呼ばれるのが嫌いです、という話。なので僕を怒らせたいときは「あんたエンジニアでしょ、しょせん」と言うといいです。きっとむきになって怒ります。

坂口安吾の堕落論を読んで

坂口安吾は実は僕はほとんど読んだことがなく、大昔に読んだ堕落論ぐらいだった。それより、あのゴミ屑だらけの書斎に、厚底丸メガネをかけて悠然と座ってカメラをにらみつけてるあの安吾の、気骨があるけど愚直な感じが印象に残っていただけだった。

あとは、小林秀雄との対談。あれはなかなか面白かった。安吾が小林秀雄をコテンパンに批判した「教祖の文学」というのを発表した直後で、編集部をはじめ周りの人たちは、つかみ合いのケンカでもするんじゃないかとだいぶ気を遣ったらしいが、そんなことはぜんぜん起こらず、安吾は小林に、あの本は小林秀雄の賛美ですよ、世の中の人は分からないんですかね、みたいに言ってた気がする。あのころの対談はだいたい酒を飲みながらで、最後には安吾が明らかにかなり酔っ払ってて、クールな小林を前に、涙を絞り出すように訴えてたっけ。なにをか、っていうとカラマーゾフの兄弟のアリョーシャは宝石だ、奇跡だ、なんだ、かんだ、って言ってたはず。

まあ、とにかく、安吾の、あの、硬い殻のように堅固な気骨と、でたらめでぐにゃぐにゃな率直さを、併せ持った性格が、僕みたいにたいして彼の言葉を聞いてない人間ですら、よく想像される、というわけだ。

今回、あらためて安吾の「堕落論」と「続堕落論」を読んだのでいまこんなことを書いている。青空文庫ですぐ読めるいい時代なのだ。

くだくだ感想は書かないが、読んですぐ、本当に安吾らしい文だ、と思った。安吾の文学ここに極まれりで、書いてあることは文学。そして安吾の文学理解は、僕とまったく同じ。ここでいう文学とは単純なことで、社会の中で個がなにか実践をすると、個ゆえに社会に衝突し、時にさんざんな目に遭う、それを歌うのが文学、ということだ。結論だとか、解決だとかいう低級なものは一切ない。それが文学。そして坂口安吾という人間ほど文学を生きた人も、そうそういない、ということがよくわかる。

そんなむちゃくちゃな生活を送ったためか、安吾は48歳の若さで突然の脳出血で死んでしまう。惜しい人を失くした、だなんて言葉から、もっとも遠い坂口安吾の死。ああ、やっぱりノタレ死んだか、と言われて一向にかまわない、あの文学一徹に生きた、愚着な感じが、すごく親しみに満ちて感じられる。たいした人だ。

堕落論では、日本人は「堕落せよ」というキーワードだけ覚えていた自分だが、おそらく30年ぶりぐらいに、十分に大人になって読み返してみて、ああ、彼のいう堕落とはこういう意味だったか、と納得した。それはさっき書いた文学の原理と同じことで、個がみな持っている心、本当はこうしたい、実はああしたい、こう言ってやりたい、ああしてみたい、ということに、正直になりなさい、ということである。そうするとこれはもう当たり前のように社会の規範と衝突する。そして、その対立や矛盾に苦しむ。で、そうなったら、苦しむだけ苦しみなさい、それしか道は無いのだ、ということである。そういう行為を称して堕落と呼んでいる。

一見、あれ?それが堕落? と思うかもしれないけど、安吾のいう堕落とは、その意味としては、社会規範を破って個が堕ちてゆくことを指し、そしてその実は、個が堕ちることにより生じる社会の混沌を指すのである。逆に個が社会規範に沿って行動すれば、皆は整然と社会の中で様式通りに行動することになり、混沌は生まれない。混沌とは全く逆に、人々は形式化して強固な規範に守られた群れを作る。堕落せよ、とは、そこから外れ、そしてひいてはその既存の規範を壊せ、という意味である。そして、その個が衝突した当の社会規範は、その堕落によってまた姿を変えて蘇る、ということだ。

思うに、この安吾の堕落論の考え方は、西洋圏で言われる個人主義と社会規約の関係と同じに見える。しかし、これは僕の意見だが、これらは決定的に違う。ただ、この話は厄介なので、ここではしない。安吾の堕落論は、実に日本文化的だと思う。日本では、規範と堕落の交替による変化によって、その文化が変化して綿々と続いてきた、ということだ。

そして思うのだが、いわゆる文学の習得は、この個の堕落を通して行うしか方法は無いのではなかろうか。システマティックに教えることができない「何物か」なのではあるまいか。そしてこの「文学」をもうちょっと拡大して「人文」としても、同じようなことが言えるのではあるまいか。

昨今、大学、特に理科系大学でのリベラル・アーツ教育の不足が言われることが多いが、僕はそんな教育をいくら大学でやったところで、おそらく何の役にも立たないと思う。やらないよりマシていどのもので留まるような気がする。人文の核は、システムとして学ぶものではなく、それは個の混乱と混沌から身に付けるのだと思う。

ただ、その混沌(カオス)を最初から否応なしに持たされる若者がたまにいるのは確かで、彼らは辛い若者時代を送るけれど、その人文の核を実に早いうちからしっかり身に付けるはずだ。でも、カオスを極力避ける環境でしか育っていないと、それは無理ってもんだ。大学は昨今、教育システムにおけるカオスを極力排除する方向で設計運営されているので、若者は、学校ではカオスに出会えない。なので外へ出るしかない。

実際、外界はいまだってカオスに満ちている。そこで堕落するんですね。そうすればリベラル・アーツなんていうものは、その後、大人になってひとりでに身に付くもんだ。わざわざ教育の重要性なんか叫ぶ必要もない。

本当は坂口安吾みたいな人が学校に先生としていることが重要なんだが、昨今の教育システムにそういう先生がフィットするかは疑問だね。

ゴッホの過去再現を巡って

この前、アムステルダムのヴァン・ゴッホ美術館へ行って、彼の向日葵の画布に再会して、その前に立ったとき、さすがに全身の毛が逆立つような感覚を覚えたのだけど、それと同時に思ったのが、この絵の色は自分の記憶色とすべて一致していて、これなら来る必要もないな、だった。

そのあと、彼のいろんな絵に再会したが、ぜんぶ、そうだった。すでにその絵画が、ほとんど余すところなくぜんぶ自分の中に移行済みで、本物を必要としない、みたいな感覚を味わった。ゴッホ美術館へはもう行かないと思う。

もちろん、まだ彼の絵の画布でホンモノに出会っていないのはたくさんあるわけで、そちらはそうはいかない。今回も、たった一枚だったけど初めて見た絵があって、すごく長時間その画布の周りをうろうろしてた。名残惜しくてねえ、離れられないのよ。あまりに緑がきれいで。

思い出すな。むかし、ひろしま美術館にあるゴッホの「ドービニーの庭」という絵の、過去再現研究プロジェクトというのがあって、あるとき美術館へ行ったらその成果発表がされていた。で、それを見たあと、そのあまりの出来の悪さに、この件につき、そこらじゅうで口を極めて罵りまくったっけ。

どんなプロジェクトかというと、彼のその絵が油絵具で描かれて130年が経っているわけで、絵具が経年変化して色が変わるでしょう? その経年変化をキャンセルするために、絵具の組成成分分析をして、化学的な知見のもとに経年変化を戻して、130年前に描いたばかりの出来立ての色を再現する、というものだった。

その出来上がった過去再現した画像の出来がひどくてねえ。それを見た自分は、あまりのことに、これはまさに原作の冒涜以外の何物でもない、と怒ったわけだ。まだ自分も若くて血の気も多かったしね。印刷とモニターの両方で見たが、しかし、本当にひどい色だった。見ている自分は他人のやっていることに腹を立てているだけだが、もし、自分がこれを発表する側だったら、穴があったら入りたくなるだろうな、と思ったが、キュレーターとか澄ました顔して現代科学手法を賞賛したりしてる。バカか、こいつは、って思ったっけ。

これ、後日談があってね、この過去再現研究を先導した研究者の人と知り合いだ、という人に出会ったのである。その人は浮世絵の研究者なのだけど、ご存じ、浮世絵の刷りの顔料の色とその経年変化というのは非常に微妙で職人な世界で、それを鑑定するには色に関してかなり鋭い感覚を必要とする。

で、その色に関しての何らかの研究学会でもあったんでしょう、そこでその浮世絵研究者がたまたま、そのゴッホ過去再現の人に出会って、同業者として付き合いがあったらしい。で、その後、その浮世絵の人に聞いたんだけど、彼らが二人で話しているとき、そのゴッホ再現の人がぽつりと「私は化学の材料学の専門で材料のことはよくわかるんですが、実は絵の色についてはぜんぜん分からないんですよ」と、こう言った、というのである。

やはりそうだったか。ゴッホの油絵の色がハナから分からない人が、材料研究の成果を単純に応用して過去再現をしたというわけだ。それじゃあ、あの結果になるはずだ。種を明かせば、きわめてバカバカしい当たり前のことが起こったというだけで、それを聞いて、逆に怒りも失せて、気が抜けたっけ。

ま、結局、何にも知らない科学だけをやってる人が芸術にずかずかと土足で踏み込むな、と言いたくなる。それはほとんど冒涜である、ということぐらい礼儀としてわきまえておいて欲しい。科学者は謙虚に。最近の科学者は傲慢なのが多く、反省した方がいい。

それにしても、では、化学材料にも詳しくて、美術にも詳しい学者なんてそもそもいないだろうから、さまざまな専門家を集めてプロジェクトを組めばよいのだろうか。実際、そのために、この場合も美術館側からはキュレーターがプロジェクトに入っているはずなのだが、その当のキュレーターがあの体たらくで、嘆かわしいことだ。

とはいえ、情状酌量の余地はある。科学者が行った科学分析の結果、機械的に出てきた再現された色が提示されたとき、それがいくら画布の上で調和していなく見えたとしても、それをそのキュレーターがいじって調和を取り繕う、ということは、「キュレーターの主観」が入る操作になる。仮にもヴィンセント・ヴァン・ゴッホという世紀の大画家の色の調和に関する感覚を、ただのいちキュレーターが修正することを意味する。そんなことはとてもできない、という気持ちは分かる。

もし、僕がそのプロジェクトにいて、出てきた絵に「これは違う!」と感じたとしても、じゃあ、それをどうすればいいですか、と言われたらかなり困惑するだろう。

ということは、結局、この130年前の色再現というプロジェクトそのものに大問題が潜んでいることがはっきりした、という結果になったはずだ。そして、その事態を、プロジェクトの最初から予見するのはすごく難しいことで、仕方ないとも思う。それで、その大問題が分かった時点で、どうしよう、となったとき、多額の金と時間と労力を使ったプロジェクトなわけなので、当のキュレーターが、仕方なしに

「これまで知ることのできなかった生きていたゴッホの本当の色彩感覚が、こうして科学の力で明らかになるというのは素晴らしいことだと思います」

などと公けの場で言ってしまう、というのも分からぬでもない。公けでは表面上、そういう体裁のいいことを言いながら、その内実では、以上に書いたような問題をキュレーターをはじめプロジェクトの面々が内心で共有していれば、今回のそれは次回の課題として取り組んでください、と大人の対応をしてもいいかもしれない。

で、このあとは僕の勝手な邪推だが、たぶん、そういうことあまり誰も分かってなかったんじゃないだろうか。なぜって、なにも分かっていないような言葉、顔つき、しゃべり方だったから。若かった自分は、それを見て、少しはすまなそうな顔しろよ! みたいにたいそう腹を立て、文化が病んでいる、と断定したのを思い出す。

さて、辛辣な言葉ばかり続けてしまったが、僕も科学分野の端くれにいるので、科学者的な立場でコメントをしておこう。最初に今回のその方法についてである。

この油絵具の経年変化のキャンセルの方法だが、まず、ゴッホの使った油絵を成分分析することから始める。相手が歴史的価値を持つものであり、試料を取るわけにはいかないので、非破壊分析を使う。可視光やらX線やらを使って光学測定器で分光特性をあれこれと取って、それによって使われている絵具の化学組成を分析し、特定する。その後、その成分の中で経年変化の分かっているものについて、その変化量を過去のデータを使って推定する。それで130年分さかのぼり、この絵のここに塗られたこの絵具の当初の組成はこうであっただろうと推定し、色見本を出す。

これを絵の全体にわたって繰り返すわけだが、差し渡し1メートルある絵のすべてにわたってそれを行うのは難しく、塗られた要所要所の絵具について、その推定を行い、修正をかける。たしか、特に、白の絵具、そしてピンクの絵具、ライラック色の絵具あたりを中心に調べ、再現を図ったはず。

で、そうするとどうなるかというと、絵の全面に渡ってそれを行うわけではなく、要所要所に塗られた絵具だけを修正して、他はそのまま、ということになるので、そこで色の調和が崩れるのである。修正しない部分については経年変化が少ない絵具を使った、という判断もあっただろうが、それを確定させるにはデータが少なすぎる。

結果、原画の上に取って付けたように鮮やかな白や赤や青が塗られたような状態になり、ピエロかなんかの厚化粧みたいな様相を呈した画像が出て来てしまう。それはそれはひどい出来だった。

そしてここにはもう一つ大問題があって、そもそも、印刷でもモニターでも現在の画布の原画の色すら、まったくきちんと再現されていないのである。そもそもめちゃくちゃな色で出てくる印刷やデジタルデータをさらに厚化粧したみたいなもので、破壊的にひどい結果になるのは明らかである。

では、その科学者はどうしたらよかったか。

いちばんいいのは、こんなことは最初からしないことだ。でも、したい気持ちは分かるし、科学のターゲットの選定に原則として倫理も善悪も関係ない。科学者はやってみたいからやるわけで、それがどんな結果になろうと、全体として科学の進歩に寄与すればいい、というのは科学のいちばん基本的な戦術である。なので、理解はできる。でも、それをやった後、もし難しい問題が持ち上がったことが分かったら、それを正直に述べることはどうしても必要であろう。しかし、このように本人に絵画が分かっていない場合、それは無理なのである。となるとキュレーターの責任だろうか。そのように責任分界点を定めるのが順当かもしれないが、僕はそう思わない。

しかし僕は、出てきた推定絵画の質について科学者にも責があると考える。それは、なぜか。

科学的に言うと、まず、絵具の経年変化は物理的事実で、組成が分かればあるていどは予見できる。しかし、130年の年月ということになると、科学的に正確に推定するのは困難で、その130年の間にその画布に何が起こったか分かっていないと無理な道理である。仮に分かっていても困難なのは目に見えている。どんな温度と湿度の環境で、どんな扱いを受け、どんな修復がなされ、それがいつどこでどのように、と言い始めると、不可能と言ってしまって構わない。

そんなとき科学はどうするかというと、それらの条件を人為的に固定して、つまり仮定して(通常は単純化する)、その仮定に基づいて分析して結果を出す。で、「その仮定の元ではこうであったはずだ」と結論する。でもその仮定は事実と反しているかもしれない、というか、かならず事実と反していると言い切れる。そこに「仮定」という、当の科学者の「人為」が入るからである。

それから、このような測定を伴う科学的実験プロセスには実際にはコントロールされるべきパラメータがたくさんあり、科学者はそれをいじって望みの結果を出す。そのコントロールは当の絵画に関係ない化学実験に伴う操作に過ぎないと言うかもしれない。しかし、そうであったとしても、それが人為であることは間違いない。ただ、それが最終結果にどう影響するか当人が分かっていないというだけである。

科学は客観性が売りだが、実は科学には「完全なる客観性」というのはありえない。原理的に不可能である。そういう基本的な科学の意味を、今の現代人はほとんど忘れ果てている。素人が知らないのは仕方ないけれど、プロの科学者でも分かっていない人が大半、という嘆かわしい状況なのが現代という時代だと思う。

それから、最終的に出てきたゴッホの修正絵画が果たして、彼が130年前に塗ったものに近いのか、あるいは僕が感じたようにでたらめに近いものだったか、というのは明らかに絵画芸術に対する価値判断を含んでおり、それがいいか悪いかを判定する絶対的基準というのは無いし、これは往々に非常に難しい問題である。したがって、この科学者にも、キュレーターにも、責を負わせるのは酷で、そもそも正解がはっきりしないものを扱っているわけだから、断罪するのはおかしいという意見が、この客観主義と相対判断が幅を利かせた現代では必ず、出る。

しかし、僕はそれも拒否する。では、結局、なにがいいたいのか。

科学者が絵具の推定をする際に、さっき説明したようにそこに自身の人為的仮定を持ち込む。そしてその「主観」は、当の科学者の判断に任せられる。で、それを任されたそのときに、その科学者に、対象に対する「愛」が必要となるのである。その愛が無い状態だと、科学分析というのはいくらでも無制限に悪用することができる道具になりえる。

結局、この科学者には、そしておそらくキュレーターにすら、ゴッホが130年前に描いたこのドービニーの庭という画布に対する愛が端的に無かった、というのが結末だと思う。科学者が愛したのは絵具の化学組成だけであり、キュレーターが愛したのは名声と自己実現手段としての画布と画家への執着だけだったのだろう。

この問題は大きな問題で、実は、対象に対する「愛のない科学者」と「愛のある美術専門家」が組んで解決するような生易しいものではない。なので、結論的に言うと、科学も芸術も両方が分かって、両方に愛を持っている一人の人間が、どうしても必要になるということでは、なかろうか。

スウェーデンと日本

YouTubeを見ていたら、政治ジャーナリストのおじさんが、「いまの日本では、50代以上がやっぱり日本すげえなんですよ」と言っていた。「もう日本はとっくに手遅れなのに、50代以上はやっぱ日本すげえなんですよ。それで、約5000万人ぐらいが日本すげえグループにいるんですよ」、だそうだ。それを聞いて思わず大笑いしてしまった。僕はいま63歳だけど、そういうヤバい世代のど真ん中な人間なんだね。

僕も実際、日本はいろんな意味でことごとく終わってる、と確かに考えてはいるが、一方では実は、自分、日本はまだ大丈夫と思っていて、それはこの、恐ろしく能天気な島国根性丸出しの百姓気質が、本当にだめになったときに吉に転ぶと、わりと信じているからなのである。そういう意味で63歳の自分も、日本すげえの一員なのかもなあ、と思い、なんだか恥ずかしくなった(笑

ただ、吉に転ぶなんて言っているが、どのように吉なのかは皆目わからない。でも、まあ、大丈夫だよ。国破れて山河在りでなんとかなる。南国だからね。スウェーデンに十年いて、日本が南国なのがよく分かった。それでもダメなら、きっと神風が吹くでしょう。

これで終わらそうと思ったが、もうちょっと書くことにするか。

日本は「恐ろしく能天気な島国根性丸出しの百姓気質」と、めちゃくちゃなことを書いた。で、「だから大丈夫じゃない?」と根拠のないことも書いた。

僕はスウェーデンですでに十年間、仕事して生活したのだけど、それで分かったのは、スウェーデンは恐ろしく「ちゃんとした」国だ、ということだった。仕事上においてはボスも含めてめいめい全員が完全に平等で、それを前提として皆がふるまい、行動し、それがひいては政治と国民の関係に至るまで、きちん整然と整備されていて、ちゃんと信頼関係をベースにして結びついている。

そして、それが、ぜんぶめいめいの「良識」によって成立しているところが凄い。そういう良識を持ったレベルの高いめいめいの人が多くいれば、それが自然と信頼関係の基礎になって、ストレスなく全体をガバナンスできる。

上から押し付けてそうさせるわけでは決して無く、かといって下々の人々が相互に注意しながら一生懸命維持するのでもない。要所要所では厳しいが、基本はリラックスしていて、むしろかなりルーズな運営の仕方をする。そのせいで、必ず問題は起こる。めいめいのレベルが高いと言ったって、利害関係はもちろんあるし、エゴもあるし、中には悪いヤツもいる。だから問題はやはり常に起こっている。しかし、それへの対処の仕方が決して極端に振れることがない。というのは、根本の規範そのものがすごくしっかりしていて、対処は、その枠の中で柔軟に行われるので、対処の結果に未来が振り回されるようなことは決して起こらないし、その規範が揺らぐこともない。

言ってみれば、憲法的なものは決して動かないが、法律は常に現状に合わせて変化している、そんな感じ。大きな重要な規範が人々に共有されているので、その下の法律やルールは常に破られ、常に更新されている。だから人は規則には縛られない。規則にからめとられて身動きできない、という事態に決してならないように全体設計がされていて、何かあったらいつでも助けを求めることができ、そして、それに応える人が必ずいる。

以上、いいことばかりを言うとこんなわけで、この感じは「先進国」という意味では、東洋より二歩も三歩も先を行っていて、本場というのはやっぱりすごいなあ、とつくづく思った。

これに比べると、日本は発展途上国どころか、未開の国に思えるぐらい。

ところが、日本人の自分が、スウェーデンで以上のことを学び、その同じ十年で痛切に感じたのが「こんな国にはいられぬ」なのである。われながら笑ってしまうが、もう、無理だ。

日本の世間様だとかマスクだとかの民衆の同調圧力って、ホントにかわいらしい。だって、それらって下世話でフィジカルでしょう? 一方、スウェーデンの同調圧力は、上述したような「社会において常に自覚した個人でありなさい」なのである。それはもう、ぜんぜんかわいくない。

スウェーデン人は、ここで生まれてここで育つから、そんなこと当たり前で、ストレスは無いと思うのだけど、僕は東洋人だからね、そんな性質はもともと持ち合わせてない。その僕から見ると、快適なのは確かだけど、常に緊張を強いられているようにどうしても感じてしまう。悪いことは完全に完璧に隠れてしないといけない感、というか。いや、悪いことなんか、自分、しないけどね。

で、おそらくだけど、スウェーデン人とて、そういう「硬い規範」は窮屈だと思うのである、無意識下で。そして彼らのその発散の場は、たぶん「大自然」です。スウェーデン人の自然感は日本人とおそらくぜんぜん違う。北欧の大自然の中で、人々のコミュニティが点々としていて、それぞれが、硬い住居で守られていて、めいめいの心はマザー・ネイチャーの元で共感して統一されていて、この厳しくも美しい北欧の自然の中でつつましく、しかし毅然と生きている、みたいなイメージである。

対して日本は、もう、ぐちゃぐちゃ。自然も人もへったくれもなく、ぜんぶがいっしょくた。日本人が自然を大事にするなんて、自分は寝言だと思う。日本人ほど自然を平気で壊す者はいない。なんで壊して平気かというと、自然と人は味噌も糞も一緒だから。自然はオレなんだから、オレがオレをどうしようとオレの勝手だろ、という感じで平気で壊す。そして同時に、逆に平気で愛でる人もいる。

しかし、このカオスこそが東洋を形作っていて、それはねえ、日本人の自分としてはいとおしいのである。スウェーデンには決して決して見つけることのできない「世界」である。

というわけで「恐ろしく能天気な島国根性丸出しの百姓気質」だが、それでいいじゃん、ということになる。別に自分、スウェーデンのような西洋になりたくないよ、ってことである。

大麻使用

アメリカで大麻使用が煙草を上回ったって。当然の成り行きだね。

思い出すが、20年ぐらい前に、ニューヨーク出身の英会話の先生に習ってて、当然そのころは違法だったけど、彼、大麻はみな普通に吸ってるよ、って言ってたもんな。彼が子供のとき、お父さんがソファーに座って、おい、そこの葉っぱ取ってくれ、はい、パパ、みたいだったのでなんの抵抗もなかったって言ってた。

警察に見つかっても見て見ぬふりか、形式的に注意するていどって言ってた。それほど長い大麻使用歴のあるところだから、そうなるよね。

一方、日本では厚労省が大麻の「使用罪」というものを検討しているそうで、地球上のどこにいようが日本国民であれば吸ったら罪に問われる、ってことでしょ、これ。倫理に対する国家介入は良くないと思うけどね。

で、日本で大麻が悪い、という理由はなんとなくわかる。それは、一つは、大麻をやっているときは勤労意欲が完全にゼロになってしまうこと。そして、個人の精神が一時的に完全に開放されてしまうので、常に個人を陰に締め付けるいわゆる同調圧力がゼロになってしまうこと。この二つだと思う。

もちろん国は、ハードドラッグへの移行可能性などの危険性をアピールして政策を進めるだろうけど、その本音は前述だと思うよ。あと、大麻の健康被害を科学的に実証、とかいうのも理由に挙げると思うけど、それはこれまでの数々の科学の政治利用を見ていてわかるように、ほとんど信用できない。科学は価値判断をしないはずだが、昨今は政治と絡んで臆面もなくそれをしているしね。

それに、理由が健康被害などとすると、どう考えても酒と煙草の方がはるかに害がある。で、酒も煙草も、勤労と同調圧力をむしろ助長する働きがあるんだよね。なので統治側から見ると喜ばしい代物なの。

まあ、ややこしい話は置いといても、とにかく、国は、日本人を勤労と同調圧力から解放するのが危険だ、と判断しているのだと思うよ。これは単なるオレの意見なだけだが、自分としては、これに反対して「日本人は個の精神を開放すべきだ」とは、実を言うとあまり思っていない。

というのはオレの好きな日本の姿は、このみなが何もわからず従っている勤労と同調の結果であることも多いからだが、まー、こんなことも、議論の俎上に載せると大変なことになり、あんまり関わりたくない。

とにかく、もしあなたの心に抵抗が無いのなら、外国へ行って、大麻をいっぺん試してみてもいいかも。使用罪とかいうめちゃくちゃな法律ができる前に。